第3回 六人部屋で口をきくようになるまで

大学三年の二〇歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、十三年間の闘病生活を送った著者。その間、いろんな年代のいろんな家族の内実を、見聞きするつもりはなくても、たくさん見聞きしてきた。病室という、ある種、非日常な空間で、人がどんな本音を垣間見せるのか、人生がどんな別の顔を見せるのか、家族がどんなふうに激震に耐えるのか、その悲喜こもごもを書き綴る物語エッセイ。六人部屋という狭く濃密な空間で繰り広げられる多様な人間模様がここに。

「特別な人生には、ちがいないだろう」
「たしかにね、俺たち、普通の人生じゃないな、
と思うこともありますよ」

(『男たちの旅路  山田太一セレクション』里山社

やっぱり二人部屋はつらい

前回書いたように、二人部屋には、すっかりこりごりした。

だから、二人部屋には二度と入ったことはない──と言いたいところが、かなり経ってから、緊急入院したときに、他に空きベッドがなくて、仕方なく二人部屋に入ったことがある。

本当に空きがなかったらしく、相部屋のもう一人は、おばあさんだった。つまり、女性である。

こっちも驚いたが、むこうは憤慨していた。

おばあさんと、つきそいのおばさん(たぶん娘さん)とが、「男と同じ部屋にするなんて!」「年寄りだと思って、女あつかいしてないのよ!」「バカにしてる」などと、ずっと文句を言っていて、肩身がせまかったのなんの……。
やっぱり、二人部屋はつらいのである。

二人部屋で、平穏に過ごせたことは、一度もない。

初めての六人部屋

初めて入院する人にお勧めするが、個室に入れるお金があればそれもいいと思うが、それでなければ二人部屋より、六人部屋のほうがずっといい。

のちに四人部屋というのも体験したが、やはり六人部屋のほうがよかった。人数が多いほうが、かえって人間関係は楽だ。二十四時間いっしょという濃すぎる関係なので、なるべく注意や責任が分散されるほうがいい。

二人部屋から六人部屋に引っ越して、度の強すぎるお酒を水割りにしてもらえたように、ほっとした。

ありがたいことに、また窓際だった。どこに入るかは、どのベッドの人が退院あるいは移動するか次第なので、まったく予測がつかない。

六人部屋は三つのベッドが二列に並んでいて、窓際のベッドは二つだ。その二つのうち、入り口から見て右側の方に入った。他の五つのベッドはすべて埋まっていた。それなりに長く入っている人が多いようで、他の五人はすでに親しそうだった。そこに新参者として入った。

私は小学校のとき七回転校したことがある。そのときのことを思い出した。すでにみんなが仲良くしている中に、一人だけ新しい人間として混じらなければならない。けっこう、つらいものがある。

とはいえ病室なので、もちろん自己紹介などはない。

そのときの私は、とにかく、ひとりになりたかった。難病になって悩んでいたし、二人部屋で疲れきっていた。他の五人がわりと仲良くしていることで、私がひとりで黙って隅っこにいても、さほど気にせずにほおっておいてもらえそうで、よかった。

とはいえ、初めての六人部屋で、みんなに背を向けながらも、緊張していた。

背を向けて毛布をかぶる

知らない者どうしが集まって、これからいっしょにやっていかなければならないというとき、何はともあれ、いっしょに食事をするということが、かなり重要な儀式となる。

会社で新しい職場に行って、「じゃあ、とりあえずみんなで食事でも」となったときに、それをいきなり断るのは、かなり難しいだろう。

病室ですら、そういうところはある。

食事の時間になり、他の五人には食事が運ばれてきたが、私にはなかった。配膳をしていた看護師さんが私のベッドの絶食札を確認して、「はい、頭木くんは絶食ね」と言った。

それで他の五人がこっちを見た。手術直後という感じでもないのに絶食というのがちょっと意外だったのだろう。

「手術したの?」と一人から聞かれた。「いいえ」と答えると、別の人が「絶食なんだね?」と言った。「そうなんです」と私は答えた。

何の病気なのか説明すべきだと思ったが、面倒くさかった。みんなに背を向けて毛布をかぶった。

五人はそれ以上追求せず、食事を食べだした。しかし、なるべく音をさせないよう、気を遣っているふうがあった。絶食している人間のそばでは、食べにくいだろう。しかしそうやって気を遣わせていると思うと、かえって居心地がよくなかった。

一人のおじさんが、紙パックの牛乳に悪態をついた。「飲まないって言ってるのに、ついてくるんだよなぁ。また見舞いがきたら飲ませなきゃ」

それはおそらく食べられない私に対して、自分も何か食べられないものが出てきたということをアピールしてくれたのだろう。しかし、私はむしろ「黙れ!」と内心思ってイライラしてしまった。

何の変化もみせない空の色

私は輸血すれすれの貧血状態で青白い顔をしていたし、短期間に二十六キロも体重が落ちてげっそりしていたし、若くして難病になって自分ほど不幸な人間はいないというような気持ちでいた。

他の五人はみんな五十代くらいだった。うっとうしい若造がきたと、きっと思ったことだろう。

窓際だったので、窓から外がよく見えた。私が難病になったのに、世間は何の変わりもなく動いていた。私と同じ大学の学生たちが、道を歩いたり自転車に乗ったりしていた。当然ながらとても元気そうだった。楽しそうな顔でしゃべっていたりすると、こっちは悲しくなったし、つまらなそうな顔で歩いていると、なんて贅沢なやつなんだと腹が立った。

なんであいつらはああいうふうに歩いていて、自分はここにいるだと思った。なんて不公平なんだと。とても受け入れられなかった。

その頃はまだ読んだことがなかったが、ずっと後で色川武大の『狂人日記』を読んでいたら、「園子が死んでも何の変化もみせない空の色なんかが納得できない」という一節があって、当時の心境がよみがえるようだった。

自分や、自分の大切な人に、とんでもないことが起きたときに、それでも世の中がびくとも変わらないのは、当然なのだけど、心情としては納得がいかないものだ。

六人部屋の他の人たちは、みんな五十代くらいで、二十代なんていない。それどころか、三十代もいない。病室の外に出ても、廊下を歩いたりしているのはお年寄りが多かった。私のように若くして病気になるのは、やはり少ないようだった。

看護師さんが来たときに、「他にも二十代の患者さんはいますか?」と聞いてみた。「骨折とかの人はいるかもしれないけど……」ということで、少なくとも内臓系の病気で入院している人は、そのとき他におらず、私ひとりだった。ますます「なんで自分ばっかり」という気持ちになった。

若い者と、若い病人はちがう

その時点でもまだ一日十回以上くらい、下痢でトイレに駆け込んでいた。普通の下痢と違って、我慢するのが難しい。

しかも点滴がいくつもつながっている。その点滴台を転がしながらトイレまで急いでいかなければならない。

ところがその点滴台のコロのまわりが悪くて、途中で何度も突っかかって点滴台が倒れそうになる。それをぐっとこらえると、そのせいで漏れそうになる。しかたないから点滴台を持ち上げて、やり投げの選手のように走っていく。
そうすると、廊下にいるお年寄りの患者さんたちが、「若い者はいいねぇ」とうらやましそうに言う。

これには腹が立った。若いから元気もあるし治りもいいだろうと言うのだ。それはそうかもしれないが、向こうは年をとって初めて病気になっているのだ。こっちは二十歳で病気になっている。向こうは二十歳のときは元気でピンビンしていたのだ。うらやましいなどと言われるおぼえはない。「どこがうらやましいんだ!」と怒ってやりたかったが、トイレに間に合わないから、そんな暇もない。

小児病棟からの泣き声

というわけで、今となると書くのが恥ずかしいが、そういうふうに、世の中の不公平に憤慨し、すっかり心がすさんでいた。

そんなある日、夜中に眠れずにいると、遠くから子どもの泣き声が聞こえてきた。

驚いた。

とても悲しそうな泣き声だった。

ずいぶん長く続いた。

聞こえるか聞こえないかくらいだったが、耳についた。

翌朝、看護師さんに聞いてみた。

「この病院は子どもも入院しているんですか?」

「小児病棟があるわよ」

そこには子どもがたくさん入院していて、赤ちゃんも何人もいるということだった。

私は二十歳で病気になって不公平だと思っていたが、子どもの頃に病気になる人もいるのだ。それどころか、赤ちゃんで病気になる人もいるのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、それまでまったく頭になかった。

なぜかそのときから、不公平感に苦しんで呪うような気持ちになることはなくなった。

あのとき聞こえた子どもの泣き声があまりに悲しそうだったからだと思う。

といっても、「子どものときから病気になるより、二十歳で病気になった自分のほうがましだ」と思ったわけではない。

そういう、「人よりましだ」とか「もっと大変な人がいるから」というふうに、自分より不幸な人を見つけて、自分をなぐさめるのは、好きではない。

それは人を踏み台にして、自分の気持ちを上にあげるということだから。踏み台にされるほうは、たまったものではない。

そうではなく、人はもともと不平等なのが当たり前で、それを平等でなければと思っていた自分が間違っていたことに気づいたのだろう。これだって、もともとわかっていてもよさそうなものだが、実感できていなかった。

顔も、スタイルも、どんな家に生まれるかも、みんなぜんぜんちがう。健康だって同じことだ。

平等であらねばと思っていると、かえって心が焦げてしまうばかりだ。

ともかく、これが転機だった。

そのときから私は、六人部屋の他の五人と話をするようになった。

 

文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。その後、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言1・2』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『自分疲れ』(創元社)などを刊行。