第3回 声のでかい朝鮮人、ハン・トンヒョンオンニ(お姉さん)へ

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

オンニを思い浮かべると、いつも一緒に思い浮かぶセリフがあります。

「オンニとして、当然おごる」

オンニが難関をくぐって訪問したソウルで会った時も、コロナ以前に私が東京に訪問して会った時も、オンニは「オンニとして、当然」おいしいご飯とお酒をおごってくれました。初めてオンニに会った時は、日本ではあまり聞こえなかった大きなボリュームの声と不慣れな朝鮮語の話し方がただ面白いと思いました。オンニと東京のカフェや飲み屋で会話をしている時、周りのチラチラ見る視線たちを思い出しますね。それはオンニと私の大きな声のせいでしょうか、朝鮮語と韓国語の話し方のせいでしょうか。

 

恥ずかしながら私はオンニに会う前までは在日コリアンについて何も知らない人でした。朝鮮学校が登場する1本の劇映画、ドキュメンタリー映画を1本観たのがすべてでした。映画に出てきた朝鮮学校の生徒らがなぜ「朝鮮民主主義人民共和国」風の言葉を使うのか考えながら、映画を観た記憶があります。2017年に「イムジン河」という歌を初めて知り、2018年1月に日本語と韓国手話で歌った「イムジン河」MVを発表した後、東京に住んでいるオンニから連絡がありましたね。オンニは「イムジン河」の曲の歴史と私のMVに対する感想などをヤフージャパンに記事で書き、以後私が公演のため日本を訪問した時、インタビューをして追加記事を書きました。あの時、在日コリアンについて何も知らない私が、いかに多くの失言をしたかと思うと頭から汗が出てくるようですが、オンニは一度も私を非難したり、教えようとしたりすることはありませんでした。私が自然に質問することを探すために「オンニとして、当然」手伝ってくれました。

 

私が一番好きな、思考を拡張する方法は「友達を作る」ことです。そんな面で日本に行き交いながらオンニを含む在日コリアンの友達に会ったことが私にはとても嬉しいことです。在日朝鮮人2世のオンニを含め、在日3世、4世の友達、そして日本帰化者、韓国国籍者、朝鮮籍保有者など、在日の中でも様々なアイデンティティの友達に会い、私が三十何年間、どれだけ狭い世の中で暮らしていたのかを知りました。朝鮮籍のオンニにパスポートがないことも、それで韓国に訪問することが難しいことも遅くに知りました。それも知らずに「今度、ソウルで一緒に遊ぼう~」と簡単に言ったことをお詫びします。

「朝鮮籍」が何なのか初めて知った時、「移動の便宜のために国籍を変える気はないか」とオンニに聞いたことがあります。そんな失礼な質問をしたことも恥ずかしいですが、その時オンニはとても堂々と「なぜ私が変える?」と答えました。答えを聞いて 「え? そうだね!」と頭ががんがんしました。国籍を変えなくても自由に移動できる権利を得るのが当然だということをあの時分かりました。

 

私が在日朝鮮人として生まれていたらどうだったか想像してみました。生まれた国の名前は日本だが、親の国籍は朝鮮で、調べてみたら朝鮮という国は私が生まれる前に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断されて久しいし、生まれて一度も日本国外に出たことがないが、日本では投票権を含めて多くの権利を主張することは難しい。それこそ混乱のカオスだったかもしれません。私はいつか国籍を変えたのでしょうか。海外の行きたい所に行ってみるために、日本に帰化したり、大韓民国国籍を取得したのでしょうか。朝鮮民主主義人民共和国の国籍を取得して、その国に向かったのでしょうか。小・中・高ともに朝鮮学校に通い、朝鮮籍を維持したのでしょうか。しかし、何を変えても在日朝鮮人として生まれたという事実のために差別は続いたのでしょうか。

 

先日『在日朝鮮人ってどんな人?』という本を書いた徐京植(ソ・キョンシク)さんの講演映像を見ました。 講演内容の中にこういうのがありました。在日朝鮮人のある方が、学生時代に親しくなった日本人友達に自分が在日朝鮮人だと勇気を出して話した時、このような答えを聞いたという話。

「ああ、そう? 全然知らなかった。日本人と同じだから気にするな」

ソ・キョンシクさんはその日本人の答えから「問題がないのに気を使うあなたが問題だ」という意味が読み取れると言いました。社会的な差別が確かに存在するのに「気にするな」という言葉で、問題をきちんと見ようとしないのがもっと大きな問題でしょう。

 

以前、会ったことがある在日コリアンの方から、子供の頃、学校で差別を受ける理由で両親に自分の名前を日本式に変えてくれと泣きわめいた話を聞きました。両親は「朝鮮人としてプライドを守りながら生きろ」と名前を変えてくれなかったそうです。その時あの方は、あまりにも幼い頃なので、「プライド」という見慣れない言葉の意味も知らなかったのですが、両親の断固たる勢いに「プライド」というものは何かとてつもなく大切なものだと感じ、その後も、名前のせいで経験する差別に出くわすたびに、「私はプライドを守らなきゃ」と思って我慢したそうです。その時もそうでしたが、私はオンニが「なぜ私が変える?」と言った時も、ものすごいプライドを感じました。特定の国家や民族に対するプライドではなく、一人の人間の尊厳そのものを感じるプライドを。

 

最近、私はソウル文化財団の青年芸術家支援事業審議委員懇談会に出席しました。去年も似たような事業の審議委員として参加したんですが、去年と今年の懇談会の雰囲気がずいぶん違って驚きました。当日懇談会で特別に要請されたのは「一人の性別、障害、年齢、言語、職業、人種、国籍、出身地域、婚姻の有無、妊娠または出産、家族形態、宗教、外見、ジェンダーアイデンティティ、性的指向、学歴、健康状態などを理由に審査に差別を置くべきではない」というものでした。 韓国の「差別禁止法」制定を促すために、この前、仲間のミュージシャンたちと一緒に宣言文を読みながら見た文句を、あそこで見てとても嬉しかったです。しかし、1986年に生まれた私が「2」が二度も入るあまりにも未来的な2021年に生きながら、上のような差別禁止文を相変らず何度も要求されるのが少し悲しかったです。ふと、199n年に参加した「未来の姿を描くコンテスト」で私が描いた自律走行水陸両用電気自動車が思い出されました。水陸両用はともかく、半自律走行電気自動車が実在する今の時代に、まだ差別禁止法がないとは想像できなかったです。タイムマシンに乗って「未来の姿を描くコンテスト」に帰ったら、自動車より先に「(慶)差別禁止法制定(祝)」の垂れ幕がなびく姿を描きたいですね。

 

オンニとLINEでたびたびメッセージを取り交わしていたのを今日この手紙を書きながら探して読んでみました。その中にとても心に残る文章がありました。多分オンニは恥ずかしいと思うけど、ここに書き写してみますね。

「正確なものとは常に相対的なもので、しかし正確なものを探求する過程が重要で、その過程自体が正しいと言えるだろう。諦めたら終わりだ。ランよ、生きてまた会おう」

ハン・トンヒョンオンニ、生きてまた会いましょう。会って大声で東京のどこかの酒屋に響き渡るように朝鮮語と韓国語で話しましょう。とても会いたいです。

 

2021年7月

ソウルから、ランより

 


*日本居住朝鮮半島出身の人々を呼ぶ呼び方は在日、在日同胞、在日韓国人、在日朝鮮人、在日コリアンなど多様です。 「在日」という言葉の中にも朝鮮籍、韓国籍、日本籍など、様々な集団が存在します。そして自身のアイデンティティをどのように確立したかによって、当事者が使う呼称が国籍と異なることもあります。この手紙ではハン・トンヒョンさんを「在日朝鮮人」、その他は現在最も広い意味で使われている「在日コリアン」という呼称を主に使いました。
(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。2ndアルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年韓国大衆音楽賞「最優秀フォーク楽曲賞」を受賞。3rdアルバム『オオカミが現れた』で2022年韓国大衆音楽賞「今年のアルバム賞」を受賞。最新著作はいがらしみきお氏との往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(甘栗舎訳、タバブックス)。そのほかの著作に『話し足りなかった日』(呉永雅訳、リトル・モア)、『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)、『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身17歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。