第5回 作家に糾われた三夫人 中編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『鎌倉夫人』国木田独歩 1902(明治35)年

『鎌倉夫人』のモデルとなった佐々城信子が、独歩と離婚して5年後、妻子ある武井勘三郎と同棲を始めたことを報知新聞に「鎌倉丸の艶聞」として攻撃されたのは、明治35年10月末のこと。それが「鎌倉夫人」(『太平洋』明治35年10月27日、11月3日、11月10日)連載時期にぴったり重なることは前回書いた。「鎌倉夫人」(上)(中)が発表されて5日後に「鎌倉丸の艶聞(一)」の報道が始まり、11月10日には「鎌倉丸の艶聞(三)」と「鎌倉夫人」(下)が同時に発表される異例の事態だった。

何が起こったのか、その原因を見ていく前に独歩の当時の状況を記そう。

独歩は日清戦争の従軍記で一時的に話題になったものの、その後は新聞社に職を得ては辞め、貧困のなかで短編をものして二流、三流雑誌に細々と発表していた。「鎌倉夫人」も、友人の田山花袋が編輯していた『太平洋』誌にその伝手で書いたものである。すでに明治31年には榎本治子と結婚し二児をもうけていたが、信子のことは忘れておらず、噂をわざわざ耳に入れる者もいて鎌倉丸の一件についても(細部は違うものの)既に知ってはいた。「鎌倉夫人」(上)(中)が記事より先に発表されていて、信子のパートナー武井の名を「筧」としていることでもわかる。そして昔のことをこの時期に書く動機は独歩なりにいくつかあった。

小説末尾の「本能満足主義の勇者〈チャンピヨン〉」という語句は本作発表の前年に話題になった批評家・高山樗牛の「美的生活を論ず」(『太陽』明治34年8月)の一節、「(人間の幸福とは)本能の満足即ち是れのみ」というくだりを意識したものだ。あんなに愛し合った信子が突然逃げ出した理由が未だ解せず、信子の性質と「本能満足主義」とが結びつき、信子は性欲過多だったという結論に至ったようなのだ(実際には、貧しさと独歩の異常なまでの束縛に嫌気がさしたのだが)。また、執筆当時の独歩は信子と暮らした逗子に近い鎌倉に居を定めており、当時を思い出して過去として書く機が熟したと考えた。さらに発表媒体の週刊誌『太平洋』がタブロイド版サイズだったために時事的な書き方を選んだという見方もある。

一方の報知新聞は一年前から情報を握っていた。というのも、事の顛末をリークしたのは鎌倉丸に乗り合わせていた鳩山和夫、春子夫妻だったからだ。二人は後の首相鳩山一郎の両親であり(鳩山由紀夫、邦夫の曾祖父母にあたる)、夫の和夫は政治家、法律家で東京専門学校(現・早稲田大学)校長、妻春子は共立女子職業学校(現・共立女子学園)の創立者である。二人がわざわざ報知新聞に情報を流した正確な理由はわからないが、春子が信子の母豊寿と女子教育の分野でライバル関係にあったことは事実だ。豊寿は明治21年に5ヶ月間だけとはいえ修身職業英和女学校を開校したことがあったし、明治26年には室蘭に学校を作るための土地を購入し一家の本籍を移すまでしている。豊寿にとって学校創設は悲願だった。また、船上で信子が乗客の注目を集め、和夫までもが目を細めていたのを春子が面白く思わなかったとする資料もある。いずれにしても、夫妻がとった新聞社にリークするという行動は、信子の従姉妹で「新宿中村屋」主人の相馬黒光が「あまりにも大人げない、まるで裏店のかみさん式」(『黙移 相馬黒光自伝』平凡社ライブラリー、平成11年)と書くほど名流夫人に似つかわしくないものだった。

そんななか、報知新聞は鎌倉丸の一件をつかんでもすぐには報道せず、内偵しながら時期を待った。そして独歩が『鎌倉夫人』の連載を開始したのを見て取ると、満を持して掲載に踏み切ったのだった。

といっても、7回の連載中4回は武井勘三郎の妻子のストーリーに当てられている。信子に狂った武井が妻をだまして金をせびるなどし、家族は嘆き悲しんでいるという内容で、信子は家族制度を脅かす堕落した女に仕立てられた。これはモラルを重んじるこの時代の糾弾記事の典型であり、また報知新聞というメディアがとくに家庭新聞の性格を持っていたこととも関係している。艶種(情事に関する話題)ではなく、あくまで信子を社会秩序を破壊する者として事件を扱うことで初めて報道価値が生じたのだ。

「鎌倉夫人」と「鎌倉丸の艶聞」の同時期掲載についてはそんな経緯だったから、話題性を狙って仕掛けたのは『報知新聞』の方であり、独歩はある意味巻き込まれたかたちになった。それが『鎌倉夫人』に関する当時の批評「初めと終りが、何だか無理に接合けたようで面白くない」(白雲子「自然派と濤声」明治40年6月9日付『読売新聞』)にも繋がってくる。つまり、『鎌倉夫人』を書くことで過去にケリをつけようとしていた独歩だったが(上)(中)を発表したところで予想外の報知新聞大キャンペーンに遭遇し、動揺してしまった。噂では知っていたものの信子がとっくに第二の人生を始めていた現実を突きつけられ、思わず(下)でファンタジーに逃げ込んでしまった。自分のもとを去った女性が許しを請い、「貴所〈あなた〉と二人で見た夢ほど楽しい夢を見たことはありませんよ」と告白するような、実際の信子と独歩にはあり得ない展開にしてしまったと思われる。

独歩が「鎌倉丸の艶聞」を読んでいかに動揺したかは、信子が離婚後に自分の子どもを産んでいたことを初めて知って、新聞を握って慌てて相馬黒光の家に問い質しにやってきたという挿話(『黙移 相馬黒光自伝』)からもわかる。また信子の方も、記事が出た後に四方八方から総攻撃され、武井勘三郎は事務長を辞任、里子に出した子どもが預け先から返されるなど、甚大な影響があった。ただ救われることに、武井は『鎌倉夫人』について、別れた女の悪口や作りごとを書いて金が儲かるとは文士業も不思議な稼業だと一笑に付していたという。

この一件、ここまでこじれてしまうと、信子と独歩のどちらが被害者でどちらが加害者か見極めが難しい。独歩はその後も『酒中日記』(明治35年)、『女難』(明治36年)、『欺かざるの記』(明治41年)などで陰に表に信子の面影を記し、そのたびに世間は噂した。また信子の側で言えば、この騒動の9年後に今度は有島武郎『或る女のグリンプス(瞥見)』(『白樺』)でもモデルにされてしまった。これは親戚が決めた在米の婚約者が偶然有島武郎の友人だったことから起こったことだった。信子自身は文学に一切興味も関係もないにも関わらず、たまたま文学者と交流したために何度も小説にされ話題になったのはつくづく不運としか言いようがない。

しかし、本当にたまたまだろうか。

一私人の信子が小説のなかで「本能満足主義の勇者〈チャンピヨン〉」とまで呼ばれた背景が何かあるのではないか。

信子の生き方を、またその母豊寿、独歩と独歩の後妻である榎本(国木田)治子の三夫人の生き方を後編で見ていきたい。


〈おもな参考文献〉
國木田独歩「鎌倉夫人」(『濤声』彩雲閣、明治40年)
無記名「鎌倉丸の艶聞」(『報知新聞』明治35年11月8日~14日 全7回連載)
相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』(平凡社ライブラリー、平成11年)
阿部芳夫「『鎌倉夫人』に潜む独歩の心理」(国文学言語と文芸の会『言語と文芸』(84)昭和52年6月)
中島礼子『國木田独歩の研究』(おうふう、平成21年)
中島礼子『國木田独歩:短編小説の魅力』(おうふう、平成12年)
中島礼子『國木田独歩:初期作品の世界』(明治書院、昭和63年)
阿部光子『『或る女』の生涯』(新潮社、昭和57年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社)、『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)。2011年から翌年にかけて『純粋個人雑誌 趣味と実益』刊行。唄のユニット2525稼業主宰。2021年1月31日に『戦前尖端語辞典』(左右社)を出版。
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