第6回 作家に糾われた三夫人 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『鎌倉夫人』国木田独歩 1902(明治35)年

国木田独歩「鎌倉夫人」(『太平洋』明治35年10月27日、11月3日、11月10日)のモデルにされ、9年後には有島武郎『或る女のグリンプス(瞥見)』(『白樺』明治44年1月~大正2年3月)のモデルにもされてしまった佐々城信子。

文学に興味も関係もない彼女が、二度もモデル小説に関わる羽目になった理由とはなんだったのか。

彼女の災難を語るうえで、避けて通れないのが強烈な母、豊寿〈とよじゅ〉、この小説に糾われた一人目の「夫人」の存在である。

豊寿は嘉永6(1853)年に仙台藩・徒目付(かちめつけ。城内の宿直、大名の監察などを担う役職)である星家に三女として生まれた。姉二人と違い、男装し、家人に黙って英語塾にも通うなど自由に振る舞うことを許された一家の期待の星だった。

明治初めには男装のまま横浜のメアリー・キダーの塾(フェリス女学校の前身)に通い、中村正直に師事、明治9年、東京女子師範学校で行われた日本初の女子演説会にも登壇している。

信子の父、佐々城本支〈もとえ〉は天保14(1843)年、仙台範医の佐々城家に生まれ、同じく藩医の伊東家の養子になった後、横浜のヘボン塾や高松凌雲に医学を学んだ人物。豊寿と本支は横浜のキリスト教信者のコミュニティで出会い、本支が同人社に入ると豊寿も後を追って入社、英語を教わったとされる。同郷で共通項も多い二人は10の年齢差を超えて惹かれ合った。当時、本支には妻と三児があったが、豊寿と居を構えて東京日本橋に医院を開業、妻子が仙台に帰った明治11年に長女信子が生まれた。その後、次女愛も生まれ、二人は明治19年に入籍。正式に夫婦となるまで10年かかり、信子は8歳まで婚外子だった(中編で見たとおり、奇しくも独歩も幼少期は婚外子である)。

明治19年末、日本初の婦人団体「東京婦人矯風会」発足。社会の悪風を矯正するという意味で豊寿が命名し、書記を務めた。会頭は矢島楫子である。会の目的は、禁酒、娼妓全廃、女権伸長、女子教育の推進などで、政府に一夫一婦制の建白を提出したり、雑誌を発行したりと精力的に活動、明治21年には貧しい女性たちの手に職を与えるための「私立脩身職業英和女学校」を開校した。しかし、豊寿の鋭い舌鋒や華々しい活動は男性たち(とりわけ牧師)や会の内部から反発を受けた。

明治22年、豊寿は矯風会を退き、有志で「婦人白標倶楽部」を設立。禁酒問題に力点を置いていた楫子に対し、廃娼問題に力を入れたい思いからのことだったが、楫子が一時的に辞任していた時期だったため、またもや不評を買った。楫子と豊寿は仲違いし、両会の統一は4年先まで待つことになる。

明治26年、「日本基督教婦人矯風会」として全国組織になったところで、豊寿は北海道移住に向けて動き出す。この頃、クリスチャンの間でユートピア視されていた北海道に「私立札幌家政学校」を創立するのが狙いだった。そしてこの2年後、日清戦争の従軍記者だった國木田独歩を自宅に招いた慰労晩餐会が開催されるのである。もちろん、豊寿の発案である。

当時、独歩も北海道に強い関心を抱き、その後も足しげく豊寿を訪問している。が、次第に関心は娘の信子へと向かう。豊寿は、家を留守がちにしている間に独歩が娘に近づくとは露にも想像しなかった。二人の仲が明るみになると、信子に「自殺をしておわびしろ」と泣き叫び半狂乱になった豊寿は、アメリカ留学を厳命。かえって若い二人は駆け落ち婚に突き進むのである。

5か月後、結婚が早々に破綻し、身重の信子は父の友人の病院に匿われて秘かに浦子を出産。子どもは豊寿と本支の四女として入籍され、里子に出された。豊寿は娘の教育を誤ったと非難され、公職はすべて辞退するものの、北海道で学校設立や「札幌基督教婦人矯風会」の活動に奔走する。だが、ここでも目立ちすぎて悪い噂に悩まされた。

明治34年4月、本支が脳溢血で逝去、後を追うように豊寿も6月に死去する。信子は親戚らに促され、アメリカに留学していた森広と婚約し、気が進まぬままシアトルに旅立った。その船「鎌倉丸」のなかで、船の事務長で妻子ある武井勘三郎と恋に落ち、後に「鎌倉丸の艶聞」(『報知新聞』明治35年11月8日~14日 全7回連載)騒動に発展するのである。艶聞が記事として価値を持ったのは、独歩絡みではなく「キリスト教フェミニズムの闘士の娘の性的な不祥事」だったため、とは中島礼子の指摘である(「國木田独歩「鎌倉夫人」──「ハイカラ毒婦」「君等の所謂る本能満足主義の勇者〈チャンピヨン〉をめぐって──」)。死して後に豊寿と小説は糾われてしまったのだ。

さて、では本論二人目の「夫人」、「鎌倉夫人」こと佐々城信子とはどんな女性だったのか。

明治11年生まれの信子は、母と同じく才気煥発、外交家で、初対面の独歩をもてなし大いに魅了した。恋愛においても積極的だったが、恋に恋する信子に対し永遠の愛を誓う理想主義の独歩とは噛み合わなかった。当時のことを信子は従妹で「新宿中村屋」主人の相馬黒光に「一体私は国木田を好きであったことは本当でした。けれども結婚しようと言われると急に怖くなったり、いやになってしまう。あの人は話上手でしたから、とても面白かったけれど、女を吾が物顔したり女房扱いをされると私は侮辱を感ずるのです」と後に話している(相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』)。結婚は気が進まなかったが、介する人に諭され、独歩に刃物で脅されなどして承諾した。もちろん、一家のなかで強権を発動する豊寿への反抗心もあっただろう。父の本支は豊寿の言いなりだったという。

嫉妬深い独歩との離婚後、浦子を里子に出した信子はひとり東京に住み、「鹿島銀行」(加島銀行か)に勤め始め、快活で奔放な性格に戻った。そして親戚に結婚を決められるも、拒否するのみならず妻子ある新恋人を連れ帰るという前代未聞の事態を引き起こす。意志の強さは豊寿と似たもの親子である。

とはいえ、武井勘三郎とは亡くなるまで添い遂げ、未亡人となった後は北海道で教会活動に精を出すなどして、周囲からは慕われた。落ち着くところに落ち着けば、如才なくやっていける信子なのである。

但し、娘の目に映った母は正反対だった。例の記事が出て、預けていた夫婦から紆余曲折の後に信子のもとに引き取られた浦子は、母のことを戸籍通りに姉と呼ばされたが、教師から独歩の写真を見せられ「これがあなたの本当のお父さんですよ」と吹き込まれたことで不信感を抱く。同居の妹たちにも疎まれ、いたたまれなくなってとうとう家出をしてしまう。佐々城家の女性たちはどうしても噂に翻弄されてしまう運命にあるようだ。

封建時代から近代への過渡期をくぐり抜けた女性豊寿、次世代の自由恋愛時代を生きる信子、いずれも極端ではあるが当時の「夫人」像であり、そんな二人と理想主義の熱量が大きい独歩は回転の違う駒が触れ合って反発したかのように悲劇を起こし、また別々の道を歩んでいったのだった。

では、その独歩が次に選んだ、本論で言うところの三人目の「夫人」、国木田治子を見てみよう。

治子は明治12年東京神田区生まれ、19歳のときに独歩とその弟が隣家に越してきたことで交際が始まった。明治32年に結婚、その年に生まれた長女を筆頭に四児の母となる。暮らし向きはひたすら悪く、明治39年、独歩が創業した出版社が半年で破産。2年後に38歳で亡くなるといよいよどん底となる。治子は伝手を頼って三越百貨店に勤め、四人の子を女手ひとつで育て上げた。また、独歩存命中に生活のために小説を書き始め20編あまりをものしているが、次第に執筆からは遠ざかった。昭和37年の川田浩による聞き書きのなかで「お信さんは利口で、てきぱきした人ですから、それに比べて私は呑気ですから言う通りになると国木田は思ったのでしょうね」と治子は述べている。独歩に速記を習わされたり暴力を振るわれたとも言っているが、柳に風と流していたようだ。それどころか、治子と交際中の独歩が近所の女性に子どもを生ませたことを知ったときも、独歩亡き後に突然尋ねてきた浦子が車代を払ってくれと言ったときも、取り乱していない。聞き書き中でもしきりに「私はまったく呑気で、あきらめがいいので」「私は呑気だったので気にしませんが」「呑気な話ですが」と言うが、そのまま受けとれるものではない。大正2年の雑誌『時事評論』(時事評論社)に寄稿した「私は古い女である」を読むと「婦人は徹頭徹尾良妻賢母で結構だと思ひます」「(引用者注:婦人的大革命は)余りに形而的に、余りに皮相でありますまい乎〈か〉」「男のなすてふことを女もといふこと勿れ」と「新しい女」を手厳しく非難している。

三夫人を追ってきた我々の目には、この「新しい女」こそ佐々城家の女性たちを指しているように映る。世間に大騒動を巻き起こした豊寿や信子、また信子を想起させる夫のいくつかの作品について、嫌でも無関係ではいられなかっただろうからだ。独歩が外に子どもを作ろうと、破産しようと、借金取りの言い訳をさせられようと黙っている治子の、夫に従うということへの意志は堅い。治子の小説『破産』では、ほぼ事実と思われる出版社倒産の陰惨な状況を三人称で淡々と描いていて、ただ者ならぬ凄みを感じるのである。

「女は禽獣なり」と盛んに唱えていた独歩だったが、よほど強い「夫人」がお好きのようだ。


〈おもな参考文献〉
坂本浩『国木田独歩』(至文堂『国文学解釋と鑑賞』36(5)昭和46年)
野口武彦「佐々城信子──贋のニューイングランドあるいは「或る女」のいるトポス」(青土社『ユリイカ』17(10)、昭和60年10月)
木村真佐幸「国木田独歩『空知川の岸辺』の背景──佐々城豊寿の“実践的女学校”構想と北海道開拓の関係」(芸術至上主義文芸学会事務局『芸術至上主義文芸』(34)、平成20年11月)
相馬黒光『黙移 相馬黒光自伝』(平凡社ライブラリー、平成11年)
阿部玲子「研究ノート 佐々城豊寿覚え書──忘れられた婦人解放運動の一先駆者」(日本史研究会『日本史研究』(171)、昭和51年11月)
山田昭夫「『或る女』のモデルたち──佐々城信子・浦子の場合」(藤女子大学国語国文学会『藤女子大学国文学雑誌』(11)、昭和47年3月)
小檜山ルイ「連載 佐々城豊寿とその時代」(一)~(一三)(かんよう出版『キリスト教文化』(1)~(14)、平成25~令和元年)
田中純「独歩と信子」(『恋愛文壇史』新潮社、昭和30年)
岡村登志夫「佐々城豊寿と國木田独歩」(桜美林大学『桜美林論集 一般教育篇』(10)、昭和58年)
有元伸子「〈資料翻刻〉永代美知代「国木田独歩のおのぶさん」」(広島大学大学院文学研究科附属内海文化研究施設『内海文化研究紀要』(40)、平成24年3月)
中島礼子「國木田独歩「鎌倉夫人」──「ハイカラ毒婦」「君等の所謂る本能満足主義の勇者〈チャンピヨン〉をめぐって」(国士館大学国文学会『国文学論輯』(25)、平成16年)
阿部光子『『或る女』の生涯』(新潮社、昭和57年)
川田浩「国木田治子未亡人聞書──独歩の思い出を中心に」(立教大学日本文学会『立教大学日本文学』(9)昭和37年11月)
国木田治子「私は古い女である」(時事評論社『時事評論』8(2)、大正2年)
北野昭彦「『欺かざるの記』の虚実(近代文壇事件史)」(学灯社『国文学 解釈と教材の研究』34(4)、昭和64年)

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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