第17回 偽りのない夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『或る夫人の手紙』三宅やす子 1926(大正15)年

1926年といえば、昭和金融恐慌前夜。

もともと不景気だったところに震災手形不良債権化のせいで多くの企業が倒産するなど大不況の嵐が吹き荒れていた頃である。前年には普通選挙法(満25歳以上の男子に選挙権が与えられた)と治安維持法が成立、そして初のラジオ放送が開始。

改造社が一冊一円の予約制全集、通称「円本」の発売を始めたのが大正15年、いよいよ教養の大衆化を思わせる出来事だった。

この年、「ある(または或る)夫人」と名のつく小説が4本も生まれている。

三宅やす子『或る夫人の手紙』、井上康文『或る夫人〈マダム〉の部屋』、岡本瑣二『或る夫人』、志垣みた子『或る令夫人の手記より』……空前の「或る夫人」ブームである(もちろんただの偶然だが)。

ともあれ、今回は三宅やす子の作品を見ていこう。

小説は、夫も子もある夫人「たづ」が恋人「敏様」に宛てた九通の手紙から成っている。

敏様の返事はなく全編たづの手紙のみの書簡体小説である。

一通目はたづの疑惑から始まる。若い「敏様」に人妻であるたづは何かと「早く良い奥さんをお貰いになって幸福に暮らして下さい」と言うがそれはあくまで口のうえだけのこと。だが、この日の男の態度から何か具体的な結婚話があるようだと勘づき「どうぞ、何も彼も打ち明けて話して下さい。それで私は今更驚くんじゃありません」と嘆願する。

二通目はそれでも何もないと言い張っているらしき男に、誕生日にネクタイをあげたときに「今年は、こうして、贈物を満足して受けて下さるけれど、来年は誰の手で結んでお貰いになるのでしょうね」「来年の今日、敏様独身でいらっしゃるかしら」などとたづが言ったときに男が〈眼を私の顔から反らして、何処を見るともない上ずった眼なざしで「そうね」と一寸考えるような風をなすった〉、〈「大丈夫、私に結婚なんて意志はありません」といつものようにハッキリ〉言わなかったことで〈肩からザーッと冷水を浴ぶせられたように、背中にはゾクゾクと悪寒をおぼえた〉と訴え、〈たづにはみんな解ります。教えて頂戴。〉と畳みかける。ネタはみんな上がってるんだ、と机を叩く刑事のような雰囲気である。

三通目、どうやら男が郷里に帰ったときに縁談が持ち上がったと白状したらしく、たづは一夜泣き明かしたとある。そして「綺麗な方?」と聞いたら〈「美人なもんですか」と敏様から極〈きま〉って聞く言葉が〉なく、「そうね、まあ美人の方でしょうね」「眼が非常にいいのです」などと思わぬ返事を聞き、半狂乱になるたづ。そしてやにわに、自分は青木という夫と愛のない結婚をし、気づけば三児の母になってしまった、敏様が自分と一緒になれないのかと言ったときは下の子が小さくて無理だった、〈子供に母が必要なら、母と子が結合して居ればいいじゃありませんか。それだのに、子供というものがあるために、愛のない夫婦でも、一つの家に向かい合って住まなければならないという(中略)天地の自然の約束というものがサッパリわかりません〉〈母性って一体何〉〈そうまでして、人間は心にもなく子供に引きずられなければならないように、自然は子供という弱者を保護しようとしているのでしょうか〉などとひとしきり母であるわが身の不遇を嘆く。そして毎日自分のラブレターを受け取りながら見合い写真を眺めるなんて〈浅ましいとお思いにならないの?〉と今度は男を責め、結局は運命に逆らえず〈あなたの姿の見えなくなるまで、只見送って、見送って。涙が出ます。〉と締める。

四通目、たづ夫人の手紙に心を動かされたか、男は見合いの相手と会わないと書いてきたらしい。その言葉にひとまずほっとするたづ。しかし、縁談そのものを断る必要はない、と書く。断ったところで男の人生に責任がとれないということか。

五通目は〈昨日は失礼。あんなに驚きにならなくてもよかったのよ〉という言葉から始まる。〈女はね、命がけになれば何でもして見せますものよ〉とあり、一緒になれないなら死を選ぶと言いつつ駆け落ちをも匂わす。〈考えて見れば、私が前にキッパリした決心を敏様から促された時には、私の頭には、子供もありましたが、恐ろしい「世間」もありました〉。しかし今やそんなものは気にしない、もし敏様が見合い相手と結婚するのなら自分の瞳から輝きが失われると書く。それは死を意味するのだろうか、だとすると立派な脅迫である。

六通目、郷里に帰る男を思って一日床に臥せっている苦しみを訴える。

七通目、返事が来ないことに苦しみ、このまま病気になって死にたいと書く。

八通目、男からの続けて二通の手紙を受け取り、縁談を断ったと聞いて欣喜雀躍するたづ。「早くお家庭をお持ちになって」だの「私は免れられない束縛がある」などと言っていたのは心と反対の言葉であることが今ではよくわかった、〈あなたはお仕事が惜しいでしょう、私は子供が気にかかります。でも、そんな事は、心にもなく私達が別れて了うために払う犠牲に比べて、小さなものです。ね、そうはお思いにならないこと? 何もお目に懸ってから。只これだけを急いで書きました〉ととるものもとりあえずといった様子。

九通目は三か月後らしい。〈敏様。もうすっかりお支度はお出来になって。私はもう、何も彼もすっかり整えました。あとの事についても、もう心残りはありません。〉と書き出し、しばし子供と愛のない態度の夫について筆を費やした後、二人で日本を脱出するが〈それが、私の生まれて来た本当の意義でした。敏様、たづはそれはそれは強くなりましたのよ。もう泣きは致しませんわ〉と宣言をして終わる。

まあ、なんと面倒くさい夫人であることか。

いやよいやよも好きのうち、ではないが本音と逆のことを言って相手に否定させるという暗黙の了解を強いた挙句、一たびそれが破られるとショックを受けて大騒ぎ。

駆け引きを仕掛けてくる時点でわたしなら百年の恋も醒める……と言いたいところだが、敏様はまさかの駆け落ちを選んだ。

ちょっと信じられないような気もする。

三通目の手紙の途中に母性についての長々しいくだりがある。

どうもここがこの小説のひとつの要点のようだ。

母性保護論争があったのはこの7~8年前のことだが(第12回参照)、果たして三宅やす子の母性についての意見はどうだったのか。

小説の2年前に発表した「近代的母性」(『私達の問題』アルス、1924年)と題する評論には、母性、いわゆる母が子を愛する気持ちは〈凡ての女性が一人も取り除けなしに持つ感情〉としつつ、最近はそのかたちが変わってきたとする。

昔は〈頭ごなしの母性尊重感が凡ての婦人の肩から終生子という事を取りはずさしめなかった〉が、今の母親は〈「私には私の生活があり、子供にはやがて子供の生活が開けます」〉というように母も子もそれぞれが自立した感覚を持っている。それは昔のように老いた親が成長した子供に頼らないことを意味し、〈女性を解放する第一段階〉であると同時に〈大きな試練〉であるとも説く。

この伝でいけば、物語のなかのたづ夫人は旧来の母性から解き放たれて目覚めた女性ということになるだろうか。

それにしても七通目までの稚拙な駆け引きや言い訳があまりに強烈で、駆け落ちという結末は取ってつけた感が拭えない。

実はこれには、三宅やす子自身の人生も関係する。

というのも、平塚らいてうをして〈この人ほど著者と著書の一致している人も恐らく少いでしょう〉(「三宅やす子さん(大正十三年)」)と言わしめるほど、自分の経験からしか書けない人なのだ。

次回はそんな三宅やす子という作家について見ていく。

 


〈おもな参考文献〉

三宅やす子「近代的母性」『私達の問題』(アルス、1924年)
平塚明「三宅やす子さん(大正十三年)」『雲・草・人』(小山書店、1933年)
三宅やす子「目標の推移」『三宅やす子全集 第二巻』(中央公論社、1932年)

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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