第11回 犬、カレー、子ども?

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

「子ども好き?」と最初に聞かれたのは確か20代前半くらいだったと思う。当時付き合っていた男性から聞かれた。自分が何と答えたかは覚えてないけれど、「よかった。俺も好きだから」と言われたのは覚えている。よかったってなんだろうと思ったことも。そして決めた。もう、こんな文脈読んであげない、と。

同様の質問はその後も繰り返された。主に付き合っていた男性から。その質問を受けるたびに、わたしは「子どもによるだろうね」「大人が嫌いなの?」と返した。相手が戸惑ったような顔をしていても放っておいた。ちょっと悪いな、とは自分でも思っていた。けれどこの質問が出てくる時点で、またわたしがこの質問を快く思っていない時点で、きっと一緒にいても言葉に対する温度が違い過ぎてあまりうまくいかないだろうなと考えていた。実際、うまくいかなかった。

彼らが聞きたいことが「将来自分との子どもを産んで育てるつもりがあるか」であることはなんとなくわかっていた。わかっていたけれど、わたしは質問の意図を汲みたくなかった。婚活中の友人もよく同じ質問をされるという。

思えば「子ども好き?」って質問は結構雑だ。遊びに行った家に犬がいて「犬好き?」と聞かれれば「好き」と答えてその場で犬と遊ぶし、どこかに食事に行こうという話をしていて「カレー好き?」と聞かれれば「好き」と答えてカレーを食べに行こうと思う。

しかし、脈絡なく「子ども好き?」と聞かれ、こちらが黙っている間に「僕は2人欲しい」などと希望まで言われるとなんだかなという気がする。子どもと呼ばれる人たちに好感を持っているかと、実際に子どもを生み育てるかはあまりに別の話だ。ぼんやりとした一般論の顔をした質問で、将来の個別の選択についての答えを得られると思わないでほしい。

そもそも質問の形でなくても、ときおり耳にする「子どもが好き」というフレーズは少し不思議だ。わざわざ自分から「犬が好き」「カレーが好き」と表明する場合は動物の中でも特に犬が好き、多くの食べ物の中でも特にカレーが好き、ということで「猫が好き」「パスタが好き」と同じくらいの抽象度だと思うけれど、「子どもが好き」と同じレベルの「大人が好き」はあまり聞かない。大人はあまり好きでなくて子どもが好きなのだろうか。0歳から17歳の人間を見ると好感をもち、18歳以上の人間となると途端に興味が薄れるのだろうか。

「年齢の問題ではない。自分は子どもらしい純粋さが好きなんだ」という人もいるのかもしれない。純粋さは明るさ、かわいらしさといった言葉にも置き換えられるだろう。けれどその場合、無邪気でも明るくない子どもは対象外なのだろうか。そうだとしたら、それは割とシビアな態度のような気もしてくる。
大人と呼ばれる存在の中にいろいろな人がいるように、子どもと呼ばれる存在にもいろいろな人がいるだろう。「子どもが好き」というフレーズの、子どもを一括りにしている感じがわたしは苦手なのかもしれない。

もっとも、わたしは「子どもが好き」と自分から口にしないが、付き合っていた男性以外に「子ども好き?」と聞かれたら「好き」と答えると思う。ただ、その「好き」は「嫌いではない」という意味に近く(ある年齢の人間を一律で憎む理由がないから)、「好き」という感情の対象よりも無条件で守るべき対象なのだと感じるようになった。
いつのまにかふるさと納税を申し込んで金額の使い道を選ぶときは、子どもの福祉を選択していることに気づく。友人たちの子どもに会うと「かわいい」というより、どうかこの小さな人が健やかに育ちますように、悲しみを経験することはあっても不条理に苦しむことがありませんように、と架空の叔母ポジションで祈ってしまう。大人よりも弱い立場に置かれやすい彼ら全員が守られ、尊重されてほしい。

だから児童虐待のニュースを見ると、とても悲しい。少なくとも自分の子どもという個別の存在を求め(求めていなかった可能性もあるけれど)、子どもを発生させた人が必ずしも子どもの心身を慮るわけではないと知る。子供が好きであることと、大切にすることはちがう。
わたしは子どもと呼ばれる人たちが一律に嫌いなわけではないが、問答無用で好きなわけでもなくて、でもやっぱりどの子どもも尊重されていてほしい。

「子ども好き?」と同じくらい苦手な質問の一つに「得意料理は?」がある。結婚した当初、年上の方々に何度か質問された。どれどれ、結婚生活についてひとつ話でも聞いてやろうという祝福の形の一つなのかもしれないが、知ってどうする、とつい思ってしまう。実際に答えても、会話は大概尻すぼみになる。
もしかしたらこの質問をする人はすごく料理上手で、例えばわたしが「餃子です」と答えれば皮に包むときのワンポイントアドバイスをしてくれるかもしれない、それとも持ち寄りパーティーのときに料理がかぶらないように配慮してくれるのかもしれない、と好意的にとらえようとしたこともあるけれど、いまだに画期的なワンポイントアドバイスをもらったことも一緒に持ち寄りパーティーに参加したことがないのでよくわからない。

 

 

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。2024年『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞。

第10回 2人もいる!

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

学生のころ、一度だけ単位を落したことがある。確か「ヨーロッパ文化の礎」という講義だった。月曜日か火曜日の4限の講義だったと思う。

といっても、さぼっていたわけではない。どちらかといえばそれなりにきちんと参加していたように思う。毎週講義に出て出席カードの裏には感想を書き、必要に応じて図書館で本を借りていて読んでいた。

おかしいと思ったのは、メールが届かないことだった。課題や休講についてのメールが受講している学生宛てに送られているらしいのだが、なぜか届かない。講義の後に教授に相談すると、「じゃあ確認するから、僕のところに一度メールを送って」と言ってアドレスを書いたメモをくれた。わたしはさっそくメールを送る。Y先生、とメールの冒頭に書いて。わたしが受講登録しているのはY先生の「ヨーロッパ文化の礎」のはずだった。

しかしすぐにやってきた返事のメールはこう始まっていた。

「僕の名前は、Oです」

そこでようやく気づいたが、わたしは隣の教室の講義を受けていた。Y先生の「ヨーロッパ文化の礎」は隣の教室だったのだ。普通に気づきそうなものだけど、わたしが間違えて受講していたのは古代ギリシャとローマ帝国の講義だった。やけにギリシャとローマの話ばかりだなとは思っていたが、それだけヨーロッパ文化というものは古代ギリシャとローマ帝国によって決定された部分が大きいのだと納得し、ギリシャ彫刻やローマの地下墓地の画像を熱心に見ていた。

そのようにして自分の誤りに気付いたのは、もうキャンパスに半袖のTシャツがあふれて期末レポートの課題が発表されるタイミングだった。今から講義に出ても出席数が足りず、内容的に追いつけるとも思えなかった。それでも何とかならないだろうかと事務所で相談をしてみると、事務員の方は指サックをつけたまま奇異なものを見る目でこちらを眺め、わたしはすごすごと帰った。その後は本来受講すべき「ヨーロッパ文化の礎」にも、今まで熱心に出席していた古代ギリシャとローマ帝国の講義にも参加しなくなり、わたしはひっそりと単位を落した。

 

その前からうっすらと気づいていたが、わたしはあまりにぼんやりしているというか、ものを知らない。お札の「透かし」のことを知ったのも大学生のときで、何となしに千円札を持ち上げたら中央に老人(夏目漱石)の顔が浮かび上がってきたので、腰を抜かしそうになった。

そう話すと、どうしてそれまで気づかなかったのと言われるけれど、自分以外の人たちがそれぞれの人生のどこかのタイミングでお札を透かして透かしに気づいたり、家族や物知りな友だちが「そういえば日本のお札というのはね……」と言いながら透かしを見せて教えてくれたりする瞬間があることの方にむしろ驚き、わたしたちはこんなにもわかりあえないのに、お札の透かしのことを知るシーンは同様にあるという事実に果てしない気持ちになってしてしまう。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木が別人であることはごく最近知った。文字にすると不思議なことのような気がするけれど、本当に1人の人間だと思っていた。同じ人間が2つの名義を持っていると思っていたわけではない。ただ、ジャイアント馬場という名前を聞くとアントニオ猪木の存在を忘れてしまい、アントニオ猪木の名前を聞くとまた逆のことが起こり、1人の人物として頭の中の同じ場所に収斂されてしまうのだ。「名前を付けて保存」ではなく、「上書き保存」というかその都度ファイルの名前が自動で変更されていた。

だから夫がジャイアント馬場とアントニオ猪木の試合の画像を見せてくれたときは「2人もいる!」と本当に驚いた。当たり前のことだけど。ジャイアント馬場とアントニオ猪木は別の人間だから。

 

けれど小説を書いていると、自分が「知らない」人間でよかったと思う瞬間もある。もちろん社会や歴史については知っていた方がいいし、知識がないことを盾に人を傷つけることは絶対によくないのだけれども、ものごとを、それも基本的なことや普遍的なことを知らないから、その一片でも知りたくて小説を書いているのではないかと思うことがある。

例えばさっきは「2人もいる!」と驚いたことを書いたけれど、そもそもわたしは「1人の人間がいる」ことがどういうことなのかよくわかっていない。ある人が死んでしまい、けれどその死を知らない人の中でその人の存在があるのであれば、それは1人の人間がいることになるのか、ならないのか。そうしたことを自明のものとして語る人の言葉を、わたしはあまり信用しないのではないかと思う。大して説明もしないうちに「結局さ」と、結論めいたものを突然話し出す人を目にすると、いつもそっと心が冷える。

わからないから書き、わからなさを比喩にし、どうしてかわからないけれど物語が動く瞬間がある。その一行に、わたしは驚いていたい。

 

夏と呼ばれる季節が来る。わたしが隣の教室の講義を受けていたことを知り、事務所をすごすごと退散して空を見上げたときの、あのあっけらかんとした眩しさをぴたりと名指す言葉をわたしは知らない。

 

 

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。2024年『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞。