第14回 ミスマッチにより青年は荒野を目指す

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

キッスのジーン・シモンズが近年になって出した著作『才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?』は色んな意味で興味深い本である。シモンズはイスラエル出身の苦労人で、子供の頃に母親に連れられて渡米。70年代に結成したキッスのド派手なメイクとステージ演出で成功した。バンドの中では文字通りのCEO的な存在で、キッス関連商品の版権なども管理している実業家である。長いキャリアの中では浮き沈みも経験した彼が、老人となった今になって書いた本が、若くして死んでしまったロックスターたちの死の要因を追究したものなのだ。本人は狂乱の70年代を生き延びたサバイバーである。1969年から1971年にかけてブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンそしてジム・モリソンが亡くなった。4人とも27歳だった。それから四半世紀ほど後、カート・コベインが同じく27歳で亡くなる。この辺りから、ファンやメディアの間で、27クラブというあまり喜ばしいとは思えない言葉が囁かれはじめた。そう、シモンズの著名そのままに「才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?」という話である。もちろん27歳以外で若くして亡くなったミュージシャンもいる。セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスは21歳であった。ジーン・シモンズはデビュー前に一人のリスナーとしてブライアン・ジョーンズやジム・モリソンの死を知り、キッスとしてデビューした後にシド・ヴィシャスが死ぬのを見、さらに後にずっと年少のコベインが亡くなるのを見たわけだ。歳をとって分別のある大人になればなるほど、自分より若い人が先に死ぬのはメンタルに堪えるものである。シモンズは苦境を跳ね除けて成功したポジティブな人間だったから、若くしてロックで成功したのにメンタルを病んで自滅的に夭逝した人たちの気持ちが理解できなかった。だから、自分が老人になった時に、このような本を書いたのだ。夭折したロックスターの多くは、ドラッグと酒の併用で死んだケースが多いが、そもそも彼らがドラッグに耽溺したのはメンタルを病んでいたからだ。メンタルを病んだ人ほどドラッグに耽溺するのは、ビリー・ホリデイの時代からあった現象である。ジャズにしろロックにしろ、若くして音楽で身を立てるということは、時として普通に働くよりも大きな成功をもたらす。世界的に成功したミュージシャンは、世界中から祝福される存在である。なのに、世界から祝福されている若者が、メンタルを病んで自傷行為的にドラッグに耽溺し死んでしまったわけである。これが連載第1回でも触れたロックのジレンマである。シモンズは心理学者にも取材して、世界中から注目されることで精神を病む場合もあるのだと書いている。確かに、我々の大半は何十万人、何百万人の他人から注目されるという経験がないために、何百万人、何千万人から注目されてしまった人の気持ちなど、なかなかわかるわけがない。そもそもヒトは150人くらいの集団で生活するのに適応した動物である。大勢の人から注目され褒められるのは本来なら嬉しいことではあるが、それが何万人という単位になった場合、脳が何らかのバグを起こしてもおかしくはない。

20世紀においてロックは主に若者の音楽であった。多くのミュージシャンは思春期にロックと出会い、仲間とバンドを組んで青年期にプロになる。それを聴く層も似たようなものである。二次性徴が起きる思春期にメンタルが不安定になるのはしょうがない。それ以前の、小学生時代というのはもっぱら成長と学習に費やされる。体は時間をかけてゆっくりと大きくなるが、根本的な変化ではない。それに比べて思春期の変化は急速に起きる。だから我々の多くは、思春期の少年少女が時として神経過敏になることを理解しているし、納得もしている。ところがだ、肉体的には安定した青年期に入ってもヒトの脳はまだ成長の途中なのである。つまり、思春期に始まった肉体の変化は、二十歳を過ぎてもまだ終わってはいないのだ。脳だって肉体の一部であり、さらに言うと肉体のコントローセンターである脳は二十歳を過ぎてもまだ成長の途中なのである。脳が安定するのは、なんと27歳頃で(27クラブ!)人によっては30代の前半に至るまで安定しない。そう、若くして死んだロックスターたちは、脳の成長が止まり、安定した時期に入る前にメンタルを病み、ドラッグやアルコールを濫用して死んでしまったのだ。ちなみに、この27歳から30代の前半というのはサルトルが『嘔吐』を書いていた時期にあたる。思春期から青年期において、メンタルが安定しないのはヒトだけではない。ハーバード大学の人類進化生物学客員教授のバーバラ・N・ホロウィッツと科学ジャーナリストのキャスリン・バウアーズが書いた『WILDHOOD野生の青年期』によれば、大半の哺乳類や鳥類、さらにいうと大抵の脊椎動物においては青年期があり、青年期の動物たちはメンタルを病むことが多く、さらには好んで無鉄砲な行動を行うことがあるのだという。ここでいう無鉄砲な行動というのは、たとえばチキンレースである。チキンレースというのは、お互いの車が向かい合った状態で車をスタートさせる、もしくは崖などに向かった状態で同時に車をスタートさせて、先にブレーキを踏んだ者がチキン(臆病者)と認定されるゲームである。ある程度、歳をとった大人ならば、最初からこんなことをやろうと思わないわけだが、青年期の動物たちは、しばしばチキンレース的な行動を行う。たとえば青年期のラッコは、そこが危険な場所であることをわかっていながら、ホオジロザメのいる海域に泳いで行く。そして何割かのラッコの若者は、そこでホオジロザメに食べられてしまう、のである。これはラッコのチキンレースだ。ただし、チキンレースを上手く生き延びたラッコは老獪に生き延びて子孫を残す。青春の通過儀礼か。ヒトは極端に学習に依存した動物なのだけれども、それ以外の脊椎動物の多くも、大人になるまでの過程においてチキンレース的なギャンブルで生存と危険についてのノウハウを学習するようなのだ。草食獣が肉食獣から逃げ延びるためには、単に足が速いだけではなく、なんらかのタクティクスが必要となる。それは遺伝子だけで伝えられるものではないので、青年期に学習する必要があるのだろう。たとえばシマウマが、ライオンから逃げるためのコツ、ノウハウみたいなものをテキストとして残せれば、次の世代のシマウマをかなり助けることになっただろうが、個人の経験値をデータ化して次世代に残すなんてことができるようになったのは今のところヒト科の動物だけである(ただし、親鳥が子鳥にエサの獲り方をティーチングしたりするように、年長者から年少者へ技術的な情報を伝える文化はヒト以外の動物たちにもある)。だからこそ野生動物たちは、その青年期に生存のための経験値を上げるために、未成熟なメンタルでチキンレース的な行動を行うわけだ。メンタルが不安定な思春期から青年期をワイルドフッドと称するのだが、これはそれぞれの動物の寿命によって違う。ヒトの場合は11歳頃から30代前半、カリフォルニアラッコは生後9ヶ月から4.5歳、アフリカ象は10歳でこの時期に突入し25歳くらいで落ち着く。ザトウクジラは4歳から20歳だ。400年生きるとされるニシオンデンザメの場合、130歳で思春期が始まり180歳で青年期が終わる、らしい。もしも貴方の知り合いに150歳のニシオンデンザメがいて、ことあるごとにナーバスになったり、反社会的な発言をしたりしていた場合には、温かい目で見守ってほしい。そのニシオンデンザメはそういうお年頃なのだ。しかしまあ、アフリカ象やクジラでさえ、青年期にはメンタルが過敏になると考えたら、ヒトのようなひ弱な猿が青年期にメンタル弱々になるのもしょうがない話ではないか。それに加えて、ヒトはもう一つの弱点を持っている。現生人類たるホモ・サピエンスが誕生したのは、およそ20万年前だとされているわけだが、旧石器文明はそれ以前から始まっている。石斧を使い狩猟をして得た獲物の毛皮で服を作るような文化は、ホモ・サピエンス誕生以前からあったわけだ。ホモ・サピエンスよりも古い時代にいたヒト属の先祖、ホモ・ハビリスやホモ・エルガスターといった旧石器時代のヒト達が、石斧のような石器を使い始め、おそらくある時期からは毛皮で作った衣服を着るようになっていた。つまり、ホモ・サピエンスは誕生した時点で既に、それなりに洗練された石器をはじめとする道具を使い、毛皮や植物で作った服を着ていたのである。これに関してはネアンデルタール人やデニソワ人もほぼ同じで、我々との違いはほとんどない。実際のところ、アフリカ以外の土地に住むヒトの遺伝子のうち何パーセントかはネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだものである。最初に石器を作り始めたのが誰なのかはわからないけれども、旧石器時代が始まったのは250万年ほど前のことである。今のところ見つかっている化石からはホモ・ハビリス、ホモ・エレクトスといった種族がいた。彼らが文化進化を始めたのである。石斧はとても便利な道具で、狩の時に獲物を倒すのに使えるし、倒した獲物の皮を剥ぎ、骨を割って肉を切り出すのにも使えた。初期の狩猟生活においてはオール・イン・ワンだったのである。現代社会において、旧石器時代の石斧に最も似た道具は何かというとスマホでしょうな。片手で持てるオール・イン・ワンですからね。ジョブズ、石斧の再発明をしたのか。少なくとも250万年前の石斧がなかったら、我々はiPhoneやAndroidにたどり着いていない、のである。そして、最初に石斧を作った人たちは、我々の同時代人であるネアンデルタール人やデニソワ人と比べると、遥かにチンパンジーに似ていただろう(我々の目から見て、の話です)。今の我々は、ご存知のように常時二足歩行を行い頭部にしか長い毛が生えていない霊長類なわけですが、チンパンジーと共通の祖先から分岐したのが700万年前である。20万年前にホモ・サピエンスが誕生した時には、既に二足歩行だったし、頭髪以外の体毛はほとんどなかった。遺伝子の変化による進化というのは、基本的にそれくらい時間をかけてゆっくりと進む。キリンの首やゾウの鼻だって、気が遠くなるくらいの時間をかけて長くなったのである(ただし、目に見えないような小さな進化は、さほど時間をかけずに起きる場合もある。たとえば欧米人の多くは海藻を消化できないが、海産物を消費する生活に適応した日本人は海藻を消化できる。逆に、ユーラシア大陸に住んでいる人の一部は乳糖を消化できるが、日本人の多くは消化できない)。

ヒトの仲間は、長い時間をかけて完全な二足歩行になり、無毛になったわけだが、その過程の途中で文化進化の力を手に入れた。基本的に集団で道具を使って狩を行う動物なので、使いにくい道具よりは使いやすい道具の方が重宝されるだろう。そして、もっと使いやすい道具を作ろうとする、わけである。スマホのアプリが更新されるように、全ての道具はアップデートされることによってさらに使いやすくなる。文化進化とはそういうものである。だから、アップデートが当たり前の我々にとって文化進化という概念は理解しやすいのだが、旧石器時代に生きたヒトたちにとってはそうではなかった。原始的な石器である石斧は、石を使って石を割り、さらに細かく削って使いやすい形に整えていく。現代の研究者で同じ工程で石斧を作るのに挑んだ人たちがいて、これがそう簡単にできるものではないことが判明している。石斧の製作はかなりの経験と知識を必要とするのだ。石斧は、何万年もかけて洗練され、種類も増えていった。ということは、昔の人たち、具体的にいうとホモ・エレクトスとかはテクノロジーを使っていたけれども、自分が生きているうちにそのテクノロジーがアップデートされるところを見ることがなかったわけだ。20世紀に生まれた人たちは、モノクロテレビがカラーテレビに進化するところを自分の目で見たのでアップデートという概念を理解しやすいわけだが、旧石器時代のヒトたちにとって、それはとても難しく容易には理解し難い概念だったのである。旧石器時代のヒトたちも、明確にテクノロジーに依存した生活を送っていたわけだが、それを客観的にとらえる視点はおそらく持っていなかった。文化進化はテクノロジーのアップデートを急速に促すわけだが、それでも旧石器時代においてはアップデートには数十万年単位の長い時間が必要だった。ホモ・サピエンスは誕生した時点で、おそらくは既に滅んでいた古い種族のヒトが積み重ねてきたテクノロジーの恩恵を受けていた、わけであるが、我々ホモ・サピエンスの時代になってからも、テクノロジーはそう簡単にはアップデートしなかった。偶然、それまで使われていた石器よりも便利で使いやすい石器を発明した個体はどの時代にもいただろうけれども、その石器を作るためのノウハウや、上手な使い方が他の個体と共有されなかったら、その石器は一代限りで途絶えてしまう。たとえば火の使用に関しても、ヒトの先祖はかなり昔から火を使っていたのだが、自力で火を起こせるようになったのはかなり後の時代だと思われる。

少し整理しよう。遺伝子の変化による進化は基本的に時間がかかるわけだが、ヒトの先祖は文化を進化させるという方法を手に入れたので、進化の速度が少し早くなった。ヒト以外の動物にも文化はあるけれども、文化進化が起きないのでヒト以外の動物の社会は基本的に数万年くらいの時間経過では変化しないのである。たいていの動物の生活に変化が起きるとしたら、それは環境が変化した時である。およそ6550万年前に巨大な隕石が落下したために地球の環境が大幅に変化して、それについていけなかった生物は絶滅してしまった。あんなに栄えていた大型の恐竜たちもいなくなってしまった。これを地質年代区分の用語でK-Pg境界と呼ぶのだが、この時には地球上の動植物の75パーセントが絶滅した。恐竜はデカくて見栄えがするので、恐竜絶滅の時代と思われがちなのだが、恐竜以外の生物も壮大なスケールで絶滅したのである。急激な環境の変化は、全ての生物にとってとても危険なものなのだ。基本的に地球と、地球を取り巻く宇宙は全ての生命に対して優しいわけではない。全ての生物は、自然環境に適応してきたので生命と自然は調和しているように見えるわけだが、実際には生物の方が必死で地球にしがみついているのである。だから、大抵の生物にとって環境の急な変化は好ましくない。ヒトは文化を進化させる動物なので積極的に環境を変化させるようになったわけだが、農地を整備、灌漑したりする農業土木は基本的にはビーバーがダムを作るのと変わらない。鳥の巣も環境改変作業ではあるし、蟻や鉢の営巣も同じようなもんではあるから、環境を変化させることが悪いわけではないのだが、どのような場合にせよ急激な変化は好ましくないのだ。ところが17世紀あたりから、ヒトが行う文化進化の速度が徐々に加速してきた。それに至る段階を説明すると、まず旧石器時代の何百万年も前からヒトの先祖は遺伝子の変化と文化進化を両輪として動かしてきたが、それは長い時間をかけて石器の形状が洗練されるようなゆっくりとしたものだった。そして約20万年前にホモ・サピエンスが誕生した。彼らは、彼らの先祖よりも文化のある生活に適応していたから繁栄したが、それでも文化進化の速度はゆっくりだった。ホモ・サピエンスは1万2000年ほど前から、農耕と定住の生活を始め、文化進化が加速する。火薬や車輪の発明はこれ以降のことである。そして数千年前には文字が発明される。他の動物たちと比べれば早い変化だったものの、それでも19万年ほどの間はゆっくりとした変化だったわけだ。それがこの1万2000年で加速し、それが17世紀あたりの科学革命で更に加速し、19世紀の産業革命で更に更に加速、水道、ガス、電気といったインフラが整備され、電報、電話、ラジオにテレビが普及したことで情報革命が起きた20世紀の終盤に至ってIT革命が起きた。つまり、時代が後になればなるほど加速したのである。60年代から70年代のリスナーたちは、ラジオやレコードでロックを聴きながら動いているロックスターの姿を見る機会は少なかった。そのため、昔はフィルムコンサートと称して、ロックバンドの演奏風景やライブシーンのあるドキュメンタリー映画を、映画館ではなくコンサートホールなどでフィルム上映したものだ。ロックスターの動く姿を日常的に見られるようになったのは80年代になって家庭用ビデオが普及し、MTVの時代に突入してからの話である。当時を生きていた人々にとって、それは途轍もなく大きな変化であったが、テクノロジーの変化、文化進化は更に加速し、今ではスマホで、しかも出先で、お手軽に前世紀のロックスターが歌い踊る姿を観ることができる。ジーン・シモンズにしろミック・ジャガーにしろ、その全盛期は基本的に前世紀なのである。彼らは、驚くほどの速度で社会が変化するのを見てきたのである。ローリング・ストーンズなどは現役なので、今ひとつわかりにくいのだが、時代が後になるほど社会の変化は加速するという事実を考慮すると21世紀の若者が70年代のロックを聴くという行為は、20世紀の若者が19世紀の文学作品を読むという行為に近い。時代を超えて共感できる部分もあれば、時代が違うが故に理解しにくいところもあるだろう。社会が変化する速度が尋常ではないから、理解しがたい部分は加速度的に増えてゆく。それくらい、社会は大きく、かつ速く変化をし続けている。我々ホモ・サピエンスが乗ったノイラートの船は、今や激流を航海している最中なのである。テクノロジーの進化が、我々のライフスタイルや道徳心を変化させているわけだが、我々の肉体はというと新石器時代とそんなには変わっていないのだ。ここでいう「肉体」には「脳」も含まれる。脳はもちろん、我々の精神を生み出す臓器で、精神と肉体は繋がっているから、我々の精神もまた新石器時代とそんなには変わっていない。もちろん、環境の変化に対してはそれなりに適応するわけだが、人類の農耕生活が始まってから環境変化の速度が加速しているのは既に書いた通り、近々でいうと19世紀の人たちの何割かは「今ほどの速さで社会が変化する時代は過去にはなかったぞ!」と思ったはずなのである。そして、それ以降の時代に生きた人たちの何割かは「今の社会の変化は19世紀よりずっと速い」と思ったのではないか。何故に社会の変化が加速するかというと、ヒトは常に今よりもより良い未来を求めているからだ。今よりも、より良い未来にたどり着くための可能性が少しでもあると、それに向けて全力でアクセルを踏みラチェットを回す。産業革命から工業化社会へのコンボが、豊かでより良い未来を築くと思えたからこそヒトは全力で工業化を進めたわけだが、その結果、公害は発生するし、労働者は資本家に搾取されるような社会になってしまう。革命を起こせば誰もが平等で幸せな社会を作れるぞ!と思ってロシア革命をやったら、帝国主義のコピーバージョンであるソ連邦を築いてしまう。なんでやねん、痛いな人類。心のコントロールセンターたる脳を含めたホモ属ヒトの動物の肉体は、ホモ・サピエンスがまだいなかった旧石器時代と比べるとそれなりに変化したけれども、ホモ・サピエンスが様々な道具を使用して狩猟生活を送っていた頃と比べるとほとんど変化していない。何が変化したかというとユーラシア大陸の一部の人たちは乳製品をたくさん食べていたので成人してからも乳糖を消化できるようになったとか、海藻を消化できるようになったとかである。他にも色々あるはずなのだが、些細な変化が多いので目立たないのだ。海産物大好きなアジア人も今では乳製品をたくさん食べているし、乳製品で育ったヨーロッパの人たちも海苔巻きのお寿司を食べ、ワカメの味噌汁を飲んだりしている。ヒトが甘いものや油っこいものを好むのは、それらが高カロリーで、狩猟生活をしていた頃には甘いもの、油っこいものを食べた方が生き延びる確率が高くなったからだ。全ての野生動物にとって、生き延びるとは食糧の確保なのですね。百獣の王たるライオンも、毎日のようにシマウマやガゼルといったご馳走を食べているわけではなくて、普段はバッタとかを食べている。もちろん、バッタだけでは物足りないので、たまには高カロリーなシマウマを食べたいと思うだろう。ヒトが給料日に焼肉屋さんやステーキハウスに行くようなものだ。今の先進国においては、日常的に飢えるという経験があまりないから、非常にわかりにくいのだが、地球で生命が誕生してこのかた全ての生命にとって最重要な案件はご飯を食べることだった、わけである。極端なことを言うと、全ての動物はご飯を食べて生きながらえ、セックスをして子供を作り育てる。それだけなのである。我々は、それ以外に楽しいことをたくさん知っているので、食事と子作りが動物の本懐であることを忘れがちなのだ。野生の状態において我々は甘い果実や脂っこい肉が手に入ったら、飛びつくようにすぐに食べたわけである。何しろ冷蔵庫がなかったので、果実も肉もすぐに腐ってしまう。保存方法といえば干して干物にするしかなかった。だから我々は今でも甘いものや脂っこいものがあると、ついつい食べ過ぎてしまう。少なくとも現代の先進国においては、食糧が手に入らなくなって餓えるということがまずないので、食べ過ぎて肥満し生活習慣病になってしまう。ヒトは、より快適に暮らすことを求めて環境を変化させてきたわけだが、自分たちのために変化させた環境がヒトを苦しめるという現象が起きたのである。進化心理学では、これをダイレクトにミスマッチと呼んでいる。エルヴィス・プレスリーがドーナツの食べ過ぎで死んだというのは有名な噂話で、42歳で彼が亡くなった際に死因は不整脈だと発表されたが、酒も煙草もやらなかったエルヴィスが甘くて高脂肪な食べ物を好んでいたのは事実で、それ以前から肥満に悩んでいたらしい。ストレスから過食症になったという説もあり、また肥満解消のために複数の薬を服用していたという説もある。それが正しいとすれば、エルヴィスこそは進化上のミスマッチ病により亡くなった、おそらく最初のロックスターではないか。彼が貧しい白人の生まれであったことは重要だろう。ミスマッチによって起きる病は2型糖尿病や肝硬変といった、いかにも生活習慣病ばかりではなく、鬱病のような精神疾患も含まれる。近年、注目されるようになった発達障害なども、おそらくミスマッチと深く関わっている。つまり、現代人を悩ませるメンタルな病の多くも何割かはミスマッチの産物なのだ。脳を含む我々の肉体は、新石器時代からほとんど変化していない。現代社会は病んでおり、そのせいで人間の精神が病むようになってしまった、というのはそれこそ60年代カウンターカルチャーの時代からよく言われていた話である。だからこそ、ヒッピー世代においては「自然に帰れ」というメッセージが好まれたわけだが、これはそう簡単な話ではない。我々ホモ・サピエンスは、地球が誕生してからこのかた、最も繁栄した哺乳類であり霊長類なのだが、繁栄の原動力が何かというと文化進化の力である。文化そのものは鳥やビーバー、チンパンジーにもあるのだが、文化を進化させ、更に更にと加速することができたのはヒトの仲間の中でもホモ・サピエンスだけなのだ。我々の先祖は、ネアンデルタール人とほとんど変わらない動物でありながら、ネアンデルタールにはできないような文化進化の速度をブーストさせる便利な道具を生み出したのである。それは何かというと、言語と文字であります。我々現代人は言語と文字を同時に使っているので、同じような枠だと思ってしまうわけだが、これが実は厄介なのだ。言語の誕生に関しては(何しろ記録が残っていないもので)はっきりとしたことはわからないのだが、おそらく10万年前から5万年ほど前のことだと考えられている。それに対して、文字の発明はおよそ6000年から5000年ほど前だと思われる。つまり、言葉が誕生してから文字を生み出すまでに、少なくとも4万数千年ほどの時間が必要だったのでありますね。我々の脳は非常に高性能な情報処理マシーンであるが、リソースは限られている。これはスマホのストレージにたとえるとわかりやすい。自分が使っているスマホのストレージを確認すると、かなりの容量がOSとアプリに費やされていることがわかるだろう。5万年前のヒトにとって、言語は滅茶苦茶に便利なアプリだったのである。だから言語は当時のホモ・サピエンスの間で爆発的に普及した、わけですよ。ところが、このアプリは、かなりのストレージを必要とする。そして、ヒトの脳はストレージを増やすことができない。今使っているスマホよりも大容量のスマホに機種変したりできないのである。しかしながら言語というアプリは、あまりにも便利だったのでストレージが足りないからといってアンインストールすることはできなかった。それから数万年、人類は遂に文字を発明した。ボイド&リチャーソンによると、文化というのは脳の中にある情報である。文字の発明は、脳の中にある情報を脳の外部で保存することを可能にした。そのおかげで、21世紀の中学生が岩波文庫というデバイスを使ってプラトンやアリストテレスが残した叡智にアクセスできたりするのである。これはもう、とんでもないことなのだが、文字を認識するための能力=文字認識アプリは、これまたかなりのストレージを必要とする。ヒトにはそもそも、空の色合いから今後の天候を推測する能力や、繁茂する樹木の様子から美味しい果実を見つけるための推察能力があったはずなのだが、現代の我々はその能力をもっぱら文字を読むことに費やしているわけだ。言語の発明から文字の発明という、数万年がかりのコンボは情報の伝達を容易にし、情報の保存を容易にした。鳥類や哺乳類は親が子供にエサの採り方を教えたりするわけだが、あれは親鳥が自分の親から教わった技術=データを子供に教えることで、子供の脳がデータを保存するためのストレージとして機能している、わけである。ヒトは言語を発明したので親から子へ、はたまた師匠から弟子へと伝えられるデータの量が爆上げしたのである。ヒッピー世代の、自然に帰れというメッセージには一理あるのだが、ヒトが言語や文字を手放すことは無理だろう。原始時代には戻れないのだ。我々は哺乳類なので、他の哺乳類と同じく青年期には不安定なメンタルで刹那的になり無鉄砲な行動を行う。その上に、文化を急激に進化させたので常時ストレージが足りない脳を持つようになった。だから我々の脳は頻繁にバグる。マーク・フィッシャーやカート・コベインが若くして亡くなったのは、おそらくこれら複数の要素が重なって彼らのメンタルを苛んだからだろう。

 


 

〈おもな参考文献〉
ジーン・シモンズ『才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?』森田義信訳、星海社新書、2021
バーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ『WILDHOOD 野生の青年期――人間も動物も波乱を乗り越えおとなになる』土屋晶子訳、白揚社、2021

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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第13回 発表します。資本主義の正体について

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

英国の批評家であり、ロックの評論でも知られたマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は哀しい本である。フィッシャーはフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉として「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレーズを紹介する。言いたいことはわからなくはない。ただしここには一つ大きな誤謬があってですね、人類は、それこそヨハネ黙示録あたりからずっと色んなパターンの世界の終わりを想像し続けてきたのである。世界の終末を描いたエンタメは星の数ほどある。日本だと『デビルマン』とかですね。人類が滅亡した未来を舞台にした『猿の惑星』がカウンターカルチャー真っ盛りの1968年の作品で、人類が今とは違う方向に進化することを暗示した(ようにも思える)『2001年宇宙の旅』と同じ年の映画なのは非常に象徴的である。世界の終わりを想像するのと、人類が生まれ変わって今とは違う存在になるのを想像するのは基本的には同じ種類の想像力に支えられている。世界の終わりを夢想するのは裏返しのユートピア願望なのである。だから、ヒトにとって、世界の終わりを想像するのは動物としての習性に近いので、「世界の終わりを想像するほうがたやすい」のは当たり前なのだ。かてて加えてフィッシャーが生まれ育った20世紀の後半は核戦争に対する危機感が全ての先進国で共有された時代である。そして、資本主義というのも実は動物としてのホモ・サピエンスの習性と深く結びついているのだが、フィッシャーはそれを知らないまま48歳で自らの命を絶った。カート・コベインと似たような死に様だ。彼らの死を無駄にしないためにも、今こそ我々は資本主義とは本当は何なのか? という話をするべきなのだ。資本主義については19世紀に深く深く考えた人がいて、カール・マルクスという。彼は産業革命によって工業化した西欧社会が労働者を抑圧し搾取するのを見て、これは大きな問題だと思ったわけだ。彼が書いた本とその考え方は、印刷され製本され、翻訳されて世界中の人々に影響を与えた。この印刷と製本というのもグーテンベルクによる技術革新であり、後の産業革命と同じイノベーションである。マルクスは19世紀の人なので、今では通用しないようなことも書いているのだが、今読んでも値打ちのあるようなことも書いているので、使える部分を大事にしましょうというのが現代の正しいマルクス研究者なわけだ。はい、ここでマルクス好きな人たちは二手に分かれるわけです。かなり雑な説明になりますが、マルクスの書いたものを聖典として崇める派と、マルクスの書いたものを科学的に分析して、間違っている部分があれば適切に批判をする派、に分かれるわけですね。マルクス自身は科学的に、論理的にやるぞ! という人だったので、自説の一部が科学的に、もしくは論理的におかしいと証明された場合には、それを否定しなかったはず、なのである。マルクスの意図をちゃんとリスペクトし、継承するのならば、マルクスを尊敬しながら細部については随時批判するような人の方が、ただひたすらマルクスを信奉する人よりもマルクス的には正しいわけですわ。そう考えるとマルクスという人は、人類に対して何らかの結論を出したのではなく、大きな問いかけを残した人だったということがわかる。本人は人類の歴史に一つのゴールを提供するつもりで『資本論』を書いていたのだが、彼が人類に提供したのは一つのスタート地点だったのである。彼は基本的にアジテーターであったので、その文章は熱い言葉で紡がれている。熱い言葉はえてして論理性から離れがちになるのだがマルクスは科学的、論理的であることを良しとした。結果的に、マルクスの意図を正しく受け継いだ人たちは、非常に高いハードルに挑むことになる。歴史家ホブズボームやヤン・エルスターはマルクスから出でて、さらに遠くまで考えを広げた人たちである。マルクスの教えを本当に理解した人ほど、ちゃんとマルクスを批判できるわけです。経済学に関していえばハンガリーのコルナイ・ヤーノシュがいる。マルクス以降、最も資本主義について考えたのがコルナイで、80年代に『不足の経済学』を書いて、旧ソ連の計画経済では駄目なことを指摘した。さらに晩年の『資本主義の本質について』では根源的な答にたどりついている。この本でコルナイは、共産主義・社会主義国家は不足経済であり、資本主義国家は余剰経済だと語る。これは難しい話なので、とにかくコルナイを読んでもらうしかないのだが、共産主義国家と資本主義国家では何が違うかというと、資本主義ではイノベーションがばんばん起きるのに、共産主義、社会主義ではイノベーションが起きないのだ。イノベーションが起きないからソ連は衰退するしかなくて崩壊したという話である。アメリカにはジョブズやビル・ゲイツのような人が現れてイノベーションをばんばんおこすから繁栄し、旧ソ連にはジョブズやゲイツのような人が出てこなかったから衰退した、わけである。それでは、アメリカ人は旧ソ連の人たちよりも優秀なのだろうか。そうではないのである。たとえば19世紀のロシア文学は同じ時代のアメリカ文学に全く劣らないし、英仏といったヨーロッパ先進国の文学にも負けてはいない。ソ連の時代にも優秀な作家はいたのだが、弾圧を受けたり粛清されたりして、それがロシア文化の衰退の一因にはなっているだろう。当たり前の話ですがイノベーションが起きるのは人類にとって良きことである。コロナ禍において、mRNAワクチンがかなり良い仕事をしたのは周知の事実だと思われるが、こういった医療技術はイノベーションとは何なのかを考える上でかなり役に立つ。人類の歴史を医療という側面から見ると、とにかくテクノロジーが進歩した方が少しでも多くの命を救うことができるから、イノベーションは大歓迎である。ヒトはイノベーションに依存した動物なのだ。そのイノベーションが旧ソ連、共産圏では起きなかったのは何故だろう?

競争がなかったからである。アメリカ人であれロシア人であれ、ホモ・サピエンスの個々人のスペックというのはそんなには変わらないのである。ヒトには向き不向きというものがあって、誰しも得意な分野と不得意な分野があるのはご存じの通り。子供の頃から、駆けっこが苦手だった人が陸上競技の選手になることはあまりない。陸上競技を選んだ人たちも、自分の資質と相談するような形で、ある者は短距離走の選手になり、ある者は長距離走を選ぶ。生まれつき太りにくい体質の人は、相撲の力士やプロレスラーになろうとは思わないだろう。ヒトが何かの分野で成功する時には、個人の資質と環境が上手く噛み合っている場合が多いのだ。ジョブズやゲイツが大きな成功をおさめたのは、環境とタイミングが彼らの資質と上手くマッチしたからだ。ジョブズとゲイツは古い友達であり、競争相手でもあった。彼らはお互いに、ライバルに負けたくないから切磋琢磨し、結果的に人類の文化を大幅にアップデートしたわけである。たとえば町内にパン屋さんが一軒しかなかった場合、我々は自動的にそのお店でパンを買うことになるわけだが、パン屋さんが二軒あった場合には、どちらのお店で買うか悩むことになる。片方のお店の方が圧倒的に美味しい場合には、そちらのお店ばかり利用するから、あまり美味しくないお店はすぐに潰れてしまうだろう。自分のお店を潰したい人はいないので、あまり美味しくないお店の人は、今よりも美味しいパンを焼くために努力、工夫をするだろう。それで、そのお店のパンがいきなり美味しくなった場合、もう片方の美味しいパン屋さんはさらに美味しいパンを目指して努力と工夫をするだろう。結果的に得をするのは、どちらのお店でも美味しいパンが手に入るようになった町内の人びとである。ライバルと何かを競い合う精神は、両者を共に成長させるだけでなく、社会を活性化させるのだ。アメリカは一貫して自由競争の国だったから成長したわけだが、ロシア革命以降のソ連は、競争によって個々人のスペックがアップデートされるような社会を作れなかったようなのだ。

たとえば20世紀の宇宙開発において、旧ソ連は優秀だった。これは冷戦の相手であるアメリカと猛烈な競争をしていたからで、だからこそ世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したのである。オリンピックにおいても、旧ソ連邦の選手たちは目覚ましい活躍を残したが、これも競争が発生していたからだ。旧共産圏の人たちはオリンピックで金メダルを取ると、本人だけではなくその家族やコーチ陣も豊かな生活ができた。なので、どの選手も必死で記録を伸ばすこととなったわけである。このように、ヒトは競争になると個々人のスペックを爆上げさせる動物なのだ。競争と協力、この2つが上手く組み合わさった時に、各々の分野においてホモ・サピエンスは最高のパフォーマンスを発揮する。この度のコロナ禍において、あまり時間をかけずに比較的効果のあるワクチンを生み出すことができたのも、ファイザーやモデルナといった製薬会社が過去に蓄積されたデータを駆使しながら競争したからである。ところが旧共産圏においては、市場経済を否定していたので日常生活の中での競争が上手く機能しなかった。ソ連崩壊後、中国は1992年に市場経済を導入し社会主義市場経済を目指すと方向転換した。それから30年、中国の経済が目覚ましい発展を遂げたのはご存じの通りである。ただし、今の中国が本当に社会主義、共産主義なのかについては疑問が残る。市場経済を導入した帝国主義に見えるからである。旧ソ連もまた、実態は帝国であった。これについて、一部のマルクス研究家は、レーニンとスターリンのソ連も、毛沢東の中国も本当の共産主義ではなかったのだという説を唱えている。だとしたら、人類は今のところ本当の意味で共産主義を実現したことはないという話になる。マルクスの熱烈なフォロワーであった歴史家カール・カウツキーに『中世の共産主義』という本があって、共産主義という思想、アイデアが実は古くからあるものだという話をしている。プラトンの国家論やキリスト教の古い考え方に、共産主義の源流を見るカウツキーはおそらく正しい。キリスト教でいう神の王国というのは人類が皆幸せな世界だろう。ヒトは互恵的利他主義の動物であり、赤ちゃんの頃から、不公平を憎む傾向がある。これはヒトの習性だと言って良いだろう。だとしたら、ヒトは常に共産主義を思いついてしまう動物だともいえる。ここが本当にヒトという動物のややこしいところである。資本主義は格差を生むから良くない、というのを我々は理解できるし納得もするのだけれども、それでは共産主義にして私有財産を否定しましょうと言われると、これはこれで困ってしまうのである。我々は、常に何らかの形で競争をしていないと社会が活性化しないのである。個人においても、何か人と競い合っていた方が生き生きとするのである。だから子供たちは自然発生的に駆けっこをするし、ロックバンドにおいては他所のバンドよりもデカい音を出すのである。共産主義的な思想というのは、確かにキリスト教由来のユートピア思想の影響を受けている。キリスト教的な神の王国というのは、神の王国が実現したらそこがゴールであり、その先はないのだ。その先があるとしたら終末なのである。共産主義もまた、時間はかかるけど世界中の国が全部共産主義になるだろう、という歴史にゴールがあるような世界観を有している。しかしながらおそらく、歴史には(それこそ人類の滅亡を別にすれば)ゴールはなく、そこから変化する必要のない完成された社会形態というのはないのである。我々の常識や道徳、幸福といったものが常に変化しているので、それに合わせての微調整、つまりは永遠に軌道修正し続けるような姿勢でないとより良い社会を作れないことは、環境問題を見ればわかるのではないか。環境問題にゴールはなく、持続的な取り組みを続けながら次の世代にバトンを渡すしかない。ここでノイラートの船という考え方を紹介する。これは、オーストリアの哲学者オットー・ノイラートが言い出した比喩で、クワインが好んで使ったものである。

我々は広い海を漂う大きな船に乗り合わせている。航海の途中で、船の一部が壊れたりしても、どこかの港に寄って船を修理することはできない。かといって別の船に乗り換えることもできない。航海を続けながら、壊れたところを随時修理しながら進むしかない(ノイラートの船について、さらに詳しく知りたい方には植原亮『自然主義入門』(勁草書房)をお薦めする)。

ヒトの人生は限られているので、我々は随時、暫定的に自分にとってのゴールを想定する。受験とか就職とか結婚とかをミニマムで個人的なゴールと想定して、ゴールを目指すのは生きていく上で効果的なことだ。しかしながら、受験が人生のゴールであるわけがないことは、受験生だってわかっている。自分の人生を、バーチャルなゲームのようなものとして捉えて、そのゲームの中で受験をゴールと想定して頑張るわけだ。これはとても知的な作業だし、思考のツールとしても優れている。しかしながら、実際問題として人生にゴールがあるとしたら、それは死だけだし、社会にもゴールはない。社会にゴールがあるとしたら滅亡である。ヒトは次の世代に遺伝子を残し、ミームを残す。ホモ・サピエンスの誕生以来、20万年もの間、我々はノイラートの船に乗っていたと考えるのが妥当なところだろう。ちなみにノイラートがこの比喩を使ったのはロシア革命より5年ほど後のことだ。フランス革命をやった人たちや、ロシア革命をやった人たちは、革命が成就されればゴールだ! と思っていたわけである。実際には、どちらも恐怖政治と独裁を招いたのであるが、それは彼らがノイラートの船に乗っていながら、ノイラートの船に乗っていることを知らなかったからである。ヒトという動物はヒトがどんな習性を持っているかに対して、今ひとつよくわかっていない。ヒトの社会にゴールはないのだ。ヒトが理想を求める動物であることは素晴らしいことなのだが、理想を達成すれば万事解決するという発想は間違っていたわけであるし、資本主義か? それとも共産主義か? という2択問題も間違っていたのである。そもそも、それは2択問題ではなかったのだ。この問題に関して、明快で明確な答を誰も出せなかったので、多くの人が問題を引きずったのである。資本主義が格差を生むから良くないというのは誰でも気がつく話であるが、そこからの展開がヒトにとっては難問なのだ。たとえばカート・コベインは、自分が商業的な成功をおさめたのを、悪いことをしてしまったように捉えてしまった。マーク・フィッシャーは資本主義から逃げられないことを、絶望的なこととして受け止めてしまった。資本主義とは、そんなに悪いものなのだろうか? 今こそ、資本主義の正体について語るときが来た、わけであります。60年代カウンターカルチャー以降、ロックを巡る言説において頻繁に語られてきた商業主義批判、コマーシャリズム批判、それらに伴う根源的な資本主義嫌悪にはシステム批判という側面があった。カウンターカルチャーの時代にはルールをぶち壊せ的な物言いが広く見受けられた、わけである。ルールというのはシステムの、制度の構成要素である。システムが皆を苦しめるという発想はマルクスにもあった。資本家に搾取される労働者だけではなく、資本家の方も資本主義のシステムのせいで決して幸せにはなれない、てなことをマルクスは考えていたわけだ。頭いいな。資本主義というのは、無政府主義や共産主義のようなイデオロギーではない。単なるシステムだ。だから資本主義ではなく資本制と呼ぶべきだという人もいる。しかも、このシステムはイデオロギーとは違って、誰かが思いついて始めたわけではなく、自然発生的に成立し世界に広まったのである。何者だこいつは? と思う人もいるだろう。そして、フィッシャーの場合は、このシステムから逃れられないと思ったので絶望して死んでしまったのである。だがしかし、現代においてはヒトはシステム無しでは生きられないことははっきりしている。ヒトは社会的動物なので、共有される規範、ルールによって構成された制度の中でしか生存できない。たとえば無政府主義、アナーキズムというのがあって、それはそれで魅力的に見えたりもするのだがアナーキズムには人類が全員ウルトラマンとかラッキーマンでない限り実現不可能という欠点がある。つまり絵に描いた美しい餅なのだ。否定はしないが実現するようなものでもない。それでは、システムとは一体どういうものなのだろうか。

たとえば、花が美しく咲き誇るのは何故だろうか? それはもちろん、蜜蜂を誘っているからである。世の中には美しいものが沢山あるわけだが、たとえば大自然の景観が美しいのは問答無用である。我々は単なる山や川を見て美しいと思う。そこに損得はない。次に、孔雀の羽根が美しいのは何故だろう。あれは、雌の孔雀に対して見せびらかしているのだ。美しい羽根の雄の孔雀は、雌の孔雀と交尾する際に有利なのである。わかりやすく言うとモテるわけです。ただし、羽根が派手派手になるほどに、肉食獣から襲われるリスクは高まる。ビジュアル系のバンドマンが、ヤンキーにからまれるところをイメージするとわかりやすいかもしれない。バンドマンはあまり喧嘩が強くない、わけであるがヤンキーよりはモテるわけです。それでは、花が美しく咲き誇るのは何故かというと、あれは宣伝、広告なのですね。派手な広告で蜜蜂や蝶といった顧客を勧誘しているのだ。花は美味しい蜜を提供しながら、蜜蜂や蝶に花粉を運んでもらい遺伝子を残す。つまり商取引である。たとえば町を歩けば牛丼屋やラーメン屋の看板が目につくが、あれは花が咲いているのだ。牛丼屋の看板は牛丼を好むホモ・サピエンスを誘い、ラーメン屋の暖簾はラーメン好きなホモ・サピエンスを誘っている、わけである。自然に咲いた花ほど美しく見えないのは、牛丼屋にとっての我々がダイレクトな顧客であり、花にとっての蜜蜂だからである。蜜蜂はもちろん、花を愛でているわけではなく、蜜を採取するための目印として花を目がけて飛んで行くのだ。ということは、孔雀のメスもまたオスの見事な羽根を見て、まあ美しいわ! と感心するよりも先に、これは健康で優秀なオスだから交尾しようではないか、という判断材料としてとらえているのだ。我々ヒトは、おそらく文化を進化させたので芸術という概念を生み出し、孔雀の羽根や蜜蜂を勧誘する花を美しいものとして鑑賞するように適応し、進化したのである。自然界に美の基準があるわけではない。我々ホモ・サピエンスが勝手に大自然の景観を前にして、その美しさに感動し言葉を失ったりしているわけだ。そういう意味では珍しい動物である。それはそうと、我々は犬や猫にも感情があることを知っておりますよね。感情というのは進化の過程で獲得されたものなのだ。たとえば、サバンナでライオンに遭遇した時に、ライオンに対して恐怖を抱かないシマウマがいたとして、そのシマウマは簡単にライオンに食べられてしまうわけです。なので結果的にライオンに対して恐怖を抱くシマウマと、その子孫が生き延びて繁栄したわけですね。それが適応だ。我々ホモ・サピエンスが持っている恐怖という感情はシマウマのそれと基本的には同じものである。何故ならば我々の先祖もシマウマと同じようにライオンの先祖のご飯だったからである。そして、ホモ・サピエンスの子供は、一人で行動できるようになるまで何年もかかるから、大人が保護してあげないといけない。我々の多くが、よちよち歩きの子供を見て無条件で可愛いと思ってしまうのは、これまた進化の過程で獲得した感情なのですね。赤ちゃんや幼児が、可愛いから保護したくなるのには明白なエビデンスがあったのだ。ヒトの子供が可愛いのと並行して、家畜化された動物もまた野生の状態よりはファンシーで可愛くなっているのが重要で(代表例が猪と豚で、豚は猪よりファンシーで可愛い。家畜化された犬の中には耳が垂れた種も多いが、我々の多くはそれを見て可愛いと思う)我々はヒトの子供を見ても可愛いと思うし、他の動物の赤ちゃんを見ても可愛いと思うわけだが、その際に沸き立つ感情は進化の過程で獲得されたものである。なのでヒトにおいては、可愛いは正義、ちいかわ、なのであるが、それとは真逆の感情である嫌悪感なども、また我々の本能と結びついている。我々は、自分のお尻から出た排泄物を嫌悪する。特に臭いを嫌う。これは、我々の排泄物つまりウンコが、我々にとって衛生的な面で危険だからである。ウンコにたかる昆虫がいるのはご存じの通りで、彼らにとってヒトのウンコは危険なものではなくて有益なものだから臭いを察知して寄ってくるわけです。ヒトにとってヒトの排泄物は、直接的には有益ではないので日常生活においては出来るだけ接触を避けるわけだが、農作業の肥料としては有益な面があるので、農耕生活を始めたヒトは自らの排泄物を畑の肥やしとして二次的に利用した。その一方で、ハエにとってはダイレクトに有益な物体なので、すぐに飛んでくる。つまり、地球上にいる様々な生き物の活動は、基本的に生き延びるための経済的な行動なわけですが、ヒトは進化の過程で不公平を嫌い他人に親切にする利他主義を獲得したので、自分だけが得をするような経済的活動、簡単にいうとお金儲けには嫌悪感を抱いてしまうのだ。しかしながら経済的活動というのは生物学的な行動なのである。そう、以前に紹介したバイオロジカルマーケット理論である。市場経済における商取引というのは、生命活動そのものの反映なのだ。だとすると、資本主義を「格差を生み出す悪」として倒すのは無理な話ではないか。ヒトに最も近い親戚であるチンパンジーはヒト以上の格差社会を作るのだが、ヒトは文明のない状態においては彼らよりも平等な社会を作る動物なのである。それが社会集団を拡大させて国家を作ると格差のある社会を作ってしまうのである。社会集団の拡大はおそらく農耕と定住がきっかけである。穀物は備蓄できるので財産という概念が生まれ、領土という概念も生まれますわな。それ以前の、最大で150人程度の集団にも規範はあったはずだが、規模の大きな集団つまり国家になると細かい制度と法が必要になる。そこから奴隷制度が生まれたのである。それでは、やはり文明を発展させたのが間違いだったのかというとそうでもなくて、文明の発達により餓死は減り病気で死ぬ人も大幅に減ったからこそ平均寿命は伸び続けているのである。トータルで見るとやはり文明が発達して良かった。文明が発達しなくても音楽はあったが、電気がなければロックも誕生しなかったわけである。ヒトは言葉は持っていたろうが、文化の進化による文明の発達がなければ文字を発明できなかった。バイオロジカルマーケットに従って生きる動物が、文化の進化を加速させ、文明を発展させればピタゴラスイッチ的に市場経済を生み出し、やがて産業革命を起こして工業社会が到来し近代的な資本主義が生まれてしまう、のである。これは文化進化だ、そして進化というものは常に良い方向に向かうわけでもない。ヒトの互恵的利他主義から来る共産主義を求める思考は、赤ちゃんの頃から公平さを求めるヒトの本能に結びついているわけだが、バイオロジカルマーケット理論の視点から見ると、資本主義もまたヒトの本能と結びついている。だとしたら、共産主義か資本主義か? という2択を問題視したのは、歴史的なミスだったのではないだろうか。どちらも本能と結びついているのなら、どちらかを選ぶという姿勢では、いつまで経ってもより良い答にたどり着けないだろう。人類は馬鹿なようでいて賢い動物なので、妥協とか適当なところで手を打つという選択肢がある。我々は妥協という言葉をあまり良くないニュアンスで使うことが多いが、妥協こそはヒトの叡智なのだ。マルクスが見た19世紀の工業化社会で搾取された労働者たちが苦しんでいたのは、色んな要因が重なっているのだが、一つには産業革命からの工業化というコンボが迅速になされてしまったからである。産業革命自体は確実に良いことであったが、ヒトは「これは良いものだ!」と思うと、それに全力投資してしまうところがある。文化のラチェットを全力で回すのである。その結果、社会の形態が短期間で大きく変化してしまうと、多くのヒトがそれに対応できないといったミスマッチな事態に陥る。ヒトは常に道徳を進化させる動物だが、19世紀の工業化社会においては道徳の進化が追いつかない程の速度で社会が変化したのだ。西欧でギルドが誕生したのは中世だと言われる。労働者と労働者のつながりが、個々人の労働者を守る労働組合的なシステムが自然発生的に生まれていたのだ。ところが、産業革命から工業化社会というコンボは、あまりにも迅速に行われたので中世以降のギルドが持っていたような労働者個々人に対する福利厚生が置き去りにされてしまった。ヒトは道徳を含めた文化を進化させることで前に進んできた。基本的に後戻りはできないと思っていただきたい。ヒトの幸せは、その時その時の社会の状態によって変化する。ヒトは自分たちの都合で、幸せや道徳のゴールポストを動かす動物なのである。昭和の時代には路上で煙草を踏み潰しても誰も文句を言わなかったわけだが、今はそういうわけにはいかないし、そもそも煙草が吸える場所も限られている。これは、公衆道徳や健康面において前向きで良い変化なのだが、ゴールポストはかなり動いている、わけである。我々は常にゴールポストを動かすのである。だとしたら、やはり我々にゴールはないのだ。人類が皆幸せに生きられる世界を理想としつつ、ノイラートの船でもって少しずつ昨日より少しマシな世界にするしかない。幸いなことに、現代では道徳的な消費という概念がある。燃費が悪くて大きな車に乗ることをステイタスにしていたアメリカ人が、今では地球に優しいエコな車を選ぶようになった。道徳の進化はお金持ちも変えてしまったのだ。たとえば現代を代表するお金持ちであるビル・ゲイツやイーロン・マスクは、環境問題や富の再分配について前向きである。たとえば彼らが昔のお金持ちのように私服を肥やすことに専念していたら、SNSでボコボコに叩かれてしまうだろう。彼らはそれをよく知っているのだ。理想的な共産主義を実現できていない以上、格差を筆頭とした資本主義が生み出す様々な問題に対しては、我々庶民がSNSを通じてお金持ちの尻を叩くのがベストだろう。

ともあれマーク・フィッシャーやカート・コベインを殺したのは資本主義ではない。それでは、一体何が彼らを殺したのだろう?


〈おもな参考文献〉
マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、2016
コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について――イノベーションと余剰経済』溝端佐登史、堀林巧、林裕明、里上三保子訳、NTT出版、2016

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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