第3回 母のようにはならない

精神疾患、自殺未遂、貧困、機能不全家族など、いくつもの困難を生き抜いてきた著者は、あるとき気がついた。じぶんの生きづらさは、女であることでより深刻化させられてきたのではないか。かつて一ミリも疑ったこともなかった「男女平等」は、すべてまちがいだったのではないか。女であることは、生きにくさにつながるのか? ジェンダーの視点を得ていま語る、体験的エッセイ。

中学2年になってからは、イジメに遭うようになった。私は大多数の女の子のように群れるのが苦手だった。トイレも一人で行くし、移動教室の時も一人で平気だった。むしろ、羊のように群れながらみんなと移動するのが苦痛だった。一人で行動するのは、仲のいい友達がいなかったせいもある。そうこうしているうちに私はクラスの中では下流の人間と位置付けられた。

中学生になった女の子たちは容姿の変化が現れた。アイプチをまぶたにつけて目を二重にするのに必死な子もいれば、授業中にこっそり爪を磨いている子もいる。ファッション誌を休み時間に開いて、どの服が好きだとか、アイドルの誰がいいとか、みんなそういう話をしていた。私はその話に全く入れなかった。お洒落な洋服を着たいとは思うけれど、目が悪くてメガネをかけていた私は、ファッション誌に載っているような洋服を自分が着こなせる気がしなかったし、アイドルにたいしてもあまり興味が持てなかった。

小学生の時、光GENJIがものすごく流行って、みんな誰が一番好きかという話をしていたけど、私は一番好きなのが誰かを言えなかった。私はセンターの諸星くんが一番いいなと思っていたけれど、自分のような人間が一番目立つ人を好きになるのはいけない気がした。私はクラスメイトに一番好きなのは誰かを聞かれると、一番人気のなさそうな人を指差した。それに、友達たちがグッズを買ったりして熱狂しているほど諸星くんのことも好きじゃなかった。

アイドルに興味を持てない私はアニメの男の子たちの方が好きだった。アイドルの男の子たちよりも清潔でカッコいいと思った。何しろ彼らはこの世に存在していない。歳をとらず汗をかく事もない彼らは住んでいるのも違う次元だ。絶対に私を脅かさない彼らに安心を覚えていた。

容姿に力を入れている女の子たちは「見られる」存在であることを悟ったのだと思う。可愛い女の子はそれだけでクラスの人気者になれるし、それに付随して力を得ることができる。そして、力の強い男も得ることができる。可愛い女の子はバスケ部のカッコいい男の子と付き合っていた。私が好きなのは二次元のアニメキャラクターだから彼らに「見られる」ことはないし、付き合うこともない。だから、私は容姿をあまり気にしなかった。それに、女の子らしい格好が好きになれなくて、男の子っぽい服装を選んでいた。なんとなく、ヒラヒラしたスカートが履けなかった。

小学生の時、母が作ってくれた派手な柄のスカートを履いていったら、クラスのリーダー格の子から喧嘩を売られたことがあった。本当はスカートが好きだったのかもしれないけれど、好きじゃなくなったのはそれが原因かもしれない。私は母が作ってくれたスカートを履いた時、少し嬉しかったのだ。でも、私のような人間は目立ってはいけない。私はスカートをやめてジーンズやズボンばかり履くようになった。もしかしたら私は周囲の女の子から女らしさを剥ぎ取るように強要されたのかも知れない。

中学生の時の私は、眼鏡をかけて絵ばかり描いている人間だったので、日陰の人間だった。クラスメイトに蹴られたり、馬鹿にされたりしながら学校に行っていた。美術部には一応在籍していたが、たまに顔を出す程度で熱心に活動はしていなかった。重い学生鞄を手にして、紺色のスカートを蹴飛ばしながら一人で家路を辿る。学校にはまだたくさんの生徒が残っていて部活をしているけど、私はどうでもよかった。早く家に帰りたかった。

団地の階段を駆け上がり、家に辿り着く。パートから帰ってきた母が洗濯物を取り込んでいた。母が取り込んだ洗濯物を畳み始めるのを見て、私も手伝った。家事という永遠に終わらない雑事をこなす母は凄いと思う。家が汚くなれば掃除機をかけ、汚れた洗濯物を洗う。家事とはマイナスになったものをゼロにする行為だ。だから誰も褒めてくれない。ゼロで当たり前。マイナスになっていたら家族に怒られる。私は小学生の時、家事ができていない母を叱ったことがある。台所にかかっているタオルがいつもビチャビチャで不愉快だったのだ。「タオルがビチャビチャになったらちゃんと変えて!」

子供の私は母に言った。そうしたら母はその場で泣き崩れた。私は呆然として母を眺めるしかなかった。子供である私は全てを母に委ねていた。母は家族のケアをするのが当然で、家族が快適な環境を提供し続けるのが母の役割だと思っていた。だが、母は人間であり、快適な空間を提供し続けるロボットではない。疲れもするし、不満だってある。私はそういった母の心情を理解できるほど大人ではなかった。そして、私の父親は一切家事をしなかった。

なぜ、男ばかりが家事から解放されているのだろうか。家庭という会社を回すために母と一緒に共同経営者として、どうやって家事を分担するのが良いか、家計をどうするか、いろんなことを一緒に考えるべきなのに、父は「俺は金を稼いでいる」の一点張りで一切家事に手は出さない。もちろん父は働いている。それは否定しない。しかし、母だって働いていた。母は東京のデパートで正社員の販売員をしていたのだ。全ての女の仕事は腰掛けであると上野千鶴子の本で読んだ。本当にその通りかもしれない。私たち女にはガラスの天井があり、どうやっても上にいけないようにできている。子供ができたら退職を促される。

前に街中の喫茶店にいた時、こんな会話が耳に入った。

「もう結婚して1年だっけ。どう最近?」

30代前半くらいの女性が同じ年頃の女性に話しかけている。

「ちょっと嫌なことがあるのよね。会社の飲み会で、私がお酒を飲んでいるかどうか上司がチェックしてるのよ。妊娠しているのかどうか気にしてるんだと思う」

なぜ、子供を産んだら仕事を辞めなければならないのだろう。能力があり、本人にやる気があるなら続けさせるべきではないか。それに、仕事を失って困るのは女なのだ。男に生活費の全てを出してもらうことは女にとって力を失うことに直結する。夫が暴力を働いたり、浮気をしたりして家を出たいと思った時、お金と仕事がなければ家を出れない。

私はパートタイムで働く母の横で軽く絶望していた。私は母のようにはなるまいと考えていた。父は母に給料の半分くらいしか渡しておらず、いつも家計は火の車だった。家が貧乏だというのは子供の私にもひしひしと伝わっていた。小学生の時、母が持ってきた内職の仕事を一緒にしたことがある。政治家の広告チラシを二つ折りにする仕事だった。簡単だったので私も手伝った。お茶碗をひっくり返してその縁で綺麗に折り目をつける。一枚一円にもならない仕事を文句も言わず二人で仕上げた。父はこれを知っていたのだろうか。知っていたら自分を情けないと責めただろうか。

母は今、パートの仕事しかしていない。スーパーでレジを打ったり品出しをしたりしている。家事の合間に行う仕事だから収入もたかが知れている。それに時給だって高くない。母が父と別れられなかったのは経済的な面が大きいと思う。

結婚した女の不幸は仕事がないこと、男女の賃金格差があることに起因している。女が男と同じくらい稼げればほとんど全ての問題が解決する。DVをはたらく夫からはすぐに逃げられるし、離婚をしても一人で生きていける。シングルマザーの貧困が騒がれているが、シングルファーザーの貧困は耳にしない。ネットで男女の賃金格差の表を見るとその差に唖然とする。女であることで男より能力が劣っていることなどないはずなのに。

母とタオルを畳みながら、テレビに目をやる。国会中継が映っている。国会の椅子に座っているのはほとんどが男たちだ。中年の白髪混じりの男たちが不機嫌そうな顔をして柔らかそうな椅子に座っている。国の中枢がほとんど男なら、男たちに都合の良い法律ばかりできて当然じゃないか。母はたたみ終わった洗濯物をタンスにしまうと台所に向かって晩御飯の準備を始めた。

私はのろのろと勉強机に向かって今日の宿題を片付けることにした。中学に入ってから、あまり勉強についていけなくなった。なんとか中の上は保持しているが、小学生の時より成績は落ちた。数学はついていけないし、英語も最近わからなくなってきた。

勉強ができないのは心身の不調が大きかった。体が痛かったり、胃が張って気持ち悪かったり、肩こりが激しかったりして、学校を休むことが多くなった。最初のうちはクラスメイトにノートを借りて写していたが、徐々に辛くなってきた。風邪をひいて一週間も休んでしまうと、机の中はプリントでいっぱいになっていて、どこから手をつけたものかと悩んでしまう。心身の不調は主にストレスから来ていた。塾のハゲ先生や、学校でのいじめ、先生との不和。正直、こんな状況下で良い成績を取り、毎日元気よく過ごすことなど不可能だ。

なんとか宿題を終わらせると、夕食ができていた。兄も帰宅して、テーブルについている。「いただきます」を言って食事に手をつける。父の顔はここのところ見ていない。私が起きた時に出て行き、私が寝た時に帰ってくるからだ。深夜12時近くなると激しい物音で目が覚めるのが日課だった。父と母はいつも怒鳴りあっていた。「具合が悪い」という母に向かって「じゃあ、救急車を呼べ!」と酔った父が救急車を呼ぼうとした。「やめてよ!」と父に向かって泣き叫ぶ母。私はこんなやり取りを毎晩する二人がなぜ結婚生活を続けているのか謎だった。ここには幸せや安心といったものがない。毎日、恐怖と支配で脅かされている。二人の怒鳴り声を聴きながら、「私は母のようにはなるまい」と誓った。絶対結婚するものか。結婚したら女はおしまいなんだ。だが、女が一人で生きることがどれだけ難しいかをこの時の私は知らなかった。

 

1977年生まれ。茨城県出身。短大卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職、のちに精神障害者手帳を取得。現在は通院を続けながら、NPO法人で事務員として働く。ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。著書に『この地獄を生きるのだ』『生きながら十代に葬られ』(共にイースト・プレス)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社)、最新刊『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房)が5月10日より発売。

ツイッター:@sbsnbun、ブログ:http://sbshinbun.blog.fc2.com/

第2回 脂肪よりも筋肉が欲しい

精神疾患、自殺未遂、貧困、機能不全家族など、いくつもの困難を生き抜いてきた著者は、あるとき気がついた。じぶんの生きづらさは、女であることでより深刻化させられてきたのではないか。かつて一ミリも疑ったこともなかった「男女平等」は、すべてまちがいだったのではないか。女であることは、生きにくさにつながるのか? ジェンダーの視点を得ていま語る、体験的エッセイ。

生理が来て、子供時代が終わると、すぐに中学生がやってきた。中学校の制服のサイズを測るため、保健室で一列になってウエストや身長を測る。しばらくすると制服が届いた。私たちの小学校は卒業式を中学の制服で迎える。女子はセーラー服。男子は学ラン。届いたばかりの深い紺色のセーラ服を着てみた。赤いネクタイを胸元で縛る。少し大人になった気持ちがして嬉しかった。

この頃、街中にはコンビニが増え始めた。私たちの日常は急速に便利になった。そして、コンビニの本棚には私と同じセーラー服を着た女の子が表紙にいた。卑猥な言葉とともに、スカートを捲り上げ、ブルマーを見せていた。私は自分の着ている制服がこんな意味を持っているということに驚いた。中学生や高校生はどう考えても子供だ。子供に欲情するこの国の男はおかしいのではないか。しかし、その考えを誰にもいうことなく、ただ、その雑誌の持つ意味を自分の中にしまった。私は気をつけなければいけないということだ。

紺色のセーラー服に袖を通し、白いネクタイを結ぶ。行事の時は赤のネクタイでなく、白のネクタイを結ぶのがしきたりだった。4月を迎えて、黒の学生カバンを持ち、入学式に向かう。校庭の桜は満開で、学校が嫌いな私でも少し嬉しくなってしまう。一陣の風がそよぐと弱々しい桜の花びらがふわりと宙を舞う。体育館に集まり校長先生の話を聞く。新しい制服、新しい学校、新しいクラスメイト。けれど、私の胸はあまりときめいていなかった。小学校からの人が全てなだれ込んでくるので、そんな新鮮な気持ちになれない。ただ、いじめられなければ良いと願っていた。

私は小学校高学年の頃から激しく胸が痛くなった。第二次性徴というもので、胸が膨らみ始めていたのだと思う。時々机に胸をぶつけると、あまりの痛さに動くことすらままならない。じんじん痛む小さな胸。痛むわりには私の胸は大きくならなかった。

初夏になり、夏服に変わった。ジャンパースカートに白いシャツを着て、制服も爽やかになった。体育の時間になると、うっすら女の子たちの下着が透けて見えた。私はこの頃、まだ、ブラジャーをつけておらず、タンクトップの上に体操着を着ていた。しかし、そんなのは私ぐらいで、そろそろブラジャーをつけなければならないと思うと少し憂鬱だった。私は自分からブラジャーをつけたいと母に言わなかったのだが、母の方から「ブラジャー買いに行きましょうか」と言われた。

母と一緒に駅前のイトーヨーカドーへ向かう。下着売り場にはたくさんのブラジャーが花畑みたいに並んでいた。ピンク、水色、白。レースやリボンで飾られたそれらは綺麗だけれど、私とは無関係な感じがした。母は店員さんを呼んで私の胸を測った。私の胸はブラジャーが必要だと思われる大きさではなくて、ほんの少しだけふっくらしているだけだった。母は大人向けでない子供向けのブラジャーから一番小さなブラを店員さんと話しながら選んだ。私は促されるままブラジャーをつけた。胸を締め付けられるようで少し痛むし、アンダーバストの感触がごわごわして気持ち悪い。そんな私の考えをよそに母は「これがちょうどいいわね」と言って、そのブラジャーを買った。

私はそのブラジャーを一度つけて学校に行ったけれど、ブラジャーの違和感が気持ち悪くて勉強に集中できなくなり、つけるのをやめた。それに、女子が男子からブラジャーの紐を引っ張られてからかわれているのを見て、怖くなってしまった。あんな風に馬鹿にされたくない。それに、胸の大きな子には必要な下着だと思うけれど、私には必要ない。私の体は大きいけれど、痩せ気味で体に肉感が全くなかった。

クラスの男子が女子を性的な話題でからかうようになった。

「セックスって知っているか」

ニヤニヤしながら女子に聞いてくる男子。何が楽しいのかわからない。女の子はシカトするか、ぶっきらぼうに「知らない」と言った。そうすると男子は「本当に知らないのかよ!」と言ってゲラゲラ笑う。私は聞かれたらどうしようと怖かった。私はセックスを知っていた。小学生の時、兄にアダルトビデオを見せられていた。その時はあれがなんなのか分からなかったのだが、最近になってあれが何を意味していたのかがわかるようになってきた。父が隠し持っていたエロ本、兄が持っているエロ漫画。その中で行われていることの意味がはっきりわかってきていた。

クラスでは目立たない私にもその順番が回ってきた。

「小林、セックスって知っているか?」

下品な顔をした男子が私の顔を覗き込んで聞いてきた。

「知らない」

私は毅然として答えた。なんでこんな下品なことを聞くことができるのだろう。そして、なぜ、私はこんなにも嫌な目に遭わされても相手を非難することができないのだろう。一発ぶん殴ってやりたいとも考えたが、中学生になって、男子の体つきは男らしくなってきた。女子の方が成長は早いが、女の体は大人になると筋肉でなくて脂肪がつく。私は脂肪よりも筋肉が欲しかった。強い体の方に憧れた。

中学二年生になって、母に塾に行ったらどうだと言われた。地元に根付いた学習塾があり、そこには兄も長いこと通っていた。勉強は学校のだけで十分じゃないかと思っていたのだが、私は数学が全くできなかった。数学や英語は基礎の積み重ねが重要で、基礎がなっていない私は落ちこぼれだった。

塾に通い始めると、禿げた数学の教師から声をかけられた。

「勉強を特別にみてやる。授業が終わったら教室に来い」

私は行こうと思ったのだが、なんとなく気が進まなくて、約束の時間に少し遅れた。そうしたら、教室はしまっていた。家に帰ると兄が話しかけてきた。

「数学のハゲ先生、あいつに嫌われたら終わりだぞ」

私はビクッとした。私はしばらくして、ハゲ先生に謝りに行った。ハゲ先生は「俺のアパートで生徒を教えているから空いている日に来い」と行った。私は塾のない放課後、ハゲ先生の家に教科書とノートを持って訪れるようになった。

ハゲ先生の家は部屋が三つほどあり、独身にしては広いところに住んでいた。私以外にもハゲ先生に勉強を教わっている子達がたくさんいた。私も教科書を広げて勉強を始める。

「どうした、わからないのか」そう言って笑顔で女の子の胸を触りながら声を掛けるハゲ先生。よく見ると、この部屋には女の子しかいなかった。そして、何人もの女の子が胸を触られていた。女の子は「やめてよー」とケラケラ笑いながらハゲ先生をいなす。そんな状態で勉強が行われていた。私もハゲ先生に胸を触られたが、他の子と同じように笑いながら「やめて〜」と言った。そうするのがここでは正しい気がした。そして、ハゲ先生の勉強の教え方はうまかったので、学校で最下位の方だった私の数学の成績は上がり始めた。

同じ塾で、一緒にハゲ先生に教わっている同じ中学の紀子ちゃんと仲良くなった。紀子ちゃんはテニス部だった。学校でたまに会うと、おしゃべりするようになった。紀子ちゃんはテニス部の顧問が厳しくて嫌だとこぼしていた。ある日、嫌な噂が耳に入った。紀子ちゃんが顧問に殴られて耳の鼓膜が破けたというのだ。テニスの試合で負けたことが原因らしい。

「あの顧問、マジで最悪」

紀子ちゃんと同じテニス部の子が口にした。

「そうだね、マジで最悪」

私もそう口にしながら、心の中はぐちゃぐちゃしていた。耳の鼓膜が破れるほど殴るなんてよっぽどのことであるし、これが学校の外で行われたら大きな事件だ。大の大人が中学生女子を殴って怪我を負わせたのだから。しかし、学校の外に出ない限りはおおごとにはならない。私は「マジで最悪」と心の中でもう一度呟いた。紺色のセーラー服は私たちから権利や力を奪う呪いの衣装みたいだった。

学校が終わると塾がない日はハゲ先生のアパートに向かった。ハゲ先生が作った教材をコピーしてみんなに渡してくれる。わら半紙に向かってシャーペンを走らせる。子供である私たちの仕事は勉強だった。ハゲ先生の家は楽しかった。そこいら辺にあるスナック菓子を食べても怒られないし、冷蔵庫の中のジュースを開けても怒られなかった。中学生女子である私たちは勉強に疲れると、お菓子を食べて雑談をした。ハゲ先生は用事があって家にいないことも多かったので、鍵をもらった生徒が勝手に入ったりもしていた。

私と紀子ちゃんは二人でよくハゲ先生の家に行った。勉強もしたしおしゃべりもたくさんした。ハゲ先生は胸の大きい紀子ちゃんがお気に入りで、よく胸を触っていた。四十過ぎのおっさんが中学生の胸を触って笑っている。今思うと恐ろしい光景だと思う。だけど、中学生の私たちは笑って先生を許していた。私たちは子供だけど大人にならないといけなかった。男の人のすけべな行いを笑って許せるのが大人の女なのだ。だけど、私は次第にハゲ先生が許せなくなっていった。本当は胸なんて触らせたくない。これは私の体なのに、なぜ、好きでもない男の人に勝手に触られなければならないのだろう。

「エリコさんの胸はちっさいですねえ」

ハゲ先生が笑いながら私の胸を触った。

「やめて!!」

私はハゲ先生の手を振り払った。ハゲ先生はビクッとして手を離す。

「おー怖い。どうしたんですか」

ハゲ先生は笑いながら、私を見る。私は何も言わなかった。そして、ノートにシャーペンを走らせた。思えば、私は早く、ハゲ先生のアパートから出たかった。けれど、学校の勉強だけでは追いつかなくて、仕方なく、ハゲ先生に教えてもらっていた。塾は有料だが、ハゲ先生の家で教えてもらう分にはお金はかかっていない。私は体を差し出す代わりに勉強を教えてもらっていたのだと思う。ハゲ先生の家通いが長くなると、ハゲ先生の行為はエスカレートした。

「実物、見たことないだろ」

と言ってコンドームを渡してきた。私と紀子ちゃんは驚きながら、笑いあって、袋を開けた。コンドームはベトベトしていて気持ち悪かった。クラスで男子が笑いながらコンドームの話なんかをしていたけれど、それとはまた違う気持ち悪さだった。まだ私たちには遠いものである避妊具を目の前に晒されるのは恐ろしかった。

他にも映画の中のセックスシーンを見せてきたり、春画を見せてきたりした。ある日、ハゲ先生と私しか、家にいない時、ハゲ先生に聞かれた。

「エリコさんはオナニーしてるんですか?」

私は嫌悪感を感じながら答えた。

「してないです」

ハゲ先生は笑いながら

「じゃあ、エリコさんのお●んこは綺麗なピンク色なんですね」

ニヤニヤと笑うハゲ先生。私はしばらくしてその場を立ち去った。男から性的な言葉を投げられても耐えなければいけない。それは中学生であろうが当然のことなのだ。

ある日、ひどい腹痛に襲われ、母に訴えた。

「お腹が痛い、すごい痛い」

私は中学生の時、謎の腹痛によく襲われていた。思えばストレスが原因だと思う。母がタクシーを呼んでくれて、大きな総合病院に連れていってくれた。脂汗を流し、呻く私を看護師はベッドに運んでくれた。しばらく横になっていると、医者がたくさんの看護師を連れて診察に来た。頭髪が薄い、中年の医者は私の腹部を触った。腹部を押した後、すっと私の下着の中に手を入れ、私の陰部に手を忍ばせた。私は身体中の血液が凍ったように感じた。

え? なに? 何が起こったの? 頭の中がたくさんのクエスチョンマークでいっぱいになる。たくさん看護師もいたし、そばには母もいる。なのに、なんであの医者はこんなことをするの? それとも、下着の中に手を入れたのは何かの検査? 私は生まれてくる疑問符を処理できない。そばにいる母にも聞くことができなかった。私は仕方がないから、このことは私の思い違いで、きっと触診の一環なのだと思うことにした。陰部と腹部は全く違うものであると分かりながら、触診なのだと信じ込んだ。下腹部はじんじん傷んだままだった。

 

1977年生まれ。茨城県出身。短大卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職、のちに精神障害者手帳を取得。現在は通院を続けながら、NPO法人で事務員として働く。ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。著書に『この地獄を生きるのだ』『生きながら十代に葬られ』(共にイースト・プレス)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社)、最新刊『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房)が5月10日より発売。

ツイッター:@sbsnbun、ブログ:http://sbshinbun.blog.fc2.com/