第21回「そんなに楽しくありません」
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「ご職業は?」と聞かれて「小説家です」と答えたときの返答の一つとして「好きなことがお仕事なんていいですね」といったフレーズがある。もし自分が小説家でなく、誰かに同様の質問をして同様の返答が返ってきたら同じようなことを言っていたような気がする。「大変そうですけど、きっと楽しいでしょうね」みたいなことも。
実際、他の小説家のインタビューなどを読んでいても「書くのが楽しくて仕方ない」と答えているケースもあり、きっと楽しく書いている人も一定数いるんだろうと思う。「今はとにかく書くのが楽しいですね」「というか楽しくないのにどうして書くんですか?」という人も。
だからそう言っていいのか長らくわからずにいたのだが、わたしは小説を書くのが楽しいとはそこまで思っていない。春から1日中小説を書いてよい生活になり、兼業していたときよりは時間の余裕があるし精神的にも穏やかになったが、めちゃくちゃ楽しいかと聞かれればそうでもない気がする。絶対に小説家になりたい、とはもともと思っていなかった。読むのは好きだから書けたらきっと“楽しい”だろうなとは思っていたけれど、書き方もよくわからないし小説教室のような場所にも一度も行ったことがない。だから思いついて書いてみた作品を送ってデビューが決まったときは嬉しさに遅れて申し訳なさのようなものが湧いてきた。職業的な小説家として書き続ける自分をなかなか想像できず、次作について何も考えていなかったし、小説の新人賞への応募者の中には何年、何十年も書き続けている人たちもいると知り、そうした人が受賞した方がすぐ次作を書けるのにと思った。
そして応募を続けている人たちの存在を知ると、たとえ次作を書くのに苦戦していても泣きごとを言ってはいけないと思い始め、取材などで小説を書くことについて尋ねられると「とにかく楽しいです!」と無暗にテンション高く答えた。そう思いたかったし、きっともっと書くのが上手になったら本当に楽しくなるだろうと思っていた。その考えが少し変わったのが、デビューした2年後に行った文学賞の授賞式だった。自分が受賞したときはコロナ禍でパーティーなどはなかったのだが、感染状況の変化とともに授賞式も以前の形に少しずつ戻り、改めて招待された。選考委員の方々とお話しする機会もあり、そのとき思い切って「小説を書くのが楽しくないと思うことはありますか?」と尋ねてみた。
「そんなに楽しくないです」とすぐに力強い返事が来た。
「あまりにつらいから、洗濯物の乾燥完了を知らせる音が鳴ったらすぐに書くのを中断し、いつも率先して畳みに行っている」という方もいた。
なんだ、と安堵した。こうして何十年も小説を書き続けている小説家も楽しんでいるとは限らないのだ。「楽しくない」という言葉にこんなに安心するのは初めての経験だった。思い返せば、最初に小説を書いたときもそれほど楽しいと思っていたわけでもなかった。
当時はまだ雑誌の編集者としてフルタイムで働いていて、誌面は少ない文字数で、明るくわかりやすく前向きに、を求められた。読む側のそうしたニーズがあるのは理解していても、元来それほど明るくもないのに明るい文章ばかりを書き、すぐには結論が出ないテーマや倫理的に難しい内容でもとにかく短い文字数でわかりやすく、そして結びは必ず前向きに、という条件でまとめなければならないことに息苦しさがあった。また結婚を考えている相手の親族にはじめて会い、「少子化だから子どもは3人産まないと」と言われてくさくさしていた時期だった。
そうした中でわたしは会社の帰りに近くの図書館に寄って小説を書き始めた。その図書館は割と夜遅くまで開いており、本や新聞を読む人、参考書や専門の書籍を開く学生、資格の勉強をする会社員、と近隣の学校や企業に通っていること以外におそらく何の関係のない人々が集まっていた。仕事を終えて図書館で知らない人たちに挟まれて座り、2時間ほど架空の話を書いて地下鉄に乗るのが習慣になった。大学入試が近い時期などは席が埋まり、誰もいない児童書フロアに行って小さな席でPCを開いた。帰りは乗り換えをせずに済ませたいので、いつも21時11分発のJR直通の東西線だった。駅までは曲線を描く道のりで、ぎりぎりの時間まで書いて図書館を後にしては、暗闇でカーブを駆け抜けるタイムを何度か更新した。気づけば架空の話を書くことはわたしの生活の一部となっていた。小説の中では言葉が言葉を呼び、出来事が次の出来事を決定した。そこには仕事や家庭の問題など届かなかった。小説はわたしに明るく前向きに振舞うことも求めず、わかりやすさも早々に放棄させた。子どもを何人産めとか夫の名字にしろといった指示もしてこなかった。原稿用紙40枚くらいで終わると思っていた小説はいつのまにか200枚くらいになっていた。
言葉によって別の場所をつくることができる。そう気づいたときにそれまで自分を覆っていた息苦しさのようなものが薄まっていった。魔法のように一度でぱっと消えるわけではないが、それでも少しずつは薄くなる。その場所は架空のものであるが、あらゆる理不尽に侵犯されることなくわたしが書き続ける限りそこに存在し、ときに現実の何よりも力強い灯りとなった。そこではわたしは自由に呼吸をすることができた。
こうして小説を書くことは楽しくもある。ただ、その楽しさの前提には自由に呼吸ができる安堵がある。だから自分にとって小説を書くとは息苦しい世界でまずはきちんと呼吸をすることで、そして呼吸は必ずしも楽しさを伴うわけではない。楽しいから呼吸をするのではなく、必要だからそうしているだけに過ぎないのかもしれない。もしもこの先自分が小説を書き続けることができ、そして小説を書き始めたばかりの不安そうな誰かに「小説を書くのは楽しいですか?」と尋ねられることがあれば、「そんなに楽しくありません」と答えようと思う。