祝いと熊
-
『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。
先日、京都に行ってきた。河合隼雄物語賞の授賞式に参加するためだった。
授賞式当日は金曜日で、会社の仕事(雑誌の編集者をしています)の校了日だったので、どうしようかと迷って直属の上司にチャットをしたところ「おめでとうございます」とすぐに返信があり、前日までに必要な作業をしておけば当日の作業は代わってもらえることになった。ありがたい。
授賞式の翌日からは土日+海の日の3連休となっていたので、個人的に延泊して小旅行をすることにした。とはいえ、実際に宿泊の予約をしようとすると、海外からのインバウンド客が増え、祇園祭の期間中でもある京都のホテルはどこも今まであまり見たことのない金額になっており、あえてこんなに高い時期に泊まらなくても、とわたしは延泊に対して急に弱気になり出したが、夫が「せっかくだから楽しんでおいでよ。宿泊費は2人の貯金から出せばいいから」と背中を押してくれた。夫は授賞式当日に1泊したら、家で留守番をしている猫の世話のために先に戻るというのに。ありがたい。
こんなにありがたいのに、肝心のわたしは「おめでとう」と言われたときに、どうしていいのかわからない。子どものときから、自分は喜ぶのが下手だと思う。嬉しいな、とはもちろん思う。小説に関係することであれば、作品を書いていたときのことを思い出し、言葉がこぼれる。けれどそれらは頭の中に浮かぶ言葉で、傍から見ればわたしはただ口ごもり、じっとしている。誕生日なども特に何もしない。
今回の授賞の前に「おめでとう」とたくさん言われたのは、小説の新人賞を受賞したときだった。そのときはあまり期待し過ぎないように、と最終候補に残っていることはほとんど誰にも話さず、選考会の日も普段通り会社の仕事をし、予定の時間になっても電話が鳴らないのできっとだめなのだろうと思ったら連絡が来た。新型コロナの緊急事態宣言下ということで外食はせず、家で夫と魚の煮つけを食べた。お祝いっぽさを挙げるならば魚が日頃よく食卓にのぼる鮭や鰤ではなく銀だらだったことだが、銀だらはアメリカ産の冷凍のものでどうにも水っぽく、「せめて冷凍じゃない魚にすればよかったね」と夫が言った。
今回の受賞の連絡があった日は、受賞作の担当編集の方と自宅の近くの中華とワインのお店に行き、食事をした。冷凍した魚の煮つけと比べるとお祝いっぽさは格段にアップしている。お祝いのメールやお花をいただいたり、お茶や食事に誘ってもらう機会もあった。
そして授賞式の日は京都のホテルで選考委員や河合隼雄財団の方々、メディアの方々とお話をすることができた。お話ししていた方がかつて同じ場所にいたことが判明したり、以前取材してくださった記者の方が遠方から来られて再会したりと嬉しい時間となった。特に学芸賞を受賞された湯澤規子さんのスピーチがすばらしく、ぜひまたお目にかかることができれば、とお約束して別れた。
すごく嬉しい、とても楽しい、それにお祝いっぽい。
けれどわたしはわからない。自分をどう祝えばよいのか。
授賞式の翌日、一足早く東京に戻った夫を見送り、わたしは歩きながら自分の祝い方を考える。この日は編集の方が食事に誘ってくれていたが、思いのほか疲れていたので残念ながらお断りをし、市内を少しだけ歩くことにした。
自分で自分を愛する、自分で自分を褒める、というフレーズをよく目にするようになって久しい。自分の機嫌をとる、自分を祝福する、といったフレーズも。そりゃ大事だよね、と思う。人の気持ちがあまりにカジュアルに軽んじられる場面も多い中で、自分で自分を認めなくては毎日やってられない。
SNSで同様のフレーズやハッシュタグを検索すると、食べたものや買ったものと思しき画像が次々と出てきた。ケーキ、パフェ、お寿司、バッグ、コスメ、車。いいね、いいね。自分に花束を贈る、近場のちょっと高級なホテルに泊まってみる。いいね、いいね。
けれどわたしが気になっているのが、他の人たちがこうして目に見える形で示せる消費以外に、どのように自分を愛で、祝っているのかだった。ハッシュタグをたどっていくと「自分、えらい!」と声をかけたり自分の長所を挙げたりしている人もいるが、さらに辿っていくうちに自己啓発的なセミナーのURLが出てきた。資本主義に収斂されるのかとげんなりする。
結局人それぞれの景気に合わせて消費をするしかないんだろうか、と外食をする体力もなくなり、スーパーでその日の夕食を買いながら気づく。普段より少し高いお惣菜やデザート。これも「ご自愛消費」なんだろうか。
京都滞在の最終日は、市街地から少し離れて大原に行こうと決めていた。三千院の苔に覆われた庭が美しいと聞き、訪れてみたいと思っていた。バスに3、40分ほど乗ると、霧が立ち込める里山の風景が目に入り、やがて曲がりくねった道を上り始めた。朝市も見てみよう、とわたしは三千院の最寄りのバス停ではなく少し前で降り、小雨の中を歩いて三千院に向かった。
早朝のその道は、前にも後ろにも誰もいなかった。田畑や民家に囲まれた小道を一人で歩く。途中で小さな滝を見つけ、ふと思う。このあたりも熊出るかな。
京都市内なんだからさすがに出ないのでは? いや、出ないと思われていた場所にも出るようになっているから問題になんでしょう? と意見を往復させた後に、どうか出ませんように、とやや真剣に祈ってみる。痛そうだし、年末くらいにと約束している中編の準備も始めたいし、やっぱり今は熊に襲われたくないなと思い、そして考える。
華やかな祝宴の後の、一人きりの道のりで「熊が出ませんように」と生存の心配すること。過去に作ったものへの評価を、たくさんの祝福の言葉をそっと抽斗にしまい、これから作るもののためにまた一人でひっそりと準備を始めること。それは自分でするしかないことだった。誰かとのお祝いも好きだけれども、その後にやってくる静けさもわたしは好きだった。
自分を祝う方法はわからなくても、高いバッグや車を買うお金は今後あったりなかったりするだろうけど、自分を許せない日もあるだろうけれど、せめて自分は自分を見放さないようにしようと思った。早く帰ろう。夫と猫が待っている家に帰って次の小説の準備をしよう。
その日の午後4時過ぎの新幹線で、わたしは京都を発った。