40代持病まみれ
42歳で最初の単著単行本を出してから、4年のうちに30冊の単行本を出してきた横道誠さん。文学研究を専門とする大学教員で、自閉スペクトラム症(ASD)、ADHD(注意欠如多動症)、アルコール依存症の当事者として10種類の自助グループを主宰するその旺盛な活動力の秘密は、「いつ死んでも良いように」と40歳の時から「終活」を始めるようになったことにある。あまたの持病と戦いつつ執筆する横道さんの活動力の秘密はどこにあるのか? ノンフィクションとフィクションの垣根を越える、衝撃の当事者レポート。
第2回

あなたはもう悪夢を恐れなくていい

2025.06.23
40代持病まみれ
横道誠
  •  私は今回も、京都のとあるマンションに住む大学教員の横道誠さんを訪ねることにした。横道さんは自閉スペクトラム症(ASD)、ADHD、アルコール依存症、その他いくつもの持病や障害を抱え、そのセルフケアのために10種類の自助グループを運営しているという珍しい人だ。

     前回の取材後も彼のSNSには途切れることなく自助グループの活動報告、仕事の進捗状況についてのコメント、映画や本の感想、それから他愛ない生活記録などが投稿されつづけていた。Xのアカウントだけで10種類近く運用しているようだ。私は精神疾患の問題に詳しくないけれども、多重人格の当事者が交代で日記を綴っているかのような頻度と内容の多様さだなという印象を持った。いつしかそれらの投稿を読むのが私の日課になっていた。

     その日は小雨が降っていた。細かな霧のような雨が、さらさらと降りそそいでくるような具合だ。私は傘を持ってきていたものの、コンビニで買った白と透明のもので、安物だけあって小さい。それでなるべく雨に濡れないように体を小さく折りたたむような心持ちで傘の下に隠れ、道を歩いた。濡れたアスファルトの匂いと、遠くで鳴る車の走行音が、心をわずかに沈ませた。

     横道さんが住んでいるマンションに到着し、エレベーターで五階にあがる。ピンポーン。チャイムを押すと、前回と同じラフな部屋着の姿で横道さんが現れる。ヒゲが伸び放題になっている。私は失礼かと思いつつ、「だいぶヒゲが伸びておられますね」と指摘してみた。横道さんは「いやあ、お恥ずかしい。授業や自助グループがある日の前には剃るようにしてるんですが、しばしば忘れてしまいましたね」と答える。

     私が「そうなんですね。きっとお忙しいのでしょうね」と適当に相槌を打ったあと、「おあがりしてもよろしいでしょうか」と尋ねてみると、横道さんは「今日はちょっと、変わったところにご案内しようかと思いましてね」と答える。

     その言い方にはどこか芝居がかった調子があり、私は内心「そうそう、この人はこんな感じなんだよね」と思いだしながらも、好奇心がむくむくと湧きあがってくるのを押さえきれなかった。前回の取材でも思ったことだが、横道さんはただ奇抜なだけの人物ではない。彼の言葉には、なぜかこちらを引きずりこむ力がある。まるで、忘れていた何かを思い出させようとするような、古びたオルゴールの音のような引力が。

     横道さんはそのラフな格好のまま青いスニーカーを履いて、ドアに鍵をかけ、「さあ、行きましょう」と力強く言い、すぐ近くにあるエレベーターの前で待つ。私が「今日は雨ですから、傘などがあった方がいいですよ」と声をかけると、横道さんは笑いながら言った。「私は土砂降りでもなかなか傘を差さないほうでね。雨に濡れると快感を覚えるんですよ。梅雨や台風の季節には、全身ぐしょ濡れになって街中を歩いていることが、よくあります」

     「風邪をひいたりはしないんですか」と私が尋ねると、彼は肩をすくめて答えた。「ひきます。でも、それでいいんですよ。風邪というのは、一種のリセットなんです。日常から逃げるための合法的なトリップの方法。寝こむんだら、予定も人間関係もすべてがストップして、許される。その非日常の日々も好きなんです」

     私は「やはり変わった人だな」と思っていると、エレベーターがやってきた。横道さんは乗りこみながら「ふふふ」と笑って、「でもこれから行くところは外の世界ではありません。下の世界です」と発言する。「下の世界?」同じく乗りこんだ私が怪訝そうに訊きかえすと、横道さんは「まあまあ、たいしたことはありませんから」と言いながら、ポケットのなかから蜜柑をひとつ取りだして、皮を剥き、半分を口に頬張った。

     口のなかを蜜柑でいっぱいにしながら、私に「半分いりますか?」と尋ねてくるので、私は「結構です」と答える。すると横道さんは口のなかの蜜柑を急速に咀嚼して、残りの半分もまた頬張った。リスやハムスターの食事風景を連想してしまう。果汁の香りがエレベーターのなかに広がった。

     エレベーターは地下一階に到着した。薄暗い空間に車やバイクが並んでいて、出入り口のあたりが明るくなっている。横道さんがスタスタ歩いていく方向は、ごみ収集箇所だ。一般ゴミ、リサイクル用ゴミ、段ボール箱を潰して置くスペースなどに区分けされている。横道さんはその角まで行くと、「じつはここが隠し扉になっていましてね」と言いながら、ごく小さな穴に鍵をグサっと差しこんだ。横道さんがその鍵をひねるのを私はじっと見つめていると、横の壁から「バコッ」と音がして、人が通れるくらいのサイズの大きな穴が出現した。

     開いた穴の向こうからは、かすかに湿った土の匂いが漂ってきた。一体これはどういうことなんだ? 私は夢を見ているのだろうか。いま目の前で起きていることは、あきらかに現実味に欠けている。私は反射的にスマホを取りだして撮影しようとしたが、なぜか画面が真っ暗で、何も映らなかった。

     横道さんは自慢げに語る。「私には職場にあたる場所が三つありましたね。ふだんは自宅でリモートワークをしています。授業がある日などには勤め先の大学の研究室を利用しています。しかしもうひとつ秘密の職場があって、それがこの先にあるのですよ」。

     私は狐につままれたような気分で穴のなかに入った横道さんのあとを追う。それはどこまでも続く長い地下水路だった。ひんやりとした湿気が肌を撫でる。いったいどれだけ歩いたのか、時計を確認しなかったからわからない。地下鉄を駅ひとつぶんくらい歩いたような気さえするけれども、初めて歩く道は長く感じるから、実際にはもっとだいぶ短かったのかもしれない。ところどころに小さな電灯が光っていて、道に迷うことはない。地下水路の水はまさか飲めないだろうが、さいわいに下水ではないらしく、悪臭がするということもなかった。

     私は歩きながら、なぜこんな地下空間が存在するのか、管理は誰がしているのか、現実なのか妄想なのか、頭のなかで堂々巡りを始めていた。だが横道さんは、「これはごくありふれた日常の一部なんですよ」という雰囲気で、足取りも軽く先を進んでいく。

     やがて私たちは眩しい明かりに照らされた大きな建物に入った。職員らしき人々が何人もいるが、誰からも話しかけてこない。彼らの顔はどこかぼやけていて、目や口の位置が定まらず、まるで映像のピントがずれたように感じる。やはりこれは夢の世界ではないのか。横道さんは余裕そうに建物のなかを歩いていき、その突き当たりにある最奥の鉄扉を開けると、下に向かう階段を進んだ。コンクリートの冷たい階段が延々と下に向かって続いていた。

     くだりきった先には、大きな作業部屋が広がっていた。天井は高く、無数のパイプと配線が走っている。湿った空気の中に漂う、わずかに鉄と甘さの混ざったにおい。そこに、信じがたい光景があった。無数の緑色に光る人形たちが、一列になってベルトコンベアーの上で、流れるように出荷準備をされていたのだ。人形はすべて、横道さんにそっくりだった。ただし、半透明でゼリーのようにぷるぷると震えている。

     私は横道さんに尋ねた。「前回インタビューしたとき、横道さんが『毎日吐きだしている』と語ったあの物体たちですよね? ここに運びこまれ、加工されているということですか。そしてこれは出荷準備、でしょうか? だとしたら、どこかに出荷されるのですか?」

     横道さんは「そのとおりです。この分身たちは、私のトラウマの複製なんです」とつぶやくように語る。「私は発達障害の当事者として、人生をつうじていじめにあったり、仲間外れにされたりということを頻繁に経験しました。小学生の頃、宗教2世として教義にのっとった肉体的暴力の対象とされることも日常でした。記憶を辿れば、幼少期からずっと、私はずっと怖れてきたんです。誰かに拒まれること、見放されること、存在を否定されることを」

     彼の声は次第に低く、だが不思議な熱を帯びていった。「ところが数年前から、毎日のようにこの緑色に光る分身を吐くようになって、状況に変化が訪れました。どうやら吐くたびに、そのトラウマが消えていくのに気づいたのです。詳しい仕組みは私にも分かりませんが、こんなに何百回も吐いているということは、ひとつの分身がひとつのトラウマに対応しているのか、あるいはひとつの傷つき体験に対応しているのかもしれませんね」

     私は「なるほど。わかるようなわからないような話ではありますが、でもそれを加工して出荷しようとする意図はなんなのですか。そもそもさっきの地下水路やこの建物はなんなのですか。なぜこんなものが存在するのですか」

     横道さんは私の顔をちらっと見たあと、目を伏せて「あなたもとっくに気づきになっているでしょう」とつぶやいた。「これは私の夢のなかの世界なのですよ。私は昔から悪夢に怯えていました。特撮ヒーロー番組、アニメ、マンガ、映画などで衝撃的でホラーな場面が出てくると、それを夢に見て、うなされました。ですが、この緑色の分身を吐くようになってから、そういう不安がピタッと消えたのです。試しに残虐なホラー映画を何百本も観てみましたが、どれほど過激な残酷描写がされていようとも、怖く感じませんでした。緑色の分身を吐いて、それで終わりです。私の夢は、もう私を脅かさないのです」

     私はその説明を聞きながら、周囲の景色が少しずつ霞んでゆくような感覚を覚えた。まるで現実と夢の境界が、薄紙のように溶けていく。そして、横道さんがつぎに口にした言葉が釘のように心に打ちこまれた。横道さんは「そうやって生まれてきた緑色の分身を多くの人に食べてもらいたいと思うのは、人情というものじゃないでしょうか?」と言ったのだ。

     横道さんがベルトコンベアーのほうに歩いていくので、私は追いかけながら「わからない」と絶句した。「これが横道さんの夢なんですか? 私はどういう状況なんですか。私は覚醒した状態で横道さんの夢を現実として体験しているのですか? それとも私自身もどこかの段階で眠ってしまって、横道さんの夢を共有しているということですか? 何より、じぶんが吐きだしたものを食べてもらいたいのが人情だという理屈がわからない」

     横道さんはベルトコンベアーに載せられるのを待っているひとつの人形にそっと手を置いた。人形は緑色の燐光を放ちながら、ぷるぷると震えている。顔は確かに横道さんのそれだが、どこか幼いような、無垢を感じさせる表情をしている。

     横道さんはその人形の耳元に口を近づけ、囁くように言った。「行きなさい。『傷ついた私』たちよ。これを食べた人も恐怖と悪夢から逃れられるでしょう」。横道さんは私を見て言った。「味つけは吉備団子に似たものにしています。あのおいしいのかおいしくないのか微妙なあたりの味わいが風流だと思いましてね」

     私が何も言えないでいると、かすかな音色に気づいた。そうだ、この地下空間には、一定のリズムでオルゴールのような音楽が流れている。この曲はなんだろうか。どうしても思いだせない。その音に合わせて、光る人形たちがゆっくりと揺れている様は、まるで癒やしの儀式のように見えなくもない。

    「でもこれ、どこに向けて出荷されてるんですか?」私がそう尋ねると、横道さんはにやりと笑った。「全国の自助グループですよ。自助グループとは、参加者たちのトラウマを、ちょっとだけ預かってくれる場所なんです。吉備団子のように成形された私の分身たちを食べながら自助グループに参加することが、最近の当事者たちのあいだで、静かに流行しているんんですよ」

     思いがけないことに、その言葉を聞いたとき、私の両目から涙があふれてきそうになった。トラウマは、たしかに重い。だが、横道さんはそれを「怖れ」ではなく「仲間」に変えているのだ。恐怖から目を背けるのではなく、身体のなかに取りこんで、仲間と分かちあおうとしているのだ。

    「ところで」と横道さんが私をじっと見つめてきた。「あなたは、どんな悪夢を見るのですか?」

     私は一瞬、言葉に詰まった。夢のなかで何者かに追われながら、あるいは絶望的な拷問にさらされながら、悲鳴をあげて早く夢が覚めてほしいと願っているじぶんの姿が脳裏によぎった。その瞬間だった。目の前のゼリー状の人形たちのうちの一体が、ふわりとこちらを見た気がしたのだ。横道さんにそっくりな顔つきが緑色に輝いている。

     私はその日、どうやってじぶんの家に帰りつけたのか、記憶がすっぽりと抜けおちている。気づけば自宅の布団のなかで目を覚ましていた。ただひとつたしかなのは、目を開けた瞬間、枕元に甘い柑橘系の香りが残っていたこと。まるで、夢のなかで誰かが蜜柑を剥いていたような気がする。

     

42歳で最初の単著単行本を出してから、4年のうちに30冊の単行本を出してきた横道誠さん。文学研究を専門とする大学教員で、自閉スペクトラム症(ASD)、ADHD(注意欠如多動症)、アルコール依存症の当事者として10種類の自助グループを主宰するその旺盛な活動力の秘密は、「いつ死んでも良いように」と40歳の時から「終活」を始めるようになったことにある。あまたの持病と戦いつつ執筆する横道さんの活動力の秘密はどこにあるのか? ノンフィクションとフィクションの垣根を越える、衝撃の当事者レポート。
40代持病まみれ
横道誠
横道誠(よこみち・まこと)

京都府立大学准教授。専門は文学・当事者研究。さまざまな自助グループを主催し、「当事者仲間」との交流をおこなっている。著書は、最初の単著の単行本『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院、2021年5月)を出してから、現在(2025年5月)までの4年間で、単著と(自身が中心になって作った)編著・共著を合わせて30冊に達している。

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