第12回 「ブレグジットは富の配分の問題」と言った天才物理学者、ホーキング博士の最後の闘い

イギリスがEU離脱を決め、アメリカではトランプ大統領が誕生。今年、フランス大統領選、ドイツ連邦議会選など重要な選挙が行われる欧州では、「さらにヤバいことが起きる」との予測がまことしやかに囁かれる。はたして分断はより深刻化し、格差はさらに広がるのか? 勢力を拡大する右派に対し「レフト」の再生はあるのか? 在英歴20年、グラスルーツのパンク保育士が、EU離脱のプロセスが進むイギリス国内の状況を中心に、ヨーロッパの政治状況を地べたの視点からレポートする連載、その第12回。3月14日に76歳で亡くなった天才宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング博士。宇宙の真理を探究し続ける一方で、政治・経済の問題にも積極的にコミットする闘士だったことは、日本ではあまり知られていない。緊縮財政からNHS(無料国家医療制度)を守るために闘った最後の姿を伝える貴重なレポート。

「車いすの天才物理学者」スティーヴン・ホーキング博士がこの世を去った。宇宙創成の謎に挑み続けたホーキング博士は、「自分の病のために隔離された生活を送っているので、わたしの象牙の塔はどんどん高くなるように感じられます」と話したことがあった。

だが、彼は象牙の塔に閉じこもる学者ではなかった。ベトナム戦争に反対し、パレスチナ問題でも果敢に声を上げた。そして、2016年のEU離脱投票では、英国の科学の進歩のためにEUに留まるべきだと残留派としてキャンペーンに加わった。が、離脱派の勝利が確定したときには、「排外主義のせい」「レイシズムと右傾化が原因」とパニックする論調の中で、「ブレグジットを決めたクルーシャルな要因は経済だった」と冷静に分析した数少ない知識人の一人だった。

離脱投票の結果が出た5日後にホーキング博士はガーディアン紙に論考を寄稿していた。

国民投票に向けたキャンペーンで、わたしは英国がEUを離脱するのは過ちであると主張した。だからその結果には悲しみを感じている。だが、わたしが自分の人生から得た教訓は、自分の置かれた状況で精いっぱいやるということだ。我々はEUを離脱するのだ。だが、それを成功させるには、我々はなぜ英国の人々がその選択をしたのかということを理解しなければならない。わたしは、人々の選択において決定的な役割を果たしたのは、富の問題、つまり富をどう理解するかということ、そして富をいかに分配するかということだと確信している。https://www.theguardian.com/

宇宙の真理を探究し続けたホーキング博士は、しかし足元にある経済問題を卑小な問題とは思っていなかった。むしろ、お金は彼にとって非常にたいせつなものだと言っていた。最先端の医療技術の助けを借りて研究を続けたホーキング博士は「僕の場合には、マネーは僕のキャリアを可能にしただけでなく、文字通り、生存させてくれている」と書いていた。ホーキング博士にとって、お金は人間を解放し、自由にして、人生の選択肢を広げる「ファシリテーター」であり、何かを所有したり、資産を増やしたりするための「目的」ではなかった。

 重度の障碍を持つ人間として、自分のケアのために支払いをすることや仕事はとても重要だ。しかし、マネーで所有物を獲得することは重要ではない。例えば、もし買う余裕があったとして、サラブレッドの馬を手に入れても僕はそれで何をしたらいいかわからないし、フェラーリを買っても乗れない。https://www.theguardian.com/

マネーを生きるための「ファシリテーター」と認識していたホーキング博士だからこそ、「ファシリテーター」の助けを借りることのできない貧しい人々が、人生の選択肢を制限され、そのために感じているフラストレーションに敏感だった。ブレグジットの原因となったものは、不平等が引き起こす嫉妬や孤立主義であると彼は書いていた。富の狭い定義に基づく文化と、富を公平に分配できていない現実は、英国だけでなく、人類に深刻な危機をもたらすとホーキング博士は警告した。彼は、ブレグジット後の世界の鍵を握るのは経済だと認識していた。

我々は「富」や「所有物」、「私のものとあなたのもの」といった事柄が何を意味するのかというファンダメンタルな定義を適用しなおし、その問題に再び焦点をあてて、変化させる必要がある。子どもたちと同じように、我々はシェアすることを学ばなければならないのだ。https://www.theguardian.com/

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死の前の半年間、ホーキング博士は、英国の無料国家医療制度NHSを守るために闘っていた。ガーディアン紙への最後の博士の寄稿記事になったのは、昨年8月の「ジェレミー・ハント保健大臣はいくらでも僕を攻撃するがいい、だが、NHSが機能しているという彼は間違っている」という題名の記事だった。

保守党政権の緊縮財政による「資金不足と削減、サービスの民営化、公共セクターの賃金上限の設定、研修医の待遇の改悪、看護学生への奨学金の廃止」などがNHSを機能不全にしているとホーキング博士は記事中で痛烈に訴えた。

そして、「NHSは緊縮でも正常に機能している」と主張する保守党が、その主張の根拠に使っているデータが自分たちに都合のよいものばかりで、巧妙に選ばれた数字であることを指摘し、「科学者として、エビデンスを作為的に選ぶことは許容できない」と書いた。

地球を代表する頭脳と呼ばれたホーキング博士は、惑星レベルで物事を考える必要性を説き続けた。その彼が、NHSのような国家の医療制度に強い思い入れを持っていたのは不思議かもしれない。

だが、ホーキング博士は、病にかかったすべての人々を平等に無料で治療するNHSに人類の未来を見ていた。そして、彼自身、NHSがある英国でなければ存在できなかったということを繰り返し主張していた。

多くの人々のように、わたしも個人的なNHS体験がある。僕の場合、医療ケアと私生活、科学者としての生活はすべて繋がっている。わたしはNHSから質の高い治療を受けてきた。NHSのサービスがなければ、今日の僕はいなかった。https://www.theguardian.com/

ホーキング博士は、NHSが民営化で解体されて、グローバル企業が利潤追求目的でそれを買収し、米国のような医療システムに変えてしまうのを怖れていた。

昨年12月には、NHSの分割民営化をさらに進めるための改革案を違法として法的な訴えを起こすと発表し、NHS民営化反対運動の活動家たちとともに闘っていた。この提訴には、ケン・ローチやジョナサン・プライス、リチャード・エアーらも賛同の意を示す手紙を発表していた。

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ガーディアン紙のコラムニスト、ゾーイ・ウィリアムズは、ホーキング博士が緊縮財政の時代に若者だったとしたら、ぜったいに芽を出すことはできなかったと書いている。

もしも2018年の現在に、22歳の学生としてホーキング博士が筋萎縮性側索硬化症(ALS)の診断を受けたら、まず悪名高きパーソナル・インディペンデント・ペイメント(PIP)検査を受けることになる。約100万人の障碍者生活手当受給者がPIP検査を受けさせられ、そのうち約半数が手当を減額または停止されている。この検査には間違いが多く、然るべき手続きを踏んで公式に抗議した人々の69%が、不当な判断を下されていたという結果が出ている。よしんば検査をパスして生活手当の受給を受けたとしても、現在のように極限まで減額されている状況では、コンピューターどころか本を買うのも難しいだろう。

さらに、介護の問題がある。地方自治体が障碍者や老人の介護予算を削りまくっている現在、複数の障碍者が一人の介護者をシェアしているという状況も珍しくなく、現代なら一対一でケアを受けながら研究に没頭することはできなかったろう。また、現在ではNHSの医師から車椅子が必要と診断された人々の四分の一が、それすら与えられずに待たされている状態だという。ホーキング博士の研究作業を可能にした他の機器も、現在の状況ではとても手配をNHSに期待することはできない。

つまり、いま天才的頭脳を持つ若者が英国のどこかにいたとしても、もし彼か彼女が障碍を持っていれば、これだけの難関を乗り越えなければ第二のホーキング博士にはなれない。

ホーキング博士は、英国が「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会だった時代に育った自分の幸運を身を持って知っていた。だからこそ、その名残りであるNHSを「社会の礎石」と呼んでいたのだろうし、それを切り刻んで行く緊縮政治を許さなかったのだ。

不平等な社会で人々が未来の可能性を制限されれば、それは他者への憎悪や分断を作り出し、ネガティブなエネルギーを生み出す。富の分配の問題が解決されなければ、それは強まるばかりだろうとホーキング博士は警告した。

だが、彼は「時代の終焉」や「システムの滅亡」を提唱して末法思想的な論調を煽る識者ではなかった。ホーキング博士はオプティミストだったのである。ブレグジット投票の直後でさえ、彼は人類の未来についてこう力強く語っていた。

しかし、我々は成功できるし、成功するだろう。人類は困難解決能力に優れ、オプティミスティックで、順応性が高い。我々は富の定義に、知識、天然資源、人的能力を含めてより広義に拡大し、同時に、それら一つ一つをもっと公平にシェアしなければならない。そうすれば、我々人類が共に達成できることは無限である。https://www.theguardian.com/

Profile

1965年、福岡県福岡市生まれ。1996年から英国ブライトン在住。保育士、ライター。著書に『労働者階級の反乱──地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書)、『花の命はノー・フューチャー』(ちくま文庫)、『いまモリッシーを聴くということ』(Pヴァイン)
、『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)、『THIS IS JAPAN──英国保育士が見た日本』(太田出版)、『ヨーロッパ・コーリング──地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)など。『子どもたちの階級闘争』で第16回 新潮ドキュメント賞受賞。