第7回 繭のなかから世界を眺める

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

ひきこもりは「日本の文化」なのでしょうか。日本を象徴するKaroshiと並んで、アルファベットのHikikomoriのまま通用する言葉となったいまでは、そうもいえるでしょう。イギリスにしばし滞在していた時、プレゼンテーションの練習としてHikikomoriについて紹介したことがありました。世界各国から来ている仲間から質問攻めにあいました。とにかく不思議なんだそうです。「家の中にこもってるなんてつまらないことに、なんで彼らは耐えられるんだ?」という疑問。確かにもっともですよね。「若い男性が家族としか顔をつきあわせない生活してるなんてありえない!」というわけです。いじめなどの影響についても説明すると、「いじめはあるけれども、ひきこもりは自分の国では聞いたことがない」、と異口同音に皆言うのです。最近でこそ、やはりマンマのいる国イタリアでもHikikomoriがいると話題のようです。母と息子の甘美な世界がひきこもりを生んでいる素地となっているなら、このニッポン論としては考えてみる価値ある現象でしょう。

ひきこもっているのはどういう人か

いわゆるひきこもりと推定される15歳から39歳は、内閣府(平成28年若者の生活に関する調査報告書)による推計でおよそ54万人。また、「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」によると40歳以上のひきこもりが16万人といわれます。だいたいあわせて70万人という数字は、少し前の別の調査による推計と同じくらいなので、かなり信頼できると思います。生産年齢人口の100人に1人ほどの割合で成人がひきこもっている社会なのです。誰にとっても、身近にひきこもっている知り合いが1人か2人いるのは、当たりまえでしょう。

この調査から「広義のひきこもり群」の特徴をみておきましょう。まず、男性が女性の2倍となっています。暮らし向きについて上中下のうち、下と答えている人の割合は2割を超えていています。「一般群」の暮らし向きは下が1割にとどまっているので、やや低めの割合が高いようです。子どもの頃に習い事やスポーツ活動をした経験が少なかったり、親とあまり話せなかったなど、幼い頃の家族生活には特徴がみられます。平成22年の調査にはみられた「親が過保護だった」という傾向はなくなりました。(もしかすると、みんなが過保護な時代になったという意味かもしれませんが。)親の育てかたというよりも、家族の関係性にやや特徴がみられます。あまり喋らず仲が良いとはいえない家族関係の割合が、ひきこもり群ではすこしだけ多めです。

私が興味を惹かれたのは、「仕事をしなくても生活できるのならば、仕事はしたくない」という質問への答えの割合が、一般の人と全く変わらないところです。世間一般でも、半数程度の人は「仕事はしたくない」と答えます。それでも、一般の人は、仕事または家事・育児をしているのです。「世間を理不尽だ」と思っている割合も同じです。意識の上ではなんら差はないのに、行動には雲泥の差が現れていることがわかります。

ところで、ひきこもりの人には、仕事のみならず家事・育児をしていると答えた人は1人もいませんでした。有償/無償を問わずに労働から退却しているのです。そして、なぜかひきこもり群には「新聞を読む」人が多い。テレビでなく、本でもなく、インターネットでもなく、新聞だけ一般の人より読む割合が2倍も高いのです。SNSで社会とつながる傾向も低く、直接の生身の人間とも交流がないなかで、現代社会を新聞という媒体からみているとしたら、かなり奇妙な世界観にひたってしまわないでしょうか。

このひきこもっている人像をまとめると、なんだかどこにでもいそうな「定年退職したお父さん」の生活イメージのようです。年長の男性とやや年若な男性2人を世話しているお母さんのいる家族が目に浮かんできます。全国津々浦々にいるいたって普通の家族の風景。ひきこもりは誰にでも起きうる、といわれることがあるのも納得です。

労働からの退却としてのひきこもり

もしかすると日本発で世界の共通語になってしまったKaroshiとHikikomoriは、現代ニッポンを象徴する社会現象の合わせ鏡ではないでしょうか。過労死は労働への徹底的な没入であり、ひきこもりは労働からの完全なる退却なのですから。

もちろん私は労働とはお金を稼ぐものだけだとは考えていません。じつは仕事や家事や育児などをあわせて総労働時間として国別平均すると、世界で最も働き者なのは子どもを持って共働きをしている日本女性です。つまり、「働きバチ」という言葉は日本女性のためにあるともいえます。安倍政権の「女性活躍」推進政策で、女性の過労死が増えるのではないかと真面目に危惧しているところです。女性の労働力率が、子どもがいる人では子どもが幼い頃には低めで、また管理職につく女性が少ないのは事実ですが、すでに労働時間を国際比較すると、睡眠時間を削ってまで家事も仕事も多くやっているのが日本女性なのです。よく労働力率が低めであることをもってして、「まだまだ女性は働ける」と主張されている方がいますが、もう勘弁してください。女性はもっと「よい仕事」に移る気はありますが、時間がありあまっているわけではないのです。

つまり、ひきこもりの子どもを支えているのは、金銭的にみれば父親かもしれませんが、時間的にはたいてい仕事も家事もやっている母親でしょう。ひきこもっている息子たちは父親みたいになりたくないけれども、かといって家事を手伝う人になることも忌避しているのです。労働から完全に退却しているという徹底ぶりを感じます。みんな働き方について悩むなかで、一部の人は過労で倒れるまで働いてしまう。働きすぎは後ろ指をさされなくてすむかもしれませんが命を捧げては元も子もありません。

職場に没入する働き方になじめずひきこもった人は、ある意味自分の身を守る防衛力が働いたと考えることもできるでしょう。それに、ひきこもっている人の半数以上は働いた経験があるのです。過労死しそうになるまで働かされたあげく、労働から退却している人も多いのです。平均的な人がブツブツいいながらも、うまくやり過ごしながら長時間労働に耐えているとするなら、彼/彼女たちは真面目だからこそ続けられなかったのでしょう。超長時間働いている人と働くのを完全にやめた人。この不具合なバランスを放置したらニッポンの不幸の総和は高どまりします。きっとKaroshiするほどまでに働く人がいなくなったときに、Hikikomoriもいなくなるのではないでしょうか。

専門家の出している本では、こんな考えは見当たらなかったのですが、元ひきこもり当事者でその後脱出して正社員になったKJ氏の「超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法!ちゃんと解説編」には、はっきり書かれていました[1]超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!。「ひきこもり・ニート時代と正社員の俺はどちらも同じダメ男であることにかわりない」とKJ氏は説明します。ひきこもり・ニートになっている人というのは、親たちが代々引き受けてきた「真面目に働けば報われる」的な「絶対的価値観」による洗脳のもとにすごしている人が、子どもの代になって、ついにうまくいかない限界点に達しただけであると、彼は冷徹にとらえます。ひきこもり・ニートも正社員も、家族や社会の古びてしまった「絶対的価値観」に洗脳されてる状況は同じだというのです。

学生時代サボってたやつの方が矛盾なく社会生活に溶け込んでいるという矛盾。

真面目な我が子が挫折するという必然。
真面目にやってきた自分が子供一人を上手く社会に出すことすらできない現実。
それなのに親が求めるのは「サラリー」。

(出典:超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!その2「サラリーとは奴隷がもらうもの」)

その結果、ひきこもり・ニートからの脱出法は、超非常識なアドバイスとなります。

「他人の意見によってわけのわからないまま、自分を出さずに流されることを心がける」

そう気づいて洗脳からとけたから、彼は脱出できたのでしょう。そう、この人生訓は繰り返し述べてきたように、母の自己犠牲のもとに期待を背負わされているニッポンの「立派な息子」と「ふがいない息子」への2極化へとなめらかに通じる道を思わせます。「立派な息子」になるはずであったのに、どこかで歯車がズレてしまった「ふがいない息子」の象徴ともいえる存在が、ひきこもりなのです。だから彼/彼女らは「立派に」働けないくらいなら、一切労働から退却する道を選ぶのです。

世間では「働かなさすぎる人」の問題は家族の問題にされがちで、「働きすぎる人」のことは職場の問題になります。死に至るほどでなければ、そもそも問題になどならずに働く人は世間で賞賛されます。母親に、家族に、そして社会に、労働してこその人間、という価値は誠に根深いものがありそうです。

失望を埋めるきょうだいの悲哀

ひきこもる人には男性が多いことははっきりしています。そして、一般的には長男が目立つと言われています。女性であれば長女。それが意味するところはイエの論理から理解できるでしょう。あと継ぎにかかるプレッシャーという問題です。次、三男は引き継ぐイエは与えられない分、どこにいこうと自由ですし、男子の後継ぎがいれば女性は結婚して他人のイエに所属する。法の条文にはない観念はいまもニッポン人の頭にしっかり存在しています。

ひきこもっている人にはいろいろなタイプがいることは承知しています。しかし、兄弟がいても全員がひきこもることは稀です。むしろきょうだいの1人がひきこもると、他のきょうだいがさらに頑張ろうとする事例を見かけます。もうそれは、無意識のレベルなのでしょう。それが後には一見元気であったきょうだいの精神を蝕んでしまうこともあります。Hikikomoriを生みやすいニッポンの価値観のもう一方の極がKaroshiであるなら、同じ家族に働き者と働かない人がいてもおかしくはないのですが。

でも、きょうだいがひきこもることで、親に余分な期待をかけられてしまうとじつに迷惑な話です。

ところで、イエの論理がもたらすひきこもりについて、多くの論者が語ってきました。マイケル・ジーレンジガーは河合隼雄に尋ねながら、「イエ」と「家族」、そして母と息子の関係について容赦ない考察を加えました[2]マイケル・ジーレンジガー,2007,ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか,光文社.。戦後の米軍占領下で、アメリカ人が封建的と考えるイエの法的地位は改められたが概念は放棄されず、ニッポン人は所属する企業や集団をイエとみなすようになったと述べています。対話のなかで河合がはっきり指摘したのは「アメリカ人にとっての神が、日本人にとってのイエ」であるという状況にかわってどう個人を確立できるのか、という悩ましい課題です。

伝統的なイエが失われてしまい、イエの存続が個人のよき生よりも優先されている社会で、家族はどういう場所になるのでしょうか。私はイエになってしまった会社を木にたとえるなら、家族はその枝葉になってしまおうとしたと回顧します。枝についている葉っぱを家族を構成する個人にたとえてもよいでしょう。懸命に日々の光合成をして(働いて)木を存続させてきたのが、戦後日本の家族と会社の関係です。しかし、木は水が足りずに枯れそうになると枝葉を枯らして生き延びようとすることもあります。個人も家族も木についた枝葉のようにいとも簡単に捨てられてしまうときがあります。そのときに切り捨てられないよう、献身的に働く人の一部が耐えられず過労で亡くなっていきます。切り捨てられる前に落ち葉として自ら離れていった人、がひきこもりなのかもしれません。

幽閉としてのひきこもり

ひきこもりという言葉からは、子どもの側からの自発的な行動によるものという印象を受けます。けれども、それならばなぜ「ひきこもりからの脱出」などという言い回しがネットにあふれるのでしょう。母親の胎内からの脱出として比喩的に語られたりもするのですが。いったい彼らはどこから脱出するのでしょう。ここに、あまり語られない真実へのヒントが隠れているかもしれません。

もしや彼らは母親からのみえない糸でぐるぐる巻きにされ、繭のなかに閉じ込められているとしたら。かたちのない精神の檻のなかに幽閉されているのなら、まさに人間は最後の抵抗のために暴力にも訴えるしかないでしょう。でも、暴れてもみえない糸は絡みつくばかりでなかなかほどけない。父親の不在と母子密着というセットは、ニッポン中にあふれていますが、皆がひきこもるわけではありません。良妻賢母で優しい両親のもとに育った人が多いとか、一家団欒がない、とか書いてある場合も多いのですが、それはよくあるニッポンの家族の姿です。がんらい家族療法に関心の低かったという斉藤環氏は、ひきこもりの原因を個人の気質や単純な心因にもとめるにつれ、「家族の、両親の問題が前景化してきた」といいます[3]斉藤環,2016,ひきこもり文化論,ちくま学芸文庫.けれども彼は、その家族問題が多くは「父親の不在と母親の過保護」といったありふれた存在の指摘にしかなりえていないと正しく指摘したあと、困惑しているように感じます。

では、ひきこもっている人はみえない糸で親に幽閉されている特殊な場合と考えてみたらどうでしょう。紙一重の事件はこの間寝屋川でおきたばかりの、両親に15年間閉じ込められていた女性となります。鬼畜のような仕業にみえますけれども、物理的に閉じ込める虐待と、精神的にひきこもる幽閉は家族の殻が閉じられている、あるいは閉じさせられている状況としては共通です。突然子どもがひきこもってしまったとしましょう。そのとき、子どもにご飯をずっとあげて身の回りの世話をする親切な人がひきこもりの親となり、子どもを最終的に放置したり、質の低い環境下で幽閉した人が虐待と認定されて保護責任者遺棄で罪に問われたりするのではないでしょうか。その前に、父親が家族をおいて逃走してしまう場合もあります。結果的にとり残された実母が子どもの虐待当事者になることが多いように、不在の父のあと子育てをすべて引き受けている母が過保護過干渉とみなされる立場におかれて叩かれやすくなります。たとえ虐待をしていたとしても、子どもと引き離されるのは嫌がる母親のように、ひきこもる子どもが自分の実存と関わっている母親も命がけとなります。だからこそ献身的にまさに死の瞬間まで子どもを世話しつづけるでしょう。

ひきこもりの子どもがいる親はどうして優しく親切なのだろうと思っていました。公園で古くなった遊具を真っ先にチェックして「この公園は危ないから子どもを遊ばせちゃダメだよ」と教えてくれたりような人です。実際ニッポン全体が優しさと親切のかたまりのようでもあります。現代ではあらゆる貯水池の周りに子どもが入り込まないよう柵があり、もしそこで事故があったら管理が悪いと責任が問われるのですし、電車を降りようとすれば「雨の日は傘のお忘れ物が多くなっています。今一度ご確認ください」とアナウンスされます。いまでさえ、私の母は一緒に喫茶店を出るときに、「傘持った?」と声をかけてくるので、自分も情けない存在だと感じさせられるのです。老親よりも背が高い成年の息子を前にして、つい棚の上にあるものを「私がとってあげようか」と言ってしまいそうになると母はいうのです。ニッポン人は何歳になっても大きな子どもとして親に扱われます。それは人の自信を揺るがせる魔法をかける仕組みでもあります。

一つの殻のなかに入っている母と子のうち、状況が許す家でみられる子どもの現象がひきこもり。一歩まちがえるならば、幽閉されてご飯がもらえない虐待となりうるわけです。ひきこもりの親が親切そうにみえたのは原因ではなくて結果にすぎなのです。

ひきこもりと家庭内暴力は切り離せない存在であるのも、人間存在の自由をかけた戦いであるとするなら当たり前です。家族という檻の中に閉じ込められていく危険な状況からは、誰か外の人に手伝ってもらって脱出をするしかないでしょう。だから、「脱出」という言葉で正しいのです。それなのに、世間には家庭を支援するといいながら家族という檻をより強固にする言葉が溢れつづけています。幽閉されているひきこもりは、自力で檻を壊して脱出していくか、他人が家族というカプセルに穴を開けて壊し救出するほかには方法はないでしょう。

真空の家族関係を埋めるひきこもり

ところで、なぜ親はときに子どもを幽閉しようとするのでしょう。その理由を考えてみましょう。

近代社会になって、家族は愛情を育む場所になったといわれます。けれども、どちらかというと結婚関係が経済的な安定を優先した家どうしの結びつきであったりする傾向はいまでも残っているニッポンでは、感情のもちこまれない家族はめずらしくありません。そういう家族は伝統的なイエなるものに近い存在として続いたタイプだと私は考えています。イエはもともと農家や商家など家業を持ち、一家で働く場所として存続してきました。いわゆる自営業的なイエでは、夫婦は役割を分業しながら家族という場で労働をとおして密接につながっています。感情的なつながりは必要でなく、黙々と互いに働いて過ごします。そこに子どもが生まれるとどうなるか。職場で育児をするような家族となるでしょう。もともと家族は情愛の場でないために子どもと感情を共有する習慣はさほど一般的ではありません。恋だの愛だのといったやっかいな感情は家庭の外に置いておく。その方がおイエは繁盛するでしょう。一世代前まではイエに労働があったのでこの感覚でも問題はありませんでした。子どもは家業を次ぐ存在として育てればいいのですから、家から脱出させる教育は必要ありません。イエの論理からみて、外に子どもが去っていかないひきこもりはある点では、日本の伝統的な家族観のもとで成長させられた姿なのだともいえるでしょう。

しかし、イエから労働を取り去ってしまった現代の社会ではどうなるかというと、ポッカリと空いた子ども部屋のように寂しい夫婦関係が残るだけでしょう。子どもはまさに鎹(かすがい)以上の存在となっています。感情が行き交うことなく、寝て起きて食べて仕事にいく。日々の労働再生産という機能がひたすら繰り返される家族。職場のほうがよほどみんなで飲み会をしたり、時には家族の愚痴をいったり和気あいあいとしていたりします。そっちが本来のイエになってしまったのですから。

その寂しさを紛らわす職場などの共同体が外にはみあたらない母親が、時に息子を見えない糸で幽閉してしまうのです。母親は困っているといいながらも、甘美な日々を味わっていることでしょう。世間は世話をしつづけるやさしい母に同情することはあっても、幽閉したとはいいません。夫は(つまり父親は)息子が妻の寂しさを埋めてくれて、心の奥底ではほっとしているでしょう。息子は身動きの取れない息苦しさを抱えながらも、繭のなかにいる心地よい時間を取り戻し、世間の荒波には出たくないでしょう。安定した母子カプセルができると、それを壊す原因が外からやってくるまでは、そう簡単に解体できません。イエの労働がなくなった家族の真空を「ひきこもり」、という新たな存在が埋めてくれたのですから。

繭からでる季節がやってくる

春が近づいています。ひきこもりの皆さんもそろそろ繭にくるまっていられる、あるいは閉じ込められている長かった季節が終わろうとしているかもしれません。

ニッポンの生産年齢人口の劇的な減少は、頭も体も労働するに差し支えのない100人に1人もの成人を放っておいてはくれません。資本主義が人手を必要とする限りにおいて、政府はその供給のためにあらゆる手を尽くすでしょう。まずは母親たちが人手として駆り出されて、もう寂しさのために息子たちを幽閉しておく必要も時間的余裕もなくなってきました。それに、他にも楽しみのたくさんある社会で、息子を家に飼っておくなんて面倒なことに忍耐できる女性が、そもそも減っています。繰り返し述べてきたように、次世代の母となる娘には、そんな忍耐強い母親になるような教育をしていないのですから。逆にいうと、夫より先に逃走してしまう離婚や、夫へのDVやネグレクトや子どもを追い出してしまうような虐待が増えていくでしょう。

たとえ「日本の文化」になってしまっていようと、KaroshiとHikikomoriを同時に減らすために法制度を変える方法はいくらでもあります。ほどよく働いた人がほどよく暮らせるように守られればよいのです。家事や育児をふくめた労働の果実が、回り回って会社や政治家の「お友だち」のところに死蔵されずに、人々のふところにちゃんと届くように。

母と息子の関係が変化するとき、ついに労働のシステムにも波が到達するでしょう。ただ流されていく働き方だけではなく、時に立ち止まりながら働けるような仕組みが模索されなくてはなりません。どちらが先になるのかわかりませんが、この道では続かないことを、私たちは身をもって知っているのですから。

1 超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!
2 マイケル・ジーレンジガー,2007,ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか,光文社.
3 斉藤環,2016,ひきこもり文化論,ちくま学芸文庫.

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。