第4回 イギリスに「いい息子」はいない?

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

「いい子ってなんだ」

この夏は研究のためにイギリスに滞在しています。といっても家族の日常生活を見聞きする旅なので、観光とは無縁な場所に出没。これまで、どちらかといえば日本と欧米の家族のあり方を資料やデータで比較する研究は重ねてきたのですが、この夏はインタビューや観察調査の研究をしています。
この調査旅行の道中、あらためてふと湧き上がったのがイギリスには「いい子」っているんだろうか、という素朴な疑問です。昔はいるに決まってる、とあたりまえに感じていました。もう一昔前に、『イギリスのいい子日本のいい子』[1]佐藤淑子,2001,イギリスのいい子日本のいい子:自己主張とがまんの教育学、中公新書という本にずいぶん感銘を受けて熟読した記憶もあります。日本の子どもは自己主張すべきところでできずに、自己抑制を求められて育ち、イギリスの子は自己主張しつつ自己抑制できるよう育てられると、この本では主張されていました。その説にとても納得していたのに、ちょっと待てよ、と感じ始めてしまったのです。というわけで、今回はそもそも「いい息子」ってなんなのか、というあたりから考えてみます。

そういえば、すっかりハマって繰り返し聞いてるラッパーのSALUの「堕天使パジャマ」という曲には、こんな歌詞がでてきます。

「いい子にしてな」
 「いい子ってなんだ」
 「そうやって難しく考えなさんな」

ニッポン人にとって、「いい子」ってものすごく馴染むフレーズですよね。でも英語的に考えると、とても奇妙なことになる。Good kid ? うーん、ヘンだよな。何がいいの?って言われちゃいそう。Nice guyとはいうけれど、それってママがいうわけじゃない。
「あいついいヤツだよな」って仲間でいう言い方は英語にもあるけれど。「いい子」って、基本的にはお母さんとかおばあちゃんとか、保育園や幼稚園の先生とか。どちらかというと、大人の女から上から目線で子どもが言われる時にぴったりくる言葉なんですよね。「いい子」の中身は大人にとって都合がいい、どちらかといえばおとな(大人!)しく素直にいうことを聞く子どものイメージが浮かんでくる。だから、「いい子ってなに?」と聞いたり口答えする子なんて、もってのほかの悪い子になります。

私は子どもの頃からイギリス児童文学好きなので、ハリーポッターは日本語訳が待ちきれず一部理解しきれないまま英語で読んでいたのですが、強烈に印象に残っているのはハリーが先生のいうことを聞かないヤツだった、という設定でした。ハリー・ポッターはウィーズリー家の双子のような悪ガキではないけれども、「いい子」とはいえない気がします。でも、結果的にはハリーはすごいヤツ、なわけで。先生のいうことを聞かない子どもの逸話がハリーのシリーズには溢れている。

 

イギリスの男の子は父とすごす

ここしばらく、イギリスでいろんな家に出入りしていると、ゲストをホストしてくれる人は男性であることがとても多いのです。日本だと平日はたいてい父親不在なので、平日の夕方に男性に会うことはほとんどありません。でも、イギリスでは夕食に父親がいるのが普通です。この夏の国際生活時間学会でも、日本では、子どもがいる家族が共に食事をしなくなっていると報告すると、欧米では逆で、家族がそろうようになっているとコメントされました。お父さんは仕事が忙しくてなかなか早く帰れない、と話すと100%、「どうして?」と聞き返される。なんのために家族で暮らしているのか、と理解に苦しまれてしまう。対面して話していっしょに時間を過ごさないと家族生活をしている意味がないとみんな感じるようです。日本人の長時間労働についてBBCの特集番組見たから知っている、と街のランドリーショップの店員さんに同情される。あまりにも有名な働きすぎの日本人。

イギリスでは、父親は休日に子育てに参加します。土曜日の朝に息子のサッカークラブの練習があると、いつも父が送っていき、そのまま見学をして帰って来るから、母親がサッカークラブに行くことは、めったにないそうです。サッカーは父の趣味を兼ねた子育てになっています。もちろんクラブから母親が手伝うことも求められていない。これなら共働きで忙しいからと、サッカークラブに子どもが入ることを諦めなくてもよさそうです。でも、平日は毎日夜遅くまで仕事して疲れて帰ってくる日本の父親に、週末の早朝子どもと外出して、といったら確かに酷ですよ。がんばって起きて子どもを連れて行く日本のお父さんも数多くいるのは知っていますけれど。イギリスのように、前の日の帰宅が夕方6時なら、翌朝8時に連れて行けるでしょう。日本では平日の労働があまりに過酷なので、土曜は1日朝から家でゴロゴロしている父親などめずらしくなかったけれども、イギリスだとそういう父親の話は全く耳に入ってきません。父が同居しているならば、子どもと過ごしている時間も長いのです。もちろんこちらはシングルマザーも多いけど、一緒に子どもと過ごしてくれる男性の友達がいたりする。日本のように父は一緒に住んでいるけれどもいつも不在、というとてもよくあるタイプの隠れシングルマザー状態にはなりにくいのです。

そうなると、父親が不在であるがゆえ、母親との長く濃い時間がえんえんと続く日本のような状況はあまり生じません。母親と息子の近しい期間はわりと儚くも短い。そのかわりに、様々な「父と子の物語」が成立する。ハリーポッターシリーズ最終巻のあとに出版されて話題となった『ハリー・ポッターと呪いの子』は、まさにハリーポッターが父となったあとの子どもとの葛藤と和解のストーリー。母親はあくまで登場人物の添え物にすぎません。もしもハリーポッターが日本にいる設定だったら、そのような描き方はできないでしょう。ハリーが勤めているのは魔法省の役人という設定なので、中央官庁の官僚でしょう。日本なら毎日終電前にやっと帰る、みたいな職場。家に父が不在だと会話の描写場面も成り立たない。「母と息子のイギリス論」を書くとなると、逆にあっさりした綺麗な関係しか描けなさそう。

「孝行息子」の集合意識

あっさりして終わっても困る、というわけで、母からみてニッポンとイギリスの息子はどこが違うんだろうという目線で考えてみます。日本で大人になった「いい息子」のイメージを考えてみると、「孝行息子」がぴったりくる。すこし昔であれば稼ぎを得て結婚し、老いた親の面倒を嫁にみてもらっていたでしょう。いまなら嫁ではなく介護サービスの手を借りながら自らも世話をかってでる。そのための努力を惜しまないといったところでしょうか。お金を送金するというだけでは、なにか「孝行息子」になるには足りない感じがします。やっぱり直接対面したり、接触を持ちながら常に気にかけて世話をしなければ、孝行息子とは呼ばれないかもしれない。となると同居したり、できなくても少しでも近くに住んで世話をする関係が維持できたら「いい息子」になれる。

ところが地方出身だと、母親が期待する「立派な息子」は、稼ぎがよい職業につくので、都会に出てしまう。そして息子の住まいが遠くに離れてしまいがち。遠距離でも足繁く通わないと孝行息子らしくはならない。少なくとも盆暮れには孫の顔をみせに連れていかないといけない。息子のうち1人(だいたい末っ子)がそばにいて世話していても気持ちが満たされず、「長男よ、いつ帰ってくるのか」と待ち望んでいるままに、人生が過ぎていく人もめずらしくありません。墓を誰が継ぐのかという悩みも絡んできます。
いま、季節はちょうどお盆なのでした。なんとお盆というものの始まりは、釈迦の弟子の目連が自分の母が亡くなったあと餓鬼道に落ちていることを嘆き、釈迦にどうすれば母が救えるのか尋ねたところからきているそうです。先祖を供養する行為とは広く他人に食物をほどこすと、母親が救われるからなのです。ニッポンのお盆には成り立ちからして、母と息子の濃い関係性が埋め込まれています。「孝行息子」は親がなくなったあとも墓に通い、先祖を供養しつづけなくてはならない。これをニッポンを社会として成り立たせている集合意識(デュルケム)とみなさずして、ほかに何があるというのでしょう。

 

男の子を甘やかすアジア系の母親

では、イギリスで男の子はどんな育てられ方をしているのでしょう。女の子と違うのでしょうか。30年にわたりロンドンの小学校で家族援助に携わってきた知人に聞いてみました。彼女は多様な人種が暮らす地区にいるのですが、アジア系、そしてとりわけアラブ系の母親には、男の子に対する特別な甘さがあるといいます。やはり、ブリトン系白人母の方が、息子と娘に比較的平等に接するそうです。アラブ系の母親は息子をいつまでも「もう、ダメな子ねえ」というような扱いをするというのです。逆に女の子にはあれこれ手伝わせたりするので、しっかりするとか。悲しいかなアジア系の男女不平等源泉はここにあり、かも。英語的にはスポイルされた、というでしょう。
それでどうなるかというと、男の子のほうが自信のなさげな子になりがちだそうです。でも、ママからすれば「いい子」でもありますよね。大人しくて、きっと将来も母親を大切にしてくれるはずの優しい子。日本のママたちが口にするのは、「息子に彼女ができて、ちょっと寂しい」。まして結婚なんかしたら、「とっても寂しい」。まさに恋人を取られてしまったかのようなセリフが次々に出てくるのですが、イギリスではまず聞かない。素直に本気で喜んでいる印象しかない。息子たちがティーンエイジャーになって、自分と過ごしてくれない、と嘆いている母にときおり出会うと、やはりアジア系のルーツを持っていたりします。

ところで、男の子には幼い頃から一段階厳しい教えが課せられています。それは、よくもわるくも「紳士たれ」(ジェントルマン)という社会全体の強い圧力なのです。駅で道を急ぐがゆえに、周囲の人にぶつかりながら急ぎ足で仕事に向かうような日本で見かける男性は、サイテー扱いされそう。周囲に気を配り、荷物が重そうなら自分が重い荷物を持っていても声をかける。後の人のためにドアを必ず押さえて待つ。私などはイギリスで、明らかに急いでるビジネスマンが、先にドアを開けて押さえて待っているのに、ボーッとしている気づくのが遅れて待たせてしまい、申し訳なく思ったりもします。日本でそうされることに身体が慣れていない。ジェントルマン行動を女性を弱者とみなすがゆえの差別であると考えることもできるでしょう。でも周囲によく注意を払いながら、皆親切のタイミングを探している。男も女もそうであるべきだけれども、特に男性こそそうであるべきと思われている。日本の男性があまりにも女性に気を配らない様子に慣れすぎているから、イギリス男性がそうやっていると特に目に入るのでしょうか。
幼かろうとなんだろうと、「立派な紳士」ぶりたい男の子たち。訪問しようものなら、できる限りホストしてくれます。もちろん母親に対しても祖母に対しても、他人に対すると同様に、わがまま三昧とかする様子はなし。ひっそり我慢させられるし、もしそんな風に甘えた態度をとったら男親が怒るでしょう。女の人にそんな態度をとっちゃいけません、とね。日本で子どものいる家族を訪ねたら、客に母親を取られて拗ねる子どもは普通だし、客も子どものことを、とりたててわがままとは思わないのではないでしょうか。母と子の一体的緊密な時間に他者が割り込むのですから。下手をすれば日本だと夫がそういう態度を見せることすらあります。自分がホストになるんじゃなくて、ゲストが来ると家族から母親というお世話役を奪ってしまうことになる。だから夫が家にいるときや、子どものテスト期間に家庭を訪問するのもあまり喜ばれないという事情が発生するのもうなずけます。

 

「いい息子」よりもジェントルマンに

イギリスにいい息子はいなくても、ジェントルマンはやはり確かにいるのです。別にそんなに格式張っている人ばかりではない。そこらじゅうにいる。現代では階級と関係ないよきふるまいの規範になっていると感じます。彼らが自分の母親に孝行しているかどうかはわかりませんけれど、他人に対して優しく余裕を持って紳士的に振るまえる人。あるいは余裕のあるフリをしているだけかもしれないけれど、その方がカッコイイ、という規範。イギリスの夫たちは、子どもに紳士たる見本をみせるため、自ら妻にやさしくします。もちろん、母親に対しても、特別な他人として親切にしているでしょう。
息子がいい会社に勤めているのかとか、組織で出世したかどうかは関係ない。社会的地位を水戸黄門の印籠みたいに振りかざしても、誰もひれ伏してくれない。どんなに社会的な地位があろうと、人間として日々の振る舞いや行動がジェントルマンたりえているかどうかを、常に家庭でも公共の場でも試される。男性にとっては厳しい社会といえるでしょう。日本人男性は幼い頃から母親に甘やかされているのみならず、社会がそのまま甘やかしつづけます。死に物狂いで出世競争に勝ち抜けば、無骨な振る舞いをしていても許されがちです。地位が高ければまさに気づく機会が失われていくばかりです。若かった頃に妻に優しく振舞っていたはずの夫が、出世して50年も経つ頃には尊大な振る舞いを身につけてしまうのも必然かもしれません。
そういう社会ですと、男の子教育のツボも劇的に違ってきます。イギリスでは、まずはよき振る舞いができる人になることが優先されるでしょう。そして個性としての能力を伸ばしていく。ひたすら中学受験に備えて塾に通う日本型教育では社会的にまずいのです。日本の教育の特徴もイギリスではよく知られているようで、子どもにpushするのはよくない(親の希望を押し付けてはいけない)と力説する親たちに何人も出会いました。将来勉強したいかどうか、高等教育に進むかどうかは本人次第という本気の覚悟があるのです。実際会う子どもたちも自分の希望をはっきり口にだします。親たちが口では希望を押し付けていないと言うかたわらで、子どもが自分の意志を主張できない状況を日本ではよくみるのですが、そういう親子には会いませんでした。当然ながら、男だからとか女だからということもなくなります。
社会でリスペクトされるためにどう育てたらいいのか気を使っているという点では、日本もイギリスの親も同じです。でも、そのリスペクトのされ方が決定的に違うのです。日本だと、高偏差値大学に入るととりあえずよかったね、という発想になる。でも、イギリスでは日々の振る舞いのジェントルマン度が高いかどうかを、親はもっと気にするでしょう。

 

社会に育てられる息子たち

3週間ほどの滞在を通して、いろいろなルーツを持った子どもたちと会いました。ナイジェリア系、パキスタン系、インド系、南アフリカ系、そしてもちろんアングロ・サクソン系。インタビューをしていると親の育て方は実に様々です。
しかし、どの子もブリティッシュな共通の何かを感じさせてくれました。子どもたちはここイギリスで育っているのですから、親たちの意識にかかわらず、どうにもブリティッシュ仕様になってしまうようです。人間関係について特に印象に残った日英の違いは、夫、子どもの親切なホストぶりと、親から離れて住むという規範の強さです。
1週間ほど滞在した夫婦の家では、ときどき孫を預かっていました。そこで交流した7歳と5歳の、いってみれば悪ガキまっさかりの子たちも、ゲストの私に対して親切なホストぶりを発揮していました。祖父母の目を盗んで食卓でいたずらをしているような子たちなのに、さよならの日には、私の部屋の前に庭から摘んだいい香りのする花束をそっと置いて去っていったのです(写真あり)。なんだか泣いてしまいそうになりました。この年齢で、来客の女性にそんなことをする日本の男の子がいたら、逆に不気味ですよね。でも、ここイギリスでは不思議に感じません。そこらじゅうで男性が花束を持って歩いているのですから。実際にその家庭では、定年退職した夫が仕事や奉仕活動で忙しい妻を支えています。旦那様は、週末にはユリの花束を購入して奥様にプレゼントされていました。常に働きものの妻の健康を言葉に出してねぎらうのです。言葉にとどまらず朝ごはんをセットし、部屋と庭を整えるかたわら、認知が衰えた近所に住む自分の母親を毎日訪問しているのです。祖父がそれやってたら、子どもや孫は少しくらい真似もするでしょう。恐るべし、イギリスの男子。
このように近隣に住んでいるにもかかわらず、子どもが18歳をすぎて親と同居している家族には、1つたりとも出会えませでした。経済的に苦しかろうとなんだろうと関係なし。たとえ、10分くらいのところに住んでいても、別々に暮らすのです。親の方から拒否している場合もあれば、子どもの方が拒否している場合もある。どうしていっしょに住まないの?と聞くと「ここイギリスではそれが普通だから」と言います。家も広いし部屋も余っているのに。日本だったら100%同居していると思う親子関係でも、成人した子どもと同居しない。まして絶対に3世代同居にはならない。

イギリスの親子関係をシンプルに説明したいとき、私は「3匹の子ぶた」を紹介することがあります。「3匹の子ぶた」はイギリスの昔話に基づいたストーリーで、1933年にディズニー映画で有名になりました。「3匹の子ぶた」の母親はある日、3人の息子に家をでて自活するように言い渡します。息子たちはそれぞれ、わらの家、木の家、レンガの家を建てるのですが、労働をいとわずにレンガの家をたてた弟ブタが狼を撃退するという、よく知られたお話です。親からの自律を期待される息子たち。そして、立派な息子もいるけど、愚かな息子もいるという不平等観(エマニュエル・トッドも指摘しているように)が、短いストーリーにしっかり仕込まれているのです。
このお話にもあるように、イギリスで母親が子どもに自律を言い渡すかどうかにかかわらず、「それがあたりまえなので」、子どもは家を出て行きます。その後にやっていけるかどうか、必要なら手助けするよ、とはいいつつも後は彼らの人生だからと言い切ってしまいます。大学など高等教育の資金を親が用意できなくても負い目は感じなくてもいいのです。もちろん、1980年代には無償ですらあった年間の学費は、100万円を超えるほどにまで高騰し、ここイギリスも大学への入学準備をするためにお金が必要な世界になってしまいました。けれども、大学に行くべき学力があるのに金銭的な問題で行けなければ、それは親のせいではなく、社会が公正でないからだと思う人の方が、いまでも多いでしょう。日本の親たちにそのような割り切りが持てるでしょうか。一所懸命子どもの学費を捻出するためにも、必死に働いている人のほうが多いと思います。日本の親たちがそのためにどれほどの犠牲を払っているか、子どもを援助しているかを想像すると胸が痛みます。

お金を出さなくてもいいのと同時に、母親は息子たちのお世話をしつづける必要もありません。障がいを抱えた息子を、つきっきりで面倒見ているシングルマザーに「息子が大人になったら、どうするの?」と聞きました。「それはもう自分は自由になるので、彼氏と楽しく過ごす」、と明快に答えてくれました。日本の母親には、社会の制度的意味からもなかなか言えないセリフです。
息子がよく育ったと言われるとき、その子は自律できていて共同生活をするための基本的能力があるという意味になるでしょう。体に障がいもないのに、自分のことはおろか人の世話などできない、あるいはしたいとは思わない息子が日々育っているニッポン。出生率の差はこんなあたりからも生まれていると確信しました。

1 佐藤淑子,2001,イギリスのいい子日本のいい子:自己主張とがまんの教育学、中公新書

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。