第8回 豊かな世代と「ママっ子男子」の登場

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

平昌オリンピックは長野を超える数のメダル獲得数となったようで、元気な若者たちが目立ちました。いまやニッポンの息子ともいえるフィギュアスケートの羽生結弦にいたっては、類い稀な魅力とオーラで世界の人々を虜にしています。そんな新しい息子たちの世代が登場したようです。この明るいニッポンの母と息子の関係はいったいどういうものなのか、これまでとどこがちがうのか、そして、これからどうなるのかを考えてみたいと思います。

「マザコン男」と「ママっ子男子」

「ママっ子男子」の名付け親である原田曜平氏によると、20代の若者とコミュニケーションをとるなかで、母親と仲が良い男子が増えていることを実感したそうです[1]原田曜平,2016,ママっ子男子とバブルママ:新しい親子関係が経済の起爆剤となる,PHP新書.そこで、従来ネガティブに語られることが多かった「マザコン」と区別するために、特に母親との仲が良い男子を「ママっ子男子」としたのです。著者はマーケティングアナリストなので、このタイプの親子による消費を喚起するところに目標が置かれています。以下では、「ママっ子男子」についての解説を引用させていただきながら、消費行動にとどまらず別の観点からも、起きている現象を探ってみたいと思います。

まず「ママっ子男子」の母親は、1961年から1970年生まれの、「バブル世代」が中心で「新人類世代」が加わります。まさに筆者はこの世代の母親でもあり、息子は20代。原田氏の分析は鋭く世代を捉えていると感じました。日本では長らく「マザコン男」、と忌避されるのを嫌って、母親とは疎遠であるべきだという妙な規範が浸透しているところがあります。「マザコン男」の象徴ともなった1992年放映のテレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さんといえば、この時代知らない人はいないほど。私自身もリアルタイムで視聴したドラマでした。姑役の野際陽子のおどろおどろしいまでの息子溺愛ぶりと、息子役の佐野史郎の情けなさが強烈な印象を残しています。最終視聴率が34%ともなれば、もはや社会現象だったといえるでしょう。

でも、考えてみるとおどろおどろしい嫁姑ドラマを家族で楽しく見られる時代とは、そんな関係性がリアルに想像できる程度に残っていつつ、一歩引いたところから客観視する余裕ある状況になっていたのでないかと考えられます。「あー、こういうのありそう。でも私たち夫婦は違うよね、あはは。」「こんな姑に夫婦関係を壊されないように気をつけないとね、だから姑と同居は無理かも。」といった具合に。「ママっ子男子」の母親たちは、1992年といえばまさに結婚相手探しの真っ最中。このドラマは、相手が高学歴男性であっても「マザコン男」じゃないかどうか気をつけたほうがいい、という強烈なメッセージとなっていたに違いありません。

 そして、息子を「マザコン男」にしてはいけないという明確な意思が埋め込まれた時代に結婚した母親たちは、子育てにあたって冬彦さんを反面教師とし、精神的に息子に依存してはいけないと心に誓いながら、新しいバージョンの母息子関係としての「ママっ子男子」を生み出していったのです。

「ママっ子男子」としての羽生結弦

 フィギュアスケートでオリンピック2大会の連続金メダルという偉業をなしとげた羽生結弦は、ネット上ではマザコンと揶揄されることもあるようですが、私は違うと思います。むしろ「ママっ子男子」なのではないでしょうか。羽生結弦の親はメディアに登場することはないし、家族関係についての情報は乏しいのですが、断片的に垣間見える逸話からとらえると、スケートをやりたくてやっているのはあくまで本人であり、親はそれをできるかぎり支援するという関係性を徹底している家族なのだと思います。

原田氏は、新人類世代が親になったあたりから、「好きなことを思い切りやれ」と「子どものことを全力で応援する親」が現れたと指摘し、羽生結弦選手を始め、平野歩夢、平岡卓らが大舞台に臆することなくソチ五輪でメダリストとなった事実をとりあげています。ただ、彼らを「ママっ子男子」だと直接に言及しているわけではありません。ソチ五輪若手メダリストの三人のうち、平野、平岡の両選手はどちらかといえば、父との二人三脚を常々口にしているとおり、一般の親には到底できない時間と金銭を父が投下するアスリート早期教育が施されたのだろうと推測されます。スノーボード・男子ハーフパイプの二人はどちらかというと、スポーツの世界で従来からみられる1つの典型的な父子鷹的家族なのです。

ところが羽生結弦の父は中学校の数学教員で、特別に運動能力に秀でる経歴を有しているわけではありません。野球部の顧問だったこともあるようですが、息子のフィギュアには一歩引いて見守るスタンスを貫いています。遺伝と家庭教育の成果として才能が開花したという家族の物語を期待する人からみれば、物足りない話になります。結弦の父親の妹によると、「小学校3~4年生の頃、スケートの練習が少し嫌になっていたゆづに、『野球のほうがおカネもかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ』」と父が言ったこともあるそうです[2]週刊現代,2015, 天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」:なぜあれほど、心が強いのか(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41840?page=3),口先だけで脅かす親はよくいるのですが、結弦の父は心の底からそう思っていたのでしょう。姉が通っていたスケート教室についていったことから始めたフィギュアは、どちらかといえば女性に好まれるスポーツです。しかも結弦が喘息持ちであって埃の出ないスケート場でしか運動しにくかったという偶然性が、かえって継続を後押ししたようです。誰のためでもなく自分がやりたくてスケートを続けるという結弦の意志が、明確にさせられた瞬間だったのでしょう。

その後、結弦は17歳でブライアン・オーサーコーチに師事するためにカナダに母親とともに移住しています。そればかりでなく、母親は多くの試合会場やインタビューにも同行するマネージャー活動を行っています。生活では家事全般をすべて引き受けて息子を支え、時に衣装さえも手作りしていたという二人三脚ぶりは、際立って強い絆を感じさせます。そして、試合後に初めてメダルを母にかけたことを衒いなく語り、母への感謝をはっきり口に出すのも羽生結弦の特徴です。仲良く2人で談笑しながら宿泊先へと向かう母息子の様子は確かに少し前にはみられなかった親子の関係性でしょう。

行動からみる「ママっ子男子」像

では、実際にどういう行動を「ママっ子男子」像ととらえられるのか、あらためて原田氏の著書で述べられている「ネガティブなマザコンとは違う、新たな男子像」から拾っておきましょう。具体的にはこんな行動をする男子が増えているといいます。

「話題のレストランに二人でいく。買い物に一緒に出かける。さらには二人で旅行に行く。美容や健康など共通の関心がある。恋愛やセックスの相談を持ちかける。母親と友だち感覚でつきあう。」

その一方で、「母親に対する精神的な依存度が高いとまではいえない」ようで、精神的な自立に関していえば、進学、就職、結婚、といった人生の重大事において、どの程度親の意見を参考にするかを身近な「ママっ子男子」的な45人に尋ねると、「かなり参考にする」と答えるのは6人しかおらず、8人は「まったく参考にしない」とバッサリ切っています。日常生活で話題を共有したり、行動をともにしたりしても、意見はさほど影響していないとのことでした。基本的に専業主婦が多い世代の母親ですから、息子は職業のことをそうそう相談できはないとシビアにみているわけですね。「ママっ子男子」認定された人から出てくる言葉のなかには、親が自分の意見を押し付けず、子どもの判断を尊重してくれるから、という言い回しもみられます。また、「祖父母が押し付けてくるのが嫌だったから、親はそうしているらしい」という語りもありました。

たしかに「ママっ子男子」の親世代は、さほど寛容な時代に育ったとはいえません、学校は厳しい規則に縛られて自由でなく、校内暴力も頻発しました。ものわかりのいい教師や親はとても少なかったと思います。だからこそ子ども世代には違う教育をしたいという強い意志のもと、自分の世代で親子関係を意識的に変化させている面があるのです。

また、「ママっ子男子」のいる家族は兄弟姉妹同士もふくめ家族全般に仲がいいというのも特徴と書かれています。羽生結弦は姉もフィギアをやっていますが、本人がインタビューで、「4歳半上のお姉ちゃんの後を追いかけていたらいつのまにかスケートをやっていた」と語っているように、姉が身近な指導者でライバルだったのでしょう。彼の負けず嫌いぶりは、常に追いかける対象となるスケート上手な姉が身近にいたからこそ鍛えられたのだと思います。でも、その後姉も長くスケートを続けてその後はスケートリンクで働いています。自分もスケートを続けながらも、弟のずば抜けた才能を応援できるきょうだい関係は、親がそれぞれの子どもを平等に接していなければ保てません。もし息子のみを溺愛する母であったなら姉は心おだやかにすごせませんし、ましてスケートを続けるでしょうか。スケートの能力にこだわることなく自己を肯定する精神を姉も獲得できているのでしょう。

こういう家族関係のもとで羽生結弦の心には雑念が入り込まずにすみ、本番で自分の演技へのずばぬけた集中力をみせたのだと思います。「今回は自分に勝ったのだと思いました」という金メダル後の発言や、演技後に自分の足首をさすって「ありがとう」とつぶやくなど、自分の肉体を精神が強くコントロールしている勝負強いアスリートらしさは、みかけの柔弱さとは対象的に屈強さを感じさせます。みかけの屈強さにこだわりつつ精神の脆さを隠している男性に飽き飽きしている世界中の女性たちから、彼は敬愛されるのです。

「友達親子」とジェンダーフリーの浸透

こうやってみると、「ママっ子男子」とは、娘との間ではかなり広がっていた親子関係の友達化、あるいはフラット化現象が、異性間の親子関係まで広がった状況であるように見えてきます。ということは、おそらく同時に「パパっ子女子」も増えているのでしょう。これまでも、10代の娘と得意分野についての母と息子の情報交換を盛んにしているという解説をみると、男子が美容や健康に気を使うようになってきた面も見逃せません。その結果として母親の得意分野と会話しやすくなっているのです。

どれだけバッシングされようがジェンダーの境界はゆらぎ、ファッションもすっかり自由になりました。明るいピンク系のTシャツ、花柄が散りばめられたシャツなどをおしゃれに着こなしているカラフルな男子学生が溢れているキャンパスをみるとき、時代は確実に変わってきたなと感慨深いものがあります。女子がクールなジーンズからフリフリなスカートまで着れるのに、男子はスカートを履くとまだ目立つのは少々残念ながら、ついに登場してきたスカート男子もいます。ジェンダーレスは急ピッチで社会の目に見える場所にあふれ出しました。女性の鉄道オタクも増えて運転士となったりする時代、ジェンダー領域での相互乗り入れは当然でしょう。女性に好まれる男子像が変化したことも男子フィギアが急速に強くなった理由かもしれません。

親子関係も急速に変化しています。講義でエマニュエル・トッドの親子関係4分類を示し、日本の親子関係が権威主義、兄弟関係が不平等、と歴史人類学的には言われていると話した後、「みなさんの家族はどんな関係性でしたか?」と質問をすると、いまやすっかり家族関係は、親子関係が自由主義、兄弟関係は平等主義であるとリアクションペーパーに書いてくる学生が多くなりました。その割合は年々増えているように感じます。

ちょうどその頃東京の郊外住宅地で育った学生たちから、「うちの家族はクレヨンしんちゃんみたいだった」という声もよく聞かれました。フラットな親子関係の延長に、青年になったときに友達付き合いのような母息子関係が残ったとしても不思議はありません。原田氏は「ママっ子男子は世界標準への揺り戻しである」と述べました。私は家族に世界標準があるとは思っていません。けれども、「親子関係が自由主義、兄弟関係は平等主義」で個人が互いの生活領域を尊重する関係性を当たり前と感じながら育つ人が増えたら、社会に革命的な変化がもたらされる可能性があると思います。それは、ニッポン社会にフランス人に多いといわれる「平等主義核家族」が根付いていくことを意味するからです。

SNSによるコミュニケーションが変える親子関係

これからも仲の良い息子と母、そして言葉によるコミュニケーションの多いフラットな家族は増えていくでしょう。わざわざ「ママっ子男子」といわずともよい時代がやってくるのではないでしょうか。コミュニケーションツールは格段に変わりました。いまでは、LINEなどのSNSで家族グループを持っている人も多数いるでしょう。マイナビ学生の窓口による調査では、大学生の4割が家族のLINEグループがあると答えています。子どもの方から作ってくれと言われた親が多いのでしょう。子どもがいると次世代の遊びやテクノロジーを親も使うことを意外に強いられます。60年代以降生まれの「ママっ子男子」の母親世代は、社会人のころはまだワープロで事務仕事をしていて、職場にパソコンがやってくる前に引退してパソコンには不慣れな人も多いのですけれど、ポケベル、PHS、携帯、スマホ、と次々に出てくるコミュニケーションツールにはなんとか対応してきました。そうすると、同じ世代の友達もつながりやすくなります。

LINEには、スタンプなどによるアイコン表現もありますが、基本的には言葉を介してやりとりしなくてはなりません。意外にもSNSを頻繁にやりとりする関係性とは、日々言葉で伝える訓練をしている側面もあるのです。アルバイトやサークル、そして母も仕事が入っていてスケジュールの調整をするのがあたりまえとなり、家族のコミュニケーション方法は激変しました。その関係になれている世代からみると、SNSを使わない祖父母世代とはどうしてもコミュニケーションの様式にズレがあり齟齬が生まれます。面倒な上に費用がかかる電話しかない実家に、頻繁に連絡をとるのが精神的におっくうになってしまうのです。結果的に、二世代のコミュニケーションのみが濃厚になり核家族性が強まる可能性があります。

それぞれの生活で忙しいスケジュールをぬって、ときおりSNSで連絡を取り合い、時間と場所が合えば会ったりビデオ電話で話したり。そんな関係性はもはや「ママっ子男子」などというようなものでもなく、大人になった息子と母親のありふれた関係でしかないでしょう。

失われる豊かさと母のこれから

しかし、移住先のカナダにすら同行して生活支援に徹することができる母親と、一家の経済を支えながら、毎日スケートリンクへ車で送り迎えしてくれる父親を持つという幸運がどの子どもにも与えられるはずはありません。羽生結弦がいかに生まれ持って豊かな才能があろうとも、それを開花させるだけの時間や金銭を家族が持っていなければ選手として生き延びることすらできなかったでしょう。浅田真央の母親は子ども2人にスケートを続けさせることはどうにかできましたが、自身の健康を維持することはかなわず若くして亡くなりました。伊藤みどりの時代には、生活をまる抱えして教え育てる親代わりの山田コーチと、経済的支援をする太っ腹な経営者堤義明がいましたが、そういう個人は現代日本に現れうるでしょうか。

冬のオリンピックはやはり北の先進国の祭典であることは一目瞭然で、いま活躍している子どもたちは豊かな時代の申し子ともいえるでしょう。キリスト教文化圏では、イエスが貧しい家庭に降誕したという聖書の教えもあって、才能ある子どもをGiftedと受け止める考えが浸透しています。たまたま贈られた才能ある子どもを、周囲は家族でなくとも支えるという発想がどこかにあるのです。現代ニッポンでは支援を家族がやってあたりまえで、社会で支える仕組みが全く機能していません。そこかしこに見出されていない子どもたちの能力が眠っていたり、また親の都合で潰されたりしているように感じます。

そして、これからは母にも自分の能力をいかした仕事が家族生活の外にある人も増えていくでしょう。未来のアスリートの母親は優秀なマネージャーとして外で稼ぐ人になっているかもしれません。外部と調整し交渉し手配して選手に気を配る。それはとても重要な仕事ですし、お金にかえられる能力です。家族のために無償でその仕事についている母親たちの能力は、本来社会で活かされるべきでしょう。。特に、貴重な人的資本を持つ大卒の女性がジェンダー規範や組織の男女不平等という社会構造のなかで使われずに、家族に向けられているのがニッポンの現実なのです。羽生結弦の母の世代は女性の学歴が高まったにもかかわらず、身につけた教養のほとんどを家族にふり向けています。母親が家族の後方支援にやりがいを持って遂行できる人格でなければ、この息子への無償の支援はなりたちえません。母が自分のやりたい職業について忙しかったら、子どものマネージメントに割ける時間はほとんど残らないのですから。母親が自分の職業人生を持つようになれば、家族を支える役割で満足できる人の割合は減るでしょう。

家族を無償で支えるなんて当たり前ですか?家族が支えたからといって息子がオリンピックで金メダルを取るかどうかなど確約されていなくても?わかりやすく見える分野の能力であれば、天から舞い降りたGifted(才能ある子ども)は周囲を巻き込み右往左往させながらも、自分を伸ばしていくでしょう。でも、大半は誰にも気づかれずに機会を逸している子どもがほとんどなのです。世界中でお金も時間もかかる種目のスポーツや音楽の世界に、熱心な母親が多いアジア系が目立つのも偶然とはいえません。母となった女性の社会進出が遅れている現実とセットの社会現象なのです。

団塊ジュニア世代以後になると、母親が仕事に出てなんとか生計を維持している家族も増えます。バブル期世代に比べて、子どもにスケートを続けさせる時間とお金がない家も多いでしょう。「ママっ子男子」と母たちは、マーケティングのターゲットになる豊かさの名残りがある時代に登場しました。子どもや夫を後方から支える生活に充実感を得られる専業主婦の母親がおり、スケートの継続を可能にするほど父親の給料がまだ潤沢であった経済的に豊かな時代に、羽生結弦という1人の天才が生を受けたことで、2大会連続の金メダリストは育ちました。これからの時代、家族が支えずとも天才が生き延びられる環境が整わないのならば、2度と彼のようなメダリストはニッポンに現れなくなってしまうかもしれません。

母に頼らないで子どもの持っている力を存分に引き出していくシステムをどれだけ社会がつくれるのか。その違いが将来のメダル数に響いてくるでしょう。女性が家族の外で自分の能力を活かしつつも、子どもの能力をつぶさなくてすむシステムをつくることが子どもを持つことへの安心感を増やし、ニッポンの少子化対策の鍵となると私は考えます。

1 原田曜平,2016,ママっ子男子とバブルママ:新しい親子関係が経済の起爆剤となる,PHP新書.
2 週刊現代,2015, 天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」:なぜあれほど、心が強いのか(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41840?page=3),

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。

第7回 繭のなかから世界を眺める

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

ひきこもりは「日本の文化」なのでしょうか。日本を象徴するKaroshiと並んで、アルファベットのHikikomoriのまま通用する言葉となったいまでは、そうもいえるでしょう。イギリスにしばし滞在していた時、プレゼンテーションの練習としてHikikomoriについて紹介したことがありました。世界各国から来ている仲間から質問攻めにあいました。とにかく不思議なんだそうです。「家の中にこもってるなんてつまらないことに、なんで彼らは耐えられるんだ?」という疑問。確かにもっともですよね。「若い男性が家族としか顔をつきあわせない生活してるなんてありえない!」というわけです。いじめなどの影響についても説明すると、「いじめはあるけれども、ひきこもりは自分の国では聞いたことがない」、と異口同音に皆言うのです。最近でこそ、やはりマンマのいる国イタリアでもHikikomoriがいると話題のようです。母と息子の甘美な世界がひきこもりを生んでいる素地となっているなら、このニッポン論としては考えてみる価値ある現象でしょう。

ひきこもっているのはどういう人か

いわゆるひきこもりと推定される15歳から39歳は、内閣府(平成28年若者の生活に関する調査報告書)による推計でおよそ54万人。また、「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」によると40歳以上のひきこもりが16万人といわれます。だいたいあわせて70万人という数字は、少し前の別の調査による推計と同じくらいなので、かなり信頼できると思います。生産年齢人口の100人に1人ほどの割合で成人がひきこもっている社会なのです。誰にとっても、身近にひきこもっている知り合いが1人か2人いるのは、当たりまえでしょう。

この調査から「広義のひきこもり群」の特徴をみておきましょう。まず、男性が女性の2倍となっています。暮らし向きについて上中下のうち、下と答えている人の割合は2割を超えていています。「一般群」の暮らし向きは下が1割にとどまっているので、やや低めの割合が高いようです。子どもの頃に習い事やスポーツ活動をした経験が少なかったり、親とあまり話せなかったなど、幼い頃の家族生活には特徴がみられます。平成22年の調査にはみられた「親が過保護だった」という傾向はなくなりました。(もしかすると、みんなが過保護な時代になったという意味かもしれませんが。)親の育てかたというよりも、家族の関係性にやや特徴がみられます。あまり喋らず仲が良いとはいえない家族関係の割合が、ひきこもり群ではすこしだけ多めです。

私が興味を惹かれたのは、「仕事をしなくても生活できるのならば、仕事はしたくない」という質問への答えの割合が、一般の人と全く変わらないところです。世間一般でも、半数程度の人は「仕事はしたくない」と答えます。それでも、一般の人は、仕事または家事・育児をしているのです。「世間を理不尽だ」と思っている割合も同じです。意識の上ではなんら差はないのに、行動には雲泥の差が現れていることがわかります。

ところで、ひきこもりの人には、仕事のみならず家事・育児をしていると答えた人は1人もいませんでした。有償/無償を問わずに労働から退却しているのです。そして、なぜかひきこもり群には「新聞を読む」人が多い。テレビでなく、本でもなく、インターネットでもなく、新聞だけ一般の人より読む割合が2倍も高いのです。SNSで社会とつながる傾向も低く、直接の生身の人間とも交流がないなかで、現代社会を新聞という媒体からみているとしたら、かなり奇妙な世界観にひたってしまわないでしょうか。

このひきこもっている人像をまとめると、なんだかどこにでもいそうな「定年退職したお父さん」の生活イメージのようです。年長の男性とやや年若な男性2人を世話しているお母さんのいる家族が目に浮かんできます。全国津々浦々にいるいたって普通の家族の風景。ひきこもりは誰にでも起きうる、といわれることがあるのも納得です。

労働からの退却としてのひきこもり

もしかすると日本発で世界の共通語になってしまったKaroshiとHikikomoriは、現代ニッポンを象徴する社会現象の合わせ鏡ではないでしょうか。過労死は労働への徹底的な没入であり、ひきこもりは労働からの完全なる退却なのですから。

もちろん私は労働とはお金を稼ぐものだけだとは考えていません。じつは仕事や家事や育児などをあわせて総労働時間として国別平均すると、世界で最も働き者なのは子どもを持って共働きをしている日本女性です。つまり、「働きバチ」という言葉は日本女性のためにあるともいえます。安倍政権の「女性活躍」推進政策で、女性の過労死が増えるのではないかと真面目に危惧しているところです。女性の労働力率が、子どもがいる人では子どもが幼い頃には低めで、また管理職につく女性が少ないのは事実ですが、すでに労働時間を国際比較すると、睡眠時間を削ってまで家事も仕事も多くやっているのが日本女性なのです。よく労働力率が低めであることをもってして、「まだまだ女性は働ける」と主張されている方がいますが、もう勘弁してください。女性はもっと「よい仕事」に移る気はありますが、時間がありあまっているわけではないのです。

つまり、ひきこもりの子どもを支えているのは、金銭的にみれば父親かもしれませんが、時間的にはたいてい仕事も家事もやっている母親でしょう。ひきこもっている息子たちは父親みたいになりたくないけれども、かといって家事を手伝う人になることも忌避しているのです。労働から完全に退却しているという徹底ぶりを感じます。みんな働き方について悩むなかで、一部の人は過労で倒れるまで働いてしまう。働きすぎは後ろ指をさされなくてすむかもしれませんが命を捧げては元も子もありません。

職場に没入する働き方になじめずひきこもった人は、ある意味自分の身を守る防衛力が働いたと考えることもできるでしょう。それに、ひきこもっている人の半数以上は働いた経験があるのです。過労死しそうになるまで働かされたあげく、労働から退却している人も多いのです。平均的な人がブツブツいいながらも、うまくやり過ごしながら長時間労働に耐えているとするなら、彼/彼女たちは真面目だからこそ続けられなかったのでしょう。超長時間働いている人と働くのを完全にやめた人。この不具合なバランスを放置したらニッポンの不幸の総和は高どまりします。きっとKaroshiするほどまでに働く人がいなくなったときに、Hikikomoriもいなくなるのではないでしょうか。

専門家の出している本では、こんな考えは見当たらなかったのですが、元ひきこもり当事者でその後脱出して正社員になったKJ氏の「超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法!ちゃんと解説編」には、はっきり書かれていました[1]超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!。「ひきこもり・ニート時代と正社員の俺はどちらも同じダメ男であることにかわりない」とKJ氏は説明します。ひきこもり・ニートになっている人というのは、親たちが代々引き受けてきた「真面目に働けば報われる」的な「絶対的価値観」による洗脳のもとにすごしている人が、子どもの代になって、ついにうまくいかない限界点に達しただけであると、彼は冷徹にとらえます。ひきこもり・ニートも正社員も、家族や社会の古びてしまった「絶対的価値観」に洗脳されてる状況は同じだというのです。

学生時代サボってたやつの方が矛盾なく社会生活に溶け込んでいるという矛盾。

真面目な我が子が挫折するという必然。
真面目にやってきた自分が子供一人を上手く社会に出すことすらできない現実。
それなのに親が求めるのは「サラリー」。

(出典:超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!その2「サラリーとは奴隷がもらうもの」)

その結果、ひきこもり・ニートからの脱出法は、超非常識なアドバイスとなります。

「他人の意見によってわけのわからないまま、自分を出さずに流されることを心がける」

そう気づいて洗脳からとけたから、彼は脱出できたのでしょう。そう、この人生訓は繰り返し述べてきたように、母の自己犠牲のもとに期待を背負わされているニッポンの「立派な息子」と「ふがいない息子」への2極化へとなめらかに通じる道を思わせます。「立派な息子」になるはずであったのに、どこかで歯車がズレてしまった「ふがいない息子」の象徴ともいえる存在が、ひきこもりなのです。だから彼/彼女らは「立派に」働けないくらいなら、一切労働から退却する道を選ぶのです。

世間では「働かなさすぎる人」の問題は家族の問題にされがちで、「働きすぎる人」のことは職場の問題になります。死に至るほどでなければ、そもそも問題になどならずに働く人は世間で賞賛されます。母親に、家族に、そして社会に、労働してこその人間、という価値は誠に根深いものがありそうです。

失望を埋めるきょうだいの悲哀

ひきこもる人には男性が多いことははっきりしています。そして、一般的には長男が目立つと言われています。女性であれば長女。それが意味するところはイエの論理から理解できるでしょう。あと継ぎにかかるプレッシャーという問題です。次、三男は引き継ぐイエは与えられない分、どこにいこうと自由ですし、男子の後継ぎがいれば女性は結婚して他人のイエに所属する。法の条文にはない観念はいまもニッポン人の頭にしっかり存在しています。

ひきこもっている人にはいろいろなタイプがいることは承知しています。しかし、兄弟がいても全員がひきこもることは稀です。むしろきょうだいの1人がひきこもると、他のきょうだいがさらに頑張ろうとする事例を見かけます。もうそれは、無意識のレベルなのでしょう。それが後には一見元気であったきょうだいの精神を蝕んでしまうこともあります。Hikikomoriを生みやすいニッポンの価値観のもう一方の極がKaroshiであるなら、同じ家族に働き者と働かない人がいてもおかしくはないのですが。

でも、きょうだいがひきこもることで、親に余分な期待をかけられてしまうとじつに迷惑な話です。

ところで、イエの論理がもたらすひきこもりについて、多くの論者が語ってきました。マイケル・ジーレンジガーは河合隼雄に尋ねながら、「イエ」と「家族」、そして母と息子の関係について容赦ない考察を加えました[2]マイケル・ジーレンジガー,2007,ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか,光文社.。戦後の米軍占領下で、アメリカ人が封建的と考えるイエの法的地位は改められたが概念は放棄されず、ニッポン人は所属する企業や集団をイエとみなすようになったと述べています。対話のなかで河合がはっきり指摘したのは「アメリカ人にとっての神が、日本人にとってのイエ」であるという状況にかわってどう個人を確立できるのか、という悩ましい課題です。

伝統的なイエが失われてしまい、イエの存続が個人のよき生よりも優先されている社会で、家族はどういう場所になるのでしょうか。私はイエになってしまった会社を木にたとえるなら、家族はその枝葉になってしまおうとしたと回顧します。枝についている葉っぱを家族を構成する個人にたとえてもよいでしょう。懸命に日々の光合成をして(働いて)木を存続させてきたのが、戦後日本の家族と会社の関係です。しかし、木は水が足りずに枯れそうになると枝葉を枯らして生き延びようとすることもあります。個人も家族も木についた枝葉のようにいとも簡単に捨てられてしまうときがあります。そのときに切り捨てられないよう、献身的に働く人の一部が耐えられず過労で亡くなっていきます。切り捨てられる前に落ち葉として自ら離れていった人、がひきこもりなのかもしれません。

幽閉としてのひきこもり

ひきこもりという言葉からは、子どもの側からの自発的な行動によるものという印象を受けます。けれども、それならばなぜ「ひきこもりからの脱出」などという言い回しがネットにあふれるのでしょう。母親の胎内からの脱出として比喩的に語られたりもするのですが。いったい彼らはどこから脱出するのでしょう。ここに、あまり語られない真実へのヒントが隠れているかもしれません。

もしや彼らは母親からのみえない糸でぐるぐる巻きにされ、繭のなかに閉じ込められているとしたら。かたちのない精神の檻のなかに幽閉されているのなら、まさに人間は最後の抵抗のために暴力にも訴えるしかないでしょう。でも、暴れてもみえない糸は絡みつくばかりでなかなかほどけない。父親の不在と母子密着というセットは、ニッポン中にあふれていますが、皆がひきこもるわけではありません。良妻賢母で優しい両親のもとに育った人が多いとか、一家団欒がない、とか書いてある場合も多いのですが、それはよくあるニッポンの家族の姿です。がんらい家族療法に関心の低かったという斉藤環氏は、ひきこもりの原因を個人の気質や単純な心因にもとめるにつれ、「家族の、両親の問題が前景化してきた」といいます[3]斉藤環,2016,ひきこもり文化論,ちくま学芸文庫.けれども彼は、その家族問題が多くは「父親の不在と母親の過保護」といったありふれた存在の指摘にしかなりえていないと正しく指摘したあと、困惑しているように感じます。

では、ひきこもっている人はみえない糸で親に幽閉されている特殊な場合と考えてみたらどうでしょう。紙一重の事件はこの間寝屋川でおきたばかりの、両親に15年間閉じ込められていた女性となります。鬼畜のような仕業にみえますけれども、物理的に閉じ込める虐待と、精神的にひきこもる幽閉は家族の殻が閉じられている、あるいは閉じさせられている状況としては共通です。突然子どもがひきこもってしまったとしましょう。そのとき、子どもにご飯をずっとあげて身の回りの世話をする親切な人がひきこもりの親となり、子どもを最終的に放置したり、質の低い環境下で幽閉した人が虐待と認定されて保護責任者遺棄で罪に問われたりするのではないでしょうか。その前に、父親が家族をおいて逃走してしまう場合もあります。結果的にとり残された実母が子どもの虐待当事者になることが多いように、不在の父のあと子育てをすべて引き受けている母が過保護過干渉とみなされる立場におかれて叩かれやすくなります。たとえ虐待をしていたとしても、子どもと引き離されるのは嫌がる母親のように、ひきこもる子どもが自分の実存と関わっている母親も命がけとなります。だからこそ献身的にまさに死の瞬間まで子どもを世話しつづけるでしょう。

ひきこもりの子どもがいる親はどうして優しく親切なのだろうと思っていました。公園で古くなった遊具を真っ先にチェックして「この公園は危ないから子どもを遊ばせちゃダメだよ」と教えてくれたりような人です。実際ニッポン全体が優しさと親切のかたまりのようでもあります。現代ではあらゆる貯水池の周りに子どもが入り込まないよう柵があり、もしそこで事故があったら管理が悪いと責任が問われるのですし、電車を降りようとすれば「雨の日は傘のお忘れ物が多くなっています。今一度ご確認ください」とアナウンスされます。いまでさえ、私の母は一緒に喫茶店を出るときに、「傘持った?」と声をかけてくるので、自分も情けない存在だと感じさせられるのです。老親よりも背が高い成年の息子を前にして、つい棚の上にあるものを「私がとってあげようか」と言ってしまいそうになると母はいうのです。ニッポン人は何歳になっても大きな子どもとして親に扱われます。それは人の自信を揺るがせる魔法をかける仕組みでもあります。

一つの殻のなかに入っている母と子のうち、状況が許す家でみられる子どもの現象がひきこもり。一歩まちがえるならば、幽閉されてご飯がもらえない虐待となりうるわけです。ひきこもりの親が親切そうにみえたのは原因ではなくて結果にすぎなのです。

ひきこもりと家庭内暴力は切り離せない存在であるのも、人間存在の自由をかけた戦いであるとするなら当たり前です。家族という檻の中に閉じ込められていく危険な状況からは、誰か外の人に手伝ってもらって脱出をするしかないでしょう。だから、「脱出」という言葉で正しいのです。それなのに、世間には家庭を支援するといいながら家族という檻をより強固にする言葉が溢れつづけています。幽閉されているひきこもりは、自力で檻を壊して脱出していくか、他人が家族というカプセルに穴を開けて壊し救出するほかには方法はないでしょう。

真空の家族関係を埋めるひきこもり

ところで、なぜ親はときに子どもを幽閉しようとするのでしょう。その理由を考えてみましょう。

近代社会になって、家族は愛情を育む場所になったといわれます。けれども、どちらかというと結婚関係が経済的な安定を優先した家どうしの結びつきであったりする傾向はいまでも残っているニッポンでは、感情のもちこまれない家族はめずらしくありません。そういう家族は伝統的なイエなるものに近い存在として続いたタイプだと私は考えています。イエはもともと農家や商家など家業を持ち、一家で働く場所として存続してきました。いわゆる自営業的なイエでは、夫婦は役割を分業しながら家族という場で労働をとおして密接につながっています。感情的なつながりは必要でなく、黙々と互いに働いて過ごします。そこに子どもが生まれるとどうなるか。職場で育児をするような家族となるでしょう。もともと家族は情愛の場でないために子どもと感情を共有する習慣はさほど一般的ではありません。恋だの愛だのといったやっかいな感情は家庭の外に置いておく。その方がおイエは繁盛するでしょう。一世代前まではイエに労働があったのでこの感覚でも問題はありませんでした。子どもは家業を次ぐ存在として育てればいいのですから、家から脱出させる教育は必要ありません。イエの論理からみて、外に子どもが去っていかないひきこもりはある点では、日本の伝統的な家族観のもとで成長させられた姿なのだともいえるでしょう。

しかし、イエから労働を取り去ってしまった現代の社会ではどうなるかというと、ポッカリと空いた子ども部屋のように寂しい夫婦関係が残るだけでしょう。子どもはまさに鎹(かすがい)以上の存在となっています。感情が行き交うことなく、寝て起きて食べて仕事にいく。日々の労働再生産という機能がひたすら繰り返される家族。職場のほうがよほどみんなで飲み会をしたり、時には家族の愚痴をいったり和気あいあいとしていたりします。そっちが本来のイエになってしまったのですから。

その寂しさを紛らわす職場などの共同体が外にはみあたらない母親が、時に息子を見えない糸で幽閉してしまうのです。母親は困っているといいながらも、甘美な日々を味わっていることでしょう。世間は世話をしつづけるやさしい母に同情することはあっても、幽閉したとはいいません。夫は(つまり父親は)息子が妻の寂しさを埋めてくれて、心の奥底ではほっとしているでしょう。息子は身動きの取れない息苦しさを抱えながらも、繭のなかにいる心地よい時間を取り戻し、世間の荒波には出たくないでしょう。安定した母子カプセルができると、それを壊す原因が外からやってくるまでは、そう簡単に解体できません。イエの労働がなくなった家族の真空を「ひきこもり」、という新たな存在が埋めてくれたのですから。

繭からでる季節がやってくる

春が近づいています。ひきこもりの皆さんもそろそろ繭にくるまっていられる、あるいは閉じ込められている長かった季節が終わろうとしているかもしれません。

ニッポンの生産年齢人口の劇的な減少は、頭も体も労働するに差し支えのない100人に1人もの成人を放っておいてはくれません。資本主義が人手を必要とする限りにおいて、政府はその供給のためにあらゆる手を尽くすでしょう。まずは母親たちが人手として駆り出されて、もう寂しさのために息子たちを幽閉しておく必要も時間的余裕もなくなってきました。それに、他にも楽しみのたくさんある社会で、息子を家に飼っておくなんて面倒なことに忍耐できる女性が、そもそも減っています。繰り返し述べてきたように、次世代の母となる娘には、そんな忍耐強い母親になるような教育をしていないのですから。逆にいうと、夫より先に逃走してしまう離婚や、夫へのDVやネグレクトや子どもを追い出してしまうような虐待が増えていくでしょう。

たとえ「日本の文化」になってしまっていようと、KaroshiとHikikomoriを同時に減らすために法制度を変える方法はいくらでもあります。ほどよく働いた人がほどよく暮らせるように守られればよいのです。家事や育児をふくめた労働の果実が、回り回って会社や政治家の「お友だち」のところに死蔵されずに、人々のふところにちゃんと届くように。

母と息子の関係が変化するとき、ついに労働のシステムにも波が到達するでしょう。ただ流されていく働き方だけではなく、時に立ち止まりながら働けるような仕組みが模索されなくてはなりません。どちらが先になるのかわかりませんが、この道では続かないことを、私たちは身をもって知っているのですから。

1 超非常識すぎるひきこもり・ニート脱出法! ちゃんと解説編。だから頑張っちゃダメなんだってば!
2 マイケル・ジーレンジガー,2007,ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか,光文社.
3 斉藤環,2016,ひきこもり文化論,ちくま学芸文庫.

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。