第5回 母は稼いで世話もする

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

「サザエさん」以来の新聞連載ファミリー漫画の系列にあって、西原理恵子の「毎日かあさん」は新鮮な驚きもたらしてくれました。「ちびまる子ちゃん」でも「あたしんち」でもそうですが、ファミリー漫画に出てくる母は、多数派でもないのにいつも夫だけが稼ぐ専業主婦でした。「毎日かあさん」は、自ら稼いで世話もするシングルマザーの日常を描いています。ちなみに作者の出身地は高知県。47都道府県別の相対離婚率という指標で見ると3位に入っているくらい離婚の多い土地柄です。西原さんもひとり親2世代目。しかし日本で離婚が増えているといっても、まだ少数派にちがいありません。それなのに、2人親の専業主婦しか登場しなかったファミリー漫画の世界に殴り込みをかけた「毎日かあさん」が人気をつかんだのはなぜでしょう。ニッポンの母と息子という関係性からみると、王道を歩んでいるからだと思うのです。今回は「毎日かあさん」に仕込まれている母と息子のエピソードを拾いつつ、ニッポンに登場した次世代型の母親像を考えてみます。

 

父の不在から男捨離へ

日本のたいがいの家族には父の姿が日頃からみえません。家庭内別居とすら認識されていない長い不在の時間。結婚当初ならともかく、子どもが生まれてしばらくすると夫と妻の意識はすれちがい、妻は母役割に移行して子どもとの情緒的な関係をつくりながら、夫婦間はサバサバした経済/生活能力の交換という関係に変わっていくことが多いでしょう。「亭主元気で留守がいい」はいまもおおかた真実だし、夫婦の情緒的なつながりはそれほど強くありません。配偶者との離死別は男性にとって寿命を縮めたり自殺願望を抱きやすくなったりするのですが、女性はそんなこともないのです。
 となると、母が稼げるようになったとたん父が男捨離対象になってしまうのも、しかたがなさそうです。個人的な見立てでは、稼げてかつ生活能力の高そうな女性に結婚願望を抱く男性は主に2タイプ。この人なら稼いで世話もしてくれそう、という強い女性に頼って依存して生きたい人、もう1つのタイプは自分も稼げるし生活能力もあるなかで、同じように歩んでいけそうなパートナーを探している人。西原さんの亡くなった前夫はどちらかというと、依存したいタイプだったようにみえます。
 でも、ここが肝心なのですが「強い女性に頼って依存して生きたい」男性が好きになる女性は、自分が稼いで世話をすることで、精神的には男性に依存をしていたりもします。いわゆる共依存ですね。どんなカップルにも共依存的なところが少しはあったりするのでしょうが、ドメスティックバイオレンス(DV)に陥っているカップルは重度に共依存に陥っています。西原さんは前夫がアルコール依存症で、彼からDVを受けていたと公言しています。子どもが生まれた直後の自分の立場が弱い時期に、書いている漫画を破られたこともあるとのこと。当時は共依存の罠にはまっていたのかもしれません。強い意思で男捨離しその罠から抜けたのですから敬服します。
 DVとは夫がか弱い妻に暴力をふるうものと考えている人がいるとしたら、それは違います。殴らずにはいられない男たちとその妻への生々しいインタビューをまとめた本に出てくる妻は職業を持ち、聡明で可愛らしい、という例が目立ちます[1]豊田正義,2001,DV:殴られずにはいられない男たち,光文社新書.。世話をするのが生きがいという女性は、働き者で社会でもうまく立ち回る人なのです。DVは日本でも、結婚したことのある女性の5人に1人が経験[2]配偶者からの暴力に関するデータ,2017(http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/pdf/dv_data.pdf),内閣府.しているというほど日常的なできごとです。私もこれまでの人生で幾人ものDV被害を経験した人と出会いました。被害にあった当事者は、美しくて情が深く働き者で頼り甲斐のある女性ばかり。もちろん被害者は女性ばかりとは限らないのですが、いまのところは女性の割合の方が高いのも確かです。被害者である女性が、必ずしも経済的には依存していなくてもなかなか別れられないのは、その依存関係が精神的なものだからでしょう。

 

息子愛への移行

男捨離したDV被害者はもちまえの愛情と働き者ぶりを、仕事と家族の維持に注ぎ込みます。一番愛情をかける対象者が息子になりやすいのです。もしかすると逆なのかもしれません。息子が産まれると妻が愛情を子どもに注ぐようになり、全力で愛情を注ぎつづけてくれると期待していた大人になりきれない夫が嫉妬心に苛まれ、父になりきれずに妻に甘えて暴力をふるうパターンです。もともと「大きい子ども」として妻と結婚してしまっているタイプの男性が直面する悲劇ですね。ちなみに、このときに妻が子どもよりも夫への愛情表現を優先させると、子どもの虐待に至ります。稼いで世話もする力のある女性であればそうならなくて済みそうなものですが、乳飲み子をかかえて生きていくのは大変で、夫と子どもの間で立ち往生してしまう女性がいても不思議ではありません。
「毎日かあさん」は稀にみる、リアルに登場する子どもを成長させていくファミリー漫画でしたので、移行していく息子愛の一端を垣間見せてくれました。誤解のないように付け加えておくと、漫画とは虚構の世界ですし、ご自身でも語っているように西原さんはあえてつくウソを楽しんでいるので、現実かどうかなどわかりません。でも、自らの家族と地域生活を世間にさらしてネタにしながら、母たちのツボにハマるポイントを見つけ出し描かれた表現はかなりリアルでしょう。
 そもそも論からいうと、子どもの周辺をネタにするという母子関係も昨今のトレンドを象徴します。インスタグラムの世界で子どもとペットは定番の画像として溢れています。子どもが成長した時に、これから問題化するケースもあるでしょう。「毎日かあさん」が大新聞で連載し続けられたという事実を裏返してみると、母が子や夫のプライバシーに配慮する必要は特段ないと、世間も考えているからなのでしょう。母と子が一心同体だと考えるから許されるのです。子どもどころか西原さんは夫を家事・育児ばっちりに「しつけ」てしまった奇跡の主婦を「トップ・オブ・ブリーダー」と呼んでいます。リスペクトした上でのジョークですけれども、私はこういう話であまり笑えません。
 また、西原さんは、「息子や娘の悪口は『大好きな恋人の悪口』なんです。」[3]西原理恵子,新作は「卒母した女性の悩みや第二の人生描きたい」(https://mainichi.jp/articles/20170519/mog/00m/040/016000c),2017.5.22,毎日新聞.と語っています。いまは恋人である高須クリニック院長のことを、世間に向けてクサしてみせるのも、愛があるゆえなのでしょう。そういう愛の表現をニッポン社会は歓迎してきたと思います。例えば、人前で家族を褒めることを、日本ではあまりしません。夫は妻のことを愚妻と呼び、妻も夫を立てているようで裏でこき下ろす、子どもの醜態をさらす。そうしつづけていないと、「家族の自慢をしてる」と嫌がられます。身内自慢はご法度です。でもそれは、身内愛があるがこその裏返しと受け止められます。
 とにかく親族や身内だと驚くほどに無条件に甘えてよい関係となるのです。私はこの関係性には慣れていないのですが、時に真綿にくるまれているように心地よいものだという感覚も知っています。結局、自分もアメリカ人みたいにはなれないなあと実感しています。アメリカで子育てしている知人が家族について話すのを聞いて、身内だろうと何だろうと褒めるのがあたりまえなので、「ご家族共々よい一年でしたね!」と反応すると、「いや、そうでもないんだけども、そういう風にいいことを並べることになっているからね」って返されたりします。無条件に家族を一体視してはいけない、という規範が社会にあるからこそ、自分の家族のことでも他者として褒められるのです。

 

「ダメ息子」と「しっかり娘」というお約束

「毎日かあさん」が時代の鏡であるならば、子育てにおけるジェンダーのギャップはまさに拡大中のようにみえます。「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「あたしんち」で展開されるヤワな男の子女の子区別など目じゃない、明快な差別表現のオンパレードだからです。実際、ダメ息子としっかり娘という定番のオチは、西原家に限定されずに保育園でみる一般の子どもの様子として描かれています。たとえば、保育園にお迎えにいくシーンの冒頭、
「女の子はおひめさまやおままごと。育て分けたワケでもなく自然と遊びが分かれている。」という解説からはじまって、
「園庭のすみに3〜4人ほど毎日必ずドロの中にすべり込んでカキフライになっているお子様たち」が 年中/年少の女の子にさえも「男の子ってやーね」「ほんとね」と揶揄されるおバカな面々であるという描画。(毎日かあさん:カニ母編)

ほかにも、「漫画を描き始めて話しかけてくれるのは男の子のお母さん」というオチの「共感」というコマでは、男の子のぶっとびエピソードが連続します。
「犬のウンコを食べた」「家の二階をこわされた」「小4でお母さんべったりの甘えっ子で風呂に入る」。という具合。
「女の子なら一緒に喫茶店に入れて公共の場でしからなくていい」らしい、というしめくくりとなります。(毎日かあさん:お入学編)
 さらに、強烈なセリフが入っている母と息子のツーショット一コマ漫画もあります。
「息子は犬くさい」(毎日かあさん:お入学編)

めちゃくちゃかわいいんだろうな、と思わせますが、そのかわいさは溺愛されるペットの領域に達しているという心象が読者に植え付けられます。すぐ次のページには「ウソ泣き」する娘にだまされない、という内容を扱った漫画があります。幼くても娘はすでに「自分に気のあるまぬけ男」や「父親」を騙すテクニックを持っている女で、母親にはその手が通じないから「うそ泣きするな」というオチとなっています。女性を小悪魔化して描く手法は聖女あつかいと同様に伝統的なジェンダー秩序づくりの定番ではありますけれど、娘のことは幼い頃から(自分と似ている!?)対等な人間として扱っている、という意味では、むしろ女性を持ち上げているともいえます。
 ほかにも、ツイッターで「#アホ男子母死亡かるた」が人気だったそうです。昔から繰り返されていた男の子のおバカぶりを嘆き合う井戸端会議を、誰もがSNSで発信/受信できる時代、目にみえて存在感を示すようになりました。書籍化もされています。これがフェミニズムを経た時代の社会の語りであると考えると、絶望的な気分になります。なぜ、#アホ女子父死亡かるた、にならないのでしょう。女の子にはアホでいる自由すらないのです。「母死亡」という自虐は、「アホ息子」に苛まれる自己犠牲を楽しむ「マゾ母」宣言にしか、私にはみえません。

 

男の子は劣化するのか、させられるのか

男女に生物学的な差異がある程度見られるという事実に、私も異論はありません。でも、生物学的な違いでさえも時に曖昧になるほどに、人間の性のありようは多様です。生まれ落ちた瞬間から人は男女を区別して扱われるし、あらゆる言説がジェンダー化されているなかで子どもたちは育ちます。「自然に」分かれているようにみえても、すでに生まれ落ちた時から恐ろしいほどの不平等が与えられ、3歳にもなればもう男女2分割の世界に馴染んでいるのです。それでも、社会や文化がつくりだした性別役割は地域や時代によって劇的な違いがありますし、人間の個性はいとも簡単に男女の2分割を乗り越えてしまうほど、ユニークなものだと私は信じています。
ところで先進国では共通していまや「男子の劣化」が問題になっており、アメリカでは歴史上はじめて30歳未満で学力的にも経済的にも女性が男性を上回りつつあるようです[4]フィリップ・ジンバルドー/ニキータ・クーロン,2017,男子劣化社会,晶文社.。かわりに男性が育児や家事を劇的にするようになったかといえば、そういうこともなく育休をとることすら不名誉であるとみなされてしまう状況がつづいています。結果として女性は全世界で「稼いで世話もする」ようになりつつあるのです。
 ただし、ニッポンは4年生大学への進学率で男性がいまだ上回る先進国ではめずらしい社会です。お約束のように広く語られる「ダメ息子」と「しっかり娘」は、成長の途中のどこかで、するりと入れ替わりを迫られているわけです。そんなに簡単に「ダメ息子」が真面目に勉学にはげむようになり、「しっかり娘」が脱落していくのだとすれば、まるで手品のようではありませんか。手品には必ずしかけがあるものです。例えば、振り返ると私の時代ですら公立の高等学校に男女差別の定員割合がありました。定員は露骨で、男2人に対し女1人の比率でした。旧制高校時代には女性が入れなかったのに比べればこれでも十分だろう、ということだったのでしょう。人口比ではありえない進学校定員の差別状態は、憲法で男女平等がうたわれた戦後40年間も続いていました。1985年の女子差別撤廃条約以後に、ようやくほぼ半数ずつの定員制に変えられたのです。
 このように少し前までは「ダメ息子」を「立派な息子」へと置き換えるシステムが目に見える形であちこちに残っていました。「しっかり娘」でもないのに貴重な公立進学校に席を1つ確保してしまった私に対して、近隣の男の子の母親から「女の子に進学校なんてムダ」と嫌味をいわれたこともあったと、後で母が語っていました。「女の子なんてどうせあとで伸びない」とか、「理系クラスなんて行ってどうするの」とか、女同士の自虐的会話も含めてあらゆる世間の雑音のなかを、泳いで生きていかなくてはならないニッポン女性。悲しいことに日本女性は大学卒の方が自殺願望を抱きやすいといわれるのは、そんなあたりに理由があるのかもしれません。
 ふと恐ろしい考えが頭に浮かびました。幼い頃にしっかりしており褒めそやされた娘が大人になって、昔ダメだった息子たちが立派な地位についていく様子をみたら、どう思うでしょうか。そしてどのような行為に走るでしょうか。無意識に自分の息子を通じて男性に復讐してしまうのではないでしょうか。「ダメな子ねえ」といいながら可愛がることによって。戦後日本には、男女平等を歌う民主的な憲法のもとで思想的にはリベラルに育ちながら、親たちに「女なんだから」といわれて泣く泣く高校や大学への進学を諦めた人が大勢います。そのしっかり娘たちは、母親となって目に見える行為としては、立身出世をめざすために子どもをビシビシ教育しているようで、無意識の力で男の子を劣化させてしまっているかもしれません。

 

母親業はやめられても、母はやめられない

ところで、西原さんは今年「卒母」宣言をしています。ちょうどこの連載の第1回「母親業はやめられない」を執筆した後のことでした。第1回の原稿を書き始めた当初、私は母親をやめることと母親業をやめることの区別が曖昧でした。編集者に「母はやめられないですよね」と指摘されて、母親という存在であることはやめられない、と気づいたのでした。西原さんの「卒母」はどちらなのでしょうか。
その後、卒母のススメは新聞連載されて次々と卒母の試みが投書されていますけれども、やっぱり母親の皆さんも区別は曖昧なように見えます。家から出て行く子どもを見送ってさびしい卒母、男捨離とかそうやって強い言葉で家族を捨てていこうと言い聞かせている母たち。その反転ぶりが読んでいると時に痛々しく、怖いと思うこともあります。
例えば反響の大きかった55歳のペンネーム「疲れた母」さんが「努力は実を結ばないのね」というタイトルで書いた投書ではこんな具合です。
「保育園や学校の給食表を冷蔵庫に張り、献立が重ならないよう手作りしていたのに、今じゃカップ麺大好き男に。」
「疲れた母」さんは、丁寧な生活習慣を大切にするよう育てた息子たちが、その教えに反することばかりをやっている様子に「徒労感いっぱいで、私は卒親する気満々だ」そうです。そして最後に、「努力が全く実を結ばない世界があるってこと、教えてくれてありがとう。」と締めくくられていますが、アイロニーっていうには、生々しすぎて笑えません。この人はほんとうに徒労感を抱えているようですし、息子の立場からみればありがた迷惑でしょう。
 母親業を一所懸命に営んできた人ほど、卒母という強い表現に憧れるように思います。まして母が稼いで世話もしたとすれば、どれほどのエネルギーが子どもに注ぎ込まれたことか。現代の母親が卒母したくなるのは、当然かもしれません。そこまで母親業に肩入れしなかった私は、卒母宣言をしたくなるほど熱意はないのですが。自分が母である事は動かしようのない事実ですから。人生のひと時、自分をかたちづくった母であるという関係性を消し去る事などできませんし、余韻は味わってもよいと考えています。むしろ夫や職場や友人や地域などあらゆる人間関係のなかの1つの役割でしかない「母であること」に、世間があまりにも過剰な視線を注ぐのを日頃からやめてほしい。母なんだから、単身赴任までして働くわけにはいかないでしょう? といった、明確な雇用差別は至る所で行われています。週末の新幹線はいまでも単身赴任の「お父さん」ばかりが目立ちます。
 しっかり娘でなくても、子どもがいなくても、母になっても自分の個性を活かせる人生を女性が手にしてはいけませんか。女性だからといって「母親業」にみんなが向いているわけでもないなかで、「母親業」をお任せされても、時に子どもに迷惑ですよね。日本でも産みの親と育ての親がいつも一致してきたわけでもありませんし、母親業と母となることをもっと分離してもいいはずです。そのときようやく、女性が無意識に「ダメ息子」を育て、「しっかり娘」に手渡すという、うんざりする連鎖は繰り返されなくなるに違いありません。

 

1 豊田正義,2001,DV:殴られずにはいられない男たち,光文社新書.
2 配偶者からの暴力に関するデータ,2017(http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/data/pdf/dv_data.pdf),内閣府.
3 西原理恵子,新作は「卒母した女性の悩みや第二の人生描きたい」(https://mainichi.jp/articles/20170519/mog/00m/040/016000c),2017.5.22,毎日新聞.
4 フィリップ・ジンバルドー/ニキータ・クーロン,2017,男子劣化社会,晶文社.

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。