第2回 母は捧げる

母となった人の多くが「息子が可愛くてしょうがない」と口にする。手がかかればかかるほど、可愛いという。女性たちは息子のために、何を置いても尽くそうとする。それは恋人に対するよりも粘っこくて重たい心かもしれない。息子たちは、そんな母について、何を思っているのだろうか。そのような母に育てられた息子と、娘たちはどのように関係を作っているのだろうか。母と息子の関係が、ニッポンにおける人間関係の核を作り、社会を覆っているのではないのか。子育てを終えた社会学者が、母と息子の関係から、少子化や引きこもりや非婚化や、日本に横たわる多くの問題について考える。

母親とは自己犠牲をいとわない人であると信じられています。幼い頃からあらゆる自己犠牲の物語 を読んできた私にとっても、この言葉は崇高なものです。自分の体をおおう金箔をツバメの力を借りて貧しい人に届け、最後は朽ち果てたオスカー・ワイルドの「幸福な王子」。誰でも一度は聞いたことがある物語でしょう。自己犠牲をいとわなかった人の物語は、東日本大震災のときリアルな世界にいる生身の人間のストーリーとして数多く登場しました。津波からの避難を呼びかける放送を続けながら、自らは避難をせずに亡くなった女性職員の逸話は、小学校の道徳教材にも使われています。

自分にはそんな自己犠牲ができると思わずに人生を歩んでいても、母親になったとたん、誰もが子どもに身を捧げることが期待されていると、女性は気づくでしょう

誰のための自己犠牲か

どの社会にも人のために命を捧げる人はいます。人間は利己的であると同時に利他的な生き物なのですから。ところが日本では、自分よりも他人の命を優先させる究極の自己犠牲さえもいとわないことこそ美徳であると繰り返されると、 どこか違和感を覚えます。ニッポン社会でいまでも際立っているのは、身近な関係性に限定した自己犠牲の強要であるように思います。家族や地域、職場など普段出入りする場で人は忠誠を誓い犠牲を払うよう期待され、母親はその象徴的存在なのです。

かつて日本人の所属がイエであった時代、人の役割や地位はわかりやすいものでした。イエの嫁という地位にある人が外部の集団で重要な仕事をしている、ということはめったに起きません。嫁、あるいは母親という役割に殉じて身を捧げれば自己犠牲をいとわない人といえました。しかし、誰かの母親であることが人生のすべてであった時代が終わった現在、女性も母親だからといってすべての役割において自己犠牲的にふるまうわけにもいきません。子どものために捧げずに、会社のために身を捧げている人もいるでしょう。あるいはもっと広く世のために捧げているかもしれません。「自己犠牲をいとわない人」とは、実際どういう人なのか、そう簡単にもいえないはずです。

子どもを産むと、女性には母親役割に貼り付けようとする社会の強い圧力が働きます。例えば子育て中の母親がインターネット上で書き込みをして情報交換をする掲示板[1]ママ⭐スタジアムBBS「母親なら何もかも自分後回し、我慢が当たり前?」(http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=2312384に「母親なら何もかも自分後回し、我慢が当たり前? 」と投稿がありました。そこには共感も寄せられると同時に「それってストレスを感じることなのか」と母親たち同士で疑問が出されたりもします。母親像をつくるのは同じ母親でもあります。我慢だと思ってるようではすでに失格で、母親たるもの気づかないうちに身を捧げているということもめずらしくありません。

日々の積み重ねにとどまらず、子どもに身を捧げることが自分にとって人生そのものとなっている母親もいます。とある海辺にほど近いレストランで出会った店主は、3人の成人した息子の母親でした。とうに還暦をすぎた彼女は、3人のうち嫁のこない息子が1人いるので、「これから私はその息子に一生を捧げる」と力説してくれました。けれども、母親の生涯は息子よりは通常短いのですから、努力しても最後までお世話できるかどうかわかりません。自分が先にお世話される対象になるかもしれないという考えは、彼女の頭には浮かんでいないようでした。

こういう発想は特殊とも思えません。たとえば息子がケガや病気でもしようものなら「何を差し置いてもすぐ駆けつけないと」と考えてしまう女性たちが知人のなかにも数多くいます。子どものいるいないは、意外と関係ありません。客観的に考えて、その場に居合わせているのでもなければ、母親だからといって専門知識もないのに現場に近い人たちより早く適切に対処できるはずもないのに。仕事もあるし、他人に看病は任せるしかないでしょう、などと淡々と話そうものなら驚かれること請け合いです。身近な家族の体調が悪ければ心配でたまらないのはもちろんですけれども、母と息子には特別な絆があるのだという神話が世間には満ちています。

母親が幼い頃のケアする人そのままの感覚で、成人男性となった息子を支えなければと女性が感じている様子をみると、時に病理すら感じます。不思議なことに、娘がケガや病気をしてもそういう強い反応は生じません。女性の周りには必ずケアしあえる女性仲間がいると安心されているからでしょうか。男性の友人がいるだけでは心配で、自分の代わりにきちんとケアしてくれる彼女がいれば安心するという心理が見え隠れすることもあります。

そうやって息子はいまも母から嫁へと手渡されるものとなるのでしょう。大切に手塩にかけて育てられた息子を引き受けて、お世話できる嫁を見つけるのも大変だと思うのですが。お義母様がた、あなたの大切な息子につくすことなどいまどきの女性たちはできません。なにせ、つくし捧げる自分の母親をみて「あんなことは到底できない」と思って育っている「不機嫌な娘」なのですから。その一方で、つくし捧げられることに疲れている息子もいます。あるいは、「捧げられても困る」と意識しているのかもしれませんが、その心理は複雑でしょう。無意識にはつくしてくれた母親像がしっかりと横たわっているのですから。

当たり前の母親像とは

世間では当然すぎて自己犠牲とはなかなか思われない母親の行為をあげてみましょう。まずは、人間の生存に最も基本的な行為である食う、寝るあたりから。掲示板のトピック「母親なら何もかも自分後回し、我慢が当たり前? 」でも「食べ物飲み物を自分の分を子供に分けたり全部あげたり外食も自分が食べたい物じゃなく子供の希望に合わせたり」していると書いてあります。

あらためて振り返ると、子どもに捧げていないつもりの私でさえ意外にやっていたかもしれないと愕然としました。食事のメニューを考える時って、確かに子ども優先。まあ私はグルメでもなく、これもっと食べたい!とか好き嫌いが多い方でもなかったから、さほどストレスにはならなかったのでしょう。けれど、昼間仕事に出て外食できていなかったらどうなっていたことか。食べ物の恨みは怖い、っていいますし。

子どもが幼くても、仕事をしている母親なら週末の家族中心生活でためた我慢を、平日ランチの自由選択で癒せたりします。辛いのがダメな子がいたので、好きなエスニック料理とかは外食専門でした 。主婦たちが出かける昼間ランチって実はそういうことなんでしょう。家では夫子ども中心の食生活で時折友人と好きなものを食べる時、ビュッフェスタイルが人気なのは皆が好きなものを食べられるから。でも、乳幼児がいる専業主婦は常に子どもと行動していおり、大人食を取り分けなくてはならなかったりするので、相当に合わせている感じになるでしょう。

寝るほうの自己犠牲は、確かに生まれた時から子どもに要求されます。生後しばらくは数時間置きに赤ちゃんがお腹が空いて泣きますから起きて乳をやらざるをえません。母乳をあげているとなると、これだけは父親と交代できないんです。授乳は自己犠牲する母親の原点かもしれない。子どもが生まれた後は、一度でいいからぐっすりと朝まで眠りたいという願望を持ちました。でも、それさえ回避しようとする母親も世界ではめずらしくもないようで、ミルク派のフランス人が「妻と交代でやってるよ」といったのを聞いて、うらやましい、と心から思いました。夫と交代するという考えは私の頭にも浮かんでいませんでした。

では、遊びの方はどうでしょう。ひところ騒がれた母親がパチンコに夢中になっている間の、子ども熱中症死はさすがに言語道断の不注意でしょうけれど、掲示板での叫びでは「見たいテレビも見られない、逆に見たくないテレビを子供が見たがるから見なきゃいけない。行きたいところ(買い物とか旅行とか)も我慢。独身の友達からの誘いも子供がいるからって我慢。」このあたりが意見のわかれるところでしょう。

子どもをおいて遊びに行ったりすることへの抵抗感が妙に強いところが、日本社会で独特だと思います。美容院や居酒屋など、最近でこそ子どもを連れてきても大丈夫な場所が増えていますけれど、むしろ「子どもを置いて遊びにいく」はまだハードルが高いようです。小さい頃からベビーシッターに預けて遊びに出かけていた母親には、めったに出会いませんでした。ベビーシッター代が高いからという経済的理由もあるでしょう。祖父母や親族にそうそう「遊びにいく」と預けるわけにもいかないし。仕事が夜間休日に入って保育園に預けられないとか、体調を崩したとか特別な理由でもなければ、預けて出かけにくいのです。

でも、もう1つ重要な理由は、日本ではカップルで出かけるという文化がないため、母親だけが家に取り残されて当たり前になるということでしょう。欧米の社交の伝統では根強くパートナー同伴を要求されます。北米の高等学校で行われるダンスパーティー「Prom(プロム)」あたりから、すでにカップル参加への強制は厳しいといわれます。子育て中だろうと、夫婦で外に駆り出されやすくなり、仕方がなくベビーシッターに預けて外出することになるはずです。レストランも1人で出かけにくいし、逆に単身者にとって肩身の狭い社会だといえます。結果として、母親だけが子どもの面倒をみるということから免除されます。

成長してもつづく母の奉仕

ところが、母親が自宅周辺に留め置かれがちな傾向は幼いころだけに限りません。たとえば、受験期にも母親は自宅からなかなか出られなかったりします。もともと少なかった夜間の外出を一切控えたり。子どもが2人もいると、中学、高校、さらに大学受験、と頻繁に受験期、というものが訪れるため、母親業を人生の中心にすえる知人とは会いにくくなります。この理由は実際面からもよく理解できません。本人が受験するのに、母親が待機すると何かいいことがあるのでしょうか。結局、病気やケガへの対応と同じで、側にいることによる精神的サポート要請なのかもしれませんが、そんなに弱々しいものとして息子を扱っていて本当に大丈夫でしょうか。

また、子どもがサッカークラブに入ったりすれば、 親に送り迎えとか引率のボランティアを要請されることがあります。子どもが「サッカーやりたい」と言ったとき、付随する奉仕の時間を提供できないからとはっきりダメだしをする母親もいます。付き添い奉仕の時間を要求しない地域クラブも増えていると思いますが、一般には奉仕活動に身を捧げている母親たちが多数いてようやくスポーツクラブは運営されています。母親が自分の時間を確保しようとするのか、子どもの希望を叶えるために自分の時間を捧げるのか、明確に二択を迫られる場面が、ここで確かに生じます。このとき、母親がこうあってほしいという息子像/娘像と、子ども本人の自己像の乖離があらわになるのです。

スポーツの世界ではいまも男性はプレーする人、女性は応援する人、というイメージが残っています。特に日本の部活動では「女子マネージャー」の存在が制度化されているので、その関係が子どもの活動にそのまま持ち込まれています。子どもが減っているこの時代、日本で母親をしている人には体育会の女子マネージャーを務めていたとか元スチュワーデスとか、お世話をすることが大好きな人も多く、息子がスポーツクラブに入ろうものなら、お手伝いするのは当然と考えます。というより、そういう生活を夢見て結婚/子育てしていたりするので、「こういうの夢だった。息子のクラブでマネージャーをするのが心から楽しい!」と生き生きしている人もいます。彼女たちがクラブのお手伝いを自己犠牲などと思うことはないでしょう。でも、休日は外に出るのも億劫で、家でカウチに映画みたり読書したい、という母親にとってみたら、早朝から20人もの‘元気なガキども’を連れて試合に引率するなんて苦役かもしれない。まして、翌朝から仕事に出かけるからなどと、言い訳なんかできませんからもう体力勝負の世界。

このように、奉仕して当たり前の母親像は子どもが成長しても、かなりハイレベルで持続するのです。高校の部活動でさえも、母親の支援で成り立っている場合があるという実情を聞くとさらに驚きます。まさに母親業とは保育園さえ作れば代替してもらえるような、短期的な稼業ではないのです

自己犠牲が子に抱かせる罪悪感

でも、少し前の母親たちがしている自己犠牲はそんなに生やさしいものではありません。社会全体が貧しいなかで払われる犠牲とは、生存にすらかかわります。山村賢明は名著「日本人と母」[2]山村賢明,1971,日本人と母,東洋館出版社.のなかで、知名人が母を語るラジオ番組を分析しました。番組は1961年から1964年までのもので、割合としては男性の40代以上が半数近くでした。最も主要な語りとは、「母は苦労している」ということなのです。苦しみのなかでみられるという2つの特徴は、「たえる」と「つくす」となります。事象をみると、父に女ができたけど我慢、とか食べる量を減らして子どもにあげる、とか果ては操を金貨に売る 、など壮絶です。父の暴力を子どもの代わりに受け止めて怪我をしたとか、現在ならDVとして法の介入がなされるような内容が公共の電波で放送されている時代。しかもこれは生活の貧困と関係がないといいます。子どもの側には、かように重たい母の犠牲には報いることができないという罪の意識が派生しているという指摘が興味深いところです。

また、この著書では、1962年頃に行われた内観法による非行少年の母への語りが分析されています。分析対象者はすべて男性です。知名人とは逆で、社会的には望ましくない行為を働いた息子から語られる母親の特色をみると、奇妙にも結局のところ「たえる」と「つくす」でした。献身的母が、自らの生命をかけて子を守ろうとする場面の事例が出ているので、紹介しましょう。

 

「中学二年生のときのこと、友達と遊びまわって夜遅く家に帰ってきた。“お前のような不良は親類にも顔向けできない”と父に殴られ、自分は反抗して殴り返した。その時、母がかばったのが気に入らず、“母がきょうだけは家にいてくれ”というのに、“ほっといてくれと”家をとびだした。後を追ってきた母は“そんなにいうなら、この電車にとびこんで一緒に死のう”と線路にシャガンだ。」

 

おなじような逸話が、知名人の母の語りにも登場するそうです。知名人という「立派な息子」であろうと非行少年という「ふがいない息子」であろうと、同じように「たえる」と「つくす」という自己犠牲する母親像を持っている。このように、自己犠牲的で献身的な母親だからといって、その苦労が報いられるかどうかすらよくわからないという事実がここに示されています。

では、なぜそこまでして母親たちは、苦労しているのでしょう。子どもに深い罪悪感を抱かせて、母親は子どもを情動的にコントロールしようとしていると著者は指摘しています。「この電車にとびこんで一緒に死のう」などという情動的なコントロールが子どもに対して効果的であるとすれば、母親本人が身を呈している、つまり苦労し、耐えて自己犠牲的に振舞っている弱者であるからです。当時もそんなに耐えてもおらず、生活を謳歌している母親もいたとは思いますが、そういう母がこの方法で相手をコントロールしようとしても、迫力がないでしょう。社会的に弱者とされてきた母親が、相手を支配するために残された唯一ともいってよい方法こそ、自己犠牲する姿をみせることで子どもに罪を負わせる逆転技なのです。

平等に強要される自己犠牲

再び最初の疑問にもどりましょう。母親は誰のために自己犠牲を払うのでしょうか。スポーツクラブで奉仕活動に入れ込む母親は、全ての子どもに惜しみなく捧げる人もいます。けれど、自分の息子に限定して奉仕したい人が多いでしょう。どのみちいつも送り迎えして息子の練習や試合を見に来るなら、付き添い活動を希望する母親中心でやってもらえないかな、と思ってもそうはいきません。そんな話題を出したら、「自分の子どもを見ていたいのに、付き添いをしていたら見られないでしょ。」と返されたこともありました。彼女たちは自分の息子のために通いたいのであって、クラブ全体の子どものために働きたいわけではありません。

母親たちはPTA活動に熱心ではなくても、子どもの習い事や塾のサポートや送り迎えには時間を惜しまないのと同じです。身を捧げる理由が第一義的に子どもの「業績達成」である限り、現代日本では娘よりはまだ地位達成の見込みが高い息子に、肩入れがなされやすくなる理由もここにあります。あるいは、冷徹に「才能ある子ども」だけにお金と時間を使う母親もいます。

結果として、地域では「母親なんだからみな平等に」奉仕活動を分担させられることになり、ひとり親や常勤職の母だからといって容赦もありません。運営委員など重責を担っている人が「人の子どものために奉仕して、自分の子どものために時間が使えなくなるPTA活動って何なんだろう」とつぶやくのを聞いたことがありました。重責を担っている人の多くは地元の篤志家で、自分の子にも他人の子にも尽力されている方なのです。

母親なんだから、という女性の平等主義はとにかく過酷です。子どもが小学生ともなれば皆仕事を持っている時代となり、押し付け合いは熾烈です。手が空いている人がやればいいという余裕のある牧歌的な時代が終わりました。男性はこの平等主義からは排除されるため、母親がわりの役に父親を差し出すと、軽いお仕事が割り振られたりもするのですが。学校の先生方の母親に対する期待値も高く、学校での忘れ物が続いていると小学校高学年であっても「お母さんがちゃんと忘れ物がないかチェックしてあげてください」と言われます。「本人に努力してもらいたいので、手伝いません」と私はお話しましたが。よほど根性がないと言い返せないでしょう。

このように、母親となった日には軽く生きようにも、そうもいかなくなるのです。就業でも結婚でも趣味でも、選択することになれた身からすると、逃れられない役割が母親になると次々に課せられてくる。これが社会を作り上げている基本要素である以上、社会は強力に身を捧げるよう、母親に強いてきます。その時に使われる「愛しているなら身を捧げなさい」、というささやき。愛し忠誠を誓うことを強要する会社がどこか怪しかったりするように、ニッポンという社会が強要している母親像を意識化しなくてはなりません。

自己犠牲のおぞましさから逃走する

母親が自己犠牲をしてしまう心理を、フロイトなら女性的マゾヒズムと説明して終わらせてしまいそうですが、自己犠牲の精神が自然に、本質的に女性に備わっているなどと、私はもちろん考えません。どちらかといえば、母親のマゾヒズムがどこからきたのかよりも、母親の自己犠牲が社会にもたらすおぞましさのほうが気になります。

よくいわれてきたように、戦前の日本では軍国主義の体制に母性という概念が動員され、利用された経緯があります。フェミニズムでも母性を、社会的に構築されたものと捉えていることも多いのですが、もう少し根深いものが横たわっていると私は感じます。山村賢明も「戦争の一時期だけに忽然とこの観念があらわれたとは考えられない」とし、「利用され動員されたのは、子にたいして母が持つと思念されていた『力』だと考えるべき」だと慎重に述べています。そうでないと、すべてを捧げてきた愛する息子を、公のために母親が差し出してしまうというパラドックスが理解できないからです。「子を業績達成にかりたてる」という母親の持つ一面が、時代によって戦場へ送ったり、モーレツサラリーマンに仕立てたり、ブラック企業へと息子をかりたててしまうように、変化しているだけかもしれないのです。母は時代に応じた水準の自己犠牲を払い、苦労する姿をみせながら、相変わらず情動的に子どもに権力を行使しているように思います。

日本と同じくファシズムが猛威をふるった国、イタリアでも母親としての自己犠牲の感覚を発達させるべく、働きかけられていました[3]Pickering-Iazzi, Robin, 1997,Politics of the Visible: Writing Women, Culture, and Fascism, University of Minnesota Press.。ドイツのナチズムでおきたことを心理的に考察したE・フロムは、支配する側のサディズム的傾向と、支配される側のマゾヒズム的傾向が絡み合う権威主義とかかわって、ファシズムが発生していると指摘しています[4]エーリッヒ・フロム,1965,自由からの逃走,東京創元社.。フロムはマゾヒズムの源泉を母親の自己犠牲と結びつけてはいないのですが、ドイツには日本に勝るとも劣らない重さで、母親にたいして犠牲を強いる規範があると知られています。そして、イタリア、ドイツ、日本という第二次世界大戦時の同盟国は、先進国きっての低出生率という共通項でいまも結ばれています。この3国の女性たちは、自己犠牲を厭わぬ母親たちと、母親になることやめた女性たちに分断されいるのです。

もし身を捧げる母の行為にファシズムの源泉があるのなら、自分という個を大事に生かそうとする母親でいることこそが、抵抗の前線にいるという態度を示すのだといったら、いいすぎでしょうか。私は長らくファシズムと自己犠牲をする母親の関係性に疑いをかけてきました。母親業を軽くして早期に廃業する態度をとるほうがいいと推奨しているのは、子どもだけのためではない、世界のためでもあると真剣に考えるがゆえなのです。

1 ママ⭐スタジアムBBS「母親なら何もかも自分後回し、我慢が当たり前?」(http://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=2312384
2 山村賢明,1971,日本人と母,東洋館出版社.
3 Pickering-Iazzi, Robin, 1997,Politics of the Visible: Writing Women, Culture, and Fascism, University of Minnesota Press.
4 エーリッヒ・フロム,1965,自由からの逃走,東京創元社.

Profile

1964年、三重県尾鷲市生まれ、愛知県で育つ。早稲田大学卒業後、シンクタンク勤務をへて東京工業大学大学院修了。博士(学術)、社会学者。現在、早稲田大学文学学術院ほか非常勤講師。主な著書に『子育て法革命』(中央公論新社)、『家事と家族の日常生活:主婦はなぜ暇にならなかったのか』(学文社)、「平成の家族と食」(晶文社)など。