第6回 それぞれの人生、それぞれの石丸

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

職場の同僚や友人との会話では、政治と宗教の話はご法度とされている。しかし、私はこの一カ月ほど、どうしてもこの話題を振ってしまうことが多い。東京都知事選挙で旋風を巻き起こした第二候補・石丸伸二氏について――より精確には、石丸伸二氏を見た瞬間にその人が思い出した、「あの時、あなたの人生にいた石丸伸二」についてだ。

私はふだんYouTubeもTikTokも見ない生活を送っているため、都知事選に投票した10代~20代の約4割の支持を得た石丸伸二氏という個人について、誠に不勉強ながら全く知らなかった。顔も、名前も、見たことがない。そんな人物が歴戦の大物野党議員である蓮舫を抑えて2位の得票数に躍り出てきたというから、開票日の夜、私は猛然とテレビ、ラジオ、インターネット上の選挙特番で彼の言動をつぶさに追いかけることになった。

石丸氏と記者とのやりとりで強く印象に残ったのは、些末な言葉の定義にこだわり、質問に質問で返し、論点をズラして相手を見下し、場をコントロールして質問者の口を封じようという姿勢だった。彼にはすべての質問者が「敵」に見えているようだった。彼に質問していた記者やアナウンサー、司会者の多くが東京都民であり、有権者であるにもかかわらず、だ。そのような構えは、様々な動画や報道を確認する限り、少なくとも前職の安芸高田市長であった頃から続いているようだった。

私は呆気に取られた。そして、思わず「まだいたのか――。」と呟いた。そのような思いは、開票日間際になって初めて石丸氏を認識した多くの大人たちも同様のようだった。彼の動画を見て、ある人は高圧的な予備校講師、ある人は前職の苦手な上司、ある人は二度と一緒に仕事をしないと誓った取引先のことを思い出したようだった。みな、SNS上でも、リアルでも、石丸氏は人々を饒舌にする。

私はどうしてもウマの合わなかった小学校の教員たちを思い出していた。四時間目で私語をしていたやんちゃな男の子ふたりを給食の時間まで延々と立たせて説教することを日課にしていた堀先生だ。確かにふたりはスカートめくりなど迷惑行為が絶えなかった。しかし、だからといってクラス全員の前で𠮟責する必要はない。人が叱られているのを前に、誰がおいしくごはんを食べられるだろうか。「恥を知れ! 恥を!!」という石丸氏の決め台詞は、帰りの会の時間になっても彼らを吊るし上げる堀先生の、歪んだ口の端を思い出させた。

幸いにして私はいま、堀先生のような人に遭遇することは少なくなった。そういう人がいる場所から積極的に逃げてきたとも言える。会社に堀先生のような上司がいたら、今頃すたこらさっさの転職一択である。ありがとう、理解のある上司くん。

とはいえ、石丸氏に投票した人々を私は笑うことはできない。なんて嫌な記憶の蓋を開けてくれたんだ、とボヤキはするけれども、こうした強い態度の、根拠がなくても絶対にひるまないタイプの人間が支持を得るのは世の常である。私が大学生の時は、実業家の堀江貴文氏の自己啓発本が爆売れしていた。十数年前の話だ。思い出したくない同窓生が多いかもしれないがあえて蒸し返すと、当時は堀江氏のような「起業家」がもてはやされ、学生起業も華やかりし時代であった。結局、多くの知人・友人はそうした「ベンチャー企業ブーム」を追い風に学生時代のベンチャー企業でのインターン経験を「ガクチカ」に掲げ、めちゃくちゃ手堅い大手企業に就職する道を選んだが、私もその風に全く当たらなかったわけではない。あれから約10年。コロナ禍のさなか、彼が同伴者がマスクを着用していないという理由で入店を断られた餃子店の店主を怒鳴りつけている動画を見た時に、一瞬でも彼のような人間を「最先端で格好いい」と思った経験を持つ自分を大いに恥じた。

10代・20代前半の私は、自信がなかった。社会的には何の実績もなく、自分ひとりで自分を食わせたこともない。両親との愛着も不安定だった。「いま・ここ」にいるための理由を常に探し回っていた。痛みを押し殺して、やたらとハイヒールを履きたがった。世間で「強い女が身にまとうもの」とされているアイテムをカスタムすれば、脆弱な自己を覆い隠せるような気がした。詭弁でもいいから、相手を言い負かすパワーがほしかった。精神的、物理的、性的虐待を繰り返す両親に言いくるめられ、初めてできた彼氏に破局後、周囲にストーカーだと言いふらされた。それらが不当な処遇だと気がついたのは、ごく最近のことだ。ずっと私は自分が弱いせいで負けているのだと感じていた。

「あなたも親になったらわかる」。そう繰り返し両親には言い含められてきたが、自分が当時の親の年齢になるに従ってわかったことは、ちゃんとした大人はやたらめったら怒鳴り散らしたりしないということ。非力な子どもを目の前に物に当たったり、長時間正座をさせたり、手帳を勝手に見て予定を管理したり、信仰を無理強いしたりしないのだ。同様に、「強い大人」は質問をまぜっかえしたり、公衆の面前で相手をせせら笑ったり、罵倒したり𠮟責したりしない。相手にわからないことがあれば丁寧に教えるし、どうしても注意が必要な際には個室に呼び出して切々と説明をするし、なるべく穏やかに和やかにコミュニケーションを図る。どうしても怒らなければならない時は、自分を含む誰かが不当な暴力や差別にさらされた時で、その怒りは共同体の公平・公正に資するもの。隣人は敵ではない。誰もが共に生きるコミュニティの構成員であることを自覚して、長期的な目線を持っている。

私がハイヒールと詭弁を手放すよう努めるようになったのは、就職して、己の知力・体力、キャリアの限界を知ってからだった。私は経営者ではなく労働者だ。何かあれば罵倒する側ではなく、される側だった。限界を知ることは弱さを認めることでもあるが、自分の役割を自覚することでもあり、そのことによって逆説的に私は自信を得た。自身の「傷つき」を認めることによって、自分を傷つけるものからいつでも逃げ出す選択肢を得た。

商業施設での車椅子介助の是非をめぐって議論が起きるとき、必ず「そのために人員を配置したり、施設をリフォームしていたら店の経営が成り立たない」という人がいる。99.99%経営者ではない。経営者目線でものを申せば一瞬だけ自分が強くなったような気になれるかもしれないが、あなたは決して経営者になれることはない。経営者目線を内面化することによる副作用は、あなたの仕事の成果が思うように出ないとき、それが本来はあなた自身の責任ではなく、原因が組織の欠陥にあるとき、あなたの中の経営者が労働者としてのあなたを苛むだろう。「お前の能力が低いせいだ。強いやつは傷つかない。傷つくのはお前が弱いせいだ」。

だから私は、今日も労働者目線で本を作る。土日のメールは見ないし、ノルマをスルーし、能力主義にもとづく自己啓発書、個人の「運」を無理やり引き寄せようと画策するスピリチュアルの本を作ることを拒否し、せっせと個人の権利を訴える書籍を作る。大学生の時に嫌悪した、己の弱さと怠惰さがいまの私の健康を支えてくれている。

ごめんね、社長! 作った本は売れるように、できるだけ頑張っています。定時内で。

 

 

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。

第5回 だから私はレスバする

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

「やっぱり前に出てくる編集者って、嫌だよな~」

SNSに書き込まれた作家さんのつぶやきが、ちくちくと眼球に刺さる。それは、そうですね。本当にそうですよね。私もその意見には大賛成。

編集者は、どこまでいっても黒子。裏方。サポーター。ケアラー。本を作り、本を売るのが仕事だから、書き手を前に立てるのが本来だ。編集者になんて注目してもらっても困る。あくまで著者自身がスターになってくれなければならない。

にもかかわらず、恥ずかしながら当時の私は、前に出てしまっていた。出まくってしまっていた。現在Xを自称するTwitterで、私は、バズり、レスバし、炎上しまくっていた。大量の「いいね」とクソリプを浴びながら、なぜこんなことになってしまったのかと、途方に暮れながら爆走していた。

去年の夏。私は一冊の翻訳書を担当していた。

その書籍は、邦訳を出版すること自体が「社会運動」と呼べるような、鋭い批判性を持ったものだった。その本が書店や家庭の棚に並ぶのを想像すると、わくわくした。新しい言葉が生まれる。新しい概念が立ち上がる瞬間に立ち会うことができる。

しかし、著者は海外在住であり、日本語ができるわけではない。そのため、日本語圏でのPR活動は、翻訳者と、担当編集者である私が担うことになった。この一冊でヘルジャパンを変えてやる。そういう意気込みで、せっせと発信に励んだ。

だが、発信の中で、思わぬ反応があった。

著者や書籍に関する誤情報が広まったのだ。

フォロワーの多い著述家や研究者を名乗るアカウントによって、あっという間に噓が拡散されてしまう。書籍は人目に晒されることを前提に制作されるものであるから、多様な解釈や批判は自由だ。しかし、本の価値を貶めるような明確な事実誤認などは、端的に業務妨害。なので、それらの影響を少しでも小さくすべく、担当編集である私が、一つひとつ引用しながら訂正して回ることになってしまった。

しかしこの時、私も身に染みて思い知ったのだが、誤情報を拡散した人というのは、その時点でもう引っ込みが付かなくなっているので、担当編集者の私が訂正し、撤回するよう求めても、態度は硬化するばかりなのだ。なにかこちらに攻撃できる材料はないか、目を皿のようにして探し、数年前の投稿まで遡って粗を探して反論してくる。

誤情報の訂正、といえば聞こえがいいが、その実際は、激しいレスバだった。

それに当該書籍が扱うテーマは、SNS上では特に「炎上」しやすい、ジェンダー、特に女性の人権について取り扱ったものだった。とかく昨今は、「女性には自由と権利がある」という当たり前のことを主張すると、「女性に男性と同等の自由や権利を与えるべきではない」「現代の女性はつけあがっている」「女性が男性を虐めている」「女性が男性の権利を奪っている」「女はわきまえろ」と考え荒ぶるアカウントから、執拗な攻撃を受けやすい。この本もまた、彼らからしっかり目を付けられ、気がつけば大量の誹謗中傷を受け取っていた。

私も、もし担当書が、小説やエッセイ、詩歌だったら、できうる限り裏方に徹したいと思う。文芸の作家は、作品を通じて神殿を建設する創造主(クリエイター)だ。編集者の我々は、その神殿のお庭の植木を整えたり、建物の内部を掃除したり、玄関にお花を飾ったり、来客者を丁寧に案内して回るのが仕事といえる。しかし、ことアクティヴィズムを体現する書籍については、そんな悠長なことは言っていられない。それはただそこに存在するだけで、誰かが排除しようとする。石を投げる。だからその思想をもっとアグレッシブに伝える伝道師が必要だ。そして伝道師は、時に闘士であることが求められる。

当該書籍の著者は優秀な伝道師であり、闘士だった。そもそも書籍の成り立ちが、彼女がSNSに連投したポストをもとにしたものであり、優れたインフルエンサーだった。しかし彼女は日本語で発信することができない。そこで、彼女の日本語訳された文章を一番読んでいる私が、その役を担おうと思った。幸運なことに、素材は豊富にあった。彼女の論理は、簡潔かつ明快で、簡単にトレースすることができた。そして彼女のあくまでも朗らかでナイスな佇まいは、大いに私をエンパワメントした。やれる、と思った。

結果的に、その予測は当たった。翻訳者の協力も得ながら、私は間違いを訂正し、当該書籍の主張を喧伝し、ありがちな反論には再反論をした。上述したように、女性の権利の話題になると多くの人が感情的に反発するのは、古今東西同じだ。英語圏でも本書の著者はたくさんのバックラッシュを正面から浴びていた。しかし彼女は百人組手の様相で、それらを見事に捌いて打ち返していた。お手本はたくさんあった。

多くの友人が心無いリプライや、会社への電話・封書、長文の抗議メールを受け取る私のことを心配してくれた。誹謗中傷は、反応するとますます激化するのだから放っておくほうがいい、と老婆心で忠告してくれる人もいた。私のことを思ってのことだから、ありがたく受け取ったが、そのどれにもピンとは来ていなかった。私は疲れていたけれど、同時にいきいきともしていた。

私は恵まれている。どれだけ多くの女性が唇を噛んで泣き寝入りせざるをえない状況に置かれてきたか、私は知っている。女性が、出産したら仕事を続けられない、進学や就職で男性よりも不利な状況に置かれる、賃金が低い、痴漢や性暴力に遭えば被害者に落ち度があったにちがいないと勘ぐられる、パートナーが避妊をしてくれない、孤立出産で逮捕される――そしてそれらについて男性は一切責めを負わない――ということ。これらについて私は怒り続けているが、同時に私は声を上げられる立場にいる。私はたまたま、現在紛争のない地域に住んでおり、こうした理不尽を言語化する能力を身につけることができる教育を受ける機会を得て、パートナーに殴られておらず、ひとりで暮らせるだけの経済的・社会的地位があり、言論の自由を行使しても職場をクビになることもないし、逮捕されることもない。私は「声を上げる」という特権を行使しているのだ。

私にも、このような特権がない時代はあった。父と母と暮らしていた時だ。

両親は、私が塾の宿題ができないでいると、「じゃあ塾なんてやめろ!」 食事の味付けが口に合わず、今後からは少しこのように代えてほしいと伝えると「じゃぁもう食べなくていい!」 家庭の方針に少しでも口を出すと「誰が食わせてやってると思ってるんだ!」 家の信仰を継げないと告げると「もうこの家は終った。あなたのせいでこの家は潰れる」

毎日のように不機嫌でコントロールされ、喧嘩をすれば謝罪するまで正座させられ、毎週のように食卓が冷え込んで、誰一人言葉を発しないまま終わる。言葉を発するということは、常に平穏が失われる可能性を孕んでいた。対話など存在しなかった。言葉のキャッチボールなんてない。言葉のドッチボールのルールしか知らない大人に囲まれて育った。そして、それをおかしいことだと教えてくれる人は誰もいなかった。

私がSNS上で匿名の人と行った大量のやりとりは、本来であれば父や母と交わしておきたかった言葉の応酬でもあった。彼らが私に与える権利には、いつも義務がつきまとっていた。彼らにとって「(都合の)いい子」であること。お隣さんや親戚に自慢できるくらい高学歴で、彼らの言うことをよく聞き、逆らわず、心身が健康であること。そうであり続ける限り、私は彼らの子どもとしての権利を得ることができた。

それは、決して満点を取ることのできない試験を受け続けるようなものだ。よき娘であり、よき妻であり、よき嫁であり、よき母であり、よく働き、いついかなる時もダイエットとお化粧に励む美しい姿であり続け、聡明で、控えめで、奢らず、男性の面子を立てながらも男性よりも成果を上げる、そんな女性が不可能であるように。私はずっと怒っていた。

ずっと言ってやりたかった。権利は義務との引き換えで得られる報酬ではない。私は自由で、個人として尊重されるべき存在だ。それは私に生まれながらに備わっている、所与の前提のはずだった。私は本来、誰にも跪く必要はない。誰が何と言おうと、私は私であるだけで、神聖な存在なのだから。

私の声は両親に届くことはなかった。私は彼らとの対話を諦めた。黙って、怒りを溜め込んで、嵐が通り過ぎるのを待つことにした。そして彼らの前から去った。彼らから十分な距離ができると、様々なことがクリアになって見えるようになった。彼らは特殊な存在ではなかった。彼らは、社会のある側面を、強調して私に伝えていたにすぎなかった。家父長制という化け物が、彼らを通じてしゃべっていたのだ。私を支配する強大な抑圧者は、ただのパペットに過ぎなかった。だから私は、実家を出てからもずっと、家父長制の前に立ちはだかり、声を上げ、手を振りかざすことで、彼らとのコミュニケーションを続けることにした。

そうしているうちに、次第に聴衆(オーディエンス)が集まるようになった。たとえ反論をした相手が納得しなかったとしても、考えを変えなかったとしても、そのやりとりの目撃者たちが励まされたり、考えを改めたりするようになった。明確に手を差し伸べてくれる人もいた。私はもはや孤独ではなかった。家に取り残された孤立無援の子どもではなくなっていた。

私にとって、レスバは自由の象徴だった。言論の自由の行使だった。仕事の一環であり、――もちろん会社から強制されたわけではない――同時にライフワークだった。だからあの時、私にはレスバしない、という選択肢はなかった。もちろん最適な手段とはいえないが、それなりに切実さと必然性を伴った表現方法だった。

押入れの中でひとりで泣いていたあの日の少女が癒えるまで、私が黙ることはないだろう。そして残念ながら、そんな時が来るのはずっとずっと先のことだと、私は確信している。

 

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。