第7回 うつ病、休職1か月

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

「医者の不養生」とはよく言ったものだが、編集者にも似たような事象はある。

例えば、仕事に追われると、本が読めなくなっていく。昨年『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本がベストセラーになったが、編集者である私たちも例外ではない。単純に忙しくて担当書のゲラや参照すべき関連書以外読む時間がない、ということもあるし、あらゆる書籍が仕事に結びつく「飯のタネ」に見えてしまって、心が休まらない、ということもある。先日、漫画編集者だった知人に「編集者を辞めたらのびのび漫画を読めるようになりました!」と満面の笑みで自慢されてしまい、思わず「私も辞めようかな……」とつぶやいてしまうくらいには、深刻な悩みだ。本が好きでこの仕事を選んだはずなのに、なんたる理不尽。

また、私はメンタルヘルス、その中でも特に依存症に関する書籍を手掛けていたが、当該書籍の刊行直後に処方薬のOD(オーバードーズ、過剰摂取)に手を染めてしまったことがある。昨今メディアを賑わせることの多い市販薬依存や薬物依存への啓発の一助を担いながら、自身は処方薬を手のひらいっぱいに乗せて一気飲みしていた。担当書では、著者の希望で編集者の私もコラムを執筆することになったが、「私は依存症当事者ではないんですが、共感できますね〜」という趣旨の文章が白々しく掲載されている。そもそも依存と乱用は厳密には異なるものなので間違ってはいないのだが、どの口が言うのか、という話だ。

精神医療や心理に関わる専門家からは度々「精神医療や心理に関わりたがる人には病んだ人が多い」という愚痴を聞く。当然だ。健全な肉体に健全な精神を宿らせている人にとって、身体や心は透明なもの。不自由がなければ意識することもないのだから。身体や心が不健全だからこそ、それらのままならなさに意識的になる機会を得るのである。

私の薬物の過剰摂取との付き合いは、遡ると17年程前。中学生の時からになる。当時は医療に繋がっていなかったものの、今思うと私はその時からすでに精神疾患を患っていた。希死念慮と抑うつ的な気分に悩まされ、不登校気味だった。薬局で売られている睡眠導入剤をいつでも飲めるようにセーラー服の胸ポケットの中に入れてお守り代わりにしていた。市販薬で確実に死ねると思っていたわけではない。「死にたい」ほど苦しい気持ちを一時的にでも紛らわせることが目的だった。嘔吐してしまうと過干渉な両親に大騒ぎされて面倒だと思い、量は加減していた。

ある日、馴染みの薬局で睡眠導入剤を購入しようとしたところ、薬剤師のおばちゃんが会計をしながら「ホットミルクとかもね、寝る前に飲むと眠たくなるかもしれないよ」と言った。私はその言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。久しぶりに触れた人からの優しさだった。私に身体的・精神的な虐待を加えていた両親や、ブラック校則を押し付ける教員に対しては、私が死んで一生不幸になればいい、くらいに考えていたが、もしうっかり私が死んで、そのことが回り回ってこのおばちゃんの耳に入ったら、おばちゃん、かわいそうかもしれない、という気がした。それから薬局に通うことも、新たな薬を購入することもなくなった。

そして15年後。再び私の手元には薬があった。同居人にうつ病の既往歴があった。寛解後、彼は精神科に通うことを厭い、近所の適当な内科で抗不安薬を大量に処方してもらっていた。その薬は、独特の脱力感があり、ワンシート飲めば確実に眠ることができた。これが癖になった。

過剰摂取するのは、きまって同居人と意見が衝突した時だった。自分の願いや意見が聞き入れられないという状況でこみ上げてくる怒りや悔しさを、薬で飲み込んだ。そういう時、彼のことが、絶対に崩すことのできない鉄壁のように感じられた。私の心は、その壁に当たっていとも簡単に割れてしまう生卵のようなものだった。

しかしそれでも、私にとって、彼との同居は、ようやく見つけた「居場所」だった。彼の強すぎるルーティンへの執着や感覚過敏、こだわりに対する非妥協的な態度を差しおいても、不機嫌や体罰の耐えない実家よりはるかに居心地が良かった。映画鑑賞や読書など共通の趣味があり、ポリアモリーに対して理解があり、私と共にいる時間を「人生で一番幸せ」と言ってくれていた。それで十分だと思っていた。些細な葛藤は、薬を飲んで眠って忘れてしまえばいい。薬と共に飲み込まなければならないような葛藤は、まるで些細なことではないのだと、その時は気が付かなかった。

ある日、彼が随分とため息をついているので、話を聞こうか、と声を掛けた。すると、思いもかけないことに、それは私に対する不満で、家事や家賃の負担が偏っている、また私との付き合いによってメタモアや先妻との間の子どもとの付き合いに支障が出ており、彼らに負担が偏っている、と述べた。

彼には彼の言い分があったようだったが、私にも私の言い分があった。家賃については互いの年収に応じて按分したこと。家事については彼の感覚過敏や強迫的な思考から、私にとっては過剰と感じられること。また、度々私が担ったケアについては顧みられないことも多いこと。私からメタモアとの交流に制限をかけたことはないこと。子どもたちが毎週この家を訪れることについて、子どもを持たない選択をした私にとって、相応の負担になっており、それを調整するのは私ではなく、私のパートナーであり、子どもたちの父親である、あなたの役割であること。

すると彼は突然過呼吸になって、その後数日間殻に閉じこもるようになった。生卵だったのは、彼の方だったのだ。一週間後、彼は私に家を出るように告げた。そして「子どもたちがあなたに遠慮してこの家に来たがらないから」と言った。幼少期に彼の不貞行為により離婚した経緯がある。離婚からは随分年月が経っており、私がその不貞行為の相手ではなかったとしても、いままさに思春期まっさかりの彼らが毎週訪れる父親の家にいる女性のことを、気まずく感じるのは道理だった。だからこそ、私も気を回して彼らが家に来る日は、外出の予定を入れることが多かった。同様に、彼もその困難を乗り越えるための労力を割くものだと考えていた……のは、私だけだった。

薬で飲み下してきたはずの怒りが、腸(はらわた)から逆流して来るのを感じた。そして口から溢れ出した。彼は「それはあなたがいま、そういう“気分”だっていうことだよね」と鼻で笑った。気がつくと私は彼の胸ぐらをつかんで、彼の身体を壁に叩きつけていた。へぇ、そうか。私だけが、理性を欠いていて、感情的で、頭がおかしいってことか。ほら、頭がおかしい女にいじめられました(涙)って、警察にでもSNSにでも言ったらいい。っていうか、なんであんたの都合で私が家を出ていかなきゃいけないんだよ。子どもが父親に会いたがってるんだろ。行けよ。おまえが今すぐこの家から出ていけ。子どもたちも喜ぶよ。

私が胸ぐらをつかんでいる間、彼はほとんど身動きも取れずに固まっていた。そして「今すぐ出ていけ」という言葉通り、逃げるように荷造りをして、出ていった。私は新居を探して、引っ越しを決めた。新居へ引っ越しするまでの間、彼と育てた猫三匹との別れを惜しんだ。怒りは逆流を続け、私はそれを薬で飲み下そうとしたが、足りなかった。怒りは身体を蝕み、うつ病として顕在化して、1か月の休職が決まった。

友人に「ODしながら続けなきゃいけない関係なんて、ないんだよ!」と言われるまで、私は自分が無理を重ねていたことに、全く自覚がなかった。もともと持病があって気分が落ち込みやすく、ネガティブな思考を程よく遮ってくれる他者との暮らしに救いを求めてすがってしまっていた。模索すべきはODによってようやく継続できる異性とのつながりではなく、持病の治療だったのに。

引っ越し先での一人の時間は、やはり苦しい。抑うつ的な気分や、幼少期に両親から受けた虐待のフラッシュバックに悩まされている。自治体のゴミ出しに、プラスチックが二種類あり、発泡スチロールがどちらの区分に入るのかうまく理解できず、間違えると付箋を貼られて持っていってもらえないため、地団駄を踏んで、エイブリズム(健常者至上主義)め! うつ病の人間にやらせることかよ!! と悪態をついている。しかし、言動に制約の多かった同居人の呪縛から解放され、少しだけ呼吸が楽な気がしている。同居を解消してからは、ODは不要になった。医師も私も、経過については楽観的だ。

 

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。

第6回 それぞれの人生、それぞれの石丸

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

職場の同僚や友人との会話では、政治と宗教の話はご法度とされている。しかし、私はこの一カ月ほど、どうしてもこの話題を振ってしまうことが多い。東京都知事選挙で旋風を巻き起こした第二候補・石丸伸二氏について――より精確には、石丸伸二氏を見た瞬間にその人が思い出した、「あの時、あなたの人生にいた石丸伸二」についてだ。

私はふだんYouTubeもTikTokも見ない生活を送っているため、都知事選に投票した10代~20代の約4割の支持を得た石丸伸二氏という個人について、誠に不勉強ながら全く知らなかった。顔も、名前も、見たことがない。そんな人物が歴戦の大物野党議員である蓮舫を抑えて2位の得票数に躍り出てきたというから、開票日の夜、私は猛然とテレビ、ラジオ、インターネット上の選挙特番で彼の言動をつぶさに追いかけることになった。

石丸氏と記者とのやりとりで強く印象に残ったのは、些末な言葉の定義にこだわり、質問に質問で返し、論点をズラして相手を見下し、場をコントロールして質問者の口を封じようという姿勢だった。彼にはすべての質問者が「敵」に見えているようだった。彼に質問していた記者やアナウンサー、司会者の多くが東京都民であり、有権者であるにもかかわらず、だ。そのような構えは、様々な動画や報道を確認する限り、少なくとも前職の安芸高田市長であった頃から続いているようだった。

私は呆気に取られた。そして、思わず「まだいたのか――。」と呟いた。そのような思いは、開票日間際になって初めて石丸氏を認識した多くの大人たちも同様のようだった。彼の動画を見て、ある人は高圧的な予備校講師、ある人は前職の苦手な上司、ある人は二度と一緒に仕事をしないと誓った取引先のことを思い出したようだった。みな、SNS上でも、リアルでも、石丸氏は人々を饒舌にする。

私はどうしてもウマの合わなかった小学校の教員たちを思い出していた。四時間目で私語をしていたやんちゃな男の子ふたりを給食の時間まで延々と立たせて説教することを日課にしていた堀先生だ。確かにふたりはスカートめくりなど迷惑行為が絶えなかった。しかし、だからといってクラス全員の前で𠮟責する必要はない。人が叱られているのを前に、誰がおいしくごはんを食べられるだろうか。「恥を知れ! 恥を!!」という石丸氏の決め台詞は、帰りの会の時間になっても彼らを吊るし上げる堀先生の、歪んだ口の端を思い出させた。

幸いにして私はいま、堀先生のような人に遭遇することは少なくなった。そういう人がいる場所から積極的に逃げてきたとも言える。会社に堀先生のような上司がいたら、今頃すたこらさっさの転職一択である。ありがとう、理解のある上司くん。

とはいえ、石丸氏に投票した人々を私は笑うことはできない。なんて嫌な記憶の蓋を開けてくれたんだ、とボヤキはするけれども、こうした強い態度の、根拠がなくても絶対にひるまないタイプの人間が支持を得るのは世の常である。私が大学生の時は、実業家の堀江貴文氏の自己啓発本が爆売れしていた。十数年前の話だ。思い出したくない同窓生が多いかもしれないがあえて蒸し返すと、当時は堀江氏のような「起業家」がもてはやされ、学生起業も華やかりし時代であった。結局、多くの知人・友人はそうした「ベンチャー企業ブーム」を追い風に学生時代のベンチャー企業でのインターン経験を「ガクチカ」に掲げ、めちゃくちゃ手堅い大手企業に就職する道を選んだが、私もその風に全く当たらなかったわけではない。あれから約10年。コロナ禍のさなか、彼が同伴者がマスクを着用していないという理由で入店を断られた餃子店の店主を怒鳴りつけている動画を見た時に、一瞬でも彼のような人間を「最先端で格好いい」と思った経験を持つ自分を大いに恥じた。

10代・20代前半の私は、自信がなかった。社会的には何の実績もなく、自分ひとりで自分を食わせたこともない。両親との愛着も不安定だった。「いま・ここ」にいるための理由を常に探し回っていた。痛みを押し殺して、やたらとハイヒールを履きたがった。世間で「強い女が身にまとうもの」とされているアイテムをカスタムすれば、脆弱な自己を覆い隠せるような気がした。詭弁でもいいから、相手を言い負かすパワーがほしかった。精神的、物理的、性的虐待を繰り返す両親に言いくるめられ、初めてできた彼氏に破局後、周囲にストーカーだと言いふらされた。それらが不当な処遇だと気がついたのは、ごく最近のことだ。ずっと私は自分が弱いせいで負けているのだと感じていた。

「あなたも親になったらわかる」。そう繰り返し両親には言い含められてきたが、自分が当時の親の年齢になるに従ってわかったことは、ちゃんとした大人はやたらめったら怒鳴り散らしたりしないということ。非力な子どもを目の前に物に当たったり、長時間正座をさせたり、手帳を勝手に見て予定を管理したり、信仰を無理強いしたりしないのだ。同様に、「強い大人」は質問をまぜっかえしたり、公衆の面前で相手をせせら笑ったり、罵倒したり𠮟責したりしない。相手にわからないことがあれば丁寧に教えるし、どうしても注意が必要な際には個室に呼び出して切々と説明をするし、なるべく穏やかに和やかにコミュニケーションを図る。どうしても怒らなければならない時は、自分を含む誰かが不当な暴力や差別にさらされた時で、その怒りは共同体の公平・公正に資するもの。隣人は敵ではない。誰もが共に生きるコミュニティの構成員であることを自覚して、長期的な目線を持っている。

私がハイヒールと詭弁を手放すよう努めるようになったのは、就職して、己の知力・体力、キャリアの限界を知ってからだった。私は経営者ではなく労働者だ。何かあれば罵倒する側ではなく、される側だった。限界を知ることは弱さを認めることでもあるが、自分の役割を自覚することでもあり、そのことによって逆説的に私は自信を得た。自身の「傷つき」を認めることによって、自分を傷つけるものからいつでも逃げ出す選択肢を得た。

商業施設での車椅子介助の是非をめぐって議論が起きるとき、必ず「そのために人員を配置したり、施設をリフォームしていたら店の経営が成り立たない」という人がいる。99.99%経営者ではない。経営者目線でものを申せば一瞬だけ自分が強くなったような気になれるかもしれないが、あなたは決して経営者になれることはない。経営者目線を内面化することによる副作用は、あなたの仕事の成果が思うように出ないとき、それが本来はあなた自身の責任ではなく、原因が組織の欠陥にあるとき、あなたの中の経営者が労働者としてのあなたを苛むだろう。「お前の能力が低いせいだ。強いやつは傷つかない。傷つくのはお前が弱いせいだ」。

だから私は、今日も労働者目線で本を作る。土日のメールは見ないし、ノルマをスルーし、能力主義にもとづく自己啓発書、個人の「運」を無理やり引き寄せようと画策するスピリチュアルの本を作ることを拒否し、せっせと個人の権利を訴える書籍を作る。大学生の時に嫌悪した、己の弱さと怠惰さがいまの私の健康を支えてくれている。

ごめんね、社長! 作った本は売れるように、できるだけ頑張っています。定時内で。

 

 

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。