第8回 オルセー美術館のサイ

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

パリの空は曇っていた。あるいは曇っていなかったかもしれないが、僕の胃腸はその日、明らかに壊れていた。つまり、曇っていたのかもしれない。

今日はオルセー美術館に向かう。ぱっとしない気分のまま、ホテルを出てパリの街を歩く。気分は曇っているが、「パリなんだな」と口にしてみる。

レンヌ通りを北上するとセーヌ川沿いの道路に突き当たったので、階段を下りて川沿いの歩道を歩く。カモが7匹、水泳選手のように川岸に並んでいる。飛び込む気配はないが、飛び込むべきであるかもしれない。

「オリンピック」という単語が頭をよぎったが、どうでもよいことだった。川の汚さが話題になったようだが、やはりどうでもよかった。川が汚すぎて選手たちは嘔吐したらしい。僕の胃腸は今、嘔吐の蓋然性が高い。イッツ・嘔吐マティック。仕立てのよい嘔吐クチュール。

オルセー美術館に着いた。入口にはブロンズのサイがいる。サイは何も考えていない。というより、そもそもサイであることが考えることを超越している。鳩がサイの鼻の先にとまる。鳩とサイが無言でその瞬間を共有している。何も起きていないが、何かが起きているかもしれない。

美術館に入ると、駅のような構造が広がっている。駅ではないが、駅かもしれない。ここは過去には駅だったが、今は美術館だ。今は美術館なのだから、駅ではない。しかし、駅であったのだから、今も部分的には駅である。プラットフォームに白い彫刻が並ぶ。誰かを待ち続ける彼らは、何も話さないが、話すときがあるかもしれない。

無口な彼らをひと通り眺めた後、脇の部屋に入って絵画を見る。ミレーの「落穂拾い」。腰が曲がった老婆たちが落穂を拾っている。彼女たちが拾うのは落穂だが、ほんとうに落穂なのか。ずっと昔にこの絵を模写した記憶が蘇る。

中学2年の美術の時間に僕はこの線を何度もなぞったが、今その線は全く別のものに見える。あのとき、僕は何を見ていたのか。

実物の絵を見ると、模写したときには全く拾えなかった線と色が見える。無数に見えるといっていい。そのことに愕然としてしまう。でも、だからと言って見える今のほうがよいとは言い切れない。見えないなりによく見るという切実さが、ものを見通すことがある。

胃腸が痛む。クールベの絵は胃腸に悪い。だが、マネの絵は違う。どこか明け透けで歪んでいる。歪んでいるが明るい。明るいが不気味で、それでいて真新しさを感じる。そして、その真新しさが妙に正しく見える。つまり、正しくないのだろう。

絵の中に何かが隠れているが、それは隠されていない。はっきりと見えるが、見えない。歪んだまま、正しさを語り掛けてくるが、その語りはどこにも届かない。届かないが、僕の中には届いている。不気味な明るさが、この世界のどこかを支えているようで、実際には何も支えていない。

幼い子どもたちに熱心に絵画を解説して回るアジア系の女性がいた。美術館に子どもを連れてくるなんて、どうせ退屈に違いない。退屈は拡散する。絵の具を溶かしてキャンバスに染み込んでしまう。でも彼女は違ったようだ。自分なりの絵の見方を知っていて、その楽しみ方を子どもたちに投げつけている。パッションは空気中に溶け込み、子どもたちは絵の具と共にそれを吸い込む。

マネはタブローの限界を理解する人だった。理解したために彼の絵画はその身を外部に開いている。だからこそ、それは子どもたちを巻き込み、躍動させるのにふさわしい。

疲れを感じたので、5Fのカフェカンパナに向かう。ほとんどの席が埋まっている。誰も座っていない席を探し回ること自体、小さな冒険のようだ。ようやく見つけた席に腰を下ろし、ホットティーを注文する。この場所でホットティーだけを頼むというのは、隠れたルール違反のように感じられるが仕方がない。「胃腸が悪いんだから」と自分に言い聞かせる。

隣のテーブルのそばで、いかにも新人といった所作のスタッフが、ベテランスタッフに何か小言を言われている。新人は緊張で手元が震えている。彼女の顔には否定のしるしが刻まれているようで、これが彼女の日常なのかもしれない。

ベテランスタッフの顔には何の感情も浮かんでおらず、ただ冷ややかな目だけが動いている。こんな場所でそんなやりとりを見せないでほしい。心が揺さぶられてしまうから。

ガラス越しに見える、かつての駅舎のシンボルであった巨大な時計。時計は建物の外側を向いているので、その針は逆回りにチクタクと動いて見える。「タイムトラベル」という言葉が頭に浮かぶが、どうでもよかった。そもそも時計が何を計っているのかわからない。

数日前、スペインのセビージャにいたときのことを思い出す。ホームレスの女性がタベルナのテラスで歌っており、街も店もそれを自然なこととして受け入れていた。この整った場所では、そんな光景は考えられない。彼女が踊る余地は存在しない。

スペイン語の会話が後ろから聞こえてくるが、何を言っているのかはわからない。男性が一人、女性が二人。男性は一人の女性に熱っぽく何かを語っていて、相手の女性は侮蔑の表情を浮かべている。もう一人の女性は、ただその状況を見守っている。この人たちは、わかり合うという作業の途中にいるのだろうか。

目の前の人のことをほんとうにわかりたい。そんな気持ちで話を聞いていると、突然にわかってしまうことがある。相手を認めるのではなく、相手のことが心底わかって腑に落ちてしまう瞬間が訪れることがある。

それは生まれ直すような経験で、小さな奇跡だ。そのときの僕は真っ白な画用紙になって相手の色に染まってもいいと思う。

ホットティーを飲んだだけなのに、胃がキリキリする。茶葉の苦味が胃に鋭く刺さる。もう絵を見るのは限界だなとあきらめて、美術館から出ることにする。この場所に再び来ることがあるのだろうか。そう問うてみたが、それはどうでもよかった。

出口を抜けるとサイはまだそこにいた。鳩が消えている。と書いた瞬間に別の鳩がサイの鼻先に舞い降りた。同じ鳩かもしれない。

 

*****

 

Yにはいつも熱っぽく何かを問いかけるような気配があった。いつも何かを探していて、それを今にもつかまえようとするような獰猛さがあった。でも、この日のYは表情がぎこちなかった。まるで風がやんだあとの風鈴のように、何かが止まってしまいそうな気配が彼女に漂っていた。

「ほんとうに竜巻みたいだった」。彼女は自分の話をそう総括した。

Yは東京のH大に通った後、都内のブランディング会社に就職したが、3年後に会社が倒産した。その後もしばらくは元社長の事務所で手伝いをしていたが、社長からのボーナスでフランスに行き、メドックマラソン(ワインを飲みながら仮装して走るマラソン)をきっかけにワインにどっぷりとはまって、その2年後にボルドーの大学院に入学した。修士課程では、ワインマーケティング・マネジメントを学んだ。修了したのは今から8年前だ。

大学院ではサンテミリオンのワインシャトーでの3か月に及ぶ研修があり、そのときに寝食を共にした、ボルドー出身のジュール、カナダのケベック出身のイーサン、韓国のソウル出身のソアの3人と意気投合して4人組を結成した。Yは彼らと「これまでの人生にない深い人間づきあい」を経験することになる。

当時の彼らは4人組のことをレ・キャトル・テロワール(=4つの異なる風土)と呼んで、互いが知り合い関係しあっていることを誇りに思っていた。まるで、4つの小舟が違う方向に漕ぎ出したのに、同じ海流に乗って漂いながらひとつの場所に流れ着いたように、彼らはその出会いにほとんど儀式的な必然を感じていた。

多くの若い男女がそうであるように、4人は恋にのめり込んでいった。Yは「考えていることが近すぎる」ような気がして、ジュールと付き合うようになった。ジュールはいつもその場面に最もふさわしい言葉で愛をささやく人だった。それなのに、踏み込ませない領域をかたくなに守っているように思える節があった。

そんなジュールの前で、Yはいつもどこか緊張していた。Yは、この人の前ではもっと潔く生きなければならないと身を正した。ジュールとの関係について、Yはいつもイーサンに相談していた。イーサンは飽きる様子を見せずにYの話に付き合ってくれた。Yはジュールの前ではちぐはぐな自分を感じていたが、イーサンの前では安心して快活にふるまうことができた。

Yたちが交際を始めてまもなく、イーサンはソアと付き合い始めた。二人は活動的な性格がよく似ていたし、何よりワインの趣味がよく合った。

こうして4人の関係性は変化したが、4人組は相変わらず仲が良かった。4人ともパリ市内に住んでいて、毎週末に集まってはそれぞれの近況について、新しく見つけたワイナリーについて、ワインと料理のペアリングについて語り合った。

Yは広告代理店でクリエイティブディレクターのアシスタントをしていた。直接ワインを扱う仕事ではないものの、取引先にはレストランやワイナリーも多く、大学院での学びが大いに役に立っていた。エスプレッソマシンがたびたび彼女に反抗することを除けば、オフィスには何の問題もなかった。

ジュールはワインを主にレストランに卸すエージェントで働き始め、Yのスタジオ(ワンルームのマンション)から歩いて15分のアパートに住んでいた。Yはジュールからの平穏な愛情を充分なほどに感じていたが、その一方でどこか一線を引かれている感覚はどうしても拭えなかった。

ある年のクリスマスの夜、Yはジュールに、これほど愛し合っているのに、なぜすべてが満たされてはいけないのか、満たされないかぎり幸福とはいえないのではないかと泣きながら訴えた。ジュールは、満たされることなんてありえない、むしろ満たされてはいけない、甘美さでいっぱいの満足感なんて、それは真実ではないと答えた。ぼくらは別の幸福を探さなきゃいけないと言った。

そのころ、ソアはワインショップでテイスティングイベントの企画やアドバイザーを務めながら、韓国を中心としたアジア地域への輸出業務を担当していた。彼女はスケジュールをいっぱいにして自分を追い詰めるくせがあって、いつもせわしく動き回っていた。

一方で、イーサンは1年近くフランス国内をふらりと巡ったあと、パリにやってくる英語話者たちを対象にした観光ガイドを始めた。放浪中に知り合ったエペルネーのブドウ園の主人の協力のもと、メゾンとワインセラーの見学ツアーを始め、大手旅行会社からの委託だったため実入りは少ないものの、わずか1年で会社のトップセールスのツアーへと成長させた。

4人の中でいちばん忙しいのはソアだった。スケジュールを尋ねると、たいてい分刻みで仕事が入っていたくらいだから。それで、4人で集まるときは必然的にソアの予定に合わせることになり、集合場所も彼女のマンションの近くになった。4人はオルセー美術館のサイの前で集合して、それからワインリストが豊富なバック通りのレストランに行くのが恒例だった。サイはずっとそこにいた。

集合のときはたいていジュールが一番乗りだった。彼はきまってサイの後ろ足に隠れるように台座に座って本を読んでいた。その次に来るのはYで、そして最後はソアかイーサン。イーサンは時間に遅れてくることもしばしばあった。ちなみに、このころの彼らのWhatsAppのグループ名はヴィノセロス(Vinocéros = vin/ワイン + rhinocéros/サイ)だった。

ソアとイーサンは夏の長期休暇を利用してそれぞれの母国の実家に足を運んでいた。そんなこともあったので、Yは二人の関係が良好なものと信じて疑わなかった。

しかし、イーサンがそれを突然ぶち壊した。ソアがさりげなく結婚の話を持ち掛けたとき、イーサンは急にYが好きだと言い出した。それをYが聞いたのは興奮したソアからの電話で、なぜ二人の関係を私に話さなかったのかとYはソアに責められた。しかし、Yにとってそれは寝耳に水だった。Yにとってイーサンはいつも気持ちよく相談に乗ってくれる友達だったから。

だが、驚くべきはこの後である。それをYから聞いたジュールは、「Yはイーサンと付き合ったほうがいい」と言ったのだ。ジュールがこれまでと変わらない愛情を示しながらそんなことを言うので、Yは混乱したし、強く抗議をした。私はあなたがいないとダメだと迫ったが、ジュールはこうなった以上、仕方がないと言った。私たち二人の幸福以外に何を望むのかと尋ねたら、ジュールは小さな声で清らかさと答えた。

Yがイーサンとろくに話をしないうちに、彼はカナダに戻ってしまった。それからわずか半年後に、イーサンは生まれ故郷のケベックで、地元の女性と結婚した。たった一通のメールをもらっただけなので、相手のことは詳しくはわからない。

Yは4人組(ヴィノセロス)が壊れてしまったことに対し、そしてジュールが自分から離れてしまったことに対し、イーサンに何の怒りもないわけではなかった。でも、それよりも彼女は嵐のような状況を呑み込むことにせいいっぱいだったし、すべてをイーサンのせいにするほどシンプルに物事を考える人ではなかった。

イーサンが去ったのち、Yとソアは再び友情を取り戻して、とりとめのない話をするようになったが、あるときジュールが最近体調を崩して入院していることをソアから聞いた。Yは見舞いに行くことを望んだが、そんなさなかにパリを襲ったのがコロナ禍だった。

ジュールは、パリのロックダウンから4か月後の夏の日に、市内の病院で誰からも看取られることなく死んでしまった。死因は骨髄性白血病とのことで、Yは1年以上ジュールと一度も会うことがないまま、彼を失ってしまった。

「私の問題は、ジュールのことが最後までわからなかったということ」

Yはジュールが死んだ4年後に、僕の宿泊先のホテルのロビーにやってきて、そのことを話している。Yは僕の教室の卒業生で、フランスに行くと聞いたときも驚いたが、今日は彼女の人生に驚いている。

「何を言っても今の話に全然追いつけないんだけど……」

Yは首を傾けたまま僕の言葉の続きを待っている。

「わからないのはしかたがないよ。でも、もうこれ以上傷つかなくていいんじゃないかな」

Yはしばらく置いて「もうこれ以上傷つかなくていい……」と僕の言葉を繰り返した。そして、「私は、自分が傷ついているとはあまり考えてこなかったので驚きました……」と言って涙をこぼした。

「ジュールが死んだのがかわいそうなのであって、私はかわいそうじゃないんです。しかも私にはいまお付き合いしている人がいるんです。だから……」

「人生は整合性なんてぜんぜん取れないよ。でも、Yの目の前には、そのころ確かにジュールという清らかな人がいて、Yはジュールと共に生きた。そして、彼はこれからもYを照らし続けるし、これからも背中を押してくれるんだから。」

「そう、そうだと嬉しい。でも、そうやって人を清らかな思い出にするのは都合がよすぎる気もするんです。」

「ジュールもまた、整合性の取れない矛盾体だったのかもしれない。でも、汚れていたり自分勝手だったりすることと、清らかに人を愛することは両立するんだから。」

話しているうちに、Yの顔は少しずつ柔らいだ。感情の波はしだいに、ただそこに在るものとして沈殿していくように見えた。

「いまもソアと会ってワインを飲みに行きます。最近は、イーサンはもちろん、ジュールの話をすることもなくなりました。でも、私たちは彼らと同じ時間を過ごした二人としていまも過ごしている。それは確かにそう。お互いの人生を見守って、支えなきゃという気持ちがあるんです。背中を押してあげなきゃって。でも、そのときには私だけでなく、イーサンとジュールがいっしょに背中を押してくれている。そう、確かにそうかもしれない。」

Yはしばらく視線を落としたまま、指先でグラスの縁をなぞっていた。その円を何度も確かめるように、グルグルと動作を繰り返した。

「ソアとはもうわだかまりなくさっぱりした感じ?」

「そうですね。彼女とはたくさんのことをいっしょに経験してきましたから。でも、前に一度だけソアに怒りをぶつけたことがありました。そのときはちょっと悪酔いしてめずらしく昔話をしてしまったんです。ソアが、ジュールがあなたをイーサンに譲ったのはムダだった、イーサンはすぐにいなくなってしまったんだからと言って、私に絡んできたんです。それに対して私は「そんなことはない、そんなことは絶対にない」と泣きながら反発した。私のようすがあまりにひどいから、ソアは最後には謝ってきました。なぜあんなに強く当たったのかわからないけど……。いや、ちがいます……私はいまの方がわかります。ジュールの行いは、ムダとかそういう問題ではなかったことを、証明したいとさえ思っているんです……」

Yの指先はテーブルの端を軽くつまみ、その小さな動作に全神経を集中させるように動かなかった。唇はかすかに震えていたが、声には一切の揺らぎがなかった。

「Yはジュールが亡くなった後に、ジュールと出会い直してるね。それは大切な出会いだと思う……。そういえば、今日、たまたまだけどオルセー美術館に行ってサイを見たよ。」

Yはとたんに「まあ!」という顔になって指先をテーブルから浮かせる。ジュールのことを思い出すから、Yはずっとオルセーには近づきもしなかったそうだ。このとき僕は不意に胃腸がキリキリ言い出して、急に部屋に戻りたくなった。

「次に会うときはオルセー美術館のサイの前で会うといいかもしれない。サイはいつもそこにいるんだから。」

僕がそう言うと、Yは意外にも「いいですよ。そのときまでにはちゃんと覚悟を決めておきますから」と言って笑った。

Yがホテルの扉を出る。サイがYの後ろを歩いているのが見えた。鳩も飛んできた。ジュールもいたかもしれない。

 

オルセー美術館のサイ

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。

第7回 受難のメキシコと今村

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

ディオス・ミーオ、ディオス・ミーオとタマちゃんが連呼している。プエブラからオコトラン大聖堂にタマちゃんが運転するタクシーで向かっているのだが、フロントの左のタイヤがパンクしたらしい。ガタッガタッと規則的に車体が左に傾くので、それにつられて僕の体もガタッガタッとリズムを刻む。途中から車道がダートになって揺れが複雑になる。規則的な拍子に不規則性が紛れ込む。ポリリズムなテキスチャ。もとの揺れにランダムな音符のひとつが重なった瞬間、車体が大きく跳ね上がった。タマちゃんの半身がふわんと浮くのが見えて、ついで僕も浮き上がって天井に頭をぶつける。タマちゃんはシートベルトをしていないし、後方座席にはそもそもシートベルトらしきものがなかった。

いつの間にかタクシーは修理屋に停車していた。修理屋といってもほとんど民家と区別がつかない。大小のタラベラの鉢植えが並ぶ庭には洗濯物がいくつか干してある。ここには大人と子どもが数人ずつ住んでいるな。どこかのサッカーチームの赤いユニフォーム。大きいのと小さいのがある。親と子でおそろいを着るんだろうか。大きい方だけまだ袖のあたりが半乾きに見える。

タマちゃんが「おーい」と呼ぶと40歳くらいのお兄ちゃんと(おじさんではなくお兄ちゃんと呼びたい感じだった)14歳くらいの子どもが家から出てくる。彼らはタイヤの状態をひとしきり見た後、きびきびと動き始める。カルロス(14歳の子は40歳の彼にそう呼ばれていた)はパンクしたタイヤの近くにジャッキをはさんでクランク棒を取り付ける。そして、ねじを回してクイックイッと車体を持ち上げていく。手慣れていると思った。カルロスはいつも僕が日本で勉強を教えている子たちと同じくらいの年齢に見えるから、そういう子どもの労働の世話になっていることに心がざわついた。何か手伝えることはないかなと思ったけど、いまの自分にできることは何もないだろう。

カルロスは日に焼けた肌を躍動させながら、目をキラキラさせて楽しそうに働いている。目をキラキラ? 楽しそう? あまりに定型句すぎる。僕の目が濁っているのかもしれないと思って、もう一度カルロスの目を見る。なんでそんなにキラキラなのか。彼は生き生きと今を生きている。きっと彼は幸せなんだろう。あと6年くらいしたら、彼は近所の幼なじみの女の子と結婚して、やさしいセックスをして、子どもができる。休日には子どもたちを連れてスタジアムに行ってサッカーに熱狂し、帰宅してほてった体を冷ましていたら、いつの間にかウトウトと寝てしまう。目を覚ますと子どもたち3人が自分の足もとで同じ方向に巻貝みたいに丸くなって眠っていて、その不思議な3つのかたまりを見ながら、これはほんとうにオレの人生だろうかと思う。幸せの実感というのはこういうふうにして訪れるのだなと思って、正気を取り戻すように首を振って立ち上がり、顔を洗って鏡にうつった自分の顔を見る。子どもを見た後のオレの顔は、不思議と少し違うんだ。そんなふうにカルロスは思う。

コンプレッサーがタイヤにシューッと空気を送り始め、タイヤが盛り上がると同時に車体が上昇していく。カルロスは何度もTシャツの裾をまくり上げて汗をぬぐっていて、そのたびに年齢のわりに発達した腹筋が見える。僕はカルロスには一生かなわないと思う。全身で男子的な健やかさを放つ彼を見ながら、たった数日でいいから鮮烈な男らしさのもとで生きてみたいと思った。修理が終わってドライバーが修理代を払う隣でカルロスにチップを渡したら、はにかんだ笑顔で「ムチャス グラシアス」と言った後、笑顔を置き去りにしたまま駆け足で家の中に戻っていった。

パンク修理で30分ほどロスしたので、時間に余裕がなくなってしまった。オコトランの大聖堂は17時までオープンしていていま16時20分。グーグル・マップによると到着まであと20分かかる。ということは、到着後からわずか20分でバジリカは閉まってしまう。

メキシコ滞在の最大の目的は、メキシコバロックの聖堂を巡ることだ。正確には、僕は旅にあまり目的というものを設定しないんだけど、この数日で日増しにメキシコバロックの美に傾倒し、その訪問がすっかり目的化してしまった。すでにこの数日でオアハカの聖ドミンゴ教会、そしてオアハカの郊外にあるサン・ヘロニモ・トラコチャウアヤ教会とセニョール・トラコルーラ礼拝堂に行き、さらにこの日の午前にはタマちゃんの運転でプエブラの聖ドミンゴ教会とアカテペックの聖フランシスコ教会を訪問した。メキシコバロックの面白さは、ただでさえカトリックとイスラームの文化が融合しているスペインの建築が、メキシコに入って現地の生活感情と結びつき、さらに独自の発展を遂げたところにある。

バロック建築を「理想と現実の大きな隔たりに対する官能的な反応である」と述べたのはメキシコの文豪フエンテスだが、メキシコのバロック聖堂における壁面の隙間を覆い尽くす黄金の蔓草模様は確かに、かつてこの地に生を受けた先住民族たちの命の葛藤と、現在も続くメスティーソたちのアイデンティティの行き場のなさを示した享楽的な表現に見える。

偶像を禁止したイスラームの間隙を縫うようにスペインではアラベスクが発達したが、メキシコではアラベスクの文様が覆う壁面に一度は潰えた偶像たちが黄泉の国から召喚され上塗りされる。偶像たちは禁欲主義をかなぐり捨てて、セックスか死かという問いの狭間で身悶える。ある像は胴体を矢に貫かれたまま、大量の血を流し恍惚の表情を浮かべており、別のある像は、自らの切断された首を両手に抱えたまま全身を震わせている。そして、祭壇中央で祝福の花束に囲まれた褐色の肌の聖母は妖艶な笑みで生と死を寿ぐ。

聖なる娼婦とよばれるマカレナの聖母、トリアナの聖母は、信徒たちの生活感情と天界とを結ぶ。この世では痛ましさと幸福とが交錯し、エロスとタナトスとがせめぎ合う。そのせめぎ合いの狭間に聖母の微笑がある。メスティーソは、滅ぼされた古い世界と新しい世界の間で自らの曖昧さを持て余しており、そんな彼らにとって、メキシコバロックはアンビバレンツな存在としての自己に懐疑を促し、常に変貌するアイデンティティを表現する変化の芸術であった(注1)。壁を這う蔓草はいまも増殖し続け、ほとんど残されていない隙間を極限まで埋め尽くそうとする。

アステカの先住民族たちが信仰していたトルテカ族の神、ケッツアルコアトルは伝説によれば白い肌と長い髭を持ち、西から来た文明の持ち主とされていた。当時のアステカ帝国は「その軍隊が整列すれば、大海の波のように地をおおう」と言われたほどの威容を誇っていたが、皇帝モクテスマはあろうことかスペインから来た侵略者コルテスをケッツアルコアトルと同一視し、「ここがあなたの城です」と侵略者を自らの宮殿に迎え入れた。そこから帝国の崩壊と先住民族たちの苦難が始まったのである。

先住民族たちにカトリックが熱烈に受け入れられたことは、人間の救済のために十字架に磔になり死んだ贖い主キリストの受難物語が、マヤに根づいていた生贄という古い信仰に新しい輪郭を与えたことと切り離して考えることはできない。彼らは血塗れの苦難を味わうほどに「われわれが生き延びていくためには、戦争と生贄というパラドックスがどうしても必要だ」(注2)という先祖たちから引き継がれた教えを確信したのである。

辺りに人家が多くなってきたと思ったら、グンと坂道を上ってオコトランのバジリカに到着した。16時42分。閉館まではわずか18分。巨大な白鳥のように美しいファザードに圧倒されるが、とにかく時間がないので真っ先に中に入らねばならない。聖堂の入口で年老いたシスターとすれ違う。「もう閉館ですよ」と声をかけられるかもしれないとヒヤッとするが、何のドラマも起こらない。説明書きにはこうある。この地は1541年に先住民族の農夫フアン・ディエゴ・ベルナルディーノに聖母マリア(オコトランの聖母)が現れ、伝染病を治す水を与えたという奇跡で知られている。このことから、18世紀に建てられたこのバジリカは、病気治癒の奇跡を象徴する場所として、多くの巡礼者が訪れている。

内部は黄金の秘蹟的空間である。視野を狭めてディテールのひとつひとつをズームしていくと、十字架から降ろされたイエスと亡骸を抱きかかえるマリアや、子どもの顔をした天使、天を見上げる聖人たちなど、夥しい数の形象がそれぞれの世界を作り上げている様子が見える。しかし、それらは断片として独立することをよしとせずに、曼荼羅のように再統合されて全体として見ることを強く促す。天井の採光窓の効果で、聖堂全体に光の粒子が散りばめられており、壁面から天井にかけて広がる装飾は反射する光によって色めき立つ。特に多くの光線に恵まれた聖像たちは明るく微笑んでおり、そうでない聖像たちは少し憂いを帯びている。確信はないが、聖堂内は僕ひとりのようだ。はじめには信者と思われる背の小さい老婆がひとりいたが、すぐにいなくなってしまった。

祭壇のまん中には、華やかな白いマントをまとったオコトランの聖母が立っている。メキシコカトリックにおける聖母といえばグアダルーペの聖母(注3)だが、信者たちから畏怖と敬愛を込めてラ・モレニータ(褐色の肌をもつ方)とよばれるこの聖母が、苦難の場所であるこの世界を象ったようなほの暗さを漂わせているのに比べると、真白に輝くこの聖母は明るくて陽気である。チークで赤く染めたように見えるほっぺと、きゅっと閉じられた口もとが少しアンバランスで、それがかえって自然な人間らしさを漂わせている。庶民的なこの聖母は、きっと「お母さん(Mami)」と呼んでも差支えがないほどの心理的な近さで信者たちに受け入れられている。お母さんの頭上には大きな王冠が輝いているが、それは息子や娘たちが記念日にプレゼントしてくれたもので、それを被ってみましたというような後付け感があってほほえましい。(注4)

中央祭壇の正面で絢爛な天井を見上げていると、祭壇の裏側から一人の司祭が出てきた。真っ黒なキャソックを着ていて、お腹と両脇が少し弛んでいる。うつむき加減の姿勢で表情はわからないが、なんとなく温和な雰囲気を漂わせている。視線は僕より低いが、ぴんと背筋を伸ばせば僕より5センチほどは高くなりそうだ。司祭が祭壇の聖杯を取るために手を伸ばしたとき、その右袖がマイクスタンドに触れて倒れそうになった。僕はとっさに倒れかけたスタンドのてっぺんについているマイクを握って体勢を立て直す。司祭は驚いたように僕のほうを見る。お礼を言われるかと思ったけど司祭は何も言わない。司祭は気を取り直したように聖杯を両手で握ると、そのまま祭壇の裏側に姿を消した。

司祭を見送りながら、僕は祭壇の裏側にあるその空間のことを知っている、と思う。その部屋は聖具室とよばれていて、入ったとたんに乳香の強い香りがプンと鼻を刺す。僕はこの香りがあまり好きではなかったが、糸永神父がガシャッガシャッガシャッと音を立てながら香炉を振り回すのを見るのが好きだった。手前のテーブルには聖杯やろうそくやマッチ、聖体拝領のパンなどが並べられ、大きな十字架が立て掛けられている。部屋の奥のクローゼットには僕たちが着る白い祭服がかけられていて、僕は部屋に入ると一目散にそこに向かって自分の祭服を探した。カトリックの家で育てられた僕は、4歳から15歳までの長い間ミサのときに司祭を補助する侍者を務めていたのである。

司祭が再び聖具室から出てきて、僕のほうに近づいてくる。司祭はぼそぼそと口元を動かして僕に手招きをする。一歩で30センチくらいしか進まない彼の歩幅に合わせながらゆっくりとついていくと、レタブロの右下部分に隠し扉のような入口があり、おいでと促される。そこをくぐり抜けてさらに左手に進むと、ひと際まばゆい小部屋が現れた。後になって調べて分かったのは、これが礼拝室カマリンで、この聖堂の隠された宝石箱はツアーなどに参加しない限り見ることは難しいし、個人でここを訪問した人がこの部屋を見つけることは不可能に近いとのことだった。僕は運がよかった。カマリンではひとりのシスターが祭壇に向かって座っており、こちらに見向きもしないでロザリオを指で数えながら一心に祈っていた。

肝心なときには神様がちゃんと出会わせてくれる。もし、車のタイヤがパンクしていなかったら、僕は神父が倒したマイクを持ち上げることもなかったし、カマリンを案内してもらうこともなかっただろう。そんなふうに考えて、いや偶然だよ、そこには特に意味はないと考え直す。こういう考えを人生で繰り返しているが結論は出ない。

 

オコトラン大聖堂の礼拝室カマリン

 

カマリンを出たら、司祭とタマちゃんが話していた。二人が僕のほうを見る。僕のことを話していたらしい。僕はタマちゃんの英語はある程度わかるが、司祭のスペイン語は聞き取れないので、タマちゃんを介して司祭と話すことになる。「日本の方がこの聖堂にいらっしゃるのは珍しいことではありません」司祭はそう言っている。

「私の両親と兄弟はカトリックです。この聖堂はどこか日本の教会に似たところがあり、とても親しみを感じます。」

「そうですか、私は日本にまだ行ったことがないので一度は行ってみたいです。特にナガサキに。いつかきっと行くことになると思います。」

司祭の口から「ナガサキ」という言葉が聞こえて、僕はタマちゃんの通訳が終わる前から大いに頷いていた。

「私の両親は長崎出身です。」

「なんと、そうですか! 長崎の島々に美しい小さな教会がたくさんあると聞きました。」

「そうです。私の両親は、ふたりとも長崎の島で育ちました。」

「今日はトラスカラの殉教3児童の記念日(注5)です。そのような日に長崎から来られたあなたにお会いできて光栄です。」

神父が長崎という地名からこの地の殉教の記念日を連想したことは、彼と僕との間には共通の認識があることの証(あかし)のようで心強かった(注6)。いつの間にか僕も両親に巻き込まれて長崎出身ということになっていたが、気にしないことにした。僕はさっき、オコトラン大聖堂が日本の教会に似ていると言ったわけだが、この類似のニュアンスを伝えるのはとても難しくて、詳細を話すのを諦めてしまった。この二つは外観も内部も似ても似つかない。メキシコの聖堂の絢爛さに比べて、日本のそれはあまりに質素である。それにもかかわらず似ていると確信をもって言わざるをえないそれは何事か。

誤解を恐れずに言えば、日本カトリックは歴史上二度の受難を経験している。一度目は秀吉の伴天連追放令(1587年)以降、1873年(明治6年)2月に日本政府が禁制の高札を撤去するまで300年近くも続いた禁教令とそれに伴う数多くの殉教と苦難であり、そして二度目は、その間潜伏し続けた各地のキリシタンたちが江戸末期から明治初期の「使徒発見」を経てカトリックに合流する際に、先祖たちから引き継いできた独特の信仰を打ち棄てたことである。

僕は福岡の筑後平野のまん中に位置する今村(大刀洗町)という小さな集落で育った。そこは離島以外の平野部としては潜伏キリシタンが発見された全国で唯一の土地として知られ、集落の中心には鉄川与助施工の今村教会(国指定重要文化財)が建っている。そして、この教会の祭壇は、16世紀に禁教令に背いたとして磔刑に処せられたジョアン又右衛門(注7)の墓の真上に配置された。今村の信徒にゼーアン様と呼ばれて崇められたジョアン又右衛門は、盲目の人の目を開かせ、女性の血の病を癒し、水を酒に変え、日照りの日に雨雲を呼ぶ奇跡を起こしたという。大正2年に竣工されたこの教会がジョアン又右衛門の墓地の上に置かれたことは、当時の今村の信徒にとってゼーアン様がいまだ強固な信仰の拠り所であったことを物語っている。

1867年に浦上(長崎)の信徒によって「発見」された今村の信徒たちのローマ=カトリックへの復帰は一筋縄ではいかなかった。今村の信徒たちは、浦上の神父たちに「お前たちが信仰しているのはキリスト教ではない、お前たちはキリシタンではない」と宣告される。理由は、洗礼(バプチズモ)の際の祈祷文に重要な語が抜けていること、偶像崇拝(聖母観音への崇拝)や迷信信仰(殉教者ジョアン又右衛門を神のようにあがめてきたこと)を持ち、家族相愛や祖先崇拝(祖先の位牌を仏壇に祀る)などが見られたこと、さらに、復活祭がないなど信仰の暦に決定的な不備があることなどであった。

今村には古くから「7代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」という教えが伝えられており、ちょうど7代目に現れた浦上からの使者たち、そして長崎の神父たちのことを、今村の信徒たちは葛藤しながらも信じた。今村も浦上のように立派にカトリックに復帰し、神の祝福を受けなければならない。そのために今村の信徒たちに求められたことは、先祖代々の偶像を捨て、仏壇を壊し、彼らが拝んだ聖母観音像を砕くことであり、そうしてカトリックの真の信仰を得ることで先祖たちをも救うことであった。

かつてわし等が、万言の誓言(数えられないほどの信仰宣言)よりも一度の踏絵によって棄教徒とされたごと(信仰を捨てた者とされたように)、じいばば(祖父祖母)につながる二百余年の信仰よりも、その位牌の焼き捨てのみが、キリシタンの証となるのでござります。これは、まさに新しい絵踏でござりました。それも身内から差し出された、じいばばの顔を踏む絵踏でござりました。(『今村キリシタン覚書』)

先祖たちから譲り受けた偶像を砕いたとき、今村の信徒たちにどれだけの苦しみが走ったことか。それは、特に長老たちにとっては家と人生をまるごと踏みにじられる苦しみではなかったか。あのトラスカラの勇敢な若き3聖人たち。彼らは、まだ子どもだったから偶像を破壊される苦しみを知りえぬままだったのではないか。それを知らないままに死んだのだとしたら、3人は十全たる愛の実践者と言えるのか。そして彼らは殉教という最たる偶像化の連鎖の中に自分自身が組み込まれることを知っていたのか。むしろ、偶像を超越した永遠たる化身となるために、イエスと自身を同一視して死の享楽に誘(いざな)われたのか。

メキシコでは、16世紀以降に先祖代々の偶像を破壊する行為が大々的に行われた一方で、大勢(たいせい)としては古い信仰を生かしつつカトリックを土地に馴化させる方針が取られ、その成果としてメキシコ独特のグアダルーペの聖母信仰やメキシコゴシック建築などが残された。一方、苛烈な弾圧により長い間信仰を公にできなかった日本では、潜伏キリシタンたちの発見と信仰の再構築が、明治・大正の急速な近代化と旧来の価値観が見直される時期と重なった。さらに、廃仏毀釈など宗教の多様性を否定する風潮の影響も受けることで、その独自性が極端に否定・抑圧される形での復帰・合流が行われた。ここに日本カトリックの苦難があったわけだが、一方で、その苦しみこそを糧にするのが信仰のパラドックスである。今村教会に付属する女子修道院は愛苦会という名を持つが、その名にはそういった辛苦の中にこそ神の愛を見出した信徒たちの思いがいまも息づいている。

しかしながら、日本ではその苦しみがメキシコのバロック建築のような形で昇華されることはなかった。「メスティーソであることは、常に境界にいること、常にバランスを取りながら生きることだ。それは均衡を取る行為であり、抵抗の行為でもある」と述べたのはメキシコの現代作家グアダルーペ・ネッテルだが、日本の信徒たちは均衡を取ろうとするばかりで、抵抗することはすっかり諦めてしまったように見える。

だが、抑圧された抵抗はいまも裂け目となり日本カトリックの意識に影響を与え続けているはずである。たとえば、生命力や性愛にかかわる欲望全般に対する消極性(これは禁欲主義とは似て非なるものである)に僕はある種の不気味さを感じてきたし、その消極性は日本の教会建築の簡素さにも表れているのだが、だからといって必ずしも欲望が手放されているわけではないのである。日本とメキシコの聖堂は確かに似ており、どちらも古き信仰の亡霊が漂っている。そして、僕は小さい頃からその亡霊の声に耳を澄ませてきたのだ。

大聖堂から出て、帰りのタクシーに乗ったのは17時42分。閉館時間はあまり気にしなくてよかったようだ。帰りの車の中ではタマちゃんが饒舌になった。彼が「僕の両親はとても熱心なカトリックだけど、僕はそうでもないんだ」と言ったので、「僕もそうだよ」と返した。また、タマちゃんの学生時代の友だちに日系3世がいた話も聞いた。その人は医者の息子だったけれど、当時は彼が医者の息子であることは知っていても、日系であることを知らなかったそうだ。タマちゃんはドラゴンボールが好きで、だから日本が好きだそうだ。でも、彼はメキシコから離れて海外に行ったことがなく、日系人のその友だちも、たぶん日本には行ったことがないだろうとのこと。そういう話を僕の頭の半分は熱心に翻訳しながら、もう半分はぼーっと聞き流しながら、まだ見ぬ別の聖堂のことを考えていた。

プエブラのホテルに着いた頃には辺りは暗くなっていた。タクシーを降りる前に「ありがとう」とタマちゃんのほうを見たらタマちゃんが涙ぐんでいて僕はとても驚いてしまった。ちなみにタマちゃんと呼んでいるのは僕の脳内だけで、彼の姓“Bolaños”(ボラニョス)の意味を聞いてみたところ、”small ball?” と笑いながら答えてくれたので、小さなボール→ちいさな球→タマちゃん と勝手に変換して呼んでいたのだ。

僕はこの1日夢中になってメキシコゴシックの聖堂を巡ってそのことで頭の中がいっぱいになっていたけど、タマちゃんは僕とのこの1日を心から楽しんで、そしていま隣で涙ぐんでいる。なんてこと。泣けない僕は、自分が人でなしのような気持ちになって、でも努めてパッショナブルにこの1日のお礼を言った。タマちゃん、僕はタマちゃんのことを何も知らないまま、この1日を終えてしまった。もっと、タマちゃんから話を聞いたらよかった。

太い眉とアーモンドのような形をした垂れ目のタマちゃん。僕はこのとき初めてタマちゃんの顔を見た気がした。タマちゃんとの時間はこれで終わりで、今のやるせない感じを僕はずっと覚えているだろうと思った。取り立ててこれといった特徴のない素朴な人。僕はそういう素朴さを愛するために生活しているのに、ドラマチックなこの旅ではタマちゃん、いやボラニョスの声のふるえに気づかないままだった。

僕は明日、朝9時半のバスでメキシコシティに行き、そのまま成田行きの便に乗って日本に戻る。

 


【注】
注1・2 カルロス・フエンテス『埋められた鏡 スペイン系アメリカの文化と歴史』より
注3 グアダルーペの聖母は、1531年にメキシコのテペヤック丘で先住民族の農民フアン・ディエゴに現れたとされる聖母マリア。聖母はディエゴに教会を建てるよう伝え、その証拠として彼の外套にバラの絵が現れるという奇跡が起こったとされる。この出来事はメキシコのカトリック信仰の基盤となり、現在、グアダルーペの聖母はメキシコおよびラテンアメリカ全体の守護聖人とされている。
注4 オコトラン大聖堂の聖母像は、メキシコシティ近郊でグアダルーペの聖母が顕現した10年後にあたる1541年に、この地(オコトラン)にて燃えさかる松の木の中から発見されたと伝承される。聖母の頭上に被せられた王冠は、1906年に教皇ピウス10世によって戴冠された。
注5 トラスカラの殉教3児童とは、16世紀前半にカトリック信仰を守るためにメキシコのトラスカラ地方で殉教した先住民族の3人の児童(クリストバル、アントニオ、フアン)のこと。フランシスコ会宣教師から洗礼を受けたクリストバルは、家族たちが崇拝する古代の神々の偶像を破壊したことで激高した父親に棍棒で撲殺された。アントニオとフアンは、フランシスコ会の修道者たちの伝道に同行していた際に、やはり偶像を破壊した咎で住民たちに殺された。アントニオはトラスカラで最大勢力を誇った領主の孫であったため、この事件は地域に大きな衝撃を与えた。彼らが殉教したのはいずれも12、13歳ごろである。3人は教皇フランシスコによって2017年に列聖された。
注6 長崎で殉教した日本二十六聖人のひとり、フェリペ・デ・ヘススはメキシコ出身者で、しかも同国で列聖された聖人のうち最初の人物であるため、長崎が殉教地であることはメキシコの聖職者たちに広く知られている。
注7 ジョアン又右衛門は、長崎・五島の宇久島で受洗、ジョアンの洗礼名を受け後藤寿庵と名乗った。奥州で伊達政宗の厚遇を受けたが、元和6年(1620)、江戸幕府のキリシタン禁教弾圧のため追放されて九州に渡り、その後、大刀洗の今村・本郷の両集落を拠点として、キリスト教の指導者として人々を信仰の道に導いた。
【参考文献】
カルロス・フエンテス『埋められた鏡 スペイン系アメリカの文化と歴史』古賀林幸 訳(中央公論社)
Guadalupe Nettel  Después del invierno(Editorial Anagrama)
Beatos mártires de Tlaxcala https://hispanidad.tripod.com/hechos9.htm
三原誠『汝等きりしたんニ非ズ: 筑後今村キリシタン覚書』(勁草出版)

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。