膝の皿を金継ぎ
『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。
第15回

10月の日記(前半)

2024.10.30
膝の皿を金継ぎ
八木詠美
  • 10月1日(火)

    小説を書いているとき、ふと気づく。手が臭い!

  • 10月2日(水)

    猫を飼っていない友だちがなぜか猫のトイレ用の砂をくれる。駅前でしばらく話す。

    夕方、編集者の方おふたりと喫茶店でお会いする。はじめてお会いするおふたりで、小説を書く約束をする。現時点での執筆の予定について聞かれ、約束をしているいくつかの他社さんについてお答えする。その予定では、今日お会いしたおふたりに原稿を渡せるのはずいぶん先になってしまいそうだが、それまで定期的にお会いして小説の題材についても話しましょうと提案してくださる。駅の前でお別れする。

    小説の依頼をいただくと、いつも嬉しいような、おそろしいような気分になる。自分は書くのが遅い。遅い上に、書いたものを自分で勝手に検閲して次から次へと捨ててしまう。今はありがたいことにこうして依頼をいただいているが、ようやく小説を書き終えたときには、誰もわたしが書いたものになんて興味がないんじゃないかと不安になる。

    小説は嘘で紡がれる。けれどわたしは小説を書いている自分がいちばん嘘っぽいと思う。

  • 10月3日(木)

    最近、小説を書いていると「ゆ~らゆら、ゆらゆら……」という歌詞の曲が窓の外から聞こえてくる。どうやら近所の幼稚園で運動会が近々あり、これはそのダンスの曲で今は練習中らしい。

    別に迷惑だと感じる音量ではないのだが、割と耳に残るメロディーなのと、よく聞いてみると「血潮が舞い踊る」といった穏やかでない歌詞もあり(聞き間違いの可能性は大いにあります)、最近ではずっと頭の中がこの曲に占拠されている。気づけば夫も「ゆ~らゆら、ゆらゆら……」と口ずさんでいる。

    せめて曲名を調べようと歌詞の一部を入れてネットで検索するものの、ゆらゆら帝国の曲の情報ばかりが出てくる。ひょっとして幼稚園のオリジナルソングなのだろうか。しかしそれならば「血潮が舞い踊る」はまずいだろうという気がする。

  • 10月4日(金)

    今進めている中編小説がうまく書けない。練習と気分転換を兼ね、短編小説を書き始める。

  • 10月5日(土)

    エアコンの交換の日。夫が家電量販店の方とのやりとりを対応してくれている間、猫と書斎にこもる。交換は予想より時間がかかり、その間じっと息を潜めて小説を書く。子どもの頃、弟の友だちが家に遊びに来ると自分の部屋にこもっていたときのことを思い出す。

  • 10月6日(日)

    猫が1歳の誕生日を迎える。いつもはあまりあげないウェットフードを出すと、飛びついて食べ始めた。

    午後は友だちと会う。一緒に頭皮用のブラシを買いにいく約束をしていたのだが、先月誕生日だったよね、と今日はほしいものをプレゼントしてくれるという。嬉しい。ふたりでブラシの硬さを延々と試し、ネイルオイルの香りを嗅ぎ続けた。

    なんだか年々、友だちと買い物をすると妙にテンションが上がるようになってきている。一緒にアイシャドウのタッチアップをしてもらい、「こっちの方が似合うよ」とお互いに言い合ったり、ポーチの柄で迷うのが無性に楽しい。大きな買い物でなくていい。むしろ日常で使う小さなものの方がいい。あれこれと話しながら一緒に買い物をする友だちこそ、どんなにお金を出しても得ることができない存在だから。

  • 10月7日(月)

    手が臭う件について。怪しいのは最近使い始めた銅の茶筒だと思う。毎朝小説を書くときに紅茶を淹れるのだが、淹れた後になると臭うのだ。試しに茶筒に触れるときにミトンをはめてみると、あら、臭わない!

    しかし問題はこの茶筒、結構気に入っているのだ。しかも割と高かった。どうする?

  • 10月8日(火)

    中編の約束をしている編集者の方から、進捗を尋ねるメールが。うまく書けずに短編小説に逃げています、と正直に答えてよいものか迷う。

  • 10月9日(水)

    茶筒の件について。もしかしたら茶筒に触れる前に使っているスキンケア用品の成分と茶筒の銅が反応しているのではないかと思い、試しにスキンケアのあとによくよく手を洗ってから茶筒に触れてみる。失敗。やはり手が臭う。玉ねぎを切った後のような臭いがする。自分の手を嗅ぎ過ぎて気分が悪い。

    短編小説を書き終える。

  • 10月10日(木)

    編集者の方にメールのお返事をする。あまり書き進められずストップしていたことを書いたところ、アドバイスをいただく。ありがたい。

    数年前の手帳を開いたところ、「“感動をありがとう”を殺す」と書いてあった。何があったんだろう。

  • 10月11日(金)

    会社に行き、同僚とたくさん話す。みんな「聞いてよ!」「知ってる?」と、時短勤務のわたしが不在中に起きたたくさんの出来事を教えてくれる。主に嫌なことや不条理なことについて。

    会社で働いていて良かったと思う瞬間のひとつはこういうときで、人の嫌な部分をたくさん知ることができる。もちろんプライバシーや機密情報もあるので出来事をそのまま小説に入れたりモデルにするわけにはいかないが、一見いい人に見える上司のもとで次々と社員が辞めていったり気合が入ったプロジェクトが迷走していく様子からは、人のどうしようもない部分を嫌というほど学ぶことができる。1対1の関係性だけでなく、集団でのふるまい方を知ることができるのがよい。

    会社で働いていて困る瞬間のひとつは、人の醜い部分と同じくらい美しい部分を垣間見ることもあり、なかなか退社の決心がつかないこと。

  • 10月12日(土)

    近所の幼稚園で運動会が行われる。「ゆ~らゆら」のダンスの発表もあり、見届ける。これでもう「ゆ~らゆら、ゆらゆら……」が聞けなくなるかと思うと寂しい、ということは特にない。きっと来年も血潮が舞い踊るのだろう。

  • 10月13日(日)

    一日中、小説を書く。が、少しだけ散歩をする。穏やかな夕方。

    いつまでもこんな日が続けばよいと思うけれどそうならないことは当然わかっていて、でも何度だってそう祈ってしまうくらい、わたしたちはいつだって思い出される日々の中を歩いている。

  • 10月14日(月)

    編集者の方と、はじめてお会いする脚本家の方と演劇を観に行く。新国立劇場の「ピローマン」。物語についての物語。見ているうちに眼球がぎゅんぎゅんと熱くなる。

    用事があったので夕食はご一緒できなかったものの、おふたりと新宿駅まで歩いて帰る。

  • 10月15日(火)

    朗報です。銅の茶筒問題が解決しました。

    今までは茶筒を香りの強いコーヒー豆などと一緒の引き出しに入れていたのだが、もしかしたらそれがよくないのかもしれないと茶筒の保存場所をしばらく変えたら、触れても手が玉ねぎ臭くならない! 同様の悩みを持つ方がいたらお試しください。

八木詠美(やぎ・えみ)

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。2024年『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞。