分かり合わないことの美学:不同意コミュニケーション論
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はじめに|コミュニケーションの時代
人びとはコミュニケーションに励んでいる。ビジネスの場でも、家庭でも、友人関係でも、性愛的関係でも、クリエイティブな現場でも。いつでも、どこでも、人びとはよりよいコミュニケーションを求めている。だが、「よいコミュニケーション」とは、どのようなコミュニケーションなのだろうか。
同時に、「コミュ力」は相変わらず重宝されている。とりあえずは「よいコミュニケーション」を実現する能力として「コミュ力」が想定されているだろう。この「コミュニケーション能力」とは何なのだろうか。
そもそも、なんでよいコミュニケーションをしなければならないのだろうか。なるほど、契約は順調に進んだほうがよい。要件はきちんと定義できたほうがよい。言った言わないで喧嘩にならないほうがよい。互いに不満を共有できたほうがよい。愛は伝えられたほうがよい。
よいコミュニケーションとは何なのだろうか。人びとは分かり合いたいと願っているようにみえる。しかし、分かり合って何がうれしいのだろうか。
コミュニケーションの美学を考えたい。コミュニケーションにおいて美的なものと思われておらず、むしろ道徳的なものとみなされているもの、すなわち、「分かり合うこと」の美学を批判したい。私たちが分かり合いを美的に選好することもできれば、分かり合わないことを美的に選好することもできる。分かり合わない美学を考えたいのだ。
ニーチェが断章で指示したような、一生交わすことのできる長い会話とは何でありうるのだろうか。
コミュニケーションは存在しない
よいコミュニケーションとは何か。ビジネス書や恋愛指南書や教育書や対話の本なんかを開くとだいたいこんなふうなことが書いてある。曰く:
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- ・相手の話に傾聴する
- ・感情的に共感する
- ・否定しない
- ・本音を話す
こうしたいくらでも続けることができる。リストアップの基準は簡単である。人間関係を円滑にしそうな特徴を挙げ連ねればよい。
しかし、なるほど、これら一つ一つはよいものに思える。だが、これらをいっぺんに、いつでもどこでもするのがよいことなのだろうか。そんなわけはなさそうだ。
一つのことを伝えることで教育したいなら、まずは自分が教室や講義で話す必要があり、生徒たちはそれを聞く必要がある。様々なコミュニケーションの実践において、望ましいコミュニケーションの種類は様々に異なる。
「コミュニケーション」は存在しない。ビジネスでのやりとり、性愛的関係での恋人同士などのやりとり、哲学者同士の議論は存在する。だが、「コミュニケーション」を実践している人は存在しない。「コミュニケーション」は存在しない。 [1]
これはちょうど「芸術」が存在しないのと似ている。どういうことか。ドミニク・マカイヴァー・ロペスが『芸術を超えて(Beyond Art)』のなかで、「芸術」は存在しないと言った(Lopes 2014)。一つの芸術ではなく、「芸術」に属する各ジャンルの作品しか存在しない、と言う。芸術は存在せず、絵画、写真、映画、小説、彫刻、舞踊、建築、音楽が存在し、さらにその下位ジャンルが無数に存在する。考えてみれば自然だ。「芸術家」と呼ばれる人はいる。だが、その人が作っているのは「芸術」というよりは「絵画」か「写真」か「映画」か「小説」か「彫刻」か「舞踊」か、その他、各芸術ジャンルに属する作品だろう。
同様に、コミュニケーションは存在せず、交渉、討論、教育などが存在する。
もし疑うなら、少しだけ事例を増やしてみよう。コミュニケーションのジャンルのごく一部は次のようなものである。
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- ・学術的議論
- ・プレゼンテーション
- ・教育
- ・指導
- ・スピーチ
- ・面接
- ・上司と部下の会話
- ・チームビルディング
- ・クライアントとの交渉
- ・ビジネスメール
- ・カスタマーサービス
- ・調停
- ・グループディスカッション
- ・家族間の会話
- ・友人同士の雑談
- ・デートでの会話
- ・SNSでの会話
- ・医療従事者と患者のコミュニケーション
- ・カウンセリング
- ・ピアサポート
- ・スピリチュアルな場での分かち合い
- ・お悩み相談
- ・政治的討論
- ・演説
これらは確かにコミュニケーションのサブジャンルである。これらを超えた「コミュニケーション」なる活動はどこにも存在しない。
それゆえ、「コミュ力」も存在しない。まさか、と思うだろうか。では、「コミュ力」が存在する、と言う人は、以上のリストからこれらのすべてのコミュニケーションのサブジャンルを横断して発揮される「コミュ力」を私に教えてほしい。——と、ここで私は謝罪しなければならない。無理難題を頼んだ私が悪かった。そんなものは存在し得ないのだから。
「コミュニケーション」という実践が存在しない。それに対応する能力も存在しない。なにせ、実践のないところに能力は存在しないだろうから。だから、「コミュ力」はまやかしである。せいぜい、特定のコミュニケーションサブジャンルの能力「交渉能力」「共感を見せる能力」「親しみと敬意のバランスを取る能力」などが優れていることを「コミュ力」がある、と言うに過ぎない。
こうした意味でコミュ力がある人が、たとえば哲学の議論に参加しても何の能力も発揮できないだろう。哲学の議論にも色々あるが、自分の主張をしたり、反論を聞いて主張を弱めたり、主張を改訂したり、相手の反論に応答したりする能力が哲学における「コミュ力」であり、ふつうこうした議論能力は「コミュ力のある人」がむしろ身につけていなさそうな能力であるからだ。
「コミュ力」という言葉は、たんに間違っているというだけではない。なお悪い。特定のコミュニケーションのタイプをコミュニケーションに代表させ、それができていればコミュニケーション能力があり、できていなければコミュニケーション能力がない、と判断し、人の能力を決めるからだ。たとえ、「コミュ力」で包括されている能力がなくても、他の能力がある人は魅力的である。
さらに言えば、むしろいわゆる「コミュ力」がない方が特定の実践にはアドバンテージになることすらある。他人とすぐ「交渉」しようとする人は、一つの真理に(暫定的であれ)至ろうとする学術的実践においては、変なことをしているし、「共感を見せる」ことは、別に学術的議論において不必要なケースも多く、適切な敵対的関係が健全な議論には望ましい。
もちろん、諸コミュニケーションのうちの様々なジャンルにおけるサブコミュニケーション能力は存在する。しかし、それらはおそらく「コミュ力」で言われているコミュニケーション能力ではない。コミュ力とはせいぜい、ビジネスコミュニケーションスキルや、人と雑談する能力を意味するのであり、「コミュニケーション能力」という名称の占有である。
名称の占有の悪さを考えるために、別の意味でコミュニケーションが称揚される言葉遣いに目を向けてみよう。「対話」がそこここで重視され珍重される。対話が大事だ。ビジネスでも対話が大事だ。だとか。その文章を読んでみると、対話とは、理想的なコミュニケーションのイデアであることが分かる。あらゆる様々なコミュニケーションのサブジャンルからいいところを抜き出してきて、それらを好き勝手に一つに組み合わせてみると生まれるもの、それが「対話」である。つまり、対話とは存在しない「コミュニケーション鵺」のようなもので、誰もその姿を見ることはできない、触れることもできない、すなわち、「対話」することなどできない。存在しないのだから。
ではこうした「対話」を称揚することに何の意味があるのだろうか。あらゆるコミュニケーションのサブジャンルの称賛すべき部分を組み合わせた何かを称賛しない者は存在しないだろう。いたとしたら、彼女が好きなコミュニケーションのサブジャンルの美点を加えれば済むだけだ。だが、そんな対話を称揚することで私たちは確かに気分が良くなるかもしれない。というのも、自分が「対話」できている、と思いなすことができさえすれば、それは幸せなことだろう。たった一つや2つでも、コミュニケーションのサブジャンルの美点を実践できてさえいれば、残りの他のコミュニケーションの美点がおまけで全部ついてくるのだから。
だが、明らかにそれは悪いことだ。「対話」ができればいろいろな美点がついてきてうれしくても、実際にその対話に巻き込まれる人には不幸だろう。その人ができてさえいないことを勝手にできていると思いなしている人びとばかりでうんざりするかもしれない。
「対話」という言葉がここまで簒奪され、コミュニケーションの美称として機能してしまっているのなら、もう諦めた方がよい。「対話」という概念を使うことを放棄すべきだろう。
一つ結論が出た。よいコミュニケーションとは何か。そして「コミュ力とは何か」。前者の答えは「いろいろある」。後者の答えは「いろいろある」、である。
コミュニケーションの複数の美学
以上私が論じてきたのは、「コミュニケーション」と「コミュ力」をめぐる名称の占有であった。これらの名称の占有によってどのような悪さが生まれるのか。
典型的な現象としては、特定のコミュニケーションジャンルを話している人が気に食わないとき「コミュ障!」と罵倒することで、その場を支配することができる。ここで起こっているのは、複数人が異なるコミュニケーションジャンルを持ち寄って会話が行われているときに、特定のコミュニケーションジャンルを「コミュニケーションが下手である」と断じる行為だ。たとえば、共感的なコミュニケーションを求めている人と、問題解決的なコミュニケーションを求めている人がいて、そのあいだでどちらかが相手のコミュニケーションジャンルに文句がある場合「そのコミュニケーションジャンルではなく、こちらのコミュニケーションジャンルで話しませんか」とメタな交渉をすることは難しい。人びとは、そのように複数のコミュニケーションジャンルを把握できていないし、そうした交渉をすることになれてはいない。そしてそもそも、「いまからこういうコミュニケーションをしましょう」と提案することは、通常のコミュニケーションでは異様なものとして響く。それゆえ、コミュニケーションジャンルのメタ交渉はふつう行われず、代わりに「コミュ障!」といった罵倒語が容易に使われる。そうすることで、その場のコミュニケーションにおいて、自分のコミュニケーションジャンルのほうがより正当であり、このジャンルで話すべきだ、という規範を打ち立てることができる。
ここで規範はたんに道徳的な規範だけではないように思われる。共感的なコミュニケーションの場で問題解決的なコミュニケーションをしてしまう人は、道徳的に誤っている、というより「空気が読めていない」。センスがない、と非難されるかもしれない。つまり、美的な規範に基づく非難も行われているように思われるのだ。
確かに、コミュニケーションとは、何らかの問題解決のために特定のジャンルが選ばれ、実行される。同時に、その実行がスムーズに行くことが私たちにとっての快さにつながる。例えば、問題解決的なコミュニケーションをするのが好きな人は、それが問題解決できるからのみ好きなわけではない。その人は、問題解決的なコミュニケーションが行われることに美的な快を覚えている。いやいや、と反論されるかもしれない。問題解決的なコミュニケーションには、何ら私情が挟まらない、クールなもので、だからいいのだ、と。その通り、「私情が挟まらない」「クールさ」に人びとは惹かれる。それは間違いなく美的性質なのだ。
他のコミュニケーションジャンルについても同じことが言える。クライアントとの折衝が好きな人は、クライアントと折衝することで期待値の調整ができるからのみ折衝が好きなのではなく、折衝そのものが好きなのである(このあたりの話は本連載第一回の適応的美的選好の話とつながる。とくにビジネス周りのコミュニケーションジャンルが最初から好きだった人はそう多くはない。そのかわり、ビジネス実践に親しむにつれて、それを美的によいものとする選好が生まれる。それゆえ、労働の美的批判と関連させて、労働のコミュニケーションも適応的美的選好が作られていくことを批判できる)。
つまり、ある場においてどのようなコミュニケーションジャンルを採用するかは、人びとがどのような問題解決をしたいか、という実務的な問題と合わせて、人びとがどのような美的経験をしたいか、という美的な問題とも密接に関わっているのだ。
では、コミュニケーションならではの美的経験はあるのだろうか。第一節の話を踏まえれば、「コミュニケーション」という名のコミュニケーションを誰も実践していないし実践は不可能なのだから、コミュニケーションならではの美的経験というものを析出することは難しいだろう。コミュニケーションジャンルごとにならではの美的経験は違うし、ジャンルを横断しているものもあまりないだろう(ごく抽象的な特徴づけはできるかもしれないが、役に立たなさそうである)。
いや、とここで反対意見がありうる。「「分かり合うこと」はコミュニケーションならではの美的経験ではなかろうか」と。確かに、コミュニケーションと言えば、互いのニーズを共有したり、調整したりする「分かり合い」を目的とするものも多い。とりわけ、もっとも際立ったコミュニケーションジャンルとして、「芸術的コミュニケーション」というものは、もっとも深い「分かり合い」を目指しているのかもしれない(cf. Crick 2004; Puolakka 2017; Stroud 2007; Stroud 2008)。
ジョゼフ・コンラッドは印象的なことを言う。芸術家は、「無数の心の孤独を結びつける、繊細だが無敵の連帯の信念」に語りかけると言う。
夢、喜び、悲しみ、 夢、喜び、悲しみ、大志、幻想、希望、恐怖において、人々を互いに結びつけ、全人類を結びつけるもの、すなわち、死者を生者と、生者を死者と結びつけるものについて語っている。(Conrad 1897/1963, xlviii)
不完全な存在である私たち人間が私たち人間同士で語り合う。そのとき、「分かり合い」の美的快楽が生まれる。芸術作品に代表されるコミュニケーションが何かしらの「分かり合い」を目指しているのはおかしな特徴づけではない。
しかし、芸術作品においても、こうした連帯と共感を目指す作品もあれば、鑑賞者を挑発するような敵対的なコミュニケーションを図るものもある。そして、コミュニケーションの諸ジャンルにおいても、例えば脅迫や強制、暴力は連帯や共感をハナから目指してなどいない。しかしこれらのサブジャンルも立派なコミュニケーションに間違いない。それどころか、戦争という最悪のコミュニケーションとして、脅迫、強制、暴力は私たち人類がとても古くから行っている。加えていえば、教育したり、説得したりする「分からせ」を目的とすることも多い。そして、人類はその愚かさゆえに、こうした脅迫、強制、暴力といった昏いコミュニケーションにも相応の深い美的経験とデモーニッシュな喜びを感じてきた。だとすれば、分かり合いを目指さないコミュニケーションのサブジャンルもまた、存在する。
それゆえ、「コミュニケーション」そのものの美的経験は想定するのが難しく、もし強いて想定するなら、多様なコミュニケーションを見逃すことになるだろう。
不同意の美学
そこで私は、コミュニケーションのサブジャンルの一つについて目を移そうと思う。しかし、そのサブジャンルはいまだ名付けられてはいないようなジャンルである。いや、ジャンルというよりは、モードと呼ぶべきであろうか。それは、特定のコミュニケーションジャンルとして確固たる地位を確立していないし、コミュニケーションという多元的な連邦のうちでの一つの国として独立しているわけでもない。むしろ、それらの連邦に対して敵対的ですらあるような、コミュニケーションを破壊するようなコミュニケーションであると言えるかもしれない。
私が注目したいコミュニケーションのサブジャンルは、「不同意(disagreement)」である。哲学では近年不同意をめぐる議論が盛り上がっている(よい日本語での入門は、萬屋(2022))。私は不同意のコミュニケーションにおける美的経験について考えたい。
不同意とはなんだろうか。私が注目するタイプの不同意について紹介しよう。かんたんに言って、それぞれ文脈上で適当な能力や知識を対等に持っている者同士が一つのトピックに対して異なる意見を持つとき、不同意が発生している(cf. Frances and Jonathan 2024)。ポイントは、いま考えたいのは、ものを知らない人と知っている人の間の意見の食い違いではないということだ。参加者がそれぞれ知的能力や知識のうえで信頼のおける人びとであるにもかかわらず、意見が異なるとき不同意が起こっている。
先ほども指摘したように、コミュニケーションの理想は、しばしば「同意(agreement)」によって代表される。コミュニケーションには「同意パラダイム」がある。
コミュニケーションの各ジャンルの多くは、互いに異なることを重視するだろう。もしかすると、不同意であることも寿ぐかもしれない。とはいっても、大概は同意に至る経路で必要だとみなされているだけだ。不同意そのものは、よくて最終的な同意というゴールに向かう道中の障害あるいはちょっとしたスパイスであり、不同意そのものに価値があるとはみなされていないように思われる。不同意そのものはたんなるネガティブである。そして、最終的に互いに適切な能力を持っていたら同意にたどり着くだろう——あるいはたどり着いてほしい、と願われている。
しかし、私は、不同意に本質的な価値を見出している。むしろ同意にはそれほど意義を見出していないかもしれない。私は不同意に立ち会ったときにこそ、喜びを感じる。それは世界の立体感に触れたというときの喜びかもしれない。
もちろん、どんな不同意でも嬉しいというわけではない。たんに喧嘩別れに終わったらつまらない。先ほども述べたように、能力に差があったり、明らかに愚かな人間との意見の食い違いなどなんのおもしろさもない。たんに勉強不足な人びととの不同意など、時間の無駄である。
そうではなく、尊敬に値する人びととの間で、互いに違うことを確認することを互いに喜ぶようなコミュニケーション、違うことを確認することで自分たちがどのような人間であったか(どのような信念や構えをとっていたか)が分かるような不同意、そのような豊かな不同意が現れるとき、私にとっては魅力的なコミュニケーションとなる。
認識論の哲学で重要な研究を行っているキャサリン・エルギンは、不同意が持つ価値について論じている(Elgin 2022)。エルギンが注目するのは、哲学における不同意だ。哲学者同士はどんなテーマでも意見が割れる。最も根本的な論理原則(例えば「矛盾律」)でさえ否定する議論がありうるし、「脳が水槽に浮かんでいる可能性」「悪魔による欺き」など、最も常識的な命題に対しても懐疑が可能である。一般的な議論では、不同意は議論の結論を見えなくする不安要因とみなされ、自分の確信を揺さぶるものだとされる。しかし哲学者は、不同意が起こっても判断保留などに走るわけではない。では哲学者は何を不同意に見いだしているのだろうか。
エルギンは自著(哲学者ネルソン・グッドマンとの共著)のシンポジウムで、自分たちの説を批判し、アップデートする議論を提案された。出席者全員が批判者の代案が正しいと一致してしまった。その結果、議論が発展せず、場が微妙な雰囲気になってしまったという。これは哲学の集まりが「反論や異議の提示」を期待していることをよく示す例であり、とても興味深いことに、「同意」がなされると哲学における議論は止まってしまい、話が進まなくなる。普通のコミュニケーションの多くとは逆のことが起きているのだ。
なぜ哲学は不同意をむしろ奨励するのか。それは、哲学的な立場の対立そのものがお互いの理解を深めるヒントとなるからだ。対立する立場を学び、鋭く不同意を発生させることで、哲学者たちは「自分の立場がどのような想定を置き去りにしているか」「他の視点がどこに力点を置いているのか」についての理解を深めていく。それは、自説の弱点や改良の余地を知る手がかりとなり、時には他の理論から部分的アイデアを借用して新たな発展が期待できることにもなるだろう。
哲学者たちは、何か一つの真理に一足飛びで行き着くことを夢見ているというよりも、異なる立場の人びとの思考を互いに交換しあい、そうしながらも不同意を発生させ続けることで、世界全体の理解を深めようとしている。
エルギンは、(1)互いに有能であり、(2)焦点のあった、(3)互いの議論を尊重することで生まれる不一致を「責任ある形での不同意(responsible disagreement)」と呼ぶ。私が注目するのもまさしくこうした責任ある不同意だ。この種の不同意には、互いが互いとして立場を持ったまま、しかし、相手の意見によって多少なりとも自分の意見がゆらぎ、再検討を余儀なくされる、自分の輪郭がゆらぐような心地よさが発生しうる。それは、有能でない、焦点のあっていない、尊重し合わない関係(例えば、SNSでの誹謗中傷)などではもちろん経験できないし、雑談などでも経験できない美的な楽しさだ(表)。
表 不同意のバリエーション
私が研究上でも日常的にも、コミュニケーションの一つのジャンルとしてもっとも愛しているのは、不同意を楽しむコミュニケーションであり、責任ある形での不同意から得られる不同意の美的経験である。
具体的に不同意の美的経験を分析してみよう。
責任ある形での不同意が発生した瞬間、私は会話相手との距離を感じ、何より、自分の精神の輪郭がはっきりするのを感じる。精神の輪郭というとややオカルティックかもしれない。しかし、そこまでオカルティックでもないと感じている。ともかく、自分の精神がどんなかたちをしているのか。ざらざらしているのか、やわらかいのか、とんがっているのか、そうした触覚的な感覚が明晰になる感覚が不同意にはあるのだ。第一の不同意の美的な喜びは、自分の輪郭の明確化だ。
その不同意発生の後も、私は会話から得たもので楽しむ。第二の美的な喜びは、相手の精神の輪郭の彫琢だ。自分の輪郭の明確化にともなって、ゆっくりと時間をかけて、相手がどのような精神の輪郭を持っているのかがみえてくる。もちろん輪郭のイメージは仮説的なものだ。だが、相手の精神の手触りが自分との対比で明確化されつつあり、「そうか、あの人はこういう手触りの人だったのか」と知ることになるのは、とても喜ばしいことだ。それは「Aという立場だからこういう人なのだ」という程度の低い理解ではない。その人の手触りの複雑さを感じ取れるような、汲み尽くしえなさをかすかに感じ取れるような喜びである。
以上、私は同意パラダイムと併存しうる不同意パラダイムを提案した。これによって、コミュニケーションの多元性を確保する一つのやり方を示すことができたならうれしい。
注意しておきたいのは、「本音で話す対話」とか「互いの理解を目指すために腹を割って話す」といった、生真面目な分かり合いを目指すタイプのコミュニケーションを扱いたいわけではなかった、ということだ。不同意を楽しむコミュニケーションの結果、互いの理解が深まるということはあるかもしれない。しかし、それは副産物である。不同意を楽しむコミュニケーションは相互理解を目的としているわけではないだろう。
本稿では、「コミュニケーション」というコミュニケーションジャンルが存在しないこと、そして同時に「コミュ力」という能力も存在しないことを示し、次に、コミュニケーションの多元的な美的な特徴について論じ、とりわけ、不同意を楽しむコミュニケーションの美的経験を分析した。以上の議論から、コミュニケーションの多元性とその様々な美的なよさを味わう方向へと進んでいくことの楽しさがほのみえたならよいことである。
次回は、コミュニケーションの中でも特有なコミュニケーション、すなわち、「愛のコミュニケーション」をめぐる話をしたい。なぜ人は愛する人に裏切られたとき、道徳的な言葉を相手を詰るのか。そして、その後に、「本当に伝えたかったのは、道徳的な責め苦を与えたかったのではなく、相手に「愛して欲しかっただけなのに」」とずっと後で気づくのだろうか。愛のコミュニケーションの難しさを考えることで、愛の本性が見えてくる、と予感している。
参考文献
Conrad, Joseph. 1897/1963. The Nigger of The ‘Narcissus’, ed. C. Watts. London: Penguin.
Crick, Nathan. “John Dewey’s aesthetics of communication.” (2004): 303-319.
Elgin, Catherine Z. 2022. “Disagreement in philosophy.” Synthese 200.1.
Frances, Bryan and Jonathan Matheson, “Disagreement”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2024 Edition), Edward N. Zalta & Uri Nodelman (eds.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/win2024/entries/disagreement/.
Lopes, Dominic. Beyond art. Oup Oxford, 2014.
Midtgarden, Torjus. “Communication as Transmission and as Ritual: Dewey’s Account of Communication and Carey’s Cultural Approach.” Contemporary Pragmatism 18.2 (2021): 113-133.
Puolakka, Kalle. “The aesthetics of conversation: Dewey and Davidson.” Contemporary Aesthetics 15.1 (2017): 20.
Stroud, Scott R. “Dewey on art as evocative communication.” Education and Culture (2007): 6-26.
Stroud, Scott R. “John Dewey and the question of artful communication.” Philosophy & rhetoric 41.2 (2008): 153-183.
萬屋博喜.2022.「認識的不同意をめぐる論争」『哲学の探求』第 49 号 哲学若手研究者フォーラム.
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