批判的日常美学について
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
第7回

新しい快楽主義者たち:猫と廃墟とアナキズム

2025.06.01
批判的日常美学について
難波優輝
  • 1 新しい快楽主義者たちと身体の忘れ

     

    自分が不幸なのは自分のせいである。それゆえ、自分が幸せになるためには自分が頑張らなければならない。こんな物言いは、現代において奇妙な信憑性を持っている。たとえば企業、学校、SNSの場において、すべては本人のやる気次第だ、努力が足りないから結果が出ないのだ、といったメッセージが失敗や挫折を経験した者を叱咤激励する。

    個人を励ましもする。頑張ればあなたは幸せになれる、幸せは自分で掴むものですよ、と。魅力的な言葉だ。自らが能動的に未来を切り開いていくというイメージは、達成感や充実感をもたらす。とりわけ社会や組織の立場からみても、個人が自己責任で行動してくれた方が、余計な動機付けの手間が減り、管理や監督がしやすいという利点がある。何か失敗や不都合が起きても、それは当人の責任、ということで処理できるからだ。典型的な自己責任論の一形態だ。

    同時に、個人に呪いをかける。あなたの不幸や苦境はあなたの努力不足に起因するのです、と。けれども、不幸の原因は、社会構造、他者との関係、身も蓋もない偶然など、多様であるはずなのに、それらが覆い隠されてしまう。すべて「本人の努力不足」の一言で片付けられてしまう。自分の人生に対するコントロール欲求が高まっていく。

    頑張りさえすれば結果はついてくるという素朴な因果関係に基づいて、人は努力を続ける。運良く成功できた者は幸福になり「やっぱり自分は間違っていなかったんだ」と信念を強め、運悪く叶わなかった人は自己否定に陥る。「やっぱり自分のやり方が悪かったんだ」と。

    こうした生き様を、私は「新しい快楽主義」と呼んでみたい。かつて、エピクロス派をはじめとする快楽主義者たちは欲望を抑制して快楽と平穏を手に入れる手段を探求した。そして、ストア派の人々は、主として思考の鍛錬によって人生の困難から精神を守ろうとした。エピクロス派は別名快楽主義者とも言われた。ここで快楽主義者というと、好き放題に快楽を求める者がイメージされるが、むしろ彼らは不幸と不快を避けることをもっぱらにしていたことに注意しよう。同様に、自己責任の時代に生きる新しい快楽主義者たちもまた、思考や生活の周りのモノたちを整えることによって幸せを掴もうとしている。

    こうした人々の生き様を、私たちはYouTubeを介して覗き見ることができる。丁寧な暮らしやその周辺で活動するYouTuberたちは、日々の生活に非常にこだわり、生活の全領域——ダイエットする身体、ネガティブ思考を改善しようとするマインドセット、インテリア——を統治することをたゆまなく目指すような活動をコンテンツとして投稿している。そして、彼らに対する質問と彼らによる助言は一大コンテンツになってもいる。彼らは、生活の全領域の部分的にせよ模範として羨望の対象になったり、こんなふうにできていない、と視聴者が焦りを覚える対象になっている。「自分はここまでストイックにできていない」と焦りや罪悪感を覚え、それゆえさらにコントロールしなければ、統治しなければと思い詰める。

    生活の細部にわたる管理を通じて、自分の不快や不安を排除し、余分なものを一掃していく姿は、確かに特有の美をまとっている。その規律正しさ、丁寧さは少なくとも不快なものではない。あるべきものがあるべきところに収まっているのをみるのは、心地よい。

    だが、それらを眺めている私には、彼らが幸福であるようには思えない。彼らは自らと生活をコントロールしようとする自己統治的な人々である。彼らは、コントロールすることで、自分の不快なものが遠ざかっていく感覚を持っている。部分的には正しい。だが、世界には自分のコントロールできないものばかりであり、コントロールしようとすればするほど不快になっていく。どこかで止めなければならない。だが、彼らはうまく止めることができないからそのように生きているのである。なぜコントロールの手を止めることができないのだろうか。

    手放せない理由のひとつは、「整序すること」自体の快感、あるいは「コントロールしている実感」の美的経験が、彼らのコントロールの大きなモチベーションになっているからだ。

    コントロールすることの美的快というものがある。私は2つの美的快をここで論じたい。

    第一に、それは整序の美である。きっちりしていること、整序されていることそれ自体の喜びだ。日常美学を牽引する哲学者、トーマス・レディが指摘する「日常の表面的な美的性質」が密接に関わってくる(Leddy 1995)。レディによれば、ふだん美術館に飾られているような偉大な芸術作品の文脈で語られる「優美さ」「荘厳さ」「神秘的さ」といった複雑な美学性質とは別に、たとえば「清潔(clean)」「整然としている(neat)」「雑然としていない(uncluttered)」といったごく身近な美的性質がある。ものが散らかっていた場所を見事に片付け、「きちんと揃っている状態」を創り出される。その光景を眺めることは美的な喜びとなる。

    第二に、整序そのものの過程、つまり「コントロールしている実感」に美的快が伴う。レディの議論によれば、「掃除」「整頓」といった日常の表面的な作業もまた、一種の美的経験になりうる。単に機能的・衛生的なメリットがあるのみならず、「散らかった空間を一歩一歩清めていくプロセス」自体が、見る者にも行う者にも独特の満足感をもたらす。それは、特有の美的性質を作り出す喜びだ。見た目の美しさはもちろん、「汚れを取り除いた」「整理した」という達成感がそこに付随する。それは整序の達成の美である。自分がカオスを整序している、という行為の美に人々は惹かれている。この整序行為の楽しみは、「掃除(cleaning)」において経験できる。例えば、この整序の美そのものを楽しむゲームもある。有名なものでホラー風味が加わったものでは、『Viscera Cleanup Detail』(2015年、RuneStorm)が興味深い作品だ。こうしたゲームをプレイする人々は、あるいは、プレイする動画を眺めているだけでも、何かが整序されていき、統治されていくさまに満足感を覚えることができる。それだけではなく、それが遂行されていく、というプロセスが重要なのだ。

    まさしく、これら第一と第二の美的性質を味わうための表現ジャンルが、YouTubeに投稿される「丁寧な暮らし」系の動画である。これらの動画には高い需要がある。視聴者は、自分がやるのは面倒でも、誰かがカオスを秩序へと変えていく様子を見ているだけで満足感を得られる。代理的に整序の快感を味わう。

    実のところ、こうした整序の美的快のアートはYouTube以前にも存在した。

    フィリップ・ジョンソンの《ガラスの家》(The Glass House, 1949年)は、アメリカ・コネティカット州ニューカナーンに建てられたモダニズム建築の傑作の一つだ。全面がガラス張り。ミース・ファン・デル・ローエら近代建築の探求者たちの影響を受け、建築と自然の一体化を追求したものである。構造は鉄骨とガラスからなり、外部の柱の他には天井を支える壁はほとんど見当たらない。内部空間は区切られず、居住者と外から観る者の視線は屋外と屋内を自由に行き来する。

    この《ガラスの家》の特徴は、内と外のあいまいさの魅力だけではなく、住人に対する厳格な要求でもある。プライバシーを守るための壁やカーテンはなく、室内の様子は外部から見え、室内からの視界は開放されている。

    美学研究者のケヴィン・メルキオーネは、この空間が「住む者をキュレーターに仕立て上げる」と述べる(Melchionne 1998)。ギャラリーに展示された美術作品のごとくに、日常生活のすべてが来訪者の目に触れることを前提としており、少しでも雑然とすれば、《ガラスの家》という作品は崩壊していく。住人は、外観や内部の秩序を常に保とうとするよう駆り立てられる。

    ジョンソン自身はこの家で長年暮らし、著名な建築家や芸術家を招いて多くの談義を重ねたという。そして、この部屋のベッドで亡くなった。楽な暮らしではなかっただろう。壁に隠せる収納や余白の空間は極端に少なく、生活感はない。

    《ガラスの家》は住空間を「生きられる芸術」にまで高め、そこに暮らす者に不断の整頓・管理への意識を要求する。《ガラスの家》はYouTuberの先駆けといえるのだ。現代のミニマリズム志向や生活美学の議論にまで通じる先駆的な作品なのである。丁寧な暮らし系YouTuberたちは、自らがセッティングしたカメラを通じて、自分たちの生活をガラス化する。他人に見えるようにする。そうなると、自分たちの生活は整頓され、雑然さの美的性質は排除される。

    美学者のジェシカ・リーは、家事や家庭環境の美的価値を考えるときに、しばしば「観客の眼差し」に合わせた、あるいは整然としている外観が重視されることを問題視する(Lee 2010)。確かに完璧に秩序立てられた室内空間は、見る者に強烈な印象を与える。

    しかし、《ガラスの家》を愛したジョンソンは違うかもしれないが、現代のYouTuberたちは常に外部からの視線を意識し続けなくてはならない。自らの身体感覚や自然発生的な楽しみというよりも、いかに美しく、あるいはミニマルに見えるか、という他人の視点が優先される。見る者が期待する見映えを演出するうちに、行為者自身が持つ五感による楽しみ(柔らかな布の手触り、洗濯物を干すときの風や水の温度など)や、そこで呼び起こされる記憶・想像力といった要素が後景へと追いやられかねない。

    この点についてリーは、家事や整頓という行為が単なる見栄えのコントロールを意味するだけでなく、身体全体で味わわれる感覚そこから生まれる想像力によって、はじめて豊かな美的経験となりうると述べる。たとえば、洗濯物を干す行為の中には、多様な喜びがある。日に当てた布の匂いや手触り、ささやかな風の感覚、洗剤や水の温度変化といった五感的な魅力だけでなく、幼少期の思い出や季節との結びつきなど、想像力や記憶が喚起されるかもしれない。

    身体感覚を伴う整序。これは表面的な結果の美しさだけを追い求めるコントロール志向とは異なる。動いている最中に感じられる心地よさを味わう余地がある。カオスを整えていく途中で生じる達成感、思いがけず楽しいとき、ふと何かを思い出す瞬間。それらは、行為者が自分自身の身体を感知し、さらに環境とやり取りしているからこそ得られる。

    「丁寧な暮らし」といえば、一見完璧な管理、コントロールされた美しさのみが主役として登場してしまう。だが、リーの示唆するように、真に豊かな丁寧な暮らしとは行為者の身体感覚に開かれた態度、そして偶然や記憶をも受けとめる余白を含んでいるはずだ。秩序立っているだけではない、手触りを伴う暮らしの方が、コントロールのみを目指す生活より豊かではあろう。

    「頑張ればうまくいく」という自己責任論は、「整頓」「清潔」「無駄のなさ」を追い求める美的快と結びついている。あるいは逆に、散らかった空間は「乱雑である」というネガティブな美的性質が見出されると同時に、努力不足や自己管理の怠惰を暗示するネガティブな道徳的性質もまた見出されてしまう。レディが指摘するように、こうした表面的美的性質の追求は、他の複雑な価値観を覆い隠してしまう。とりわけ女性に対して家をきれいにしなければならない、という美的要請が課せられ、それが達成されなければ道徳的な欠陥がある、ということになってしまう。

    私たちは、コントロールのみを求める方ではなく、身体感覚を味わう方に進むことができる。

     

    2 猫を追う、ゆえに私は猫である

     

    では、どうすれば、身体感覚を思い出せるのだろうか。

    興味深いのは、丁寧な暮らし系YouTuberの少なくない数の者たちが、猫を飼っていることだ。猫は身体感覚を思い出させてくれるガイドになってくれそうにも見える。彼らのしなやかな動き、快楽をなんの迂回もなく素直に味わっている表情、もふもふの毛並み。それらはそれを飼っているこだわりの強い人々に癒やしを与えてくれているようにみえる。

    猫は可愛らしいアナキストである。日常生活に許せるアナーキーを取り入れることで、自己責任のバランスをとろうとしているのだ。猫に振り回されることを楽しんでいる。猫はコントロールできないから。コントロールできない存在とともにいることで、コントロールできなくても幸せである、ということを感じることができる。

    これを私たちの日常に引き当てるならば、「猫が予測不能な動きをする存在」としてそこにいること自体が、コントロールの手綱を少しゆるめさせる働きを担っているのではないかと考えられる。厳密なスケジュールを立てたり、部屋を完璧に整頓したりしても、猫はお構いなしに走り回り、棚から物を落とし、飼い主の膝の上を通り抜けていく。そうした瞬間に人間は、コントロール不能な部分を嫌でも受け入れるしかない。

    こうした「適度なアナーキー」を生み出す猫を飼うことは、自己責任論に縛られ、完璧なコントロールを目指して自分自身を締めつける人々にとって、ある種の「ミニチュア的な解放感」をもたらすだろう。猫が膝に乗ってくれば仕事の手を休めざるを得ないし、掃除したばかりのスペースをまた毛だらけにされることで、完璧なコントロールを諦める契機を与えてくれる(cf. グレイ 2021)。しかしその諦め方はどこまで深く、意義のあるものなのか。

    猫との関係がただちにコントロールからの解放につながるわけではない。猫と人間の関係はコントロールと解放のあいだを行き来する。猫は気ままだが、猫は所詮は私たちの管理下にある。家で飼えるし、食事は我々が与えるし、急に人を殴ったり、お金を借りたりはしない。飼い主は猫を養い、健康管理をする、所有物である。

    だから、猫とは、統治可能なアナキストであり、ミニチュアのアナーキーなおもちゃなのである。それゆえ、自己責任に苛まれる人のひとときの癒しにはなれども、結局は、その人の統治の欲望を叶えてしまう。延命させてしまう。アナーキーは統治可能である。

    といって済ませるには猫はかわいい。猫の力をもう少し考えよう。芸術家グウェン・ジョン(1876-1939)の書簡を分析したマリア・タンブーコウは、ジョンが生涯にわたって飼い、手紙に頻繁に登場させた猫への深い愛着と観察力に注目し、女性の身体はいかに動物との関係で変容(becoming-animal)するかを読み解いている(Tamboukou 2021)。

    ジョンは「猫も人間も同じ。結局は体積(volumes)の問題なんだよ」と友人に語る。キャンバスに向かう芸術家として、彼女は猫の輪郭やしなやかな動きを描く対象として観察するなかで、日常生活のなかで一緒に暮らす猫の独立した主体性を尊重している。ジョンは、「猫はそれぞれまったく違う性格を持ち、ただの愛玩動物ではない」と言う。ここまでは、猫を飼う人々と同じ風である。

    印象的なのは、ジョンが1906年の夏にムードンの田舎で姿を消した猫を捜す冒険について、そして1907年に再び姿を消した猫について書いた手紙だ。飼い猫が行方不明になったために、猫を探し求め、夜中に森や川辺をさまよい歩いたエピソードである。彼女は猫のかすかな鳴き声を聞きとろう耳をすまし、住処を離れて野宿までして捜し続けた。そのときの手紙にはこうある。「私も今では少し野蛮になってしまったみたいだ」

    私も今では少し野蛮になってしまったみたいだ。昨日は森の少女のように全身が茶色だった。何度も太陽の下で裸になっていたから。何度も言っているように、ここには誰も入ってこない。私は森の野生の少女のように、おそらく2か月間は暮らすことになるんだろう! 私は小さな木の下にいて、つる性の植物が覆いかぶさり、屋根のようなものを作っている。ここにはたくさんのものがある。夜用のコートとしてショール、書くための材料などなど。まるでロビンソン・クルーソーの気分だ。(Tamboukou 2021, 140)

    タンブーコウは、この「猫を探し求める行為」が、ジョンにとっては単なる愛猫探しではなく、社会的・家族的・ジェンダー的な規範から一歩外へ踏み出す機会として機能していたと解釈する。「ジョンが猫の世界を体験したいと強く望むのは、彼女の愛する猫に何が起こっているのかに対する彼女の恐怖と不安の表れであると同時に、異なる空間的・時間的リズムに入り込むことで猫により近づきたいという意志の表れでもある」とタンブーコウは言う(Tamboukou 2021, 142)。

    私は、猫はモルネーズの道路沿いの家の裏にある野生のテリトリーにいると信じていた。… これらの家々と川の間に、とても悲惨な領域がある……大きな穴やゴミの山があり、植物はすべてひどい悪臭を放ち、夜にはネズミやカエルが小さな鳴き声をあげる。私はそこで多くの夜を過ごし、ムードンの下町近くの小さな小路や通りで、猫の鳴き声を待っていた。(Tamboukou 2021, 142)

    ジョンは行方不明になった猫を追うことで自然の脅威にさらされ、時には身を守るために隠れたり逃げ回ったりせざるを得なくなる。夜間に一人で外へ出て、猫のリズムに同調しようとするうちに、自分の身体感覚がいつもと違う仕方で開かれていく。タンブーコウがドゥルーズ=ガタリの理論を借りて論じるように、「becoming-cat(猫化)」の契機ともなっている。

    ジョンは「異なる空間やリズム、田舎と都市の環境、そして「文明化」された状態と「野蛮」な状態の間を移動しながら、ジョンは身体の反応レパートリーを広げ、拡張し、身体がなしうる思いもよらない可能性を試している」のだ。ジョンは再び語る。

    私は今もこの農園にいる。沈黙が私を圧迫する……しかし、私はこの世界よりもここが居心地が良いと感じる。これらの木々や昆虫は私の友人だ。時折、人間の声を聞くと、不安になる。私は今、人間が怖い。しかし、仕事をするために私は世界に出なければならない。しかし、私は自然に愛着を持っている。甘やかされた子供のように、私は父親を恐れ、母親に近い避難場所を探しているのだ!(Tamboukou 2021, 143)

    ジョンの耳、ジョンの感覚は猫になっていく。私たちは、猫を家で飼っている程度では、おそらく、猫化しない。猫を追わなければならない。グエン・ジョンのように、猫を探す過程で夜の森へ繰り出し、自らも「少し野性的になる」ほどの踏み込みがない限り、猫はコントロール可能な範囲でのアナーキーにとどまる。

    私たちは「猫とどう付き合うか」という問いをもう一度違うやり方で考え始めることができる。飼い猫を愛玩し、適度なアナーキーを楽しむだけでは、身体感覚の回復や自己責任論からの解放には十分ではない。もっとも、ジョンのように行方不明の猫を追って飛び出すことは難しい。社会生活上の責任やリスクを抱えながら、夜通し街をさまようわけにはいかない。新しい快楽主義者たちの先を、猫という異種の他なるものが歩いて行っている。

     

    3 再開発と廃墟

     

    ジョンが猫を追うことでパリのアパートメントから飛び出したように、丁寧な暮らし系YouTuberたちも行き届いた部屋から足を踏み出して外に出かける。しかし、そのとき彼らが出掛けるのは、ジョンとは異なりいつも都市である。それらは動画に撮られるための都市である。

    名作家具のインテリアで満たされた部屋を出ても、都市もまた、いまや新しい快楽主義者たちが統治する空間になっている。それを代表するのは「再開発」された空間だ。

    私は、都市の再開発にまったくいいイメージがない。行政の広報や施工会社のPRでは、それを「街の魅力を高める」「安全性や利便性を向上させる」と説明される。小綺麗な完成図は人を一瞬はわくわくさせる。しかし実際に整然とデザインされた再開発エリアを歩くと、再開発によって、個人店の並びがつくる空間の襞がなくなり、影のないただっぴろい虚無の広場空間が生成され、なんとなく居づらいだけになるあの感じ。すべてはLEDの明るい光の中で、複合施設の四角い部屋に店舗は再配置される。もう影はない。襞もない。私はただっぴろい空間に居づらさを感じる。わたしは何かに寄りかかり、座り、何かに触れていたい。

    再開発された通りを歩いていると、私は嫌なまなざしをそこかしこから感じる。歩行者が通りやすいように決められた動線、イベントごとに配置されるステージやブース、どこに広告を設置すれば目に留まりやすいかというマーケティングの視点。再開発された都市のデザインはつねに意図に満ちている。再開発するとき、おそらく色んなひとの意図が満ち満ちている。人々は人間の「人流」をコントロールする。「動線」をコントロールする。行動経済学にインスパイアされて「ナッジ」してくる。こうした意図は、利用者にいかに振る舞うべきか、という暗黙の命令を指示してくる。何を「見せる」か、あるいは「見せたくない」か、どこにいるべきか、いてはいけないか、行政やデベロッパーの権力が薄く漂っている。

    だが、本来、都市は意図のない場所だったはずだ。あったとしても、意図同士がすれ違い、惑星の引力の交わる場所のように、意図の波は互いに打ち消し合って、意図のない場が生まれていたりもする。それは通りに、誰の所有かちょっと分からない路地に、店先に、トイレにつながる店の裏口に。

    意図がみなぎった空間に人は居づらい。空間はぼんやりとしてくれないと困る。白昼夢のように、わたしたちは意図と意図のあいだ、注意の行き届かないまどろんだ空間ではじめて安らぐことができる。都市は初めまどろんでいた。しかし、再開発は都市を叩き起こし、覚醒状態に置こうとする。コントロール下に置こうとする。

    都市に白昼夢を。わたしは「まどろみのデザイン」の可能性を考えたい。まどろみのデザイン。それは、再開発の漲った意志・意図への反対であり「意図を消すためのデザイン」であり、意図への反省を促し・意図の過剰を牽制する。

    コントロールしすぎない建築と都市を考えるヒントは、建築家の青木淳が著した『原っぱと遊園地』にある(青木 2004)。青木はよい建築のあり方の一つを原っぱに見いだしている。

    「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」である遊園地に対して、「そこで行われることでその中身がつくられていく建築」としての原っぱがある。原っぱには、これといったアトラクションはない。人の動きを誘導する強い意図が設定されていない。訪れた人が思い思いに座り込んだり、寝転んだり、走り回ったりできる。デザインが作り込まれていない空間だ。意図の薄い場所。人は自分の身体感覚や気分に合わせた行動ができる。

    「住む人と空間との関係に自由があることを感じ取られたほうがいい」と言う青木は、空間をどの程度作り込むべきかを考えている。それは使い手の行為をどこまで先回りすべきか、どこまで作り手の行為をデザインすべきかを考えているということだ。

    行為のデザインのよさには無数の種類がある。青木が言うように、車のドライビングシートのようにはっきりとした目的をもったものには行為のデザインが目指すべきよさがはっきりしている。しかし、青木が論じていて、私も気にしているのは、原っぱのように、そこで様々な行為ができることをよさとするような空間や物体に対して行う、余白のある行為のデザインがどのようにして可能か、という問いである。

    青木はこの問いの重要性を提示することに注力しているが、私はもう少しだけ具体的に原っぱのありようを考えたい。そのときに私が想起するのは、「廃墟」的なものである。荒れ果てた廃墟や長く放置された空き地に、私たちは独特の「安心感」や「ゆったりとした感じ」を覚える。実際、廃墟的なものに多くの人が惹きつける理由の一つはこうしたまどろみの感覚に起因するだろう。人々は写真集や映画、さらには観光ツアーという形で廃墟を味わい、漂う儚さ、ノスタルジー、自然が人工物を侵食していく過程を観察する。人間の意図を外れた空間に身を置くことで、コントロールを至上とする価値観から逃れでたい欲望が後ろにあるのではなかろうか。

    廃墟はかつて誰かが使っていた空間だが、いまや人間の支配や管理の手が届かなくなり、部分的に自然の力に侵食されている。草が割れたコンクリートを突き破るように生えていたり、壁の塗装が剥がれ落ちて内部の構造がむき出しになっていたりする。すなわち、元の意図から自由になった建物である。人間が施したデザインや用途のための機能の力が弱まり、雑草、風雨、動物たちが作り出す別の生態系が立ち上がる。私たちは廃墟に解放感を覚える。

    廃墟を人為的に作り出す、というのは矛盾している。だが、廃墟をデザインに取り入れることはできるのかもしれない。それはコントロールしすぎるのではなく、どこかに他なるものの意図が忍び込んでくるに任せるという意志によって可能になりそうだ。その具体的な姿はまだ見えない。だが、可能性は廃墟の方にありそうだ。

    次回は、コントロールを目指す人がそれをコントロールしているかどうかも口にしない生活の陰部、セックスとマスターべーションについて論じたい。そもそもこれらは私たちにとってどのような経験をもたらすものだろうか。それはよいものだろうか。なくなったほうがいいのだろうか。人々が口にしないけれど、私たちがやってきたところであるセックスとマスターベーションの日常美学に取り組んでみたい。


    参考文献
    Dresdner, Lisa. 2003. Spatial self-representation: Identities of space and place in 20th century American women’s autobiographies. Loyola University Chicago.
    Lee, Jessica J. 2010.  “Home life: cultivating a domestic aesthetic.” Contemporary Aesthetics (Journal Archive) 8.1: 15.
    Leddy, Thomas.1995.  “Everyday surface aesthetic qualities:” Neat,”” messy,”” clean,”” dirty”.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 53.3: 259-268.
    Melchionne, Kevin. 1998.  “Living in glass houses: Domesticity, interior decoration, and environmental aesthetics.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 56.2: 191-200.
    Saito, Yuriko. 2025. “Cleaning: Practicing Everyday Aesthetics and Care.” Anuario Filosófico 58.1.
    Tamboukou, Maria. 2021.  “Becoming-cat or what a woman’s body can do.” Matter: Journal of New Materialist Research 4: 130-153.
    シカール、ミゲル.2022.『プレイ・マターズ』松永伸司訳、フィルムアート社.
    青木淳.2004.『原っぱと遊園地:建築にとってその場の質とは何か』王国社.
    グレイ、ジョン.2021.『猫に学ぶ——いかに良く生きるか』 鈴木晶訳、みすず書房.
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
批判的日常美学について
難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)