陰部の日常:マスターベーションとセックスの美と倫理について
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1 無視される快楽
日常美学においてもっとも無視されているトピック、それはセックスとマスターベーションである。日常を美学するとき、この2つは、しかし、無視していいものではありえないだろう。なぜなら、私たちの少なくない数は日常的にマスターベーションを行っているし、私たちの少なくない数は日常的にセックスを行っている。そして、これらは、単なる快楽をもたらすだけではなく、美的なニュアンス込みの快楽をもたらす。それゆえ、私たちが日常的に行っており、しかも、それが美的な活動であるならば、なぜ日常美学においてセックスとマスターベーションが十分に語られてこなかったのだろうか。
その理由の第一は、セックスとマスターベーションが、語ってはならない性的なものだから、というものである。私たちが語るべきなのは、掃除や洗濯や料理といった暮らしの——もっといえば「ていねいな暮らし」の——典型的なリスト、家庭科で教えられるような素性のいい、特に問題にならなさそうなトピック。研究において、日常の美学を論じる、というだけですでに一歩伝統的な美学に対するアンチテーゼの態度を取っているのだから、まずはここから、というわけであろう。それはもちろん悪いことではない。
だが、これほど日常美学が発展してきているのに、セックスとマスターベーションを日常美学の文脈から論じる研究は私は寡聞にして知らない。もちろん、日常美学がいまなお発展途上の分野であり、まだまだ論じられていないトピックはセックスとマスターベーション以外にも山ほどあるのは承知している。しかし、それにしても、重要なはずの、かなり多くの人が日常的に行っているだろうこの2つを無視するのは、日常美学が扱いたいはずの日常への視線を意図的に操作しているようにもみえる。
第二は、セックスとマスターベーションが美的なものではない、という想定があるために、これらが日常的な行為であることは認めても日常美学のトピックではない、とする態度は十分ありうる。だが、セックスとマスターベーションは美的な経験だ。これを擁護するために、まず、エロティックなものに注目して、なぜセックスやマスターベーションを含むエロティックなものが美学のテーマとなってこなかったのか、そして、なりうるのかを考えてみよう。
おもに18世紀から19世紀にかけての近代美学は、美的なものと官能的/性的なものを明確に区別し、あるいは両者を両立不可能とみなす流れを確立した。長らく性的なものは美学の対象外とされてきたのだ。とりわけイマヌエル・カントやショーペンハウアー、さらには20世紀のクライヴ・ベルといった哲学者たちは、美的判断は「無関心(disinterested)」な快に基づくべきであり、利害や欲望に結びついた快とは区別されるべきだと主張してきた。セックスやマスターベーションは、彼らにとっては刺激が強すぎたのだ。この傾向は現代でももちろん続いている(cf. Maes 2014)。
これに対して批判を加えたのがニーチェであった。
もちろんわれらが美学者たちは、カントの肩をもって、美の魔力のもとであれば、一糸まとわぬ女性の裸体像ですら、個人的な関心なしに眺めることができると説いて倦むことがないのである。おかげでわたしたちは彼らの苦労をあわれんで笑ってやることすらできるというものだ。──芸術家たちの経験はこの微妙な問題については「もっと関心のある」ものである。(ニーチェ 2009)
その衣鉢を継いで、アレクサンダー・ネハマスは美的判断には本来的にエロスや所有への欲望が伴う、と主張して、エロティックな体験はむしろ美学の要だとする興味深い主張を行っている。「美にふさわしい唯一の反応はエロス-愛であり、それを所有したいという欲望である」(Nehamas 2007, 6)。そして、「最も抽象的で知的な美は、最も官能的な美に劣らず、それを所有したいという衝動を引き起こす」のだと言い切る(Nehamas 2007, 7)。
エロティックなものを美学のテーマとして扱いづらいのは、それが美的な判断の特徴である「無関心性」から遠く隔たっているようにみえるからだ。だが、これは間違いだ。そもそも、美的な態度もまた無関心性というふうに特徴づけることが適切ではないケースがあるのだ。たとえば、ギャラリーで私たちが作品を眺めているとき、ぐっと、欲しい、という欲求を感じなかった人は果たして存在するだろうか。値札をみると、ちょっと無理すれば買える値段が書いてある。そのとき、私たちは美的判断していないということになろうか。少なくとも、なんらかの意味で関心があっても美的判断はできているだろう。
そもそも、無関心とは、単純にそれを所有したいと思わない、と特徴づけるべきではない。むしろ、特有の知覚・注意の特徴として特徴づけるべきだ。この方針を行く、現代のもっとも生産的な美学者の一人、ベンス・ナナイの態度を手がかりにすることができる。
ナナイは、『知覚の哲学としての美学』において、「分散された注意(distributed attention)」と「集中した注意(focused attention)」という概念を用いて、美的経験について、知覚の特有性からの説明を試みた(Nanay 2016)。
ナナイによれば、典型的な美的経験とは、ある対象、あるいは対象のまとまり全体に集中するもので、かつ、そうした対象の様々な性質へと分散された注意を向けることによって特徴づけられる。たとえば、ある絵画を鑑賞することで、鑑賞者がある美的経験を行うのは、その絵という対象に集中して、そして、たんにその主題のみならず、色、形、構成など、様々な性質に分散的に注意を払うことによってである(Nanay 2016, 23)。
こうした「対象への集中と性質への分散」によって特徴づけられる美的経験は、なぜ特有の、しかもある価値を持つとされる経験なのか。
それは、こうした美的経験は、たんにある対象を前もって定められた見方によって眺めるのではなく、次々に変化する注意によって、様々な性質を知覚やあるいは思考によって分散的に気づき、いままで見つけ出すことのできなかったような特有な性質を見つけ出すような経験であり、それは、「わたしたちにこの世界を別様に眺め、そして注意することを可能にするから」である(Nanay 2016, 35)。鑑賞者はこうした自由な注意の戯れによって、新たな仕方で対象を味わうことで、自らの既存の知覚を解放することができる。そうした経験は、まるで「世界ともう一度はじめて出会う」ような経験を可能にする。ゆえに、美的経験はそれ特有の快楽を伴う経験なのである。
こう考えると、芸術に対して集中した拡散的な注意を向けられるように、セックスやマスターベーションの経験に対しても集中した拡散的な注意を向けることはできるし、セックスやマスターベーションをじっくり味わっているとき、すなわち、性的快楽を感じるとき、私たちは、たんに純粋な快楽を感じるわけではない。そこには、様々な色彩と陰影のあるそれぞれ異なる快楽があるはずだ。
どのような対象を用いて想像するのか、どんなふうに性器たちに触れるのか。それは明らかに美的経験の側面を持っている。それ自体を味わい、その構造を味わっている。私たちは、性的快楽のなかで美的経験をしているのだ。私たちは、性的快楽に集中し、同時に、その肌理や時間的な移ろい、広がりや厚みに分散した注意を払う。これは、紛れもなく美的経験だ。
だとすれば、マスターベーションの美学、セックスの美学は語るに値する。というよりも、私たちにとってもっとも身近な美的経験であり、パフォーマンスであるこのマスターベーションとセックスを語らないでは、日常美学をしたことにはならないだろう。
2 セックスとプロセス
では、まずセックスからいこう。セックスという行為はどのような種類の美的経験をもたらすのだろうか。ジーリ・ベノフスキーは、「プロプリオセプション(身体位置覚や固有感覚、以下では「体性感覚」と呼ぶ)」の芸術としてセックスを芸術として捉える道筋を提示している(Benovsky 2021)。
そもそも、伝統的な美学では、絵画や音楽といった視覚・聴覚を中心とした外にあるものの美的経験を主な対象にしてきたが、ベノフスキーは当事者が自らの身体内部を知覚し味わう経験そのものを、考察しようとする新たな試みであることも興味深い。彼の議論をたどりながら、身体を介した独特な美的経験としてのセックスを考えていく。
セックスを見たり、観客として鑑賞することもできる。ポルノグラフィはまさしくそうした鑑賞経験を提供する表現形式だ。だが、私たちが実際に行うセックスでは私たち自身が行為者となる。そして、私たち自身が自分の身体の変化を感じ取る。ダンスを外部から眺めるのと、自分が踊っているときに感じる身体内部の動きや筋肉の状態は別物であるように。
べノフスキーは「身体内部の芸術」が可能である、と主張する。典型的に芸術作品は、外部に具体化され、誰もがその場に行けば見たり触れたりできる。だが、セックスとは、非常に私的であり、同時に行為者にとっては生々しく、リアルタイムに美的経験が変化していくユニーク経験となりうる。
ベノフスキーの議論にインスパイアされながら、私は、セックス行為が持つ構造を詳しく論じていくなかで、セックスの美的経験のユニークさとおもしろさを明らかにしていきたい。
第一に、セックスには流れがある。セックスの始まり方はいろいろあるが、ともあれ、どこからか始まり、盛り上がり、オーガズムへと至り、そして、その後も余韻がある。一番近い表現形式は音楽だろう。とはいえ、音楽の方がより反復と構造が強固に存在するが、セックスにおける反復はそれほど構造化されていない。性感帯を反復的にさすったり、性器を動かしたりするのは確かに反復的ではあるが、それが音楽のように変奏されたり、サビを作り出したりはしなさそうである。
第二に、セックスの流れにはその都度微妙な変化を加えることができる。意識して自分の身体、そして相手の身体に注意を向けるなら、それぞれの動きのリズム・呼吸・筋肉の蠢き・触れ合いの圧力の変化などを感じながら、互いに調整し、流れを変化させていくこともできる。これも音楽の演奏とかなり類似している点だろう。だが、音楽の演奏においては、例えばドラムを叩いているときにスティックと手の接点の感覚は、よい演奏をできていればいるほど消えていくように思われる。むしろ、音楽にノッている、というより抽象的な美的経験が私に快楽をもたらす。そう考えると、セックスの流れの変化は、より具体的な身体感覚の変化であり、音楽とは異なる美的特徴があることが感じ取れるだろう。
第三に、セックスは共同行為である。例えば、ハルとアキの二人がセックスをしているとき、ハルの身体に生じる感覚はアキからの触覚的・視覚的刺激の影響を受け、ハルの反応を受けてアキもまた反応していく。感覚は反響していく。もちろん、ハルの美的経験とアキの美的経験はある程度独立である。それゆえに、互いによい美的経験ができているかどうかを、人はしばしば「気持ちいい?」と聞くことで確認したりもする。独立しながらも、共同で美的経験を作り上げている点にセックスの興味深い点がある。音楽においてもセッションをしているときには、こうした反響的な感覚がある。この共同行為のおもしろさの点においては、セックスと音楽はかなり接近していく。だが、もっとも大きな違いは、互いに互いを求め合っている、という点にある。音楽においては、求めているのは音楽の流れのよさである。セックスにおいては求めているのはたんに性的興奮だけではなく、互いを求めている。互いを何らかの意味で掴みたい、すべてを手にしたい、という欲求がセックスにおいては存在する。それは、一緒に気持ちのよい行為をしよう、という共同行為の意図だけではなく、互いが互いのすべてを手にしたい、というかなり独特な共同行為の意図である。この求め合いが、セックスのセックスらしさを形作っている。
もちろん、すべてのセックスが上記のような特徴を高い基準で達成しているわけではないことに注意しよう。セックスに流れがなくてもよいし、流れに変化がなくてもいいし、共同行為ですらなく、セックスがたんに互いの身体を使って欲望を満たす行為であってもよい。それもまたセックスである。
私が強調したいのは、セックスは互いの身体を用いた美的行為としても成立しうる、ということだ。セックスの快楽を味わうために、身体感覚を感じ分け、互いの呼吸や動きを観察し、その合わさりやずれを楽しむとき、美的経験が可能になる。セックスは、見るだけでも、聴くだけでもない、感じる美的行為であり、美的経験なのである。
3 セックスの美的規範を多元化する
セックスをめぐる議論において、見逃してはならない問題の第一は「前戯」である。この表現は、愛撫や性器や性感帯の刺激があくまで「前座」であり、「本番」は挿入である、とする挿入中心主義のもの言いである。だが、前戯はほんとうに本番の前の遊びなのだろうか。私はこれに反対する。前戯もまた本番である。挿入だけがセックスではない。これまで論じてきたように、セックスの美的経験の特徴は、流れ、流れのコントロール、共同行為にあり、これらは挿入をなんら中心化しない。挿入なきセックスもまたセックスである。むしろ、たんに挿入だけを目指し、以上で論じたような美的経験をないがしろにするセックスは、それほど美的には重要なものではなくなる。おそらくセックスにおける挿入主義の出どころは、それがよりプライベートな部位への刺激であり、また、生殖とより深く結びついているからだろう。もちろんそれは正しい。だが、もし、セックスを美的経験であると捉え、共同で行うパフォーマンスだとしたなら、挿入にこだわることはしばしば問題を引き起こす。というのも、挿入によって異性間のセックスの場合、男性は性的快楽を容易に感じることができるが、女性は性的快楽を感じられないケースも少なくないからだ。これは、まずは異性間のセックスに限った話ではあるが、性的快楽の不平等を引き起こしかねない。それゆえ、前戯を前座とみなし、挿入を本番とみなす態度は、美的経験という観点からいえばかなり微妙で問題がある。
第二に、私が論じておきたいのは、セックスにおける興奮とマンネリの問題である。しばしば私たちは次のような言い方を耳にする。「初めての相手や恋愛初期のセックスの方が燃え上がりやすく、刺激的なのさ。ずっと同じ相手だと、どうしてもマンネリになっちゃう」。
ここで想定されているのは、未知の相手に対する好奇心、征服した感覚、獲得した感覚、もともと知り合いや友人だった相手とのセックスを行う背徳感が挙げられる(まあ、ポルノグラフィのテーマになっているもののすべてを考えてもらえば事足りるだろう)。こうした盛り上がりは、新たな恋愛や性的関係が始まるときにあるあの緊張感や期待、不安を伴い、興奮や快楽をもたらすというわけだ。対して、同じ人は、同じパートナーとのセックスが長期化すると飽きる、と考えているだろう。というのも、おそらくこのひとは、互いに相手を知り尽くしてしまうと、新しい発見(反応や性感帯の出現など)がなくなるし、背徳感も緊張感も期待も不安も少なくなるために、初めてのような情熱、高揚感、快楽を得られなくなる、と言いたいのだろう。なるほど、あながち間違いでもない。だが、ここで既に、一つ気をつけるべきことがある。こうした立場の背後には、セックスの本質とは、緊張感や征服感、未知への期待から生まれるタイプの興奮にこそある、という前提が隠されている。この見方は果たして妥当だろうか。
哲学者ジャニス・ムルトンは、セックスに関する議論を批判的に検討するなかで、性的行動には大きく二種類の種類があると指摘する(Moulton 1977)。
第一に、誘惑を軸にした「性的期待」をベースとするものだ。これは、新奇さ、不安や緊張、征服や成功への期待に彩られている。トマス・ネーゲルといった主に男性哲学者たちがセックスの哲学において論じてきたのは、こうした初期の興奮を中核とするセックスである。
第二に、信頼や親密さを軸にした「性的満足」をベースとするものがある。これは、長期的で継続的な性的関係の中で、パートナーの趣味や身体的特徴、性感帯、好きな部位、さらに、互いの気持ちを深く知っているからこそ得られる安心感と快適さに満ちたセックス。慣れ親しんだパートナーとのセックス。
ムルトンによれば、前者の「性的期待」をベースとするセックスは確かにドラマチックだ。目立ちやすい。ポルノグラフィや様々な文芸作品において飽きるほど描かれてきた。だが、世界にあるセックスは、こうしたギラギラしたセックスだけではないだろう。私たちの少なくない人々は、長期的に続く性関係を楽しんでいる。これは、「性的期待」が去った後の残りでしかないのだろうか。そんなことはなさそうである。く続く関係でこそ培われる相手への信頼感や細かい好みへの理解が生む「満足感」のセックスもまた魅力的なセックスのはずだ。それをさらに擁護しよう。
まず、第一に、セックスの満足感は「強度」だけで決まらない。初めての相手とのセックスは、確かに興奮や期待が高まり、燃え上がる。だが、思い出していただきたいのだが、セックスに望む前の緊張感、あるいは相手の期待に答えなければならないというプレッシャーが、セックス自体をぎこちなくする場合もしばしばあるだろう。また、ほんとうはこうしてほしい、こうしたい、という要望を伝えるのも一苦労であることも多いだろう——そもそもそこまで信頼関係を築いていないケースも多いのだから。悪い場合には、セックスに求めるものの不一致やトラブルが生じ、かえって満足感が損なわれることもある——もしかすると一生に影響するようなものもあるだろう。対して、長年のパートナーとのセックスは、よい場合は、相手の身体的・心理的特徴に精通している。安定して高いレベルの気持ち良さを得やすい。
第二に、信頼関係から生まれるタイプの美的快楽がある。関係が長期化すると、相互理解が深まるだけでなく、恥や不安が和らぎ、よりリラックスした状態でセックスに臨めるようになる。相手の期待に答えなければならない、という初期のセックスにありがちなプレッシャーは和らぎ、互いの失敗も笑って楽しめるようになることもしばしばあるだろう。相手の反応を気にする余裕も生まれ、互いを喜ばせる工夫や会話(身体言語を含む)がより豊かになるはずだ。笑いやジョークに満ちたセックスというのも可能になる。ここでは、「落ち着き」や「親しみ」といった特有の価値ある美的性質をもったセックスが可能になる。初期のセックスでは、緊張や駆け引きの楽しみがあるというのはそうだろう。だが、そこには打ち解けた親密さは得られない。
第三に、深い性的会話は長期的な関係でしか達成できない。ムルトンは哲学者のソロモンのセックスを身体言語のコミュニケーションとみなす考えを踏まえ、性行動には情報(興奮や支配欲)を伝達するだけでなく、連帯感や一体感を生む機能もあると論じる。たとえば、言語的コミュニケーションを思い出してほしいのだが、初対面の相手とはせいぜい世間話しかできず、浅い定型のやり取りに終わることが多い。気の置けない友人とは何でも語り合える。これは当たり前の話だ。では、セックスでも同様ではないか。まだ仲良くなっていない相手とのセックスは「世間話」のセックスでしかないことも少なくない。定型の体位、定型の流れ、定型のオーガズム。確かに緊張や期待はあるかもしれないが、そこで経験できる美的経験は、それほどバリエーション豊かではないようにも思われる。
こういうわけで、セックスの美を論じるときに人々が前提しがちな、初めてのセックスがもっとも価値がある、という立場には、私は強く批判的な立場を取りたい。もちろん、そうしたセックスが好きな人がいても構わない。だが、そうではない、満足と親しみのセックスの美的価値が実際にこの世界に存在し、それを大事にすることもできることを論じておきたい。
加えて、セックスの美的行為においては、より美的によいセックスの方法をどのように学ぶか、という問題が浮上する。少なくない人はポルノグラフィを手本にセックスのやり方を学んでしまうことも多いだろう。だが、ポルノグラフィはあくまで見るための、聴くための表現形式であり、そのためにチューニングされているため、セックスの実践には役立たないことの方が多い。ほんとうは気持ちよくはないが、画面の見栄えがするから、あるいは豪快に音を立てることができるからと選択されている愛撫や挿入セックスの事例にあふれているのだ。それゆえ、セックスのテクニックを学ぶための教材はそれほど多いとはいえず、これはセックスが音楽パフォーマンスとはかなり(悪い意味で)隔たった点の一つである。インターネット上でのセックスにまつわる技術情報の怪しさはぜひとも是正すべきものだ。
もちろん、正しい避妊の方法、性感染症を防ぐ方法の知識は重要であり、そもそもその情報すら人々に行き渡っていないとしたら問題である。こうした知識は、セックスネガティブな情報だと言われる。私がこれに加えて関心があるのは、セックスポジティブな情報、すなわち、セックスをより美的なものにするための知識である。セックスネガティブに輪をかけて、セックスポジティブな情報は乏しい。
私たちは、セックスの美的正義を実現するためにまだまだやるべきことがあるように思われる。本節は、そのためのほんの一歩となる記述を行った。いまだ十分に発展していないセックスの美学は、セックスポジティブな知識を生み出すための一つの経由地点となるべき学問分野のように思われる。
4 マスターベーションと共同的想像力
マスターベーションはどんな美的経験だろうか。マスターベーションを特徴づけるのはどのような経験だろうか。もうひとつの日常的な性的行為について考えてみたい。セックスがパートナーとの共同行為をベースにするなら、マスターベーションは単独の行為であり、その独身性に独特な特徴がありそうだ。
マスターベーションはセックス以上にタブー視されている。学術的研究において、性行動にまつわる医学的・心理学的な研究はあるが、そのなかでマスターベーションを扱ったものはそれほど多くはない。ましてや、美学においてマスターベーションの美学を論じたものはほぼ皆無である。
とはいえ、私たちが日常的、身体的に取り組む行為のなかで、マスターベーションほど多様な楽しみを生みうるものは珍しいのではなかろうか。なにせ、この身ひとつで可能な美的行為の一つであるにもかかわらず、豊かな性的快楽をもたらしうるのだから。にもかかわらず、マスターベーションは隠すべきものだとされてきたし、いまもそうだろう。だが、この日常的な美的行為を考えることによってこそ、私たちは自分自身を知ることができるようになるのではないだろうか。
哲学者のリチャード・シュスターマンは、キリスト教文化圏、イスラム教文化圏、そして中国と日本の性的文化を横断的に考察した非常に意義深い本『アルス・エロティカ』のなかで、セックスの多元的な意義を捉えるために、「アルス・エロティカ」という概念を再検討すべきだと主張する(Shusterman 2021)。アルス・エロティカとは、性的快楽を目指すだけの性技術や官能のテクニックのことではなく、「独特な美的快楽をもたらし、理解力、感受性、優雅さ、技術、そして自己抑制といった、性的活動の限界をはるかに超えた資質を育むために考案された」ものである(Shusterman 2021, 1)。シュスターマンは、こうした視点から性愛の快楽や欲望は、どのような知覚・注意・身体技法のもとで、どれほど豊かな意味と価値を獲得しうるのか、と問い、セックスやエロティックな行為は美学的な創造力や倫理的な自己修養にも通じるのだと言う。シュスターマンが豊富な歴史的考察を経て私たちに教えてくれるように、確かに、セックスの実践は、性的な興奮を高めるためだけではなく、世界や自己を把握するための意義深い通路として活用されてきたことが分かる。
いま、私たちは、セックスをセックスとしてしか考えられていない。マスターベーションをマスターベーションとしてしか考えられていない。だが、セックスとマスターベーションにはまだまだ私たちの知らない——そして忘れ去られてしまった——人間的な意味があるのかもしれない。それを探求することもまたセックスとマスターベーションの美学の使命となるだろう。
マスターベーションを通じて、「独特な美的快楽をもたらし、理解力、感受性、優雅さ、技術、そして自己抑制といった、性的活動の限界をはるかに超えた資質を育むために」私たちはどんなことを考えられるだろうか。
マスターベーションは、やや侮蔑のニュアンスを含み込んで、孤独な行為だとされてきた。しばしばSNSなどでは、自己顕示欲を発揮することや、他人を顧みない自己表現が「オナニー」「自慰」だとして蔑まれてきた。
だが、マスターベーションの孤独さは意義深い。マスターベーションにおいて私たちは、パートナーに制約されることなく、自らの快感に没頭することができる。誰を、何を想像するか、どのように性器や性感帯や身体に触れるか、どんな道具を使うか、自分の好みに合わせて組み合わせることができる。マスターベーションは身体をメディウムとして自分にとって心地よい美的経験を立ち上げる創造的な行為だ。さきほど触れた集中と分散の注意の概念をもう一度思い出そう。ナナイの議論によれば、美的経験は「対象に集中しながら、その対象の諸要素に分散的に注意を払う」ことで生まれる。マスターベーションの場合、その「対象」は自分自身の身体となる。同時に、空想や映像、音楽、テクスチャ、アイテムなど多種多様なものが自分自身の身体の快楽を生み出す。肌のざわつき、呼吸の浅さ、姿勢、移ろう快楽に注意を集中させ、そのきめを味わう。
マスターベーション研究は長らく周縁化されてきた。だが、20世紀後半の性科学やフェミニズムの台頭に伴い、発展してきている。代表例のひとつがシェーレ・ハイトによる『ハイト・レポート』だ。このレポートでは女性たちのマスターベーション方法や感情について詳細で大規模にアンケートを行い、女性がどれほど多様なやり方で性的快感を得ているかを明確に示した。その内容は、男性中心主義的な挿入こそが性的快感のすべてだとする見方を覆す力をもっており、多くの女性にとっては挿入よりもクリトリス、それだけではなく、皮膚にふれることをはじめとした多様な経験が重要であることが改めて言葉になった。
女性のマスターベーションをテーマとした非常に興味深い研究がある。見えない障害をもつ女性である著者のディアナ・ミア・フアが、ほかの女性たちが行う多様なマスターベーション技術を自分の身体を使って経験し、その身体感覚を刺繍で表現したものである(Hua et al. 2023)。刺繍作品には、脚を組んで圧迫する手法や、上半身の一部を刺激して性感を他の部位に伝えるテクニックなど、言葉では現しがたい経験が、布や糸の質感を用いて刺繍化されている。このプロセスには女性アーティストが布・糸など日常的素材を用いて自己の身体や生を表現してきたフェミニスト・アートの系譜が反映されている点も興味深いが、孤独な経験であるだけではなく、マスターベーションもまた、他者と間接的に美的快楽を共有できる。「縫い合わせる」「糸を通す」という行為は、女性の労働や家事という文脈で捉えられ、美的経験の典型例からは軽視されてきた。しかし、刺繍実践においては、繊細なタッチ、豊かな質感、また自分の手で身体にふれるものを作るというセックスやマスターベーションにつながるメタファーが息づいている。
私は足を2回交差させる。つまり、足を交差させて、足首をもう片方の足に巻きつける。そうすると、クリトリス部分に圧力がかかる。私は手を使ったり、自分で触ったりしない。必要ない。オーガズムに達するまで、私は足をぎゅっと締め付けて、少しだけ動く。私はとても簡単にオーガズムに達する。——ハイテのレポートに登場する女性(Heite 2024, 95)
この方法をフアは試し「 女性のオナニーは、手や性器だけに限定された経験ではない。むしろ、全身と身体のリズムを注意深く活用することで達成される」と述べている(Hua et al. 2023)。
このテクニックを試しているうちに、手による刺激ではなく、特定のボディー・ポーズ、身体のリズム、脚から生み出される圧力によって、女性のマスターベーションが可能になることに気づいた。……私は美しさや支配的な身体規範をあまり意識せず、自分の体に喜びを与えることができるかどうかを重視した。(Hua et al. 2023)
著者の実践をみて、こう考えた。マスターベーションは、ほんとうに孤独な行為なのだろうか。セックスはジェンダー規範や社会的期待に影響される。体位、いつどこで快楽を感じるべきか、感じないべきか。マスターベーションも例外ではない。多くの国や地域の文化で、女性のマスターベーションは男性のそれ以上にタブー視され、性的快楽を自らの手で追求すること自体が否定的に扱われてきた。とりわけ、障害のある女性に対しては、「セクシュアルな存在ではない」という固定観念によって、その欲望や行為がしばしば不可視化されてきた。
こうした環境に対する抵抗運動として、近年のフェミニズムや障害学の領域では、マスターベーションのポジティブ化が実践され始めている。シュスターマンになぞらえるなら、マスターベーションを自分の身体を再発見し、尊重するための行為と位置づける動きは、他者に頼らない形でのポジティブで豊かな性的体験を得る機会になる。障害の有無を問わず、人間の身体には無数の感覚ルートや潜在的な性感帯が存在する——それらを自力で、そして、人々とともに探索することで得られる自由は、社会的規範からの解放とも関わりを持つかもしれない。
次回は、抑圧的な感性に目を向けよう。それは、自らを奴隷に貶めるような感性だ。すなわち、自分が支配されているはずの権力をもった人々や自分を支配する構造に感謝したり、それを称賛したり、合理化したりするような、奇妙な「リアリズム」の感性の、ねじれた美的経験について論じたい。
参考文献
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