批判的日常美学について
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
第9回

抑圧に感謝する:奴隷根性と弱さの美学

2025.08.01
批判的日常美学について
難波優輝
  • はじめに

    企業の上の人や政治の上の人の立場に立ってものを言う者たちがいる。企業の上役や社長や政治家だろうか。違う。ふつうに労働している会社員や、ふつうに暮らしている国民たちが、上のものに同情を示したりするのだ。変である。

    なぜこのような奇妙な状況が生じるのだろうか。

    私にとってはどうだろうか。私にとって、権力をもつ者は人間的な同情など、まったく値しない。なるほど、どんな権力をもった者にも苦しく辛いことがある。人間なのだから。人間である限り、権力があろうとなかろうと同情に値する。

    だが、権力を持っているということは恐ろしいことである。それは私たちを吹き飛ばす力を持っている。私たちを殺し、抑圧し、連れ去ることができる。だから、もし権力を持つ者が同情を欲するならば、その地位を降りて退けばよい。簡単な話である。

    だがなぜか、人々は権力ある者に同情する。にもかかわらず、人々は、権力なきもの、虐げられているものに対しては、権力を持つものほどには同情を向けない。非常に奇妙な事態が生じている。逆ではないか。権力を持つ者は同情に値せず、権力を持たざる者こそ同情に値する。スキャンダルで更迭される政治家など好きに更迭されればよい。役所で公務員に妨害され生活保護を受給できずに苦しむ人こそ同情に値する。

    なぜ人は、権力者に同情し、虐げられた人々には同情しないのか。今から、これを明らかにしたい。キーワードは、奴隷根性の美学である。

    第一節では、「感謝的消音」という概念をとりあげる。これは、自分を抑圧している状況に対して感謝することで、その抑圧を非難する声がかき消される現象だ。この概念を考えることで、自分を支配している人々への同情という奇妙な現象を解明する手がかりが得られる。

    ここから私は、第二節において、自分を支配する者たちへの同情や共感とは、自分がそれらの支配者と同じ立場にある、という妄想的な想像に基づいており、自分だけは支配者の温情を得られる、という虚しい希望的観測に基づくものだ、と主張する。これが奴隷的感性である。奴隷的感性をどのように断ち切ることができるのか、自律性をめぐる哲学をヒントに考えていく。

    結論はこうだ。人が奴隷根性の美学に酔うのは、自分の弱さ、傷つきやすさを無視するためだ。ゆえに、人が自分の弱さと傷つきやすさに気づくことで、奴隷根性を相対化できるようになり、さらに、人がどれほど弱さと傷つきやすさに冷淡なのかを目の当たりにすることで、次の気づきが得られる。弱く傷つきやすい自分を支配者たちが配慮することは、よほどの圧力や要請がなければなされえない。そこから、支配者に対する同一化から離脱することができる。

    1 奴隷化される意識

    第一節では、奴隷根性の美学の背景を理解する手がかりとして「感謝的消音(appreciative silencing)」という概念を取り上げる。これは、哲学者アブラハム・トビ(Abraham Tobi)が提唱した用語であり(Tobi 2024)、被抑圧者が自分を抑圧しているシステムや支配者に対して「感謝」を示すことによって、抑圧を告発する声や抵抗の可能性がかき消される、という現象を指している。本来であれば、抑圧を受けている当事者は怒りや反発、抵抗の意志を示すはずだ。しかし感謝的消音が働くとき、被抑圧者自身が「自分はむしろ恵まれている」「このシステムや支配者に感謝すべきだ」と感じるようになり、自ら進んで従属・服従を選んでしまうのである。

    すると、その状況のおかしさを指摘する声は当事者からは上がらず、周囲の人々にとってもその事態を疑問視しにくくなる。こうした構造によって、結果的に抑圧は温存され、さらに強化すらされていく。本節は、この感謝的消音がいかにして発動するのかを紹介することで、上のものをかばう態度の輪郭をはっきりさせたい。

    まず、「感謝的消音」とはどういうものかをトビの議論を手がかりに整理しておこう。トビによれば、感謝的消音は大きく次の三つの要素を含む(Tobi 2024)。

    第一に、抑圧的な構造やイデオロギーが正当である、あるいは、優れていると見なされる状況だ。これは、周囲があたかもその構造こそが当たり前であるかのように振る舞い、また被抑圧者自身もそれを疑問なく受け入れてしまうような状態を指す。たとえば、社会が、競争社会こそが自然の摂理だという価値観を絶対視しており、その下で過度の競争にさらされて心身をすり減らす人々がこれが当然であると考える場合が該当する。そこでは、被抑圧者の側から不満や告発の声が上がらない。むしろ、競争から降りることは望ましくないことだ、と自らで判断していく。

    第二に、抑圧された立場の人が、その抑圧システムに順応することで、救われていると感じる。被抑圧者が、抑圧的な構造にこそ、自分は恩恵を受けている、あるいは、これのおかげで生きていけると思い込む。そうすることで、システムの欠陥を直視しなくなる。さらに悪いことには、抑圧されている者が、そのシステムを擁護したり、肯定したりさえする。ブラック企業で酷使されている従業員が、ここは厳しいけれど、他に就職できるところはなかった。働かせてもらっているだけありがたいと思おう。あるいは、「自分はこの厳しさによって鍛えられて成長している」などと口走る現象を指す。

    第三に、抵抗や批判の可能性が、感謝を示す行為や態度そのものによってかき消される。抑圧されている者が、恵まれている、ありがたい、と言葉に発して語るたびに、本来であれば起こり得たはずの異議申し立ての契機が失われる。周囲の人々も、本人が満足しているのだから、そんなに悪い状況ではないのだろう、あるいは、本人が満足しているのだから、そっとしておこう、と捉え、抑圧構造の維持を見過ごされがちになる。

    トビの挙げる事例としては、植民地支配による文化や言語の押しつけを受けた人々が、自分たち固有の言語や文化を劣ったものとみなし、支配者の言語や文化に染まることを成功や進歩と見なすケースだ。なんとも物悲しいケースである。

    彼らは、もともとあった自分たちの言語や風習が抹消されつつあるのに、新しい文明を学べてありがたいとさえ感じる。これが重なっていくと、自分たちの文化や言語を支配者層によって「野蛮」「後進的」と断じられても、それに反発するどころか確かにそうだな、彼らに感謝しなければ、とさえ思い込むようになり、自ら進んで支配者のシステムを支持するようになってしまう。そうした現象をトビは「感謝的消音」と呼ぶのだ。

    2 弱さの認識論

    では、なぜ、抑圧への感謝が起こるのだろうか。先程のものとは別の説明を考えている。それは、自己イメージの問題に由来する。

    私たちは自己が弱い存在であることを受け入れるくらいなら、抑圧者に同一化してさえも、強い自己であることを守りたいのだ。感謝的消音が起こるのは、抑圧的な構造に感謝することで、その構造と自分が一体化している、という感覚を醸し出すことができる。とりわけ、周りの人に対して、「私は被害者ではない」と主張することができてしまう。いや、被害者ではないか、と周囲の人は思うかもしれない。本人に指摘するかもしれない。しかし、往々にして、指摘された本人は、よかれと思って指摘した本人に逆上する。「私は被害者ではない!」と。

    人々は自分たちが弱いことを指摘されたときにこそ激昂するようだ。なぜ弱さを受け入れられないのか。こうしたメカニズムを支えるのは、被害者であることの不愉快さである。もっと言えば、被害者であることは美的に悪いことなのだ、という美的判断である。

    第一章で行った、労働美における適応的美的選好とは、まさしく、こうした抑圧的な構造に対する感謝の事例だと思われる。この場合は、抑圧的な構造に感謝しながら、同時に、その抑圧的な構造のなかで精一杯勤勉に生きることが美しいことなのだ、という歪められた美的判断も形成されることになる。

    抑圧的な構造のなかで、自分が被害を受けている、ということを表明することは、なにゆえ美的に悪いのか。その構造を考えよう。

    第一に、抑圧的な構造を指摘し、自分が被害を受けている、と指摘することが、美的に悪い、「みっともない」と美的判断される、という美的判断の環境に由来する。たとえ被害を受けていても、そのなかで「頑張る」こと「のし上がる」ことが美的に優れている、という判断がなされてしまうのである。こうした障害の克服の物語の型を人々が愛してしまっていることが、抑圧的な構造への感謝を支えてしまっている。

    第二に、抑圧的な構造を指摘し、補償を受けようとすると、それは「ずるをしている」という判断がなされる。これは、美的判断のなかでも、特殊なタイプの判断に思われる。とりわけ、日本では、生活保護を受給する人に対してこうした判断がなされる。それは、自分もこの抑圧的な構造のなかで頑張っているのだから、生活保護などを受けずに頑張れ、という抑圧の中での戦いを強いるための美的判断である。言い換えれば、一緒にこの抑圧的なゲームをプレイしろ、という、抑圧ゲームプレイへの強制と誘いなのだ。こうしたゲーム的な観点が「ずるい」、という発言の土台である。それゆえ、自分が抑圧的な構造を指摘することは「ずるをしている」と判断されてしまうがために、美的にいって避けるべきなのだ。

    確かに、自分が被害を受けている、と表明することには実際的な不利益がありうる。自分が被害を受けていて、何らかの弱点があるということを表明したりすると、他人に付け込まれることはありうる。実際それは事実だろう。あるいは、自分が被害者である、という自己認識は、支援者を呼び寄せ、ときに代償を伴うこともある。支援者と支援されるものという役割ができあがってしまうこともある。それにより、私たちのアイデンティティが身動き取れづらくなっていってしまう。被害者というアイデンティティに固定されていってしまう。それは自律性を脅かす。

    しかし、適切な人に、適切なタイミングで、自分の弱さを表明することは、私たちを救う手立てになりうるはずだ。さらに、抑圧的な構造のように、社会環境の側に不正義が埋め込まれているならなおさらだ。

    もちろん、適切な人に、適切なタイミングで自分の被害を表明することには一定の難しさがある。だとしたら、私たちがまずできるのは、自分が弱いことを自分で認識すること、である。誰に表明する以前に、自分がどのような被害を受けているのか、受けてきたのか、あのとき受けたのかを認識することが、その被害を生み出す抑圧的な構造に立ち向かうための一歩になる。

    しかし、自分の被害をひたすらに振り返ることで自分の被害者アイデンティティを強化する危険があることは確かだ。私たちが望むのは、私の受けた被害を他人に繰り返さないために立ち上がることである。私の被害は、もはや取り消せない。だが、取り消せないことを気にする必要はない。私たちには未来があるのだから。私たちは過去苦しんだ私たちを労ればいいのである。

    自分の弱さをアイデンティティにしないこと、これが重要だ。私たちは当たり前に弱いということを理解すること。それはアイデンティティでもなんでもなく、私たちが、例えば、生者である、というのと同じ意味で普遍的でありふれていてつまらない特徴であることだと認識すること。この、根本的な意味での弱さの受け入れを、私は必須のものとして提案しているのだ。

    抑圧的な構造を批判しようとする私たちは、他人から悪しき美的判断をなされてしまう。その判断自体は現状しばしば避け得ない。そして、それが美的判断であるがゆえに、私たちに苦しい打撃として効果を示す。私たちは、自分たちが道徳的に非難されることには対抗できる。なぜなら、その道徳とは、抑圧的な構造の立場にたった誤った非難であり、反論可能だからだ。だが、「みっともない」「ずるをしている」という美的な非難に対しては、相当な守りが必要である。私たちは美的な攻撃から身を守る術をまだ十分に開発できていない。

    私がいま提案できるのは、「みっともない」という美的判断に対しては、「あなたはそう思うかもしれないが、しかし、抑圧的な構造に感謝し、適合するほうがみっともない」という美的対抗をすることであり、「ずるをしている」という美的判断に対しては、「抑圧的なゲームに参加する意志は私にはない」とつっぱねることである。

    私たちの美的経験、感性的経験を絶対視しないことである。私たちの経験は現にここにある。だが、その経験が完全に信頼できるかというと、議論の余地は大いにある。私たちは、自分たちの美的経験を大事にしつつ、それが私たちを苦しめてはいないか、と再検討することもできるのだ。それは自我の分裂や崩壊に至る危険性ももちろんあるだろう。だが、批判というのはそういうものなのである。

    3 強さを考え直す

    自らが弱い存在であることの受け入れ難さと対になるのは、自分が強い存在である、と自他に認めさせたいという思いであった。それは、強さが美である、というある意味で普遍的で古典的な観念に寄生している。確かに、障害を克服することは美的に優れている。たとえば、ビデオゲームは、意図的にデザインされた障害を乗り越えることそのものを美的に味わう文化であり、スポーツは、障害を乗り越えるプレイヤーを鑑賞する文化でもある。人間は障害が好きなのだ。

    だが、良い障害と悪い障害というものが考えられるのではないか。たとえば、抑圧的な構造は悪い障害で、もっと良い障害があるのではないか。

    悪い障害とは何か。一つの仮説は、この人生、人間の生を豊かにはしない障害である、とひとまず考えている。たとえば、ジェンダー不平等な差別は生を豊かにはしない障害だ。こうは考えられないだろうか。不適切な障害とは、私たちがそれを乗り越えることに喜びを感じられない障害である、と。つまり、私たちが、私たちらしさを発揮できない障害はつまらない、不適切な障害である、と。

    ここでは、障害のよしあしを、私たちが自己の開花に役立つかどうかに基づいて判断する提案をしている。これは、ちょうど、よいゲームとそうではないゲームの判断と類推的である。よいゲームとは、よい障害を作り出してくれる。練習すればうまくなるし、課題をこなすことに達成感がある。わるいゲームとは、つまらない障害を作り出している。たとえば、永遠にレベルをあげなければボスを倒せなかったり、理不尽なランダム性で敵に倒されたりする。

    だが、問題は、人はどんな障害もそれなりに楽しめてしまうということである。もしかすると、ジェンダー不平等である環境で、自分らしさを発揮してしまうこともできるだろう。

    私は、道を間違えたかもしれない。進むべきは、障害の良し悪しではもはやないようだ。私たちがどんな悪しき障害も自己の開花に役立てられてしまうのだとしたら、やはり私たちは障害を乗り越える強さを美的に味わうことそのものをやめるべきなのだろう。

    とはいえ、私はそれをできない。私は、人が障害を乗り越えたり躱したりする様に惹かれてしまう。それが「いき」だと感じてしまう。だとしたら、抑圧的な構造に私はいくぶんか美的な観点からいって加担しているということになるだろう。

    いや、一つの道はあるかもしれない。それは、先程も少し触れたように、抑圧的な構造に対抗する、という障害の克服をこそもっとも美的に優れた強さだ、と評価する態度を生きることだ。これなら、人間に「いき」を感じがちな私も実践できるだろう。ということは、多くの人にとっても実践可能な美的判断かもしれない。

    私たちが抑圧的な構造に抵抗するための美的判断の実践というものがありうのだ。抑圧的な構造に抵抗する人々の振る舞いを美的に味わい、評価すること。そうすることが、抑圧的な構造への感謝をキャンセルし、抑圧的な構造を破壊する力になっていく。

    これまで、私は人生の様々な側面で、道徳的判断と美的判断が癒着していることを指摘してきた。

    最終回となる次回は、私たちが生きていること、そのものの美的経験について考えたい。私たちが意識をもっていることそのものに、美的な特徴はあるのだろうか。この意識というものは、美的にどのような点から重要なのだろうか。生きることの道徳的な価値と美的な価値の関係について考察したい。

     

    参考文献

    Tobi, Abraham. 2024. “Appreciative Silencing in Communicative Exchange.” Episteme 21(2): 668-682.

     

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
批判的日常美学について
難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)