膝の皿を金継ぎ
『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

第20回 脚はみぞおちから生えています

2025.05.01
膝の皿を金継ぎ
八木詠美
  • 小学校に入学したとき、わたしはドッジボールを見て震えた。やばいところに来てしまった、と思った。

    わたしが通っていたミッション系の幼稚園にはかくれんぼや鬼ごっこといった遊びはあったが、なぜか園庭でドッジボールをする習慣がなかった。だからはじめて校庭でドッジボールをする上級生たちを見てとても驚いた。ボールを思い切り投げて相手にぶつけて喜んでいる。なんと野蛮な、と6歳だったわたしは思った。幼稚園のときに毎日お祈りしていたあの神様は世界に、というか幼稚園から歩いて数分のところにこんなにやばいゲームがあることを知っていたんだろうか。だとしたらどうして黙っていたんだろうか。ボールをぶつけた子は嬉々として仲間同士で雄叫びを上げ、逃げ遅れて転んだ上に勢いよくお尻にボールをぶつけられた子は転んだときにすりむいた膝を気にしながらしょんぼりと外野に向かっていく。こわい。

    そのときの印象は体育の授業に結びついていった。わたしは運動神経がよくない。走るのも速くないし、鉄棒の逆上がりもなかなかできなかった。何度も逆上がりに失敗する中で、先生が「どうしてできないんだろう」と小さく呟くのが聞こえた。

    けれど一人で完結するものはまだよかった。他の子とも関わるものになると、例えば大繩大会であれば自分が飛び損ねればそれまでカウントしていた数字がゼロになってしまう、バレーボールのパスの練習はとにかく相手の子に迷惑をかけないように、と緊張感が高まった。競技のためにチーム分けをしたときは、チームに振り分けられた時点で他の子たちに対して申し訳ない気持ちになった。

    透明になりたい、どうか放っておいてください、と祈るような気持ちで毎回体育の時間を過ごしていた。

     

    が、今わたしは体を動かすことがとても楽しい。週に2回マシンピラティスに通い、最近はランニングを始めた。慢性的な肩こりをなんとかしたいという理由で始めたのだが、今はそれ以上に楽しさが勝っている。できないことが少しずつできるようになり、体を育てているという感覚がある。

    ピラティスの体験レッスンに行ったとき、前のグループがレッスンをしているのが目に入り、やばいところに来てしまった、とまた思った。みな謎の台に乗って謎の紐みたいなのを引っ張ったり、どうやら一部が動くらしい謎のからくり椅子に足をかけて謎のマットに向かってありえない角度で背中を伸ばしている。

    そうして十数分後にはわたしも他の体験者とともに謎のマットの上に立っていた。スタジオの前方では爽やかな女性の先生が爽やかに挨拶をする。運動神経が悪いわたしはきっと足を引っ張り、この爽やかな空間を台無しにしてしまうにちがいない。どうか放っておいてください、とわたしは再び念じ始める。無料体験という言葉につられて来たのが間違いだったんです。ほら、他のみなさんのご迷惑になるでしょうからもう帰らせてください。

    だが、レッスンが進んでふと気づく。あれ、それほどつらくない。

    正確には、体はつらい。謎の台に乗って謎の紐を引っ張ったり、謎の半球の上で謎のポーズをとるのは。足はそんなになめらかに動かないし、腹筋はプルプルと震えている。けれど少なくともわかる。どうすればよいのか。

    「右の方の腰が下がらないように気を付けて」

    「少しだけ顎引いてみて」

    先生はスタジオを歩き回りながら注意すべき点を細かく言葉にする。その通りにすると鍛えるべき筋肉への負荷も増え、体としてはつらいが他の余計な力が抜けてスムーズに動ける。ずっと自分の動きに集中していたので、水分補給のときにはじめて他の人たちの存在が目に入ったが、どの人も必死の表情をしていた。他の誰かを見て笑う余裕もないくらいに。

     

    こうしてピラティスに通い始めて気づいたが、わたしは自分が思っていたよりも体を動かすことが好きだった。ただ、動かし方が今までわからなかったのだ。あと、動かす目的がちがった。

    ピラティスのレッスン中、先生はとにかく話し続ける。1つの動作を指示するにしても「太ももから上げて。でも仙骨はずっとマットに押し付けたまま」「骨盤を立てた状態で胸椎だけしならせて」というふうに。ずっと部位で説明するのでその名称が頭に入るまではとまどうが、「公平」な指示だと感じた。体を動かすにあたっては「見て真似させる」という方法もあるのだろうが、運動神経がない人にとってはまずどう真似していいかわからない。だからこうして細かに動きを言葉にし、違うときはここが違うと言ってもらった方がうまくできる。完璧じゃなくても、少しずつ近くなる。謎の動きが、謎でなくなる。

    こうした教え方というのが先生によって個性があり、力量の見せ所なのだと思う。最近わたしがよくレッスンを受けているのはA先生という同世代くらいの女性だ。「はい、みなさんのお腹の下には小さなモルモットがいます。そのモルモットをつぶさないように腹筋を引き上げて」というように比喩が豊かで、「脚はみぞおちから生えています!」「初めて立ち上がった人類のような気持ちで力強く」など独特な表現も多いが、しかるべき指示の流れの中でそう言われた瞬間に腑に落ち、今までできなかった動きが急にできるようになることも多い。ちゃんと体を動かせるようになる。自分の体を育てる「体育」の感覚がある。誰かに迷惑をかけないように、ではなく自分ができるようになりたいから体を動かす。

     

    同時に振り返って思う。自分にとって体育の授業はあまり「体育」ではなかったのではないか。例えばバレーボールのパスやバスケットのドリブルは、いろいろな動作が結集する「複合技」だ。もともと運動が得意で体育の先生になった人からすれば「見ればわかる」と思うのかもしれないし、実際にそうやって見て学べる人もいるのだろうが、見てもわからない人からするとただただ似ていない真似をして終わる。謎は謎のままで、他の人に迷惑をかけないようにという焦りばかりが先行し、体の機能を向上させようという考えにはまったくならなかった。

    もちろん、一人の先生が生徒それぞれの状況を細かく見るのは限度があるし、そうした「複合技」でゲームをした方が多くの生徒にとって楽しく、モチベーションが高まるのだろうと理解はできる。けれど逆上がりができないわたしに「どうしてできないんだろう」と先生がつぶやいたときに思った。先生が見てもわからないことは本人にはもっとわからないよ、と。

     

    自分の体を、自分のために育てるのは楽しい。気づくのにずいぶん時間はかかってしまったが、今日もわたしはピラティスのレッスンに行く。お腹の下のモルモットをつぶさないように気を付けながら。

八木詠美(やぎ・えみ)

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。2024年『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞。