膝の皿を金継ぎ
『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

第22回 今日もどこかに

2025.07.07
膝の皿を金継ぎ
八木詠美
  • 本当に暇なんだねと言われそうなので人には話さないが、ほぼ毎日Googleマップの口コミを読んでいる。特に小説を書いている合間に。気になるカフェやレストランの評判が知りたいわけではない。不正な口コミを報告するわけでもない。ただ、ある場所に関する感想を眺めるのが好きで、気に入ったものはときおり読み返している。

    中でもずっと気に入っているのはある喫茶店に対する口コミだ。都内にある喫茶店で、雰囲気がよくてコーヒーもケーキもおいしく、店員さんの対応には賛否両論あるらしいが、そこはそれほど興味はない。昨今では珍しい喫煙可の店内だけどそれほど煙っぽくはないので非喫煙者でも意外と大丈夫だという意見と、煙草で吐きそうになるという意見の両方があるのだが、そこも素通りする。わたしの目的はこのフレーズだ。

    「店の中はカブトムシの匂いがする」

    カブトムシ。もう20年以上は実物を見たことがない気がするが、文字を読んだ瞬間に甘酸っぱい匂いのエサのゼリーも込みでその気配が蘇り、それまで書かれていた「飴色の天井や壁に歴史を感じます」や「コーヒーはもちろん、レアチーズケーキが絶品」といった文言も吹き飛んでしまう。どうしてだろう。「紅茶がぬるい」「店主が高圧的」といった文言よりも「カブトムシの匂いがする」という方がお店のブランドのようなものを大きく損なう気がする。

    思うに匂いというのは、いくら消そうとしたり他の香りで何とかしようとしても環境や体質など複合的な要因によって「結果的にそうなってしまう」類のものであり、指摘された方は認めざるを得ない。個人に対する悪口としても「くさい」というのは「バカ」「デブ」とは一段違うダメージがある気がする。だから職場などで頭痛や吐き気を催すような匂いの人がいて改善を求めたくても、口にしてよいものか迷ってしまうし、自分の匂いが他人にとって不快でないか気になってしまう。そうしたデリケートな話題だからこそ「カブトムシの匂い」というフレーズは短いながらも独特の破壊力を持っている。

    もちろん、口コミはネガティブなものばかりではない。ポジティブなものとして気に入っているのは去年見かけたこの口コミだ。

    「銀座のど真ん中にあるとは思えない落ち着いた場所です」

    ホテルやレストランに対する評価のようだが、これはある宗教法人の教会に対する口コミである。数年前、買い物帰りに気になる建物を見つけつつもそのときは急いでいたので詳細を調べられず、あとで検索してみたら建物の名称とともにこの口コミを見つけて破顔した。教会なんだから落ち着いているだろうと思いつつも、きっと書いた人は本当にそう感じたんだろうなと想像するとほのぼのとした気持ちになる。

     

    こうして口コミを読んでいると、それを書いている人のことも気になってしまう。あるネガティブな口コミをしている人の他の口コミも見ると、これは単なる言いがかりでは思ってしまうような罵詈雑言をいくつもの場所に対して書き連ねていて、この人は普段あまり人に大切にされず、その反動で客としてお金を払いさえすれば誰もが自分の言う通りになると思い込んでいるのかなと心配になる人もいるし、逆にこのくらい何もかもポジティブに受け止められれば人生楽しいだろうなと思う人もいる。

    中でもわたしはずっと気になっている人がいる。その人はフルネームで口コミを書いているのだが、ここでは仮に中野優子さんとしよう。中野優子さんは訪れた場所の口コミを律義に書き続けており、その対象は百貨店から野菜の直売所、クリーニング店や寺社仏閣、さらには旅行で訪れたアメリカのハンバーガーショップ(トム・ハンクスが来店したらしい)やスーパーマーケット、イギリスの空港までと幅広い。書いている内容だってほめるときはほめるし、「地下にあるので場所が少しわかりにくい」「店内は少し狭い」など気になった点も率直に書き、割とフェアな評価だと思う。

    しかし問題はこの中野優子さん、本当にたくさんの口コミを書いているので読むうちに住んでいる地域(おそらくわたしの家からバス1本で行ける)や年齢、趣味や食生活、それぞれのお店に行く時間帯などがおおよそ推測できてしまうことにある。普段はこの駅でよく乗り換えをしているのだろうな、ここに行ったあとはこのあたりで食事をするんだろうな、ということがなんとなく見えてしまい、いくらか想像による肉付けをすれば中野優子さんをモデルにした短編小説が書ける気がする。

    しかし個人情報的に大丈夫だろうか、中野優子さん。限りなく低い可能性に賭けてもしも中野優子さんがこの文章を目にすることがあればどうか名前をイニシャルにしたり、家を留守にする時間がわからないようにスーパーの割引の時間に関する情報はもう少し控えめにするか検討してほしい。

     

    中野優子さんは今日もあのゴルフスクールに通っているのだろうか、それともプールだろうか。あの人はまた思い通りにならない世界に立腹し、あの人は教会の静けさに感心しているのだろうか。どこかに今日もいるはずの人のことを少し考え、わたしはまた架空の物語を書き始める。

     

八木詠美(やぎ・えみ)

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。2024年『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞。