第1回 日本語は批評やジャーナリズムの道具となりえるか。〈前編〉

f6425bf2b408569a1be76b094f1325c5この連載が『日本語とジャーナリズム』として、まとまりました。ぜひ書店にてご覧ください。

装丁はアジールの菊地昌隆さんです。

「はじめに」にあるように、水中から世界を眺めるようなイメージを形にしてくれました。


「武田徹は軽評論家になった」。

先生の低いダミ声が、教室の中に響いたように感じた。自分もまた「先生」と呼ばれる身になって、かつての自分と同じ大学院生にテキストを読んでいた時のことだ。

取り上げていたテキストは佐藤健二『ケータイする日本語』(弘文堂)。その中に人類学者アンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言語』(現在、ちくま文庫 に収録されている)からの引用があった。出典書誌データをみるまでもない。訳者名は荒木亨だ。荒木は筆者の博士課程時代の指導教官だった。

先生の声に背中を押されるようにして、私はジャーナリストになったのだ――。約30年前の記憶が唐突に蘇る。

詩人とジャーナリスト

所属組織の名など明らかに定まってしまう肩書もあるが、自分で申告できる余地が残った肩書もないわけではない。後者の代表格は詩人とジャーナリストではない か。

詩集が多く売れ、詩作で生計が立てられる極めて恵まれた人を例外(そんな身分の詩人は果たして日本に何人いるのだろう)として、ほとんどの詩人は別に 職業を持っているはずだ。大学教員かもしれないし、郵便配達人かもしれない。専業主婦ということもあるかもしれない。

しかし詩を作って、当人がそれを自分 のアイデンティティと考えているなら詩人と名乗ることを誰も止められない。もちろん税務署に申告する書類の職業欄にそれを書くことも本人の自由だが、詩作 で生計を立てられていない人の職業名が詩人であるとまで言えば多少の抵抗もあろう。それは職業名というよりも詩人として生きる、自らの生き方を宣言する名 と考えたほうがすっきりする。

ジャーナリストという肩書にも似たような事情がある。もちろん新聞社や放送局、雑誌社に所属する記者は職制か らしてジャーナリストである。しかしジャーナリストは彼らのように所属機関名でも身分を名乗れる者に限られない。所属機関を持たない、数多のフリーランス のジャーナリストが日々記事を配信している。

こうしたフリーランスの場合、ジャーナリストの肩書は詩人と似たようなものになる。実際には記 事で食えていないケースも多々ある。生計を支えているのは兼業している別の職業であったり、アルバイトであったり、親の遺産であったり、妻の稼ぎかもしれ ない。それでも彼らはジャーナリストを名乗る。それもまたジャーナリストとして生きるという決意の表明なのだ。

筆者の場合もそうだ。

筆者が駆け出し頃の1980年代後半、日本経済は好調で新創刊される雑誌も多く、幾らでも書く機会は与えられた。締め切りが極度に立て混んでしまわない限 り、執筆依頼は引受け、過去に調べたこと、考えたことがないテーマであっても、自分の問題意識に従って料理して書くことに楽しみを感じていた。

おそらく同年代のサラリーマン以上の収入は取材と執筆活動で確保できていたので、その頃であれば筆者は専業フリーランス・ジャーナリストと名乗れたかもしれ ないが、90年代の後半になると景気が悪くなって雑誌数が減り始める。それでも専業フリーランス・ジャーナリストに踏み留まることも不可能ではなかった が、多彩な依頼仕事を自分流にアレンジしてこなすスリルにも慣れてしまい、そろそろ別の表現と生活のスタイルを目指すようになる。

そして大学院を離れてからしばらく遠ざかっていた大学で教えるようになった。当然、授業やその準備に時間を取られるわけで、それまでのように全生活を取材と資料調 査、執筆に捧げられるわけではなくなった。だが、生活の糧を分担することで執筆仕事の方は次々に締め切り仕事を仕上げてゆくのではなく、多少長めの時間ス ケールの中でひとつのテーマを追求するスタイルへと徐々に収束させてゆけるようになった。

満州国を素材に日本人の国家イメージを検証した 『偽満州国論』(河出書房新社→中公文庫)、ハンセン病隔離医療の受容を巡って日本社会の「質」を論じた『隔離という病』(講談社→中公文庫)、原子力技 術に日本がどのように向き合い、それを受け入れ、あるいは排除しようとしたか検証した『核論』(勁草書房→中公文庫→『私たちはこうして原発大国を選ん だ』と改題して中公新書)といった日本近代社会史を扱う一連の作品は、こうした兼業ジャーナリスト生活の中で書かれたものだ。

筆者の場合、 日本社会の問題を考える時に常に日本語の問題を意識している。日本語の問題について本格的に考え始めたのは、遠く大学時代にまで遡れる。そして日本語に対す る問題意識は、日本語を用いるジャーナリズムへ通じており、その問題意識はジャーナリストとして仕事をしながらいつも通奏低音のように脳裏か ら離れずにあった。

大学で教えるのはジャーナリズム史や報道の公共性の問題を中心としたメディア論なのだが、教えている時にはいつもジャーナリストとして 実践活動の中で、ついに振り払うことの出来なかった「日本語でジャーナリズムを実践すること」に対する根本的な懐疑を底流に踏まえていた。その意味で問題意 識は全て通底していたのだ。

言葉が喚起するもの

筆者はICU(国際基督教大学)の教養学部と比較文化の大学院で言語哲学、一般意味論を専攻していた。なぜそ れを専攻したのか。先に詩人の例を引いたが、そこには詩が関わっている。

ジャーナリストと詩人は職業名というよりも共に生き方の宣言という点で類似性があ るが、活動内容としては限りなく離れているように思うだろう。しかし筆者にとってはその二つが地続きのように感じられている。そのことを書いてゆこうと思 う。

詩は筆者にとって常に気がかりな存在だった。自分でも作ってみようと考え、高校時代には学内の文芸誌に詩を書いて投稿していたし、バンド活動をする時にはオリジナル曲の作詞作曲もしていた。

自分の詩に関しては若気の至りも甚だしく、ひとりよがりで、気恥ずかしいものでしかなかったし、当時にしても詩作に酔ってナルシズムに浸る一歩手前で踏みと どまる程度の自制心は持ちあわせていたと思う。だからこそ、詩作が備える、強く人を惹きつける不思議な力の存在に気づき、それが気になってならなかったの だろう。

「ペンは剣よりも強し」という時の言論の力とは違う。詩には言論のように行儀よく収まらない、時に輝かしくもなるし、時に禍々し く もなるイメージを喚起する力がある。そのイメージは言葉に起因するのだが、言葉で説明すると、春になって雪が溶けてしまったかのように、どこかに跡形もな く消えてしまうのだ。

端的なのは現代詩だろう。古典的な叙事詩や抒情詩は何かを表現することに熱心だった。それに対し、多くの現代詩は何か を具体的に表現することを恥じているかのように書かれる。

しかし、そんな詩に存在感を読者は感じ、時に感動を禁じ得ない。そこでは日常生活で使われる言葉のように用件なり、意志なりが伝えられているわけではないが、やはりコミュニケーションが成り立っているのだ。ならば何が伝達されているのか? そう尋ね ても詩人も読者も答をはぐらかすだろう。答を説明する言葉は詩の本質に届かないし、むしろ興ざめな印象を与える。現代詩の言葉は、研ぎ澄まされた詩人のセ ンスによってその言葉以外を選べないまでに厳選されているはずなので、他の言葉で代替的に説明されることを拒否する。

たとえば瀧口修造に 『遮られない休息』という詩がある。

途絶えない翅の
幼い蛾は夜の巨大な瓶の重さに堪えている
かりそめの白い胸像は雪の記憶に凍えている
風たちはやせた小枝にとまって貧しい光に慣れている
すべて
ことりともしない丘の上の球形の鏡

この詩の内容について他の言葉で説明することができるだろうか。試論であれば様々に書かれるが、それは詩そのものとは別の表現物を作る作業であり、詩の魅 力=喚起力そのものを語ることにはならない。この詩にインスパイアされて武満徹は美しいピアノ独奏曲を作っているが、それももちろん詩ではない。それらは いってみれば二次創作なのであり、詩そのものを理解したいと望むならば、他の言葉に変換できない詩の言葉の力をそのまま受け止めるしかないのだ。

こうした「喚起力」を備えているのは詩の言葉だけではない。偉大な宗教家や哲学者の言葉も、ただ語られた内容を伝えるだけに留まらない、一種のオーラをまとって伝達されているではないか。

よりミクロにみてゆけば、言葉は単語レベルから喚起力を発生させるとも言える。それは書かれた言葉でも語られた言葉でもそうだ。レヴィ=ストロウスが『構造 人類学』(みすず書房)で触れていることは印象的だ。「私はフランス語と英語を両方とも完全に話すというわけではないが、生涯のある時期にはまったく英語 だけを話した。その私にとって、fromageとcheeseはたしかに同じものを意味しはするが、そのニュアンスには相違がある。fromageは、一 種の重さ、何か油っこくて砕けにくい物質を思わせる。それは、乳製品が<油もの>と呼ぶ種類のチーズを指すのに、とくに適した言葉なのだ。それに対して、 cheeseは、もっと軽く、もっと新鮮で、少し酸味があって歯ごたえがなく、私はすぐにホワイト・チーズを思わせる。つまり、私にとって、<チーズの原 型(アルケテイブ)>はフランス語で考えるか英語で考えるかによって同じではない」(荒川幾男他訳)。

言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言語記号が恣意的に選ばれると考えた。それぞれの言語記号の「音」は、擬音などの特殊なケースを除いて、それが示す意味内容とは独立して存在 している。しかしレヴィ=ストロウスがいうように「ひとたび採用されたこれらの音の集まりが、それらと結ばれることになった意味内容に特殊なニュアンスを与えることはやはり考えられるの である」。言葉を使用する文化の中で、言語記号に辞書的な意味内容を超える余剰のイメージが付加されてゆく。喚起力とはそうしたイメージを喚起する力なの だ。

そうした喚起力をとりあえず存在すると仮定したうえで、それを対象に含みつつ意味伝達過程を定式化することができないか――。それが 卒 論、修論を連続して筆者が取り込んできたテーマだった。

卒論では言葉の意味をその指示対象と考えるアリストテレス以来の古典的言語観から離れようとしてソ シュールや哲学者ウィトゲンシュタインが切り開いた20世紀の言語学の達成を踏まえ、ロマン・ヤコブソンの構造機能分析的な言語理論やディルタイ、ガダ マー、リクールなどの解釈学を援用して喚起力の「了解」(=受け止め)から、必要に応じて他の表現を用いた意味の「説明」に至るダイナミズムを定式化する理 論モデルを作った。修論ではその延長上に人称構造の中で喚起力がいかに作用するかを検討した。

武田徹 たけだ・とおる

1958 年生まれ。ジャーナリスト・評論家。恵泉女学園大学教授。国際基督教大学大学院修了。2000年『流行人類学クロニクル』(日経BP社)でサントリー学芸 賞受賞。著書に『偽満州国論』『「隔離」という病』(ともに中公文庫)、『戦争報道』(ちくま新書)、『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』(中公新 書ラクレ)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的日本論』(新潮社選書)等。2014年、『NHK問題』の増補改訂版を電子書籍としてリ リース。http://journalism.jp/takedatoru/