第4回 トロッコ問題について考えなければいけない理由

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

どう向き合うべきなのか?

「トロッコ問題」についてご存知の方は多いだろう。

この思考実験は、日本では2010年に翻訳されたマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』で取り上げられて、NHKの「ハーバード白熱教室」でもサンデル教授が学生たちにトロッコ問題を投げかける姿が放映されたことで、多くの人の印象に残ることになった。

哲学の論文というかたちでトロッコ問題が最初に登場したのは、20世紀の後半である。そこから数十年の間に何十人もの哲学者たちがこの問題について議論を行ってきて、「分岐線」問題や「歩道橋」問題をはじめとする様々なシチュエーションを考案してきたことで、今日にも新たなトロッコ問題が生み出されている。

一方で、サンデル教授がブームになった頃から、トロッコ問題に対する批判も目立つようになった。批判者たちは、限定された状況で「一人の命を守るか、五人の命を救うか」という選択を突き付けてくるトロッコ問題は、そのような事態を引き起こした者の責任を有耶無耶にしてわたしたちの考えの幅を意図的に狭めさせる、擬似問題であると見なしているのだ。

今回は、哲学ライターのデイヴィッド・エドモンズがトロッコ問題の歴史をまとめた本である『太った男を殺しますか?』や、前回の記事でも紹介したジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』などを手がかりにしながら、「トロッコ問題について私たちはどう向き合うべきか?」ということを考えていこう。

「分岐線問題」の概要

トロッコ問題を最初に考案したのは、倫理学者のフィリッパ・フットだ。1967年に彼女が『オックスフォード・レビュー』に発表した「中絶の問題と二重結果論」という論文では、トロッコ問題のなかでも「分岐線」や「スイッチ」と称されるバージョンのものが提起されたのである。

「分岐線」問題の概要とは、以下のようなものだ。

一人の男が線路脇に立っていると、暴走列車が自分に向かって突進してくるのが目に入る。ブレーキが故障しているのは明らかだ。前方では、五人の人たちが線路に縛りつけられている。何もしなければ、五人は列車に轢かれて死ぬ。幸い、男の傍らには方向指示スイッチがある。そのレバーを倒せば、制御を失った列車を目の前にある分岐線に引き込める。ところが残念ながら、思いがけない障害がある。分岐線には一人の人が縛りつけられているのだ。列車の進路を変えれば、この人を殺す結果になるのは避けられない。どうすればいいだろうか?(エドモンズ、p.19)

翌年の1976年、フットの提案したジレンマに、 彼女と同じく倫理学者のジュディス・ジャーヴィス・トムソンによって「トロッコ問題」という呼び名が与えられた。

そして、フットが「分岐線」問題が提案されてから18年後の1985年、トムソンは「歩道橋」問題を提案したのである。

「歩道橋」問題の概要は、以下の通り。

 今回、あなたは線路を見下ろす跨線橋に立っている。路面電車が線路を疾走しており、その先で五人の人たちが線路に縛りつけられているのが見える。この五人を救うことはできるだろうか?トムソンはここでも、五人を助けられる状況を巧妙に設定した。跨線橋にものすごく太った男がいて、手すりから身を乗り出して路面電車を眺めている。この男を突き飛ばせば、彼は跨線橋から転落して眼下の線路に叩きつけられるだろう。恐ろしく太っているため、その巨体に衝突した路面電車は激しく揺れながら停止するはずだ。悲しいかな、この太った男は命を落とす。だが、五人の命は救われる。(エドモンズ、p.61)

そもそもフットが分岐線問題を提案したのは、「二重結果論」について考えるためであった。

二重結果論とは、ある人の行動がもたらす帰結を「本人が意図した結果」と「本人は意図していないが、生じることが予見された結果」とに区別したうえで、行動を起こした人が責任を問われるのは「意図した結果」だけであり、「予見された結果」については責任を問われない、とする考え方だ。

中絶問題の議論に用いられたもの

二重結果論は、カトリック神学において「例外的に中絶が認められるのはどのような場合か」ということについて議論する際に用いられてきた。通常、カトリックでは胎児の命には成人の命と同等の価値があると見なされて、中絶は認められない。しかし、中絶をしなければ妊婦の生命が危ういという場合には、妊婦を救うという目的のために中絶を行うことは認められる。たとえば、妊婦の子宮に腫瘍があって、子宮摘出をするしか彼女の命を救う方法がない、という場合だ。このとき、子宮を摘出するという行為の目的は妊婦の命を救うことにあり、胎児を死亡させることではない。つまり、通常の中絶では胎児を死亡させることは「意図した結果」となるのに対して、妊婦を救うための行為の結果として胎児が死亡することは「予見された結果」とされるのだ。そのため、通常なら中絶を認めないカトリックも、この場合においては中絶を認める。妊婦にも医者にも、予見された帰結の責任を問うことはできないからだ。

分岐線問題は、二重結果が問題となる状況をわかりやすく抽象化したものである。スイッチのレバーを倒すことの目的は、あくまでも五人の命を救うことだ。レバーを倒すことで分岐線にいる一人は死んでしまうことは予見されるが、それはレバーを倒すことの目的ではない。だから、いついかなる場合でも人の命を奪うべきではないという信念を抱いている人ですら、分岐線問題でレバーを倒すという行為については、二重結果の考え方に従って容認することができるのだ。

しかし、同じく「五人の命が救われる代わりに、一人の命が奪われる」という結果をもたらす行為であっても、歩道橋問題で「太った男を突き落とす」ことは、分岐線問題で「レバーを倒す」こととはかなり事情が異なってくるようである。

すでに論じたように、分岐線のシナリオであなたは線路上の男を殺したいわけではない。だが、太った男のシナリオでは、肥満体の男(あるいはバッグを背負った男)が、路面電車と危機に瀕している五人のあいだをふさぐ必要がある。彼がそこにいなければ、五人は命を落とすことになる。彼はある目的、つまり路面電車が五人を殺す前に止めるという目的に対する手段なのだ。太った男が自発的に飛び降りるとすれば、それは尊い犠牲となるだろう。だが、あなたが彼を突き飛ばせば、自律的な人間ではなく、まるでモノであるかのように彼を利用していることになる。(エドモンズ、p.64)

二重結果論を持ち出しても、太った男を突き落とすことは容認されない。太った男が線路に衝突して、トロッコに轢かれて死亡することは、彼を突き落とした人が意図した結果であるためだ。

トムソンは二重結果論の代わりに「権利」という概念を持ち出すことで、分岐線問題と歩道橋問題の違いを示そうとした。スイッチのレバーを倒したところで、誰かの権利を侵害していることにはならない。他方で、太った男を突き落として殺すことは彼の権利を侵害する行為である、とトムソンは論じたのである。

嫌悪感を構成する二つの要素

実は、二重結果論や権利を持ち出さなくとも、市井の人々の大半は「分岐線問題でレバーを倒すことよりも、歩道橋問題で太った男を突き落とすことの方がより悪い」という判断を行なっている。

前回の記事でも紹介した、倫理学者であり心理学者でもあるジョシュア・グリーンは、分岐線問題や歩道橋問題にその他の様々なバリエーションのトロッコ問題を被験者たちに投げかけて回答させる、という実験を行なった。すると、分岐線問題ではレバーを押すという判断をした人が多かったのに対して、歩道橋問題では太った男を突き落とさないという判断をした人の方が多かったのである。

「五人の命を救うためであれば、一人の命を犠牲にすることは認められる」という考え方は、「最大多数の最大幸福」を重視して、「意図」よりも「結果」を優先する、功利主義の主張と共通している。グリーンは著書『モラル・トライブズ』のなかで、どんな文化圏に所属している人であっても、道徳問題について感情ではなく理性に基づいてじっくり考えた場合には、大半の人が功利主義的な判断を選択することを示した。その一方で、感情としては、五人の命を救うためであっても一人の命を犠牲にすることを選択するのは難しい。そして、思考に基づいた判断を下すことに対する感情の抵抗は、分岐線問題よりも歩道橋問題においての方が強くなる。そのため、分岐線問題では五人を救うという選択をできた人であっても、歩道橋問題では太った男の命を犠牲にすることができなかったのだ。

研究の結果、グリーンは、太った男を歩道橋から突き落とすという選択に対して生じる嫌悪感は二つの要素から構成されていることを突き止めた。ひとつめは、「密着効果」だ。自分の筋肉を使って他人に直接的に危害を与えるという行為は、それが想像上のものであっても、わたしたちを尻込みさせる。ふたつめは、「危害を加える意図」の有無である。生じる結果が同じであっても、「われわれは、望ましい結果を実現する手段として誰かを故意に傷つけるよりも、うっかり傷つけてしまうほうがましだと思っている」(エドモンズ、p.206)。つまり、二重結果論とは高邁なカトリックの神学が独自に発見したこの世の真理などではなく、わたしたちの大半が自然に持っている感情に理屈を与えて正当化したものだといえるのだ。カトリックであろうとなかろうと、わたしたちは「意図される結果」は重要であると感じて、それに比べると「予見される結果」は重要でないように感じてしまうのである。

歩道橋問題では「密着効果」と「危害を加える意図」の両方が満たされるために、嫌悪感という感情が理性を上回る。分岐線問題にはどちらもないために、多くの人が理性的な判断を下すことができる。そこで、グリーンは歩道橋問題から密着効果だけを取り除いた「落とし戸」問題を考案して、被験者に答えさせてみたのである。

落とし戸のシナリオでは、暴走する路面電車が五人のほうに向かっている。電車を止めるには、スイッチ(分岐線のシナリオに出てくるものとよく似ている)を引いて、太った男が載っている落とし戸を開くしかない。太った男は地面に落ちて死ぬが、死体が路面電車を止める。きわめて決議論的に考える弁護士なら、スイッチによる殺人と突き落とす殺人のあいだに有意義な道徳的違いを見いだせないかもしれない。だが、被験者がトロリー問題についてたずねられると、手ではなくスイッチを使う場合のほうが、太った男を死に追いやるのを厭わない傾向が強い。とはいえ、スイッチを引こうが突き落とそうが、依然として大半の人が、分岐線のシナリオで路面電車の方向を変えるよりも太った男を殺すほうが悪いと考えている。(エドモンズ、p.205-206)

「スイッチによる殺人と突き落とす殺人のあいだに有意な道徳的違いを見いだせない」というエドモンズの指摘は重要だ。「密着効果」や「危害を加える意図」が重大に感じられるのは判断を下す本人にとってだけであり、太った男の立場からしても線路の先に縛られている五人の立場からしても、そんなあやふやな感情で自分の生死が左右されてほしくないと思うはずであろう。

理性に基づいた判断が正しいとは限らないし、感情に基づいた判断にも正当性があるはずだ、と反論する人もいるかもしれない。しかし、グリーンは「進化論的暴露論証」と呼ばれる論法を行うことで、感情よりも理性に基づいた判断を下すことの優位性を説いているのだ。

オートモードの感情とマニュアルモードの理性

グリーンによると、「密着効果」や「危害を加える意図」によってわたしたちに引き起こさせられる嫌悪感や、ひいては道徳的な問題に関してわたしたちが抱く感情の全般は、わたしたちの祖先が社会的な環境に適応するために進化したことによって身に付けたものである。

当然のことながら、自分の筋肉を使って他人に危害を加えることは 、トラブルの火種となり自分に不利益をもたらす可能性が高い。危害を加えた他人に反撃されたり、その場面を目撃していた他の人たちからの評判が悪くなったりするかもしれない。そのため、わたしたちは「密着効果」に嫌悪感を抱くことで、そのようなトラブルを起こさないように自分を無意識に押さえつけているのだ。

「危害を加える意図」に嫌悪感を抱くのは、行為に二重結果が発生するような状況は特殊な例外であり、通常の状況で行われる行為では「意図された結果」しか発生しないことに由来しているだろう。通常の状況であれば、他人に危害を加えることを意図した行為は、他人に危害を生じさせるということ以外の結果を生まず、ろくなことにならない。そのため、「危害を加える意図」に嫌悪感を抱くことで、他人に危害を与えるような行為をしてしまわないように自分をセーブする機能が、わたしたちには備わっているのである。

つまり、道徳感情とは、自分と他人の間や自分と集団との間でトラブルが発生するリスクを予防するための、オートモードの安全装置として進化してきたものだ。そして、通常の社会的な環境であれば、大概の場合では道徳感情に従うことは正しい。自分の筋肉を使って他人に対して意図的に危害を加えることで、より多くの人々を助ける結果をもたらすことができる、ということは、ごく特殊な状況でしか成立しないためだ。

しかし、トロッコ問題を考える際には、そんな特殊な状況に直面することになる。そして、道徳感情が「通常の状況」に対応するために進化したものであるとしたら、「特殊な状況」では道徳感情に従うべきではない。必要なのは、理性に基づいて考えることである。感情がオートモードの機能であるのに対して、理性は複雑で特殊な状況に対応するために進化してきたマニュアルモードの機能であるからだ。

ただし、理性は、オートモードの選択に理屈を与えて正当化することにも使えてしまう。たとえば、「密着効果」に対する嫌悪感や「危害を加える意図」への嫌悪感から太った男を突き落とさずに五人の命が奪われる結果を容認したことについて、「権利の侵害になるから突き落とさなかった」などの理由を後付けして、感情的な選択を理性的な選択であるかのように装ってしまうこともできるのだ。ただの感情的な選択であれば「もしかしたら、あの選択は間違っていたかもしれない」と後から反省することもできるかもしれないが、「あの選択をしたことにはこんな理由があったのだから、正しかったのだ」と正当化されてしまった選択について反省することは困難であるだろう。

この問題への対処法について、グリーンはインタビュー記事のなかで以下のように答えている。

インタビュアー:自分は感情の正当化をしているのではなくて、道徳的な推論を正しく行っているのだ、ということを判断するためにはどうすればいいでしょうか?

グリーン:判断する方法の一つとして、感情や身体的な反応としては気に食わない結論を自分自身が真剣に受け入れられているかどうかを確認する、ということがあります。自分は自身の身体的な反応と闘うことができているか?ということを確認するのです。もし自分が身体的な反応と闘うことができているのなら、そのことは、自分は感情を合理化しているのではなく実際に真剣に考えることができているのだ、ということを明白に示しているでしょう。

(https://www.theatlantic.com/science/archive/2016/02/how-do-emotions-sway-moral-thinking/460014/)

上述してきたように、グリーンはトロッコ問題を用いた研究をすすめることによって、道徳感情の限界と、理性を用いて考えることの必要性を発見した。この発見を土台としながら、『モラル・トライブズ』では他の倫理学理論に対する功利主義の優位性を主張する議論が展開されることになる。

市井の人々にとっても意義がある

とはいえ、トロッコ問題を用いて研究を行う方法は、グリーンのものに限られない。

たとえば、倫理学者のフランシス・カムは「一人のうしろの六人」「回転盤」「トラクターの男」「転落」「線路道具」などなど、トロッコ問題のバリエーションを数多く生み出している(各問題におけるシチュエーションの詳細については、ここでは書き切れないので、カム本人の著作や『太った男を殺しますか?』を参照していただきたい)。そのうえで、それぞれの問題について「この問題では、五人を救うべきだ」「この問題では、一人を犠牲にすることは許されない」などと答えていくことによって、わたしたちが道徳について抱いている直観はなんたるものであるか、わたしたちが道徳について考える際に掲げるべき原理とはいかなるものであるべきか、ということをカムは論じているのである。

そして、トロッコ問題が意味を持つのは倫理学の研究者にとってだけではない。研究を行わない市井の人々にとっても、トロッコ問題について考えることには重大な意義があるのだ 。

フットがトロッコ問題を考案した当初の目的は、「二重結果」について論じるためであったかもしれない。だが、現在ここまで多くの哲学者たちがトロッコ問題を論じていて、メディアやフィクションでもトロッコ問題が取り上げられて人々の関心を惹いている理由は、トロッコ問題には「一人の命を守るか、五人の命を救うか」というトレードオフのジレンマが含まれていることの方にあるだろう。

トレードオフのジレンマは、現代社会に存在する様々な問題に通底している。たとえば、エドモンズは以下のように書いている。

全員を救えないこともある。政治家は生死を分ける決定をしなければならない。医療当局者もそうだ。医療資源にはかぎりがある。X人の命を救うと思われる薬に資金提供するか、Y人の命を救う別の薬に資金提供するかの選択を迫られるとき、その医療団体は──誰かを殺すことにかかわるジレンマではないとはいえ──事実上ある種のトロリー問題に直面しているのだ。(エドモンズ、p.23)

また、『太った男を殺しますか?』の第一章では「チャーチルのジレンマ」と呼ばれる事例が描かれている 。第二次世界大戦時、ロンドンの中心部を狙ってドイツ軍が放ったV1飛行爆弾は、実際には中心部ではなく、南部にある労働者階級の居住地に落下していた。イギリスの首相のウィンストン・チャーチルは、二重スパイを活用して偽情報を流すことで、「V1は中心部に命中し続けている」とドイツ軍に信じさせる、という決断を下したのである。これにより、中心部に暮らす多数の人々の命は守られることになった。しかし、爆弾が南部に落下し続けることで、そこに暮らす少数の人々の命は奪われたのである。

市井の人々の大半は、医療当局者や政治家が直面するようなジレンマとは無縁に生きるかもしれない。しかし、民主主義の国では、市民は政治と無縁ではない。戦時のリーダーにどんな政治家をすえるかという選択についても、「医療資源をどのように分配するか」という政策決定についても、選挙で投票したり政治活動をしたりすることで、市民は関与することができるのだ。

経済政策は人々の生死を直接的に左右する、ということが指摘されるようになって久しい。さらに、コロナ禍の昨今では、経済と公衆衛生とのトレードオフの問題がしきりに論じられている。

そして、民主主義システムにおいては、「投票しない」「議論に関わらない」という消極的な判断ですら、「多数派の判断に従う」「現状維持を肯定する」という結果につながる。民主主義社会に生きるわたしたちは、政策の決定に関する責任から逃れることはできないのだ。

だからこそ、わたしたちはトロッコ問題について考えなければならないのである。

トロッコ問題に対する批判の背景

とはいえ、サンデル教授が話題になった2010年頃から、トロッコ問題に対して批判を行う人たちも増えるようになった。

トロッコ問題に対する批判のなかでも典型的なものは、「なぜ、一人の命を守るか五人を救うかの選択が強制されているのだ? それ以外の方法で事態を解決するという選択は、なぜ存在しないのだ?」という批判である。

たしかに、分岐線問題にせよ歩道橋問題にせよ、その状況があまりに不自然であることは否めない。現実にそんな場面に出くわした場合には、急いで五人のもとに駆けつけて線路から解放することができるかもしれない。線路を破壊することで、トロッコを止められる可能性もあるだろう。あるいは、太った男を突き落としたところでトロッコを止められるという確信は持てないかもしれない。

なにより、たまたま線路の近くに居合わせた一般人である自分が、一人の命か五人の命かという選択を強制させられる、ということ自体が理不尽ではある。そのため、トロッコ問題に対する批判者たちは「それよりも、暴走するようなトロッコを作った設計者や、線路に安全装置を設けなかった管理会社、ひいてはそれを放置していた社会など、トロッコ問題が起こるような状況を生み出した者の責任を問う方が重要だ」と主張するのだ。

実は、かくいうわたしも、大学院の授業でトロッコ問題について議論する時間があったときに、上記のような主張を行うことで回答を回避していた。大学生の頃のわたしは左派の論客たちの本やブログを熱心に読み込んでいたために、授業に参加する前から、「トロッコ問題に対して左翼ならどう答えるか」ということを「予習」していたのだ。

左派は権力を批判することを好む一方で、権力を持たない個人の責任を追及することは嫌う。そのため、トロッコ問題を投げかけられたときには、「問題ある状況を産み出した権力者や、社会の責任を問え」という種類の答えを行うことが彼らのあいだでは定番となっているのである。

しかし、問題の前提を否定することで回答を回避しようとすることは、思考実験に向き合う態度としてはあまりに不適切だ。

哲学者の森村進は、著書『幸福とは何か』にてトロッコ問題とは異なる思考実験について数多く紹介した後に、下記のように書いている。

 幸福とは何かを考えるにあたって、私は本書でさまざまの思考実験を利用してきましたが、その中には非現実的な例も少なくありませんでした。この方法は現代の哲学、特に分析哲学と呼ばれている著作の中ではごくありふれたものです。しかし世の中にはそれに反発する人も少なくありません。彼らは「そんな事態は実際には発生しない」とか「その例においては〈これこれしかじか〉と前提されているが、〈これこれしかじか〉ということが当事者にどうして確信できるのか?」などと言って、思考実験に向かい合おうとしません。思考実験は地に足のついた思考の敵だ、と彼らは信じているのでしょう。

たいていの場合、このような批判は的外れです。思考実験は現実に起きそうな事例の「予行演習」として意図されているのではありません。それは現実の状況を複雑化させ明快な回答を難しくしているさまざまの要素をあえて捨象することによって、われわれが持っている直観・信念を明確に意識させるために役立つ道具として提出されているのです。特に、広く受容されている見解を検討するためにはこの方法がしばしば欠かせません。

……(中略)……思考実験をしない人は、自分の見解にとって都合が悪い判断と向き合おうとしないため思考が独善的になりがちです。(森村、p.216-217)

左派の人々がトロッコ問題を批判する背景には、「一人の命か五人の命か、という人命のトレードオフは、現実の場合には擬似問題としてしか提示されない」という考え方が存在する。

たとえば、「医療や福祉に対してかけられる費用は限られているから、その費用を誰にどうやって分配するか考えなければならない」と政治家が提言したとしても、実際には、富裕層に対する徴税を増やしたり産業振興にかける費用を減らしたりすることで、医療や福祉にかけられる費用を増やすことができるかもしれない。

政治家が「人命のトレードオフ」を口にするときには、前提となる条件があらかじめ設定されていて、「トレードオフを行わずに、問題を解決する」という選択肢が意図的に排除されているおそれがある。だとすれば、「人命のトレードオフ」という問題設定を受け入れて、選択を行うこと自体が間違っている。政治家の提言に誘導されるべきではない。それと同じように、トロッコ問題の設定も受け入れるべきではないのだ。……トロッコ問題批判者の多くは、こんな考え方をしているようだ。

この考え方は、「パイの切り分け方を考えるのではなく、パイを大きくする方法を考えよ」というスローガンで表現することもできるだろう。

たしかに、医療や福祉に関する具体的な政策について考える場合には、「パイを大きくする方法」について考えることを怠るべきではない。また、保守的な政治家や弱者に対して冷淡な政治家が、医療や福祉にかける予算を減らしたいという思惑を持ちながら「パイの切り分け方」について論じようとする、という事例が実際に起こっていることも、否定できないだろう。

しかし、パイをどこまで大きくしたところで、限りは必ず存在する。いくらパイが大きくなったところで、どこかの時点でそのパイを切り分けなければいけないことは変わらないのだ。

トロッコ問題は架空の思考実験であるとはいえ、それが問いかけるようなトレードオフのジレンマは、現実の世界で発生しているのである。『太った男を殺しますか?』の冒頭の文章を引用しよう。

幸い、こうした不慮の死はほとんどは架空の話だ。とはいえ、これらの思考実験の目的は、われわれの道徳的直観をテストし、道徳原理の確立を手助けし、それによって世界──そこでは現実の選択をせざるをえないし、現実の人間が傷ついている──に実益をもたらすことにある。(エドモンズ、p.5)

トレードオフのジレンマからは逃れられない

また、トロッコ問題はその不謹慎さが批判されることもある。

「歩道橋」問題で突き落とされる男が太っている理由は「問題に回答している本人は痩せているので線路に落ちてもトロッコを止めることはできないが、太った男の体であればトロッコを止めることができる」という設定にすることで、「自分が飛び降りる」という選択肢をあらかじめ排除することにある。しかし、いくら理由のある設定だとはいえ、体型差別の誹りを免れることは難しい。そのため、近年では「バッグを背負った男」に設定が変更されることも多いようだ。

カムやグリーンが行ったような、手を替え品を替え五人の命や一人の命を危険にさらす様々なシチュエーションを考案しては自分で回答したり他人に回答させたりする、という行為そのものに対して、「人間の命や尊厳を軽んじた行為なのではないか」という不快感を抱く人もいることだろう。

だが、感情に理屈を付けて正当化することの危険性についてグリーンが言及していたことを思い出してほしい。トロッコ問題に対して投げかけられる批判の大半は、トロッコ問題に対して抱く嫌悪感に理屈を与えて正当化したものに過ぎないのではないか、とわたしは疑っている。

トロッコ問題を投げかけられたとき、大半の人は、当初は「五人を救うためであっても、一人を犠牲にすることは許されない」と感じても、じっくり考えていくうちに「一人を犠牲にしてでも、五人を救うことの方が大切だ」と結論を改めることになる。しかし、自分の感情を抑えて理性を用いるというこのプロセス自体に、しんどさや不快感が伴うものだ。思想としての功利主義に対して批判的見解を抱いている人であれば、なおさら、このプロセスを経験したくないはずである。そのため、彼らはトロッコ問題そのものを否定することで、回答を回避しようとするのだ。

しかし、トロッコ問題をいくら否定したところで、トレードオフのジレンマが世界から無くなるわけではない。「パイを大きくせよ」と唱える人も必要かもしれないが、パイの切り分け方を考える人も必要だ。だからこそ、わたしたちはトロッコ問題について考えなければいけないのである。

 

参考文献:

デイヴィッド・エドモンズ(著)、鬼澤忍(訳)『太った男を殺しますか?:「トロリー問題」が教えてくれること』、2016、太田出版。
ジョシュア・グリーン(著)、竹田円(訳)『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』(上下巻)、2015、岩波書店。
森村進『幸福とは何か:思考実験で学ぶ倫理学入門』、2018、筑摩書房。

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記