第1回 アートとデザインの話を同時に始める。 

2015年からはじまった佐藤直樹さんの連載「絵画の入門」は、絵画とはなにか、そもそもなぜ人は描くのかを、根源的に問うものでした。あらたな連載では、いったんそこを離れ、自身が職業としてきたデザイン、それからアートというものについて、様々な角度から見直してみます。これらの言葉が曖昧なまま使われているのはなぜなのか。またそうでありながらどのように厳然とした線引きは存在しているのか。絵が好きだった少年がかつて胸に抱いた疑問に、大人となった今あらためて向き合う……この二つの連載は2017年春に単行本になります。

 

アートとデザインのわからなさ

昨今「アート」という言葉をよく聞くようになった気がします。意味は使っている人それぞれ、わりとバラバラみたいですが。同じく「デザイン」にもそういうところがあるようで、それぞれが思うところに従って使っているように思えます。ことさら意味の摺り合わせをするでもなく、何となく相づちを打ったり首を傾げたりしながら、多くの人が様々な文脈に引きずり込まれている感じでしょうか。

以前ならばそれぞれの専門家に解説してもらって「なるほどそういうものか」と納得していた気もするのですが(いやそれも気のせいだったのかもしれないのですが)、ここ数年でかなり様子が変わってきたように思うのです。アートに関して言えば、インターネットを通して世界的なフェアやマーケットの話題に触れる機会ができたり、国内でも各地で芸術祭が開かれるようになったり、という事情もあるでしょう。デザインにしても、やはりインターネットの一般化に伴って身近な言葉になった面がありますし、デザイン価値を前面に押し出したサービスやプロダクトなどの増加といったことも背景にあると思います。昨年はオリンピックのエンブレム問題もありました(それももう遥か遠い昔の出来事のようではありますが)。

それぞれの業界には一家言ある方も数多おられることと思います。「おまえもそうじゃないのか」と言われてしまうかもしれません。しかし、坂口安吾さんがかつて『一家言を排す』という短文を書いておりましたけれど、それによりますと「人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させる」のが一家言だそうです。私としては、こんなところにこんなことを書いても一向に「人柄とか社会的地位の優位」を保つことはできません。むしろ危うくなるのが関の山です。ではいったいどういった理由から私はこのような文章を書いているのでしょうか。

じつのところ、アートやデザインについて、とにかくモヤモヤする、何となく腑に落ちない、そういう人は多いと思うのです。私もその一人で、これらの言葉が現在どのような文脈の中で揺れ動いているのかという点に関して、もうちょっと突っ込んだ、本質的なところで理解したいと素朴に思います。しかし、それぞれの専門家は、一番大事なところの「わからなさ」をなかなか共有してくれません。専門家というのはそもそもそういうものなのかもしれませんが。自らの存立基盤を危うくしてまで足下を堀り返そうとする人間など滅多にいるものではないでしょうから。

じつは私にとって、この問題はずっと感じてきたことなのです。そしていまだにスッキリしません。最初に感じたのは十五歳か十六歳くらいだったでしょうか。かれこれ四十年近くになります。その頃「そっちの世界」に進むにはどうしたらいいのかと考えた時、道はいくつかの枝に分かれていることを知りました。ところがそれぞれの道に進んだ人はその進んだ道筋からの説明しかしてくれません。そもそも油絵は〜とかグラフィックデザインというものは〜とか。それらの説明があまりにも腑に落ちなさ過ぎて、私は「そっちの世界」に進むこと自体をいったん止めたのでした。もっと具体的に書くと、美術大学には行かないことにしたのでした。

もしも「そっちの世界」に進むことが運命ならば、いずれ必ず吸い寄せられるように向かうことだろう。しかし今がその時でないなら悩まないことにしよう。それがその時の感覚でした。

ごちゃごちゃのまま

止めてどうしたかの話は、この先に必要になればあらためてしますが、とりあえず今は置きます。結局、それから十年くらい経って、最初に吸い寄せられて向かったのは、赤瀬川原平さんの活動などで知られた美学校という私塾でした。一九八六年、二十五歳の時です。美学校はアートもデザインもごちゃごちゃのまま渾然一体となっている場所に見えました。逆に言えば、そのように思えた唯一の場所が美学校だったということです。日本のグラフィックデザインを考える上で非常に重要な人物であると思われた木村恒久さんも一九七九年まで講師をしていました(私が通うようになった頃には、デザインに類するような授業は開講されていなかったのですが)。赤瀬川さんの「考現学」もすでに募集を終了しており、菊畑茂久馬さんの絵画教場に在籍しながら、版画など他コースのカリキュラムにも顔を出させてもらっていたのでした。

美学校でのエピソードはたくさんあってどれも面白いのですが、中でも印象的だったことがあります。有名なイラストレーターなども輩出していたのでそういった問い合わせがあったのですけれど、「そんなコースはありません」「そんなものは教えていません」「ただ勝手になっただけですよ」などと校長自らが電話を切っていたのを目撃したのです。それでものすごく貧乏そうだった。バブル真っ盛りの時代にです。これはちょっと凄いな、と思ったのでした。

と、ここまで引っ張っておいて何ですが、アートとデザインの話を同時にするのは率直に言って無理です。それは最初から誰しも思うことでしょう。しかし、どう無理なのか、どれくらい無理なのか、そこのところを考え続けていると、様々な問題がどんどん引きずり出されてきて、わかっていたつもりのことまでがわからなくなっていき、それこそが考えるということであると気づきます。真に重要な話というのはその先にこそ控えていると思うのです。

アートやデザインの本質は間違いなく言葉を超越したところにあります。私自身、その確信が揺らいだことはありません。しかし、言葉で表せないから一切口にしないというわけにもいきません。また、口にしようがしまいが、言葉を介在させなければ不可能な選択も日々重ねているものです。ということは、あまり言葉を疎かにしているとどこかで重要な選択を誤る、とも言えるんじゃないでしょうか。口ばっかりという人間が多いことも確かですが、言葉を疎かにしているという意味ではそれも同じことだろうと思うのです。プレゼンテーションが上手だとか下手だとかいった話もあまり本質的なことではないと思います。

アートにしろデザインにしろ、価値観の変化それ自体に直に触れようとしているところがありますから、過去のものではない現在進行形のそれに関して言えば、うまく説明できなくて当然ではあるのですが、そこに追いすがろうとすることも、言葉の性(さが)としてあるに違いないのです。批評家と呼ばれる人はそれを専門家としてやっているのでしょうが、それを専門家ではない立場でできないものか。これは案外と大きい問題かもしれません。

正直なところ、私自身、アートやデザインについて語るのは苦手です。しかし、これから本格的に取り組みたいことへと向かうにはどうしてもこれらの言葉と関係してしまうので、それが逃れられないことならば、この機会にきちんと向き合っておこうと考えたわけです。最初に吸い寄せられて向かったのは美学校でしたが、明確な答えは得られないままデザインの仕事に突入しました。さらに三十年ほどが経ちましたが、吸い寄せられる力の源泉を自覚するに至ったのはつい最近のことです。私はようやくここから「そっちの世界」に踏み込んで行くのだと思っています。

たとえば「描く」とはどういうことか

私が「これから本格的に取り組みたいこと」として考えているのは、端的に言うと「描くこと」です。「だったら描けばいいじゃないか」と思われる方もいるでしょう。いやもちろん描いてはいます。描き続けてさえいれば必ず次に描くべきことが現れてもきますから、それをただ続けていればいいだけだろうという考え方もあると思います。しかし、やはりそれだとどうしても不十分なのです。

「描くこと」は本能に近いところから発せられる命令に従うことだと感じることも多々あります。が、それにしては社会性が色濃く出る行為です。人間以外は「描くこと」をしません。それを言ったら「歌うこと」だって「踊ること」だって人間に特有だよと言う人もいるでしょう。しかし、それに近い行為は他の動物からも見て取れます。「生きている」という、その喜びの様が、より直接的に現れるので、人間と他の動物に貫通する生き物としての本能の震えが伝わってきます。では「描くこと」の本能とはどのような本能なのか。またもし本能でないなら、なぜこんなことを何万年も続けているのか。

たとえば、美術史において抽象画が登場するのは二十世紀に入ってから、カンディンスキーやモンドリアンがその創始者であると言われます。それらは本能の赴くままに描かれたというよりも、非常に社会性の強い運動の中から生み出された様式性を待つ図像と言えます。

ではカンディンスキーやモンドリアンの行為は最初からアートだったのでしょうか。それともむしろデザインに近かったと考えるべきなのでしょうか。そう簡単に答えの出る問いではないと思いますが、ロシア革命後の政治委員でもあったカンディンスキーはその後バウハウスの教官になっています。バウハウスと言えば美術史よりもむしろデザイン史に位置づけられる学校です。またモンドリアンの存在を無視してデザイン史を紐解くことも困難です。

「描くこと」はアートとデザインの両方に股がった行為だと思うのです。一本の線を引くという行為は極めて社会的です。それは世界を分割することに繋がっています。そこから逃れようと思えばまた別の線を引くしかありません。より自由な線を。しかしそれはどのような線なのか。あるいはまたどのような意味で自由なのか。線というものの存在をまだ誰も知らなかった世界に戻ることはできません。一本の線の可能性を探ろうとする時、アートもデザインも便宜的な言葉に思えてきます。「国境のない世界を想像する」というようなことを言っても、現状アートもデザインもそれに対して無力どころかむしろ境界線の存在感を強めるような働きをしてることの方が多い。それが現実でしょう。

デザインと経済

現状、アートとデザインの違いを説明するには経済の話が最もわかりやすいと思います。アートの方が少しややこしいと思うので、先にデザインの説明をします。デザインは市場経済に導かれて発達しました。ですから基本的に産業革命以前には存在していません。いやそんなことはないと主張する人もいます。「デザインの源は石器時代から青銅器時代にかけて発達した記号や図像に見られる」「日本のデザインの源流は琳派にあり」などなど。しかし、私たちがよく知る多くのデザインの前提になっているものは近代化との関係の中で捉えないかぎり掴みようがありません。無闇に対象を広げてしまうと言語として意味をなさなくなります。意味をなさない言語を駆使するくらいなら無言の作業に徹した方がマシだと思いますが、しかし現在、言語的な理解をまったく拒否してデザインに向かうことも難しい。資本主義的な生産消費や需要供給のサイクルに合わせて伴走しながら発達してきたジャンルであることを今さら否定しても仕方ありませんし、特に戦後の日本のデザイン界は一種の市場原理主義に乗った流れの中で切磋琢磨してきたと言っても過言ではありません。その先で岐路に立たされているのがデザインの現在だろうと思うのです。

日本でデザインという言葉が定着するようになったのは高度経済成長期だと思われますが、とくに八〇年代以降、生産あっての消費ではなく、消費あっての生産にその関係が逆転するようになったところで、デザインが独立した価値を持つものとして称揚されるようになったと言っていいと思います。天下国家を語る政治の季節が過ぎ去り、資本の自由な流動性に身を委ねながら、流行をつくる場所にいることこそが先端的であるかのような世界観がこの時期一気に広がり浸透します。広告の場が表現の舞台となってクリエイターなる言葉も世に溢れていきました。後にバブル景気と呼ばれるようになる時期とも重なった出来事です。

イラストレーションという言葉が脚光を浴びるようになったのもこの時期です。それまで商業的に使用されることを目的にした絵は「さしえ」とか「カット」と呼ばれていました。「イラストかアートか」といった話をする人もいますが、イラストレーションはデザイン文脈の中で見なければ読み解けません。アート文脈に位置づけなければわからない絵画が存在することと同じです。両者は常にメディアの変化とともにあります。

「絵描きになりたい」「画家になりたい」の後に登場した「イラストレーターになりたい」という願望は相当新しいもので、ここ数十年の間に出来上がった道筋です。それが今後も存在する道筋であるかどうかまでは正直わかりません。存在するとしても変化すると思います。それはメディアあってのものです。そして現在のメディアが変化しないということはあり得ません。もっとも「絵描きになりたい」「画家になりたい」という観念もそれほど古くからあるわけではありません。絵を描くことに専念する者、職業的に絵を描く者は何百年も前から存在しますが、少なくとも私たちが容易に想像し得るようなそれとは相当違っています。現在のような観念が発生する遥か昔から人は絵を描いてきているわけなので、自分達の「自由な感性」とやらをあまり信用し過ぎない方がいいと思うのです。

プロダクトや空間、映像などの表現領域も、経済のサイクルに合わせて設計されている部分はデザインの範疇で考えるとわかりやすいと思います。デザインはデザインとしてのみ存在できるわけではないので、その深部には、近代以前から連綿と受け継がれている動機が埋め込まれたままになっているはずですが(デザインの話に「石器時代から青銅器時代にかけて発達した記号や図像」や「琳派」の話までを混ぜ込んで来る人がいるのもその意味で理由はあるのですが)、その話はまた後でします。

アートと国家

「アートの方が少しややこしい」と書いたのは、その出自が現在の市場経済や自由経済といったものよりずっと古いところにあるためです。つまり私たちの常識的な経済感覚(戦後日本人の経済生活くらいのスパン)で考えるかぎりそもそも説明がつかないものなのです。

私の記憶では、アートという言葉が多くの人々の口に登るようになったのは今世紀に入ってからです。それまでは揶揄の言葉として使われることの方が多かったんじゃないでしょうか。わけがわからなくなってしまったものを指して「まるでアートだね」というように。“Art”は基本的に西洋にしか存在しないものでしたし、「美術」「芸術」は「それだけでは食って行けないもの」の代名詞でもありました。明治以降、国策としての枠組みがつくられてきましたが、一般的な生活者の間に根付くところまではなかなか行かなかったと言うべきでしょう。画壇に大家が出現したり、西洋画の展覧会に人がたくさん集まったりしてもです。いやもちろん生活に根付いていたものもあったのです。しかしそれらは近代国家の側から「美術」「芸術」として認められはしませんでした。そんな狭間から民藝運動のようなものも起こっていますが、そうした流れも産業化の大きな波に晒され厳しい道を歩むことになりました。

その一方で、戦後に一新された「公共」の理念と共に創設された近代美術館は、高らかな「理想」を持つものであったと思います。日本で最初の公立美術館となった神奈川県立美術館の設立が一九五一年。その翌年に東京国立近代美術館も設立されます。しかしその翌年、テレビの放映が始まり、多くの人々はテレビの前に釘付けとなっていきました。このタイミングは日本のアートやデザインを語る上で非常に重要な点であるように思えるのですが、この話もそれ自体が一大テーマとなってしまうので、ここでは深入りしません。

六〇年代に生まれた私のイメージの中で、「美術」「芸術」はあまりに学校教育的に過ぎ、ストリート的な感覚と繋がっているのはテレビや漫画でした。「美術」「芸術」の存在は文科省(当時は文部省)管轄の国策の延長にしかなかったのです。映画がちょっと特別な位置を占めていたように思います。音楽や演劇は明らかに股がって分布していました。この時期、特別な階層の人間が享受してきた「芸術」とより広範な大衆性の獲得を目指す「芸能」とが強い確執を起こしていたのだと思います。そんな中から「反芸術」のような動きも生まれてきました。それは世界的な流れの中での反映でもあったと思います。

そんな中、七〇年に大阪で開かれた万国博覧会で、その対立軸が大きく揺らぎます。岡本太郎さんや横尾忠則さんといった、独特の雰囲気を発する人々が目の前に現れてきました。それは国策というにはあまりに自由な動きに見えましたし、市場原理主義的なものでもなく、文字通り見たことも聞いたこともないものだったのです。当時はわけもわからず興奮していただけですが、アートとデザインの両方を同時に感じ取っていたと思います。それはきわめて経済的に見えるものでありながら、その整合性がよくわからないものでもあったのです。そのことが新鮮で、永遠を謳う芸術作品が流行の顛末に見えるようになったのです。

ものすごく大雑把に分けるとするならば、デザインは経済の問題を先に考えますが、アートはそこを後回しにします。なぜ後回しにできるかというと国家的な制度介在の面が大きいからです。すぐには回収しなくてよいと考えられている。したがってゴミのような作品も大量に生み出されることになります。逆に回収までの道筋を問われ続けるのがデザインです。それなりの結果を出さなければすぐに交代させられる。しかし、それはあくまで現象的な問題であって、人の心の奥底でマグマのように煮えたぎっているものまでが、そのような表層の現象によって区分けされるわけではありません。また、逆に言えば、いかに核のような場所でマグマが煮えたぎっていても、表面上はまったく異なる様相を呈します。次回はこのあたりのことを考えてみたいと思います。