第2回 石鹼体験

精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。

自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。

「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。

明確な自殺の理由が分からない場合、さすがにそれだけでは自殺の動機にはなり得ないもののそうした事象が幾つも重なり、そこへ決定的というかむしろ象徴的とでも称すべき出来事が「駄目押し」のように起きて、遂に自殺の決行に至ったのではないか――そんなふうに考えたくなることがある。

井上靖が昭和二十六年に発表した「ある自殺未遂」という短篇があって、これが右に述べたような推測をそのまま小説に仕立てたような趣がある。まことに上手い作品なので、内容を紹介してみたい。

 

「私」は入水自殺を図った理由を上手く答えられない

 

語り手は「私」で、独り暮らしの貧乏画家である。官展の無鑑査会員ではあるものの、絵が売れたことなどない。そんな「私」が八月の終わりに川で入水自殺を図り、しかし未遂のまま助けられる場面から物語は始まる。

 医師の診察を受けた後、「私」は自室として借り受けている某邸宅の離れへと運び込まれる。巡査が現れ、「一体どうして死ぬ気になんてなったんです」と質問する。だが自分のことであるにもかかわらず、「私」は上手く答えられない。「ふと、死にたくなったんですね」と言ってみるも、納得してもらえない。

では、魔が差したということか。

 

……確かに魔が差したと言えばそう言えない事もなかった。しかし、それにしても不意に死にたくなったというような、そんな神秘的な何ものかの死の強要でも、死の翳(かげ)の瞬間の横切りでもない。川幅百メートル程の流れの縁に私は屈んで、ゆらゆらと川面に揺れている自分の影を見詰めながら、両手を水に浸した時、死への飛込台が突然ではあるが、極めて明確な感じで私の前に押し出されてきたのである。

 

もちろんこんな抽象的な説明では何が何だか分からない。そこで自殺を図った日の前日からの出来事を、「私」はゆっくりと回想してみせる。

 

「私」は一枚の葉書でその日の意欲を削がれてしまう

 

まず前日の朝。珍しく早起きした「私」は、自分用の郵便受けに入っていた葉書を見つける。おそらく昨日配達されたものを見落としていたのだろう。極東美術社という二流出版社からの葉書で、地方青年向きの「絵の描き方」という講義録ふうパンフレットがそこから出版予定になっており、「私」はそれの分担執筆者となっていた。さて葉書の文面は、企画が変更になったので講義録の原稿は書かないでくれと、それだけがボールペンで認められていた。

なるほど用件は伝わるけれど、企画が変更になったとはどのようなことなのか。講義録の出版そのものが中止となったのか、「私」が執筆予定の部分だけが他の誰かと差し替えになったのか。そういった経緯は述べずに、向こうから依頼しておいた執筆を、藪から棒に葉書一枚で断ってくるのはいくら何でも礼儀を欠くだろう。

腹は立つが、稚拙な文面や下手くそな文字からは、おそらく給仕あたりが書いたのではないかと推測される。失礼な文面も無教養ゆえではないのか。そう考えると、怒りよりはむしろやり切れなさが感じられてくる。こんなつまらぬ文筆仕事で絵の制作時間を奪われるよりは、断られてよほど幸運だったと「私」は自分自身に言い聞かせて心の動揺を鎮めようとする。無理にでもそうしなければ、気が収まらない。でも朝からこんなことがあったせいで、その日の仕事の意欲はすっかり削がれてしまった。

 

「私」は六時になっても七時になっても待っていた

 

生活費を得るために、「私」はS中学校で週に四時間ばかり美術の講師をしていた。そうした関係で、その日、S中学の教師三名を夕食に招くことになっていた。そこで、昼間は無為に過ごしてしまったけれども日が傾きかけた頃になると、市場に出掛けてビールや安ウイスキー、トマトや鰯の缶詰やピーナッツやスルメを調達した。いそいそと室内を片付け、窓硝子を拭き、書棚の上の花瓶に二、三輪の花を飾り、大家から借りた白い卓布を小さい食卓の上に掛け、これまた大家から借りた夏向きの硝子の皿に調達した食べ物を載せた。夜には適当な時刻に鮨屋が握り鮨を届ける手配もした。寂しい懐具合なりに、心づくしの用意を調えたのである。

だが――

三人の客は、夜になっても姿を見せなかった。六時になっても七時になっても現れない。「私は何回もビールをひやしてあるバケツの水を換え、その度に門の外まで出掛けて行ってみた」。大家の細君までが心配して「ほんとうに遅うございますのね。どうかなさったんじゃあないですか」などと言ってくれる。「私」としてはそんなふうに心配されると、かえって惨めな気持になってしまう。

なぜ三人は来ないのか。ひょっとしたら日付を間違えたのか。だが三人の同僚と日を決めたとき、間違えてはいけないと「私」は十分に用心して手帳に日にちを書き入れ、彼らも同じようにしたのである。となれば、彼らが揃いも揃って来ないのは、勘違いではない。もしかしたら遠回しの悪意の発露ではないのか。彼らはわたしを嫌っているのではないのか。仮に火急の用件が出来したとしても、何らかの連絡をして然るべきではないのか。

どこか残酷さに近いものを感じずにはいられない。九時近くになって鮨屋が握り鮨を配達してきたが、もちろん三人は来ていない。コップは伏せられたままだ。夏の終わりの夜は、既に秋の気配を漂わせている。

 

何事か起こりつつあると私は思っていた。私は失意のどん底にある人間のように、無気力に十二時近くまで縁側に坐っていて、十二時を過ぎてから、私は自分の分の鮨の切れを口に運んだ。しかし、と言って、私は必ずしも客たちの不参に落胆しているわけではなかった。来なければ来ないでいいではないかと思った。口のうるさい連中に、ご馳走の程度を蔭口される心配もなかったし、この貧相な暮しの有様を、六つの底意地の悪い眼に見て取られることもなかった。先方は何か自分たちの勝手な理由でやって来なかったのである。私は私として自分の一応の義務は果たした以上、彼らを日を改めてもう一度招び直すというようなことは必要ないわけであった。

 

一所懸命に「私」は理屈を以て自分を説得している。けれども、「何事か起こりつつある」という得体の知れぬ不快さだけは拭いきれない。結局「私」は、独りでビールの栓を開け、料理をつまんで寝てしまった。

 

「私」は腐れ縁の女性のアパートに出向いてみた

 

翌日になると、「私は、昨日の無駄になった御馳走を一人で平げ切れないので、それを重箱に詰めて、ビールを二本風呂敷に包んで美沙のアパートに出掛けた」。美沙は画学生時代から関係が続いており、もはや恋愛関係は形骸化してしまったものの、腐れ縁というか惰性で付き合っている女性であった。そんな関係性でも未練はある。電車に乗って彼女のところへ出向いたのは、前日の二つの不快なエピソードを忘れ去りたい気持もあったのだろう。

ところがアパートはもぬけの殻であった。

引っ越し先を誰にも告げず、昨夜のうちに美沙は部屋を引き払ってしまったという。そして今はまだ午前中である。アパートの隣人達が出てきて、「私」はさながら間抜けな見せ物となってしまった。四日前に美沙と会ったときには、「夏には一度ぐらい涼しいところへ避暑でもしたいわね。同じ人間と生まれて来たからには」などと言っていたが、そんなことを言いつつ彼女は引っ越しの腹積もりしっかりと決めていたに違いなかった。

 

しかし美沙に去られてみて、私は別段唐突な感じもなければ裏切られた感じもなかった。いつ美沙が私の許から去って行っても少しも不自然でない状態が、私たち二人の間には十年も前から出来上がっていたのである。彼女が今までよくもこの私に愛想を尽かさないでついて来たということの方が、考えてみれば余程不思議な話であった。私は彼女に何ものも与えていなかった。私は絶えず貧乏であり、無名であった。無名でもいいが、と言って、芸術家としてせめて自分だけでも誇れるような一枚の作品さえも描いていなかった。私は金も名声も才能もそしてまた誇りさえ持っていなかったのである。

 

慰めてもらいたいくらいの気持で美沙のところへ出向いたら、逆にシビアな現実を突きつけられてしまったのであった。加えて、アパートの内儀連にまで哀れまれる始末である。かなりの精神的なボディー・ブローとなったのは間違いない。

自分の部屋に戻った「私」は持ち帰った重箱の中身を食べ、昼間からビールを飲んでそのまま眠りに落ちてしまう。

 

「私」は美術商への訪問すべてを不手際だと感じていた

 

目が覚めたのは、午後三時であった。「私は今日の午後美術商の山根商会に招かれていたことを思い出した。午後二時頃訪問するという約束になっていたので、約束の時間は既に過ぎているが、訪問先が山根商会のことであるから、たとえ遅れても訪ねて行ったほうがいいだろうと思った」。なぜ山根商会をすっぽかすわけにはいかないと「私」は思っているのか。山根商会の山根弥蔵は日本の美術界のパトロン的なところがあり、隠然たる勢力を持ち合わせていたからである。さすがにそんな人物を、絵描きの端くれとして無視するわけにはいくまい(芸術家としての誇りさえ持っていない自分である筈なのに、そうした如才なさは発揮するわけである)。

では、どうして「私」ごとき泡沫洋画家が山根弥蔵から呼び出されることになったのか。ことさら才能を見出されてといった話ではないらしい。五月に「私」は個展を開いて甚だ不評だったのであるが、その際に、中国の古い出土品を描いた静物画を何枚か出品した。山根は油絵については商売と割り切り、でも中国の古い出土品には異様な関心を持ち、その熱心なコレクターでもあった。そんな次第で、山根の番頭が、「是非貴方に見て戴きたいものがあるんです。お食事でも差し上げながら、いろいろ中国の古いものについてのお話も承りたいものだと主人が言っております」と言いに来た。どうやら山根は「私」を中国の古い工芸品のエキスパートと間違えているらしかったのである。

したがって山根と会食をしても彼を失望させるだけだろう。だが美術界のパトロンに会うチャンスを逃すのも勿体ない。そんな葛藤から、「私」は無意識のうちに遅刻ということになってしまったのかもしれない。

それなりにネクタイまで締めて「私」は出掛けた。山根の家は洋風建築の豪邸である。出てきた女中に名刺を渡し、五分程待たされて、「私」は三十畳ぶんくらいはありそうな洋間に案内された。ごちゃごちゃと古美術が置かれ、一瞬、倉庫ではないかと思ったものの立派な応接セットが置かれている。そこで「私」は三十分待たされる。山根は他の来客でもあるのか、それとも用事が出来て外出してしまったのか。自分が都合二時間も遅刻してきているので、その気まずさもあって、いつまでも待たされるのが辛い。ひょっとしたら、ここに招じ入れられたことを家人もわすれているのではないかなどと疑いだしたときに、扉がすうっと開いて人が入ってきた。

入ってきたのは山根弥蔵ではない。繊細そうな若い女である。彼女は大きなテーブルの、「私」とは対角線の位置に坐って「ここではあまり遠くてお話ができませんね」などと変なことを言う。この女は何者なのだろう。もちろん使用人ではない。口調には、微妙に「私」を見下したような尊大さがある。

 

……静かな声を立てて笑うと、

「絵でも恋愛は描けますの?」

とそんなことを言った。私は自分の聞き違いかと思って、

「え?」

 ともう一度訊き直すと、彼女は今度は、

「絵でも、恋愛は描けますの、と訊いたの」

 と一語一語切って、少し憤っているかのようにきっとした調子で言った。その言葉には微かに軽蔑が込められてあった。その時、初めて、私はこれは少しおかしいと思ったのである。

「失礼ですが、奥さんですか」

 と私は訊いてみた。

「嫌だわ、わたし誰の奥さんかしら。もうみんな、遠い、遠い、夢なの」

「じゃあ、山根さんのお嬢さんですか」

「山根さんのお嬢さん!?」

 彼女は首をちょっとかしげて如何にも考えている風だったが、急に先刻と同じよく透る声で静かに笑った。

 

明らかに彼女はオカシイ。女中が入ってきて、何も言わずに茶を置いていった。得体の知れぬ若い女は、室内の古美術を漫然と眺めながらゆっくりと歩き回っている。「私」は耐えきれなくなり、失礼しましたと辞すことにする。誰も見送りには出て来ないので、ひっそりと一人で靴を履き玄関から出た。

すると門のところで、さきほどの女が立っている。「バスの道までお送りしましょう」などと言う。断ってもついてくる。途中で彼女はなぜか後ろ向きに歩き出した。バスが来たので「じゃあ、失礼します」と「私」はあわてて飛び乗る。走り出したバスから見ると、あの奇妙な女はじっとこちらを見詰めながら立っていた。

はて、今の出来事は一体何だったのだろう。

何だか意味が分からない。どうも合点がいかぬが、ではどこが釈然としないのかとなるとそれすらが分からない。「この山根家訪問のすべてが、不手際といえばみんな不手際で、どこか踏み外しているような感じを私は拭うことは出来なかった。私はこの訪問について考えること一切がもはや疎ましかった」。

家に戻った「私」は疲れ果て、縁側に腰掛けたまま何時間もぼんやりしていた。

 

「私」は水中に入り、石鹸を水面下に差し入れた

 

昨日から今日に渡って、四つのエピソードが起きていた。出版社からの失礼な葉書。夕食の約束を破った三人の同僚教師。愛想を尽かして姿を消した愛人。画商の家での不可解な出来事と精神を病んだらしい女とのやりとり。どれもが小さな棘のように「私」の心に突き刺さる。どのエピソードにも「犯人」がいる筈だが、単純明快に「あいつ」ないし「私」が悪いと決めつけられない。さまざまな事情が絡み、自分の邪推かもしれないし自業自得かもしれないし他人の悪意や蔑みの結果かもしれない。どれもこれも真相が判然としない。だから忘れようとしても忘れられない。恨むべきか反省すべきかも分からぬまま置き去りにされたかのようなちぐはぐな気持だ。

 

縁側でぼんやりしていた「私」は、二丁ばかり離れたT川の川縁で躯を拭くことを思い付く。「四、五日前その辺に散歩に行った時、一人の若い男が、やはりその川の岸で躯を洗っていたが、その時いかにも裸身を夕方の川風に曝しているその姿が爽やかに感じられたので、自分もそうしてみようかと思い立ったのである」。どうも妙な成り行きに翻弄されている自分を、清めたい気持もあった。

郊外電車の通る鉄橋の下手、ボートの繋ぎ場らしき石段の場所へ「私」は辿り着き、ランニング・シャツ一枚の姿になった。首に手拭いを巻き、水中へそろそろと入って行く。屈んでまず手脚から洗おうと、石鹼を掴んだ手を水面下に差し入れる。

すると、石鹼はするりと手から抜け出し、「そのまま小さい白い物体は水の深処の方へゆらゆらと揺れ落ちて行って忽ち姿を消してしまった。いかにもそれは逃亡という感じであった。私に背後を見せて、もう決して捉えられっこない落ち着きをもってゆっくりと沈み逃れていった感じであった」。

自分の手から「逃亡」していった石鹼を見送りながら、「私」は忌ま忌ましさを覚え、絶望と悲哀のつき混ざった感情に打たれた。そして昨日から今日に掛けて次々に起きた一連のエピソードに思いを馳せた。

 

ああ、何もかもが俺から逃亡していると思った。もう二度と決して戻って来ない妙に太々(ふてぶて)しい遠ざり方で、何もかもが私を置いてけぼりにして遠ざかりつつあると思った。

 

まさにこの瞬間、死ぬ以外もはや取り返しのつかない気持に「私」は支配されていた。そして「それが私の為さなければならぬ唯一つの仕事であるかのように、上半身から先に水の中へのめり込んで行ったのであった」。

だが死に切ることは叶わず、冒頭のように救助されてしまったわけである。

 

どこか取り留めのない四つのエピソードが重なり、さらにそこへ、決定的というかむしろ象徴的とでも称すべき出来事として石鹼の逃亡が起き、「私」は自殺への駄目押しをされたのであった。したがって「一体どうして死ぬ気になんてなったんです」との質問に対して、「石鹼が逃げて行ったから」と答えてもあながち間違いではなかっただろう。

 

◆ ◆

 

井上靖の短篇において、石鹼は運命を決定づける役割を担っていたし、その意味では一つの文学的な装置とも見なせるのであった。個人的には、「石鹼体験」とでも名付けておきたい気分である。

哲学者でありエッセイストの串田孫一に、『夢の中の風景』(彌生書房1975)という随想集がある。この中に、「逃げる」という題名の小品が収録されている。そこにも石鹼が逃げて行く光景がありありと描かれている。

 

ある時、それもまだ小学校へ上る前だったと思うが、上州の温泉へ連れて行かれた。私はそこで、自分の家の風呂場のようには石鹼が泡立たないので苛々している時、手から滑り抜け、板の傾斜を滑って溝に入り、湯船からあふれるお湯とともに流されて行ったのを今でもよく覚えているが、それはどう考えても、ただの滑り方ではなく、まるで逃げて行く鼠のようであった。私はもう追いかけてみても無駄だと分かって、あまりその逃げ方の巧妙なのに見とれていた。

宿の番頭がそのことを、この温泉では、石鹼に逃げられる人が多いと言っていた。矢張りそうだったのかと私は思った。

 

幼かった串田も、見とれつつも喪失感とともにさながら鼠に嘲笑されたかのような鼻白む思いを抱いたに違いない。まあいずれにせよ、石鹼には「もう取り返しがつかない」といった絶望感を喚起させる性質が備わっているようである。果たして上州の温泉では、自殺者が多かったであろうか。

わたしは六十歳を過ぎてからずっと井上の作品に出てくるような「何もかもが俺から逃亡している」といった気分に支配されてきた(今でもまだ、そんな気分は残っている)。だが、まだ生きている。うっかり「石鹼体験」に遭遇してしまわないだけ幸運だったのかもしれない。

(第二回・了)