第4回 遺書のリアル

精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。

自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。

「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。

たとえばわたしが小説を書いていて、その中で登場人物のひとりが自殺をしたとする。遺書が残され、その文面をそのまま小説で披露するとしよう。いわば架空の遺書からの全文引用である。その場合、わたしは自殺した人物の性格や日頃の振る舞いを斟酌しつつ、いかに「リアル」な遺書を捏造するかに心を砕くことになるだろう。

こういった人物ならこんな遺書を書きそうだなと思ういっぽう、自殺というきわめて非日常的な局面においては、常日頃の言動からはいささか逸脱したトーンの文章になりそうな気もする。ある種の歪さや意外性が加わらないと、遺書としてのリアリティーが生じてこないように思ってしまうわけである。

だがそのリアリティーとは、いったい何なのだろうか。遺書をいくつも見るような体験をする人は稀だろう。世間に公開されたいわば「有名な遺書」がモデルになっているのではないか。たとえばわたしが真っ先に思い浮かべる遺書は、マラソン・ランナーの円谷幸吉である。おそらく我が国でもっとも有名な遺書のひとつではないか。

円谷は昭和三十九年の東京オリンピックで三位に入賞している。日本陸上界においては二十八年ぶりのメダル獲得ということで大いに世間を湧かせた。わたしは当時中学生で、沿道でマラソン・ランナーに旗を振った記憶がある。「頑張れ~」と脳天気な声援も送った。ただし裸足のエチオピア人、アベベの姿は鮮烈だったが円谷の姿はまったく思い出せない。存在感が薄いと感じられたようなのである。だから自殺したと聞いても、いまひとつ「ぴんと」こなかったのであった。

円谷は、次のメキシコ大会でこそ金メダルを、と大いに期待された。いや、期待され過ぎた。彼の身体はもともと問題を抱えていたのである。腰痛がひどく、昭和四十二年には椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術を受けた。が、結果は思わしくなかった。リハビリも上手くいかず、記録は低迷した。努力で補える範疇の問題ではない。だがそれを言い立てて理解してもらえる雰囲気ではなかった。自衛隊体育学校に所属していた彼は周囲からの「期待」という重圧(当時、それは日本のため、自衛隊の名誉のため、といった悲壮なニュアンスが強かった)に耐えられなくなった。期待に応えられそうにないという気まずさ、自己嫌悪は強大なものとなって円谷を圧迫した。

昭和四十三年、すなわちメキシコ・オリンピックが開催される年の一月九日朝、自衛隊体育学校宿舎で彼は頸動脈を剃刀で切った。激しく血が噴き出し、円谷は走る苦しみから永遠に解放された。享年二十七。遺書は便箋に万年筆で記され、そこに血飛沫が掛かっていた。

 

父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。
勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有り難うございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、
恵子ちゃん、幸栄君、
裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になって下さい。
父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒お許し下さい。
気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

 

書き写していると、美味しうございましたという語句の単調なリフレイン、人名と飲食物の羅列がミニマル・ミュージックのように脳へ作用し、意識がいくぶん朦朧としてくるような気配が立ちのぼってくる。いかにも現世と彼岸とを結ぶ文章のように思えてくる。川端康成がこの遺書を絶讃したのも無理からぬ気がする。

リフレインというか繰り返しというか畳みかけるというか、そうした話法が持つ素朴な説得力には、ときには眩暈がしそうになる。

 

リアリティーの裏付けが

濃く刷り込まれる遺書

 

いささか脱線するが、ここにおそらく半世紀前に書かれたと思われる告発状を紹介してみたい。警察署宛に投書されたものの、警察が困惑して地元の精神科病院へ渡した。そのまま診察室の机の中に放り込まれていたのを、派遣でその病院へ行ったわたしが発見したという次第である。なお告発状にある斉藤美英なる人物は、大昭和製紙の経営者一族にはいない。字面が似た名前としては、斉藤英了が一九六一年から一九八一年まで社長を務めている。

 

大昭和の社長斉藤美英と言ふ野郎はあれ程立派に見えても中へはいると実に残酷な事をする野郎でヒロポンの注射をして夜も晝もねる事なく、全身にゴムの肌着を着し、電気催眠術器を使ひ、録音機を使ひ電気の焦点をとばし、家の中を照らし、催眠術にかけて録音機をかけて電気の焦点の電光の中に入れて恐ろしい言葉を電送して、人を苦しめ、困らせ、人を殺し、人を気違ひにしてゐる野郎なのです。実にあの野郎は大悪党なのです。眠ろうとすれば電気の焦点をピシンピシンとあてゝ苦しめその行ひと言つたら、その残酷さと言つたら実に皆さん想像も付かないひどい事をするのです。レンズを入れた電気の焦点をとばし、電波で恐ろしい事を電送して苦しめるのです。私は二十一ヶ月間レンズを入れた電光に包まれ、眠つてゐる所を催眠術にかけられ、録音機にかけられ、気違ひにされ、それはそれはひどい目にあわされて来ました。私は一昨年の八月から一日として電気にかけられない日はなく夜も晝も休みなく録音機で言葉を電送され、電気の焦点をあてられて苦しめられてゐるのです。此の頃ではすつかりやせて仕舞ひました。空を見ていると電光(イナビカリ)をスーッととばしてよこすのです。家の中の電灯も明るくし、室の中へもむらさき色の電気の焦点がとんできます。今晩こそは貴様をぶつ殺すぞ、電気をかけて貴様をぢりぢり殺して行くのだ、電波で催眠術にかけて気違ひにして貴様を殺して行くのだ。便所へ行くと硫酸をぶつかけるぞ、裁縫をしていると後ろから首をしめるぞ、風呂へ入ると後ろから首をしめるぞ、社長のやつてゐる事をしつてゐる貴様を絶対に生かしてはおかないのだ。あらゆる病気を引起させて貴様を絶対に生かしてはおかないのだ。あらゆる病気を引起させて貴様を殺して行くのだ。貴様の大腦を貫通するぞ、貴様を氷の様に冷たくして仕舞ふのだ。電気、電波で苦しめて殺せば絶対に警察へは分らないのだ。電波を利用し催眠術にかけて貴様を殺して行くのだ…とそれはそれは恐ろしい事を電波にしてゐるのです。あの斉藤美英と言ふ野郎は目的場所を電気で照らし、その中を自動車の中へバツテリーを持込みゴムを着て電送してゐるのです。何としても惨酷此の上なき事を蔭ではやつてゐるのです。表面上はお金持ちの名声をたてに蔭では此の様な残酷な事をし、恐ろしい事をしてゐるのです。あの野郎こそ人非人です。電気で人を殺す野郎です大悪党なのです、社会の皆様是非大昭和の社長の行ひをとりおさへて下さい。あの野郎に電気の焦点をあてゝ催眠術にかけたならば実に恐ろしい行なひが続出する事と確信いたします。あの野郎の行ひを此の平和な社会に引づり出して法の裁きをにかけて下さい。あの野郎こそ人類の敵です、斉藤美英と言ふ社長の一家族こそ実に実に惨酷極りない奴等ばかりです。
富士宮市住人
吉原警察署御中

 

プロレタリア文学ふう空想科学読み物といった味わいで、荒唐無稽な「どぎつさ」が横溢している。しかしおそらく統合失調症と思われる書き手の苦しさがありありと伝わってくる。実物は二枚の便箋に万年筆で書かれ、なかなかの達筆であった。やはり繰り返しの効果は絶大である。

それにしても円谷の遺書の物悲しく切ない響きはどうだろう。先立つ不孝をお許し下さいパターンの最高峰と言うべきか。つい小賢しげな顔をして「まさに死に際して、日本人特有の家族主義的かつ演歌的ウェットさが無意識のうちに前景化したものである」などと言いたくなってしまう。いつしか日本人論へと敷衍して語りたくなってしまうような、そんな普遍的な力強さがこの文章にはこもっている。

かつてナンシー関が、『一杯のかけそば』や『日本一短い母への手紙』に顕著なセンチメンタリズムが「横浜銀蠅」的なヤンキー心性と通底していると説き、「有意識・無意識にかかわらず〈銀蠅的なもの〉に心の安らぎを覚える人は、老若男女の区別なく人口の約五割を占めると私は見ている。勝手に、だが」と書いている(『ハイファッション』一九九六年七月号所収のコラム)。確かにそりゃそうだと言いたくなるし、そうなると円谷幸吉の遺書までが「銀蠅的なもの」に含まれそうな気になってくる。「美味しうございました」といった濃厚な案件には、どうも人を大上段に振りかぶる気分へ導くものがある。

もうひとつ、わたしにとって「これぞ遺書」と思えるものがあり(藤村操の巌頭之感については別の章で触れる)、それは七十三歳にして首相官邸前でガソリンをかぶり焼身自殺を遂げた由比忠之進によるものである。弁理士であり日本エスペラント学会会員であった由比は、原水爆禁止運動に参加、被爆者の手記をエスペラント語に翻訳するといった業績も挙げている人物である。

昭和四十二年十一月十一日の夕刻、由比はアメリカの北爆を支持した当時の首相・佐藤栄作が訪米することへの抗議行動として自らの上半身にガソリンをかけて焼身自殺に踏み切った。残されたカバンの中には、「内閣総理大臣佐藤栄作閣下」と宛名の書かれた抗議文と、以下に掲げる遺書が入っていた。ともにボールペンで書かれ、遺書のほうは自死直前に走り書きされたものであった。ちなみに「静(しず)」は奥さんの名前である。

 

きょう自殺決行するとなるとやっぱり興奮するとみえ、一晩中、抗議書作成その他で一睡もしなかったが、少しも眠くなかった。朝出かけるにあたって机上を整理したのだが、静は何ら疑いをかけなかったので落ち着いて出かけられた。死期が迫っているにしては冷静でおられると思っていたのだが、虎の門に近づくにつれ胸がずきずきし出した。首相公邸に近づくにつれ、ますます激しくなった。
やっぱり死というのは大変なことだ。いよいよ公邸の前に来たが、通行人がいっぱいで到底、決行が出来ないので素通り、夕方まで待つことにし、ついに山王に来た。
石段にかけてこれを書いた。焼身に成功したら、写真機は左記の人に渡して下さい。
文京区本郷二丁目、日本エスペラント学会・三宅史平氏。

 

妙に醒めたトーンがかえって生々しい。遺書というよりも日記に近い感じで、なるほどこうしたスタイルの遺書もあるのかと思わせられる。そして最後はカメラをこの人に渡してくれと業務連絡みたいに書き添えられ、この淡々とした、そして微妙にちぐはぐな感触がかえって強い存在感となって迫ってくる。

円谷の遺書と由比の遺書には、いろいろな意味で正反対なところがあるが、両者ともに遺書としてのリアリティーといったものの裏付けとしてわたしの脳裏には濃く刷り込まれているのである。

 

躁的防衛に近い

心性が働いた遺書

 

さてここに『自殺に關する研究』という本がある。昭和八年六月十日、大同館書店発行。筆者は山名正太郎という人で(明治二十七年生まれ、没年不明)、大阪朝日新聞社を振り出しにジャーナリスト畑を歩んだ人らしい。自殺および話し方指南の本を多く著し、だが『筆跡による性格診断』(創元社、一九六四年)なんて本や『ネコおもしろ読本』(泰流社、一九八七年)なんてものも出版している。後者は九十六歳で出版した勘定になり、どうもよく分からない人物なのである。

『自殺に關する研究』に話を戻すと、序文が妙な感じなのである。新仮名づかいに直して最初の七行を書き写してみよう。

 

何でもよい、恋文だろうが離縁状だろうが借金証文だろうが、あらゆる記録の蒐集を企て、そのうち自殺心中の遺書に興味をもったのが動機で自殺研究とはなったのである。どうした動機でそんな研究をするのかと、よく人から問われるが、筆者の研究由来は以上の通りである。始めてから既に十余年であるが、一向に進捗をみない。しかし相当に努力をしているつもりである。新聞の上でも、心とか中とか、そういった活字が目につくと、心中じゃあないかと視神経は異常な活躍をするのである。時には死魔にとりつかれたのではないか、と思うようなことがあり、研究物を放棄しようかと考えたことも幾度かあった。

 

すなわち山名氏は熱心な遺書コレクターなのであり、その延長として自殺研究の本まで出す結果になったようだ(新聞社に所属していたことが、コレクション活動には有利に働いたのであろう)。確かに遺書についてかなりの紙数を割いており、どこか自慢げな様子が見て取れるような部分もある。遺書コレクター的心性が窺われる人物がもう一人いて、長く浜松医大の教授を務めた大原健士郎(一九三〇~二〇一〇)である。自殺研究と森田療法で名を成し、一般向けの著作も多いが、遺書のあれこれを写真とともに開陳して説明する様子はどうもコレクターっぽい。『自殺日本――自殺は予知できる』という本があって(地産出版、一九七三年)、その前書きでは「当時、新聞で『自』という文字をみると『自殺』にみえ、テレビのドラマをみていても、すべて結末が自殺で終わると推理して、妻子の顰蹙を買ったものである」と自殺研究に打ち込んでいた若い時代を回想している。

山名の本には「無名自殺者の遺書」という章があり、いわば彼の集めた遺書傑作選といった趣なのである。それらの中から、わたしなりに「なるほど、これぞ遺書だなあ」とリアリティーを感じたものをいくつか引用してみたい。

 

●私達二人は、今この淸らかなそして無心な海に帰ります。お手數ですが風呂敷包のなかの金と品物とで、二人の死體を一緒に葬つて下さい。お願ひいたします。この手紙は月光で書いたものですから、讀みにくひかも知れませんが判斷してよんで下さい。

旅のものより。

●自分は死といふものに對して非常に恐怖の念を抱いて居つたが、今にして考へれば、餘りに小心であつた。死は人生の最も樂しいものである。私は決して死を恐れることはしない。私は安らかに死に就く。そして樂しく神の御手に救はれる。さらば恩愛深き父母よ。決して、自分の死を悲しむなかれ。

●僕は大阪の者です。この世の中に生きてをられぬ事情があります。僕の家は非常にユツクリしてをりますけれども、父母は嚴しいのです。父母達(※ここで途絶)

●此世の暇ごいに一筆のこす。私はぶきりよ。おまいは、いい女だよ。けれどおまいは元より薄情、よくも喜一のばか野郎を取つたな。私は殘ねんでくやしいけれど、おまいには世話になつてゐるから死んでおれいをする。おてるのあまと、喜一の馬鹿ヤロ、くやしければ私の處へこい。こなければ化けて出るから覺悟をしろ。サヨナラ。

●十七日。日曜日です。
折角つらい苦しみをこらへて待ちにまつた今日も、不意になつたのかと思へば情けないです。くやしいです。午後、松竹座へ行きました。藤間静江のお七狂亂を見ました。氣分がおちつくどころではありません。益々いやな事ばかりが頭に浮びます。一そう、お七のやうに狂人になつて戀に狂ひ死にたいです。
もうかくのはやめます。僕はもうだめです。

 

遺書というよりも警句に近い形式のものが近頃(といっても昭和の初頭)は非常に増えたと山名は述べている。「遺書の半數はそれだといつてよい位である」。世はスピード時代ゆえに遺書も手短なのがモダンといふことなのだろう、なんて解説は付されていなかった。わたしが実際に見た遺書も警句タイプのほうが多かった。

 

●人生は葬式の行列なり。(二等卒の遺書)
●死の道へドライヴす。(寶塚劇場飛降り)
●煩悶多き結婚は正しかることなし。(靑年の轢死)
●野火焼けども盡さず、春風吹いてまた生ず。(住職の遺書)
●死と戀愛は人生の第一條件なり。(僧侶と人妻の心中遺書)

 

大原健士郎が紹介していたケースでは、「ピースの箱の裏に『日本の皆さん さようなら』と書いていたり、汽車のばい煙で黒くなっている陸橋の橋けたに小石で、『女とは月の如し ただ夜のためにつくられたるものなり』と書いていた例もある。後者は、失恋のための腹いせかもしれないが、なかなか名文(?)を残している。口紅でチリ紙に『死にます サヨナラ』と書いた女性の遺書もあった。下駄に書きつけたものもある。/ものぐさな人なのだろうか、ある小説の『もう死ぬ以外に道はなかった』という一節に、赤鉛筆で丸印を入れて死んだ例もある」とのことだが、「日本の皆さん さようなら」と、おどけた調子の遺書は確かにありそうだ。いわゆる躁的防衛に近い心性が働いた結果かもしれない。

漠然と予想していたスタイルの遺書がおおむね出揃った気がする。逆に言えば、死に際しての最後の言葉とは所詮はこの程度で、意表を突かれたり身震いするような文章はまず滅多にないようなのであった。もしもわたしが自殺をすることに決めて遺書を認めたとしても、所詮はありがちなパターンのひとつになってしまうわけでもある。遺書の下書きをしたり推敲を重ねるのはおかしなわけで、だがそれを行った挙げ句に月並みになってしまうのは悲しい話である。まあ死そのものが、誰にでも訪れるという点では月並みそのものなのであり、そこに関連してユニークさを持ち込もうなんて発想をすると絶対に成仏など出来ないのであろう。

実は本章を書くに当たってちょっと期待していたことがある。遺書を書き写す(本当はキーボードを叩くわけであるが)という行為は、いわば写経に近い営みではないのか。つまり書き写す作業を通じて、いつの間にかヒトの魂の根源的な部分に触れられるのではないか、さらに申せばこの章を書き上げたあとは、わたしは物書きとしても精神科医としても(何の努力もしないにもかかわらず)一回り大きくなるのではないかと楽しみにしていたのである。

だが結果としては、そんな上手い話にはならなかった。むしろ「ありがちな」案件を確認しただけといったことに終わったのであった。ときたま言霊信仰的な気分になるわたしの、完全な独り相撲だった次第である。

 

斜め上の的外れな情熱を

引き出すのも遺書のリアル

 

遺書について、もうひとつ述べておきたい。生を終える最後の言葉といった観点からは、遺書は一通であるべきだろう。その一通に万感の思いを込めるから意味があるわけで、だから、たどたどしい文面や稚拙な表現こそがより遺族の心を打つのも無理からぬといった話になってくる。年賀状じゃあるまいし、あちこちに何通も残すのは釈然としない。

しかし『自殺に關する研究』には以下のような記述がある。

 

遺書は幾通もつものか。一通から三通までを普通とする。二通を用意するものが最も多い。情死者は別々に書かず男の次に女が添書する。
松本市外琵琶の湯の湯治客(五一)は一家四人情死をとげたが遺書は十通あつた。長野縣の女工(二一)は四十通の遺書を發送して工女部屋で縊死した。滋賀縣の呉服店員(三六)は遺書四十八通をもつて柿の木で首を縊つた。美濃紙には三千六百字をかいてゐた。
大阪市のブローカーは遺書三十通をもつてゐた。そのうち封筒に入れたものが十六通、電報用紙に「ジンセイコウロノギャツクキヨウニタチジサツス」と十四通認めてゐた。辨天島で投身した同性愛の娘は十二通の遺書があつた。栃木縣都賀郡の選擧運動員(五〇)は落選を聞いて自殺したが十五通の遺書をもつてゐた。朝鮮連絡德壽丸の一等船客(二四)は二十四通の遺書を旅館の封筒に入れ切手まで貼つておいて自殺投身した。参宮線で轢死した娘は百二十通の戀文を懐中してゐた。醫師に捨てられたからであつた。

 

四十八通とか百二十通の遺書というのには、困惑せざるを得ない。自殺者としてのメッセージといったもの以外に、何かもっと別な情熱だか意志が働いているように思えてくる。そんなことを考えながら、松本清張の短篇を思い出した。彼も「やたら沢山書かれた遺書」という事象に気付き、それに対する考察を小説にまとめ上げたのかもしれない。題名が「八十通の遺書」で、『文藝春秋』昭和三十二年四月号に発表されている。

留吉という人物は、高等小学校を出たあと電気機具会社の出張所の給仕になった。そのときに出張所の所長だったのが大森秀太郎で、内向的で屈折した人物であった。その後会社はつぶれ、大森は自分で商事会社を興してそれなりに業績を上げ、留吉は留吉なりに努力はしたがさして芽の出ないまま五十を迎えようとしていた。倒産以来、二人に接点はなかった。だがたまたま有楽町で地方新聞を買ったら、そこに小さな記事が載っていた。あの大森秀太郎(六〇)が借金苦から剃刀で頸動脈を切って自殺したというのである。

記事には、気になることも書き添えられていた。「関係者にあてた八十通の遺書があった」と。八十通とは、尋常ならざる数字ではないのか。

 

だが八十通の遺書を書く仕事の厖大さが留吉の頭の中に改めて泛んだ。これだけの遺書を書く精力の密度である。大森秀太郎のそのときの思考はどのような状態であっただろう。
八十通の遺書が一ぺんに書ける訳がない。彼は毎日毎日、何通かずつ書き溜めていったように考えられる。留吉はそれに没頭している大森秀太郎の姿を想ってみた。その作業に彼は途中で倦み(、、)はしなかったであろうか。その倦怠は、生へ引き戻す誘惑になるに違いなかった。彼は、八十通を完成するまで、必ず生の欲望と闘ったに相違ない。誰も居ない所での闘いである。
それとも八十通を克明に書きつづけてゆく作業が、大森秀太郎に死を既定なものに追い込む呪縛的な条件になったのだろうか。それなら彼は初めから己の性格を知っていたといえる。つまり、その条件を構造して、厖大な量の遺書にとりかかったのかも知れない。
留吉は、ふと自分の叔父の自殺の時を思い出した。叔父は、家庭の不和から遺書一つ無く松の木に縊れて死んだ人である。留吉が少年の頃だった。叔父の長く垂れ下った足もとには、四、五十本の煙草の吸殻が散っていた。これだけの夥しい煙草を喫いながら、叔父は山林の中に屈んで何の想いに耽っていたか。この死の直前に考えた(、、、)時間(、、)の煙草の残骸は、どんな遺書よりも凄絶であった。
叔父は死との闘いのために、三本五本と煙草を喫いながら、遂に四、五十本の吸殻を地上に捨てた。彼にははじめからそれだけ喫うつもりはなかったに違いない。
すると大森秀太郎も、初めから八十通の遺書を書く予定は無かったかも知れなかった。彼は三十通書いては喘ぎ、四十通、五十通、八十通と勇気を堆積していったのであろう。

 

なるほど、松本清張の言う通りだろう。ただし大森秀太郎というキャラクターから離れてみれば、「日本の皆さん さようなら」と、おどけるようなノリで、ただ残された人々を呆れさせるためだけに、ひたすら八十通の遺書を書きまくるようなケースもあり得そうな気がする。斜め上の的外れな情熱を引き出しかねないのもまた、遺書におけるリアルのひとつであるに違いない。

◆ ◆

わたしたちはいつだって予想通りの安心感と、思ってもみなかった意外性の双方を同時に求めがちである。すなわち安全とスリルを一緒に望むわけで、そんな身勝手な要望に対する回答のひとつが例えば遊園地のアトラクションであったり、映画やゲームであったり、多くの娯楽ということになる。

そうした身勝手な姿勢は、第三者として遺書を読む場合にも当てはまるだろう。人間であることの凡庸さと、自ら死を選ぼうとする者の特異性や奇妙さ――その双方を、無意識のうちに、いっぺんに味わいたがってしまう。さらには極めて個人的な、あるいは秘密に属する文章を覗き込む「いかがわしさ」が、特別なスパイスとして作用する。当事者でない限り、遺書は娯楽に、さもなければポルノグラフィーに近いものとして位置づけられ得るということだ。

遺書のリアリティーとは、つまりいかがわしげな娯楽性そのものということになる。感傷も涙も当惑も好奇心も含めての娯楽である。娯楽という言葉を不謹慎と詰るのは簡単だが、そのような単細胞な人物にとっては八十通の遺書が孕む「精神の働きの多様性」も、「日本の皆さん さようなら」も、おそらく一生理解の及ばない案件であるに違いない。
(第四回・了)

 

SIGN_07KASUGA1951年京都生まれ。日本医科大学卒業。医学博士。産婦人科医を経て精神科医に。都立中部総合精神保健福祉センター、都立松沢病院部長、都立墨東病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。著書に『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎新書)、『臨床の詩学』(医学書院)、『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(朝日新聞出版)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)等多数。