精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。
自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。
「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。
「はじめに」のはじめに
自殺という言葉は、多かれ少なかれわたしたちの心をざわつかせる。ことに自分と近い間柄の人物が自殺を遂げたとなれば、我々は身を硬くせざるを得ない。その生々しさと禍々しさとに圧倒される。
死とはこれほど呆気ないものであったのかと驚かされる。抽象的なものであった筈の「死」が、五百円玉や三色ボールペンや洗濯ばさみや歯ブラシと同じようにご く身近な存在であることを思い知らされる。自殺という言葉には、残されたわたしたちを告発するような、あるいは揶揄したり居心地を悪くさせるような響きが ある。そして自殺には、究極の孤独とでも称すべき寂寥感と不安感とが付与されている。
高校生の頃、友人が自作の短歌を見せてくれた。今でも記憶している。
ただひとり紙切り鋏を動かす日 チャキチャキチャキとピエロ出づる
短歌業界においてどれ程の評価をされる作品なのかは分からない。だがその友人がいつの間にかこうした創作活動に足を踏み入れていたことにわたしは動揺した。 こんなことを考えていたのか、こんな才能を持っていたのか、いったい何が彼をこうした活動へと駆り立てたのか――そんなことを思ってみずにはいられなかっ た。
もしかすると、「え、あいつがこんなことをしていたのか」という素朴な驚きは、「え、あいつが自殺した?」という当惑と気分的にどこか 通底している気がしないでもない。いや、そうした感情が惹起される場合があるからこそ、往々にして青春は自殺と親和性が高いような気すらするのだ。
真っ白な紙から切り出されるピエロは、思春期特有の自己憐憫や自嘲癖、あるいは自殺へのベクトルを秘めた絶望感だったのかもしれない。短歌を詠んだ友人は今で も(たぶん)生きている筈だが、彼は大学を卒業する頃には(寺山修司ふうの)短歌に関心を失っていた。ある意味でそれは健全な変化であったように思えてて しまう。
ところで自殺という行為は、公園の近くの自販機に缶コーヒーでも買いに行くような調子で呆気なく遂行されてしまう場合がある。他 方、心中を図って相手は死に至ったにもかかわらずもう一人は「どうしても死にきれなかった」と醜態を曝す場合がある。その気になりさえすれば人は簡単に死 ねるものなのか、さもなければ生と死を隔てる壁にはときおり無防備に開けっ放しとなる門が設けられているだけなのか。
そんなことすら我々には分からない。然るべき動機があれば人は自殺が可能になるのか。動機なんかなくとも、気まぐれに自殺を遂げることは可能なのか。自殺へまっしぐらの精神的なドミノ倒しを引き起こすような遺伝子がわたしたちのDNAには隠されているのか。
世界でもっとも下らない自殺の理由は何であろうかと考えてみることがある。人前でうっかり放屁してしまったことか。髪が薄くなったことか。レストランで食事 を済ませたあとで財布を忘れたことに気付いた体験か。足を滑らせ、人混みで尻餅をついた出来事か。いくらでも、愚にもつかない理由が浮かんでくる。そして 最後には、生きていること自体が理由であるといった禅問答めいた結論に行き着いてしまう。どんな角度から攻めてみようとも、自殺は不可解なままわたしたち を嘲笑する。
わたしはこの連載で少しばかり自殺について考察を巡らせてみたい。それが無益な試みであろうことは分かっている。しかし自殺に 嘲笑され翻弄されるばかりでは面白くない。こちらから自殺を弄んでやるくらいの態度で向き合ってみるのもひとつの作戦ではないのか。そんなことを念頭に置 きながら、不謹慎な要素の混入を承知のうえで執筆を開始したい。意図を汲んでいただければ幸いである。
はじめに
この連載のテーマは「自殺」である。通常、自殺を論じる文章は「自殺はよろしくない」「でも自殺せざるを得なかった人の辛さに思い巡らせるのも大切」「残さ れた人たちの心のケアも重要」「あなたの命は決してあなただけのものではない」「自殺のない世の中を目指したい」といった論調が、いわば必須の条件として 織り込まれている。それが人間としての礼節であり思いやりであろう。当然の話だ。
だが、そうした論調ばかりを過剰に意識すると、無難で退 屈 でしかも何の役にも立たない文章しか生まれてこない。「他人には優しく、うつ病が疑われたら早めに精神科へ」程度の結論しか出てこない。象は鼻が長いと 言っているのと変わらない。真剣な顔をして「象は鼻が長い」と重々しく述べられても、かえって誠実さを疑いたくなる。
人間という生き物は、 まことに「ロクでもない」存在だ。自殺に対して真摯な気分に囚われるいっぽう、下世話な好奇心やゲスな興味も湧いてくる。わたしは人間の特性のひとつとし て、「矛盾した考えをふたつ同時に心の中に持つ事が出来る」という現象を挙げたい。それは恥ずべきことでもないし、鬼畜の証でもない。同情しつつも詮索好 きな気持が頭を擡げてきたり、憎みつつも愛情に近い心情を抱いたり、善人として振る舞いつつも他人の不幸を蜜として味わうのは、ちっともおかしくない。む しろそうした矛盾を否定し、強引に首尾一貫を自分に課そうとするとき、ヒトは気が狂う。
というわけで、この連載では我々が自殺に対して (腹 の底でひそかに)感じたり思う「ろくでもない」部分に特化して筆を進めていく。自殺に対するシリアスで真面目な意見を今さらながらに掲げてそれをアリバイ とする気はない。したがって不謹慎だとか不真面目などと非難をするのが好きな人は、ここまで読んだ時点でそれ以上読み進めるのを中止していただけると有り 難い。そのような皆さんに好餌を提供すべく文章を綴っているわけではないので。また、露悪的だったり確信犯的に反道徳的な文章を目指しているわけでもない ので、そういった期待もしないでいただきたい。
率直に申して、自殺はまことにヘヴィーかつ痛ましい事象であると同時に、「その不可解さが も はや珍味と化している事案」だと思っている。自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある。自分が今後絶対 に自殺をしないと断言することは不可能だし、自殺せざるを得なくなるような理由ないし状況というものを常識の範囲内でしか想像しかねる我々にとって、自分 と自殺との関係性など論じようもあるまい。
悲しみや怒りや不満や退屈の延長に自殺はあるのだろうか。小説や映画などの「物語」において、 し ばしば自殺は筋書きをコントロールする上で便利至極なエピソードとして重用される。それを不自然とかご都合主義と感じる場合が少ないのは、つまり自殺をあ る種の必然と思っているからではないのか。あるいは、もしかすると人生とは神の描いたストーリーに準じたものと捉えているからではないのか。この世界には 自殺に魅入られた人々が確実に存在するが、彼らが一定数存在してこそ人間界として「自然な」状態であるのか。自殺が生存本能と矛盾することからすると、や はり自殺は狂気の沙汰なのか。
強引に言い切ってしまうなら、人間そのものに対する「分からなさ」が身も蓋もない突飛な形で現出しているの が すなわち自殺ということになろう。その突飛さを前にして、動揺した我々は、(情けないことに)つい「ゲスの勘ぐり」やら下品な好奇心至上主義を全開にせね ばいられなくことが稀ではない。悼んだり悲しむと同時に、無意識のうちにそんな方向に走ってしまう。だから「その不可解さがもはや珍味と化している事案」 と表現してみても、あながち的外れではあるまい。
というわけで、自殺に関して思うこと、感じること、精神科医としての意見、文学的関心などをこれからだらだらと書き連ねていきたい。もっとも、それが正鵠を射た内容であるのか否かは、自殺を遂げた当人でなければ検証のしようがないけれど。
1951年京都生まれ。日本医科大学卒業。医学博士。産婦人科医を経て精神科医に。都立中部総合精神保健福祉センター、都立松沢病院部長、都立墨東病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。著書に『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎新書)、『臨床の詩学』(医学書院)、『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(朝日新聞出版)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)等多数。