第9回 自分で門をつくって自分で潜る。

佐藤直樹さんは2013年3月、荻窪6次元で初の個展「秘境の荻窪」を開いた。中学2年生のときに1年間住んだことのある荻窪を歩きなおし、建物や木々、動物、地形などを木炭で描いたもの。長らくデザインの現場に身をおいてきた佐藤さんだが、それ以降、少しずつ絵を描く機会を増やしてきた。3331コミッションワーク「そこで生えている。」や、Tambourin Gallery Presents 「佐藤直樹と伊藤桂司の反展」では、毎日、会場へ通って、少しずつ絵を描いていって、その過程を披露していた。そのような試みは、純粋に、「絵ってなんだろ?」という疑問から出発している。

「絵画」というと、美術館の中だったり、画商が扱うものだったり、どこかありがたいもの、身近なものではないものに思える。でも本来は、幼児の頃、うら紙やダンボールに○や□や線を描いたり動物らしきものを描いたのも、絵のはじまりかもしれない。個人ではなく人類で考えてみると、ショーヴェの壁画はどのように描かれたものなのか? 人間がもつ根源的な欲求である「何かを描く」という行為とは何かを、自らが「絵画」を描く行為、「絵画」に入門しながら考えてみる、そんな連載である。佐藤さんの実作もお楽しみに。

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まったく新しい門?

さて、そんなわけで、ようやく九回目にして、あらためて門をつくるという話になりました。

絵などただ描きたいように描けばいいものを、なぜわざわざ「入門」などということを言っているのか。また、絵はただ絵でいいのに、なぜ「絵画」などという、いかにも面倒くさそうな言葉を持ち出しているのか。そこからスタートした連載でしたが、八回を費やしてなお、ちっとも説明らしい説明ができていません。ただ問題の周囲をぐるぐると回っているだけのように思えます。開き直るわけではありませんが、相当に難儀な問題と抵触しかかっているため、なかなか進めずにいるような。謎は謎のまま一切解決されていないので、迂回路を探すしかないのかもしれませんし、このまま進むとしても何かが足りないに違いありません。

ここでちょっと現実的な話をしてみます。二〇一〇年、私は廃校を利用したアートセンターである「アーツ千代田 3331」の設立に参画することになり、そこからは様々な局面で「アート」と関わるようになっています。それ以前には、「合法的スクウォッティング」を謳い、空きビル等を舞台に展開したアート・デザイン・建築の複合イベント「セントラルイースト東京」にも二〇〇三年以来関わっていましたが、なぜそんなことをするようになったのかと言いますと、雑多な“Arts”に関わることが、デザインを長く続けるためにも必要と感じられたからです。西洋的な意味での“Art”に対する興味はさておき。

二〇一〇年、私は3331に赤瀬川原平さんを呼び、七〇年代の美學校で展開していた「絵・文字工房」の話をしてもらいました。「絵・文字」という括り方は、アートからデザインまでを貫通しているので、その感覚をあらためて確認しておきたかったのです。六〇年頃までは未分化のまま進んでいたアートとデザインの姿があったという確信をその時に得ました。もちろん戦前にはそれぞれがある種の進化を遂げているわけですが、戦後の混乱期を経て、混じりかけている。その点では木村恒久さんや粟津潔さんも重要人物ですが、残念ながらそれぞれ二〇〇八年と二〇〇九年に亡くなられてしまいました。

一九三七年生まれの赤瀬川原平さんの美術家としての活動は六〇年のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを起点として考えていいと思います。五八年には読売アンデパンダン展に出品していますが、いずれにしろ、時代の旗印として「反芸術」が掲げられていた時期であり、そのあたりで一切の門は破壊し尽くされたと言っていいでしょう。「絵画」を前にした私(たち)は、いまだ、その荒野に立っているのだと思います。

デザインは完全に経済成長の方へと舵切りをしていきますが、赤瀬川さんと同学年の横尾忠則さんがイラストレーションを駆使するデザイナーとしてデビューしています。その横尾さんが八二年に画家宣言したことは非常に面白い問題を浮かび上がらせています。赤瀬川さんが尾辻克彦として純文学作家デビューしていた時期で、赤瀬川原平としてのイラストレーションの画風も大きく変化しています。ジャンルとしては完全に別れて整備されてしまっているものの、おそらくは無意識の、それぞれの行き来とそのクロスが見てとれます。

私は赤瀬川さんに「本当はただ絵を描いていたいだけなんじゃないですか?」という不躾な質問をしました。その直後の複雑で優しい表情を忘れることは一生涯ないでしょう。その表情を見て「赤瀬川さんの絵であればどんな絵でも見たいです」と重ねましたが、その答えは「今は何を描いてもイラストになっちゃうんだよ」というものでした。

赤瀬川さんは死の直前まで「絵」が描きたいと願っていたはずです。しかし結局それは叶わないことでもあったのです。横尾さんにしても、まだ何も達成できていないと考えているはずです。

「今現在の絵」とはどういうものか

歴史的な、あるいは文化的な問題として、「絵画」に向き合おうとすれば、がんじがらめになって、身動きがとれなくなるものでしょう。おそらくは、誰であれ。「反芸術」が掲げるような根本問題はどこまで行っても永遠に解決などしないのです。そして、それが問題となる前の世界に戻ることもできません。できるのはせいぜい「そんな問題は存在しない」という認識を持つことだけです。つまり文脈を拒否すること。しかし、そんなふうに考えたところで、歴史的・文化的であることから逃れられるわけではない。どのみち、どんなふうにであれ、後からは位置づけられてしまう。「絵を描く」とはそういうことでしかありません。

「絵画」とは長らく人の支配に関わって発達してきたものでもありました。人を釘付けにするとか、有無を言わせないとか、圧倒するとか、そういう力があったからでしょう。音楽も時に支配の側で力を発揮しますが、身体性が強い分、常に危ういバランスを孕みつつ拮抗します。直接的に、緊張した関係から人を解き放つ力を持つのが音楽です。しかし「絵画」は違います。だからこそ音楽に憧れて解放の夢を抱くことはあるとしても。

「絵とは自由なものである」とはごくごく最近の言説で、死を見えないところに追いやるような社会になってから生まれたものだろうと思うのです。死が身近にあった時代には、あるいはそういう文化の中では、「絵」は自由も独立も目指さないに違いありません。常に何かに寄り添おうとするはずです。メキシコの死者の日などを見れば明らかなように。

分離を好み、特別な場所を確保したがるのは、階級というものが背後にあってのことでしょう。自らの快楽を(苦悩も含めて)追求して止まない、人間存在の最前衛、最先端たる「アーティスト」も、せいぜいここのところ百年だか二百年だかに出現した存在です。「才能」とか「センス」とかいったものも。一方で、何でもかんでも問題を問題として背負い込む「アーティスト」も現れます。そういう人は絵を描きません。壮大なる人類問題の前では、絵など描いてはいられないでしょう。あるいは「そういった病を引き受けることこそがアーティストの仕事」ということで、病的であればあるほどいいみたいな価値観も浮上します。

それはそれでいいのですが、というか、止むなくそうなっている人にかける言葉はないのですが、私はそっちには向かいません。結局、私(たち)に描けるのは、今現在の絵でしかないわけですが、では今現在の絵とは何か。今現在描けば何だって今現在の絵ではないのか。確かにそれはそうなのです。しかし今現在の「絵画」ということになると、当て所のない承認欲求を抱えてしまうことになる。

かつての「絵画」とは、それ自体が承認の徴〈しるし〉だったわけですから、それ以上のどんな承認も必要なかったことでしょう。ところが、いつの頃からかそこが分離してしまった。承認を経済に求めればそのような絵になります。それはそれで価値あることなのでしょう。現在のあらゆる仕事がそうであるように。しかし私が見たいのはそういう絵ではありません。自分が描いた絵を誰かに承認させたいわけでもない。誰が描いたものであれ、絵に連れ去られたいのです。ここから連れ去ってくれる絵と出会いたいだけなのです。絵とはそういう力を持つものなのですから。そういう力を持つもののことを絵と呼んでいたはずで、原初の絵はそういうことをしていたに違いないのです。原初まで遡らずとも、今も残っている過去の絵には、その力が読み取れるものが多く存在します。

そのようなかつての絵の力を取り戻すことと「大量の情報をいったん遮断し、弱まってしまった生命力を回復する」ことはイコールであると私は思っているのです。

丸木スマさんと大道あやさんの画業は、生命力そのものでした。「目が見えんようになったら、手さぐりで描きます。絵を描きはなえてから、面白うての。こりゃ、まだまだ死なりゃせん思うて。わしゃ、今が花よ。」というスマさんの言葉には、そのすべてが現れています。

水木しげるさんの教えにあった「目に見えない世界を信じる」という言葉とも通じますが、目指すところが見える見えないを超越している。しかし見える世界に捕われることをよしとするのが「絵画」であるとも言えます。絵にこだわればこだわるほど目を凝らさなければならないわけですし、そう簡単に超越できるものでもありません。

たとえば、熊谷守一さんは「絵なんてのはね 何にも描かない白ほど きれいなものはないですからね」と言い、「上手なんてものは 先が見えちまいますわ 行き先もちゃんと わかってますわね 下手のはどうなるかわからない」と言います。

熊谷さんは一九七七年に九十七歳の生涯を終えました。八〇年代の「ヘタうま」ブームの席巻は、湯村輝彦さんの存在抜きには語れませんが、ぐっと引いて見た場合には、熊谷さんの「へたも絵のうち」を継いだものと言えるのかもしれません。しかし、そうした創作態度自体が様式化したところでブームは収束しました。皆が皆「どうなるかわからない」わけでもなかったのです。

型をつくる

一方、現代美術が「描かない」方向に向かった最初期の理由というのも、熊谷さんの言葉から腑に落ちるところがあります。つまり最終的には視覚的な出来不出来ではないという話になっていく。しかし現代美術というものも、生まれたばかりの頃には新鮮であったものの、その後どんどん難解な理屈へとまり込んでいきます。西洋哲学の問いそのものと重なって行ったわけです。

ニューペインティングとか新表現主義とか呼ばれた潮流はそんな中から出て来たわけですが、しかしその流れも収束します。結局のところ前にあったものに対する反動が力になっていたので、ある程度続いたところで同じようなものの反復にならざるをえなかった。

型が必要なのだろうと思うのです。「型を持つ人が型を破るのが型破り。型がないのに破れば型無し」という中村勘三郎さんの発言もあります(どうやら元は無着成恭さんの言葉らしいのですが)。しかし、「絵画」のそれは破壊し尽くされている。今残っているのはおそらく型ではありません。型は物にも言語にも置き換えることができないのです。それは動きなので、固定化すると死にます。受験デッサンのようなものは、その死に体の最たるものと言っていいでしょう。そういった似て非なるものに惑わされない、動きの型から入り直す必要があると思います。

筆の運びというような話をするならば、見事な伝承を引き継いでいる方もおられると思います。しかし、私が絵に求めたいのはそこではありません。ショーヴェの壁画に残る、あの生々しい動きに匹敵することは、今を生きる人間にもできるはずなのです。

三歳の頃から歌舞伎の稽古づけだった中村勘三郎さんは、十九の時にアンダーグラウンドの「下町唐座」のテント芝居に出会い、ショックを受けます。「昔の歌舞伎」はこんなふうだったのではないかと。しかしそこで歌舞伎を捨てるのではなく稽古に励んだ。それから四半世紀後にテント芝居「平成中村座」が実現します。そうした時空の交差は「絵画」にも必要でしょう。

「絵画史」や「美術史」はあまりに平板です。それはそれで仕方ありません。しかし、描く側がそこに連なろうとすれば、「絵画」そのものが平板なものになるでしょう。いや「絵画」とはそもそも平板なものなのではないか。そう考える人がいることは十分理解しているつもりですが、おそらくここが分かれ目なのです。解釈の対象としての「絵画」であれば、いくらでも平板な言葉に転化できるでしょう。しかし、絵を立ち上がらせるには、言語化できない、複製もできない、そういったものの存在に信を置くしかありません。入門というのは、門を潜って、信の側に入って行くことです。絵にしかできないこと。それを信じられるかどうか。それだけが分かれ目なのだと思います。

さて、次回で連載は最後になります。もう書くことは何もない気がしているのですが、このまま終わってしまうには心残りもいくらかあります。とくに型については言葉にできる部分がもう少しあるはずです。これから、新作として、東京を丸ごと描きたいと思うようになっています。二〇一七年の春には人に見せられるレベルに持って行きたいと考えています。次回はその話を書いて、その展示までには他の論考などとも合わせて本にまとめるつもりでいます。それまでにもう少し論なり考なりを整理できればと思います。

SIGN_02SATO1961年生まれ。アートディレクション、デザイン、各種絵画制作。北海道教育大学卒業後、信州大学研究生として教育社会学と言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。デザイン会社「ASYL(アジール)」代表。1994年に『WIRED』日本版のアートディレクターとして創刊から参加し、1997年に独立。国内外で受賞多数。2003~2010年「Central East Tokyo」プロデューサーを経て、2010年よりアートセンター「3331 Arts Chiyoda」デザインディレクター。美学校「絵と美と画と術」講師。多摩美術大学教授。著書に『レイアウト、基本の「き」』(グラフィック社)がある。雑誌『デザインのひきだし』では「デザインを考えない」を連載中。また、3331コミッションワーク「そこで生えている。」の絵画制作を2013年以来継続している。
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