第7回 門って何。

佐藤直樹さんは2013年3月、荻窪6次元で初の個展「秘境の荻窪」を開いた。中学2年生のときに1年間住んだことのある荻窪を歩きなおし、建物や木々、動物、地形などを木炭で描いたもの。長らくデザインの現場に身をおいてきた佐藤さんだが、それ以降、少しずつ絵を描く機会を増やしてきた。3331コミッションワーク「そこで生えている。」や、Tambourin Gallery Presents 「佐藤直樹と伊藤桂司の反展」では、毎日、会場へ通って、少しずつ絵を描いていって、その過程を披露していた。そのような試みは、純粋に、「絵ってなんだろ?」という疑問から出発している。

「絵画」というと、美術館の中だったり、画商が扱うものだったり、どこかありがたいもの、身近なものではないものに思える。でも本来は、幼児の頃、うら紙やダンボールに○や□や線を描いたり動物らしきものを描いたのも、絵のはじまりかもしれない。個人ではなく人類で考えてみると、ショーヴェの壁画はどのように描かれたものなのか? 人間がもつ根源的な欲求である「何かを描く」という行為とは何かを、自らが「絵画」を描く行為、「絵画」に入門しながら考えてみる、そんな連載である。佐藤さんの実作もお楽しみに。

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門をつくる

さてそんなわけで連載も六回目にして、「絵画の門をつくる」話になってしまいました。「絵画の入門」という連載なのに。それにしても門なんてどうやってつくったらいいのでしょう。「なければつくればいい」と書きましたが「ないならないでいいじゃないか」という考え方はないのでしょうか。いやむしろそれが普通です。今の時代にわざわざ「絵画の門をつくる」なんて正気の沙汰とは思えません。

絵画は長い間、洋の東西を問わず、何らかの権力に庇護されながら成立してきました。しかし前時代にあった権力関係が変化し、市民的な自由や大衆的な文化が勃興し成熟し始めるようになると、絵画表現もそこに寄り添いながら姿を変えて行きます。そうなってくると、通い継がれてきた「門」は実質的に解体され、伝統的な様式はことごとく弱体化するほかなくなりました。役割を終えて行く必然と言っていいでしょう。

一方、その後に手に入れた自由とはどのようなものだったのか。様々な表現が花開いたわけですから、もちろんそれはそれでよかったとは思います。しかし不自由になってしまった面も大きいのではないか。連載を始めるにあたって直感していたのはそこのところで、ただ自由ならいいとは考えておらず、さりとて手本とすべき「絵画そのもの」を指し示すこともできない。ではどうすればいいのだろうというところが出発点だったわけです。

入門すべき「門」なんてものを存在させると、威張る人なんかも出現してしまうし、時代の流れにもついていけなくなりそうだし、いかにも封建的で不自由っぽい。実際そう考えられて、「門」はことごとく破壊されてきた。しかし失って初めてわかる素晴らしさもあるわけです。「門」なしには生まれなかった数々の表現の到達がそのことを証明しているとも言えるんじゃないでしょうか。

しかし今ではもうそのような「門」は存在していません。少なくとも「絵画」の世界では。そんなわけで、今になって「絵画の門をつくる」ことを考えてみているのですが、「門」の役割はとっくの昔に終わっているのであって、そんなものをつくろうとするなんて無理があるだろう。それはそうなのです。おそらくそのとおりでしょう。けれど、それでもひとつだけ言えることがあります。何らかの方法を手に入れなければ、決して辿り着けない場所があり、「門」を潜ることはそこに通じることでもあったのだと。

最後の門

私の中にある「最後の門」のイメージは、奥村土牛さんが潜った梶田半古さんや小林古径さんの門です。半古さんは図案や挿絵の仕事で生計を立てていました。ここは案外と重要なところで、美術大学のような場所は研究室になってしまうので「門」足り得ないのだと思います。古径さんも土牛さんも大学の先生になってしまったので、その後が続くことはなかった。

美術大学の先生になってしまうと何故その後が続かないのかという話は、ここでは深追いしません。ひとつには学歴というものが本質的に抱えてしまう問題に関わっています。学歴は、本人が好むと好まざるとに関わらず、保険のような働きをしてしまいます。入門は人との関係そのものですが、入学は組織との関係を持つことになります。入門の名に相応しい師弟関係が生じることもないわけではないでしょうが、あっても例外的な出来事としてでしょう。

私にとっての、これからの「門」のひとつのイメージは、丸木スマさんと大道あやさんの画業の中にあります。スマさんは画家の丸木位里さんの母で、位里さんの嫁で同じく画家の俊さんのすすめにより七〇歳を過ぎてから絵を描き始めたと言います。また、あやさんは位里さんの妹で、六〇歳になってから描き始めています。

スマさんとあやさんの絵には本当に感動します。それは二人の人生経験が素晴らしいものだったからで、痩せ細ったような生活を送っている自分に、このような絵が描けるようになるとはとても思えません。何と言うか、生活の中の多くの部分が自動化されてしまっているので、その流れに乗っているだけでは、人の深いところに届く絵など描けっこないのです。

では、スマさんとあやさんは「門」を潜っていたのでしょうか。ただ運命に導かれて描くに至っただけなのではないでしょうか。絵はそういう人が自由に描けばいいので、「門」など必要ないのではないでしょうか。そうも思います。けれども逆に言えば、絵画のもっとも絵画らしい姿をそこに見た時、何とかそこに近づきたいと思うことも、絵を描く者にとっての道理であって、そこに道がないなら、掻き分けてでも進みたい。そしてそこにはやはり、見えない「門」が存在している気がするのです。

超えられなかった超芸術

ここからは極私的な話になってしまいますが、私が美学校の菊畑茂久馬絵画教場の門戸を叩くことになったのは一九八七年四月のことで、じつは赤瀬川原平さんの考現学教室に入ることを目的に上京していたのですが、考現学教室は同年三月をもって終了していました。赤瀬川さんと菊畑さんに共通していたのは、ともにかつて反芸術の旗手であったことです。ただし、それは六〇年代あたりまでの話で、学生運動も終息する七〇年代を通過した後の八〇年代には、完全に過去の出来事となっていました。すでに考現学教室からは「超芸術」(まるで役立たないにも関わらず、大事に保存され、美しく展示されている芸術のような佇まいを持つ、またそうでありながらそのことに意識的な作者が存在しない点で芸術を超えた、物件を取り巻く現象)なる概念も生み出されており、人為的な芸術活動は袋小路に入ってしまっているように思われました。

その一方でニューペインティングの波が世界的にやって来ており、国内では同時に「ヘタうま」のブームが起こっていたり、巷の「門」は完全に破壊し尽くされたように感じられました。菊畑さんにしても、それまで行っていた山本作兵衛さんの炭坑記録画の模写を学生にさせるようなことはなく、「皆それぞれ自由に描けばいい」というスタンスでした。

しかし今にして思えば、やはりそこにはまだ「門」の痕跡のようなものも存在していたのです。菊畑茂久馬絵画教場で最初にやったことは大きな紙の上にひたすらグラデーションを描き出すことでした(鉛筆だったか木炭だったか忘れましたが)。続けてデッサンもクロッキーもやっています。ただし、それらの行為はすべて、評価軸も示されないまま、黙々と繰り返されるものでした。そこから徐々に制作に入っていったのですが、私はと言えば、油絵の具やアクリル絵の具をひたすらキャンバスに塗りたくっていました。それはまったくつまらないもので、自分という人間のつまらなさがそのまま描き出されているような気がしたものです。こんなものは誰も見たくないだろう。そのうち私は描くことを止め、少しは人の役に立ちそうなことでもしようと、デザインの仕事を始めるようになったのです。

自己表現という幻の向こう側へ

今描いているものもつまらないと言われればつまらないものです。ただ、同じようにつまらないものであっても、はっきり異なっている点があります。当時の自分が行っていたことというのは空虚な自己の投影に過ぎませんでした。何かを見て描いている場合でも、それを描いている自己の行為が重要であって、対象のことなど二の次だったと思います。また何らかの様式に則っていたとしても、様式そのものの追求であるよりも、それをしている自分にしか興味がなかったのだろうと思います。しかし今興味が向かっているのは、自他で言えば他の方であって、その延長線上で、他と自の関係を考えようとしています。

話が抽象的になってきたので具体的に書きます。たとえばある植物を描いている時、私はその植物になりたいと考えています。できれば同化したいと思っているのです。そんなことが無理なことはよくわかっていますが、しかし描いている時に「私」が消えてくれることが、実際にあるのです。その時「私は私」という感覚が揺らぎます。こうした文章を書いている時に「私は私」という感覚から逃れるのは難しいのですが、しかし描きながら自意識が蒸発するようになくなってくる時、「私は私」ではなくなってきて、何かに変わる可能性が感じられる。

「自分のことばかり考えていては駄目だよ」「相手の立場に立たなければ」というのは、どんな場合でもよく言われることです。たとえばこの文章にしても、読んでもらおうと思って書いているわけですから、できるだけ読み手の立場になって書こうとします。また、デザインの仕事をしている時なども、自分ではなく、それを見たり使ったりする側、つまり相手に主体を置いて考えようとします。イラストレーションを扱う場合も同じです。

しかし、絵を描いている時に感じている「自意識が蒸発する」「私が私ではなくなる」「何かに変わる可能性」というのは、必ずしも見ている人の立場になることではありません。自他と言う場合の他の部分には、当然その絵を見るであろう人も含まれますが、そこにはあらゆる存在がいます。もちろん死者もいます。そしてじつは自他はそれほど奇麗に分かれてもいません。つねに行き来している状態にあります。ですから「私が描いている」というより「ただ描いている状態が存在している」という方がしっくりきます。描くことの初源には、自他が混じり合うというか、入れ替わるというか、そういう状態があったのではないかと思うことがよくあります。共同でトランスを起こしていたような。

いずれにしろ、自己を疑いなく設定してしまうことほど貧しい行為はないと思うのです。自己表現という言葉は本当に貧しいし、またそこに絡んで来ようとするアート/アーティストなる言葉に貧しさを感じることも多々あります。絵画をアートの文脈で語ること自体から自由になる必要があると思うのです。それが入門するということなんじゃないか。だとすると、「門」をつくるということは、余計な情報を遮断するための囲いをつくり、かつ、そこに出入口を用意することなのかもしれません。情報が溢れる現代において、どうすればそんなことができるのでしょうか。

ところで、亡くなられた漫画家の水木しげるさんは「幸福の七カ条」を掲げています。「第一条、成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。/第二条、しないではいられないことをし続けなさい。/第三条、他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。第四条、好きの力を信じる。/第五条、才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。第六条、怠け者になりなさい。/第七条、目に見えない世界を信じる。」というものですが、「絵画を信じる」ためにはこのすべてが守られていなければなりません。特に「目に見えない世界を信じる」ことが重要に思われます。

漫画の世界からも「門」は消えつつあるように思われます。どの世界からも消えつつあるのかもしれません。けれど、どのような表現も「目に見えない世界」との間を往復するためにこそあるのだとすれば、今のような情報過多の時代にこそ、「門」は必要じゃないかと思うのです。正統的で由緒ある道筋に立つ、目印のような大門が新しく必要だとはまったく思いません。ばらばらになったものを小さく束ね直す必要もないでしょう。必要な「門」があるとすれば、それは大量の情報をいったん遮断し、弱まってしまった生命力を回復するためのものであるはずです。

 

[模写・引用文献]
『丸木スマ−樹・花・生きものを謳う』(原爆の図丸木美術館)
『へくそ花も花盛り』(大道あや/福音館文庫)