第3回 私を怒鳴るパパの目は黄色だった

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

パパの白目は、どうして黄色を帯びているのだろう。小さいころから疑問に思っていた。私もいつかそうなるのだろうかと不安で、こまめに目薬を点したり、サングラスで護ったりして過ごしている。健康上の要因は別として、目が黄色いことが悪いとは思ってはいない。そうは思っていても、私を怒鳴るパパの目は黄色だった。大きく見開かれた目に床が割れるような怒鳴り声、黒い肌のうえで光る黄色い目。幼い私は、パパに怒鳴られるたびに過呼吸を起こした。息ができず声も出なくなって、涙と鼻水を垂れ流しながら、必死に「おみず、おみず」とママに訴えるのがいつものことだった。しゃくりあげながら泣く私に、パパは目を見開いて唇に人差し指をあて、「静かにしろ」というサインをした。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことで、私はあの目を見ると恐怖で固まってしまっていた。

そのことが影響しているのか、私は人と話すときに目を合わせるのが苦手だ。相手が話しているときはそれほど苦ではないのだが、私が話しているとき、つまり、相手が黙っているときは、どうしても相手のヘソのあたりに視線が動いてしまう。口を閉じられていると、怒りの感情を日本語に変換できないまま、行き場を失った感情が目から噴き出してくるかのような顔をしたパパを思い出すからだ。よく、「娘は父と似た人を結婚相手に選ぶ」と言われているけれど、私からしてみたらそれは絶対にありえないことだ。絶対にパパみたいな人を好きになったりはしない。私の好きな有名人は、カズレーザーと、神木隆之介と藤井聡太だ。

もうひとつ苦手な視線がある。港区に出入りしているバイタリティー溢れた経営者がするような、相手に有無を言わさず納得させる威圧感のある視線にも耐えられない。自分の価値観を信じて疑わないような、「教えてやるよ」とでも言いたげなあの目。苦手と書いたが、これは「苦手」というより「嫌い」である。自分がどういうときに苛立ちを覚えるか考えてみると、それはたいてい「君はまだ若いから」「経験が浅いから」「女の子だから」といったニュアンスを相手の視線から感じ取るときだ。それを察知すると、私の中の短気の遺伝子が反応してしまい、必要以上に好戦的になってしまう。見た目によって「難しい日本語はわからないだろう」と決めつけられてきた経験は、自分でも気が付かないうちに黒い感情の琴線になり、どんどん波紋を広げて「難しいことはわからないだろう」というところにまで反応するようになったのかもしれない。

先日、青森の親戚の家に行った。家の中に入って畳の上に座ると、おじさんはちゃぶ台の上にみっつ並んで置いてあったリンゴをひとつ手に取って、果物ナイフとともに私に差し出した。私がどう皮を剥こうか考えていると、おじさんはかすれた声でなんの気なしに「まだ独身なのか」と私に聞いてきた。おじさんがもうほとんど見えていない目で私を見つめる。電車もろくに来ない町に体の自由もきかずにたったひとりで暮らす年寄りを、いったい誰が女性差別だ時代錯誤だと責め立てることができようか。田舎の高齢者の単純な疑問にすぎないというのに、ひねくれた私の思考回路の中では、その質問は即座に「リンゴもうまく剥けないおなごは嫁さいけねぇぞ」という言葉に変換された。そして、リンゴも剥けない女だと思われたくなかった私は、自分で勝手に追い詰められた末にナイフを手放し、そのままリンゴにかぶりついたのだった。SNSではこの出来事を格好つけて書いたために賞賛のコメントが数多送られてきたが、実際はごらんの通りの、被害妄想の結果起きた情けない暴走にすぎない。それほど私の「ものを知らない」コンプレックスは激しいのだ。

言葉、時事、雑学、マナーに至るまで、無知や間違いを指摘されることがあれば一生の恥と思ってしまう。だから私は人より少し多くのことを知っている。「そんなことも知らないのか。ならば教えてやろう」と思われないように。知らないことがあるのは、それほど深刻なことではないと、頭ではわかっているのに、頭がショートして体が熱くなると、私はやらかしてしまうのだ。だから、しばしば好きな男性のタイプを聞かれることがあれば、私は真っ先に「目力のないひと」と答える。目力の強い男性がみなパパと同じく短気で暴力的ではないし、宗教的な経営者のように偉ぶった人ではないということは重々わかっている。その逆も然りで、眠たげな目をした男性がみな寛容で穏やかでなわけではない。ただ、私は相手の「視線」を簡易的な判断材料にして、私が理性的でなくなるような予感のする相手はなるべくは避けて過ごしていたいのだ。

私にとって、先に書いたふたつの視線を避ける理由はそれぞれ「恐怖」と「嫌悪」に分けられる。相手から怒りを受ける視線と、私の中の怒りを沸き立たせる視線。私を委縮させてしまう視線と、暴走させてしまう視線。

今夜、日付が変われば私は27歳になる。パパと喧嘩別れをしたのは大学に入ったばかりの18歳のころだったので、間もなく9年が経とうとしている。パパのフェイスブックを見ると、大学の入学式に撮った私の写真に「Awa!Go Go!」とコメントが添えられた投稿が残っている。大学でフランス語の学科を選んだのは、パパとのコミュニケーションを豊かなものにできれば、と思ってのことだったが、それ以降、パパのアカウントに私の話題が投稿されることはなくなった。父親に対してのはじめての反抗が、まさかこんなにも長い冷戦を招くとは正直思いもしなかった。しかし、パパの怒りから遠ざかった今日までの日々はあまりにも快適で、好きなものを食べ、好きなお酒を飲んで、好きに泊まって好きな時間に帰る。こんなに自由なのに、いまさら関係を修復しようという気にはなれないのだ。それに、私たちはお互い、うまく話し合って共存するという機能を持ち合わせていないように思う。通じるのはごく短いセンテンスだけ。どちらも100パーセント主張が通らなければ納得ができないのだ。私自身、爆発する前にパパと話し合って、自由にしたい部分を落ち着いて話してみるとか、そういうことができたなら、こんなことにはならなかったかもしれない。でも、できなかった。パパの黄色い目が怖くて、限界が来るまで、うんうんと良い子のふりをすることしかできなかった。

大喧嘩をする前日、その数日前から私たちの空気はにわかに不穏だった。弟が無邪気にも私に彼氏ができたことをバラしてしまったり、バイトから帰る時間が遅くなった私にパパが苛立っていたのに対して、私が「じゃあもう迎えに来なくていい」と言ったり、原因はいくつかあったように思える。パパが運転をしながら私にこう言った。

「娘は、絶対にお父さんに逆らっちゃいけない。そういう決まりなんだよ。」と。

これは、パパが私にはじめて言葉にしてはっきりと示した主張であった。私はこれまで「怒られている」ことはわかっていても、「なぜ怒られているのか」はよくわかっていなかったのだと思う。とにかくパパが発する咆哮のような怒鳴り声におびえて息を詰まらせていたのだ。このひとことが、これまでのパパの怒りのすべてだったのだと、私は理解した。理解したと同時に、これまで得体の知れなかった「恐怖」が、はじめて形を成した明確な「嫌悪感」に変わったのがわかった。生まれてはじめて、パパに「はぁ?」という気持ちになったのである。逆らっちゃいけないだと?冗談じゃない。私はアンタの価値観の中で固められたことだけを口移されて咀嚼していろと言うのか。私は私の歯でかじって、味わって、そうやって生きていくんだ。ふざけんな。

バックミラーに映った黄色い目と目が合う。ミラー越しにその目を睨みつけた。パパの見開かれた目はわずかに動揺しているように見えた。ハンドルを握っている状態のパパを怒らせたら命が危ないと思い、その場では無言を貫いたが、いつもとはなにかが違う、何かが変わってしまうのだと、お互いに感じたのかもしれない。

こうして翌日、私たちは警察沙汰の大喧嘩をすることになる。あれから9年たって、もしこの先仲直りするようなことがあったとしても、その先にまたおなじような暴力的な争いが起きることは避けられないと私は思う。あの日、きっと私の目は黄色だった。あなたと同じ、黄色に染まっていた。怒りに我を忘れたときはあなたと同じ目になるように感じるのだ。本当の姿でいることが尊いと本やテレビは言うけれど、私はそんな本当の自分を、できるだけ分厚い理性でくるんで隠して誰にも見られないようにしたい。そうできない相手はできるだけ遠ざける。それしかないと思う。中学校の卒業式、親に向けて書いたメッセージが体育館の壁に張り出された。私は、ママと離婚してもう家にはいないパパに向けて「言葉はあまり通じないけど、絆はほかの親子にも負けないと思ってます。」と書いた。父の読めない日本語で書かれたそのメッセージは、事実を書いた手紙というより、中学生の私から、理解できないまま私たちから遠ざかっていったパパへの、すがるような確認だったように思う。そのころの私は、まさか自分からパパを突き放すことになるなんて思いもしなかっただろう。

長年の疑問の答えはネットで案外簡単に見つけることができた。なんでも、体にあるメラニンの濃度が高いと、それが眼球にも影響して白目が黄色くなるらしい。これから体内のメラニン濃度が大幅に変わることはないだろうし、加齢によるもの以外では、私の目は黄色く染まることはないようだ。少し安心したと同時に、つくづく私には短気なこと以外パパに似たところがないなと、ほんの少しだけ淋しさを覚えた。私が成人したらセネガルに帰ると言っていたパパは、いまだに近所のアパートにひとりで住んでいる。大学で一生懸命勉強したはずのフランス語は、もうすっかり忘れてしまった。鏡にはいつも通り、ママに似た眠たげな二重の目が映る。これが私の顔。

パパ、私、27歳になったよ。

(了)

 

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。「きらきらシニアタイムス」「エレマガ。」にて連載中。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。

第2回 宇宙人とその娘

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

エッセイで起こることは真実でなければならない。

エッセイを何本も連載するのは本当に大変だ。まあ、小説など書いたことがないから、どちらが大変なのか、今のところ私には比較しようがないのだが、起った真実と、それに伴う心の動きを洗いざらい言葉に差し出すという作業は、すなわち「どれだけ憶えているか」の勝負である。現代人の脳の疲労は深刻だ。以前、なにかの番組で「現代人が1日に得る情報量は平安時代の人間が生涯をかけて得る情報量に匹敵する」という話を聞いた。たった1日で一生分。こうしているあいだにも、私はときどき左手でスマホをいじって、タイムラインの山を登る。目の前の岩を掴むように上にスワイプする。新しいポストが表示される。頂上との距離は伸び続けて、辿り着く日は永遠に来ない。

なにが言いたいかというと、最近物忘れが激しい。ずっとなにかしらの画面を見ているせいで、頭は常にぼんやりと腫れたような熱を帯びていて、昨日なにをしていたかもよく思い出せない。はるか昔の記憶は遠ざかるにつれて滲むようにぼやけていくのに、ここ数年の記憶といったら、まるでいきなり線が焼き切られたように断片的だ。それに、大人になってからの「感動」というのは、大抵、酒を飲んでいるときに起きる。酔っ払ってどさくさに紛れて起ったことなんて憶えていなくて当然。そもそも酒を飲んでいるときに起きる感動は感動か? それはただの情緒不安定ではないのか? こわい。

記憶を切り売りしている以上、そのための大切な資源はなるべく手元に置いていきたい。写真、LINEのメッセージ、酔った親戚の思い出話、映画やテーマパークのチケット、卒業アルバム…。私が生きてきた道を、あらゆるところからかき集めて抽出する必要がある。忘れていても、押入れの奥を漁って思い出すこともある。きっと。

 

ママと弟が住んでいる部屋は、古いアパートの2階にある。テレビでこわい話が流行っていた頃、階段が13段のアパートの201号室は呪われていると誰かが話していて、無意識に数えてしまうのが怖くて階段を登れなくなった時期があった。当時は私もこの部屋に住んでいて、今はおじいちゃんとおばあちゃんの家に住まわせてもらっているのだが、べつにオバケが怖くて寝床を変えたわけではない。

階段を上がって部屋のインターホンを押すと、しばらくしてママの「はーい」という声が聞こえた。しかし、鍵を開ける様子はない。誰が来たのかと警戒しているのだ。こんなとき、私はいつもなんと答えようか迷ってしまう。「わたしー」と言うのもなんかしっくりこないし、「アワだよー」というのも慣れなくて恥ずかしいし、結局しばらく考えて、少しおどけたふうに「あけてー」と言う。ママはドアのチェーンを外して、それからドアの内側に立て掛かっているテニスラケットくらいの流木をズルズルとどかして、やっとドアを開けた。なぜドアに流木が立て掛けてあるかというと、もし誰かがピッキングなどをして鍵をこじ開けて侵入しようとすると、ドアを開けた途端にその流木が外側に倒れ、侵入者の脛にダイレクトヒット。そうやって侵入者に深刻なダメージを与えるという、歴戦の狩人も真っ青の、ママお手製アイデアトラップが運用されているためである。私も、持っている鍵を使って開けた際に何回かこのトラップの餌食になった。本当に痛くてその後の気分が台無しになるので、泥棒にも効果はあると思う。

寝起きなのか、ママは表情ひとつ動かさないまま「なにしにきたの」と言った。私はそれが拒絶を意味するわけではないと知っている。単純に、私がなにしにきたのか気になっているのだ。探し物、と曖昧に答えて部屋にあがる。この部屋から出て行って5年は経ったか、もうすっかり他人の家という感覚がして落ち着かない。実家に帰ると安心するなんて話をよく聞くけれど、全然。さっさと用事を済ませて帰ろう。ダイニングテーブルの一角は辞書や本が占領している。私が座っていた場所にはもう、できあがった料理を置くスペースはない。鏡の前にはフランス語が書かれた化粧水やクリームが並んでいて、なにがなんだかよく分からない。ママが使わなかったものをいくつかもらったけど、乾燥肌の私には物足りなかった。ママはほとんど化粧はしないので、私の部屋にある鏡の前のように、めったに使わないアイシャドウパレットや変な色のリップで散らかったりしてはいなかった。

「見て。お風呂の扉が直ったの」

さっきの様子とは打って変わって、ご機嫌な様子でママは言った。

「よかったじゃん。刑務所じゃなくなったね」

自分でもよく分からない返しをして押し入れへ向かう。この部屋は、3部屋あるうちのひとつで、服や消耗品を保管するための物置のようになっている。押し入れにはママが集めてきた本や、特別な日にしか着ない洋服や、今の季節には使わない電気ストーブなんかが置いてあって、私は縄張り意識の強いママに気づかれないうちにと、さりげなく静かに、その場所を漁りはじめた。しかし当然、ものの数秒で背後から「なにしてるの」と声が飛んでくる。

「ちょっと、探し物」

「なにを」

「まあ、色々」

「なんなの、やめてよ」

「いやぁ、私の学校で作ったやつ、自由研究とか、前にこの辺にあったよなあって…」

なるべく刺激しないように探りを入れたのは、やはり、返ってくる言葉がどんなものかわかっていたからかもしれない。

「捨てちゃったよそんなの」

そうですよね、と思いつつママを見る。ママは私と目を合わせないようにして、素知らぬ顔に努めていた。大丈夫だよママ。私はそんなことでママを責めるほど器が狭い女じゃない。ママがそういう性格なのは、私は、よくわかってるつもり。

「ほーん」

いくつかの気持ちが自分の中で渦巻いたあと、なんでもないような顔で言った。私はそそくさと退散しておばあちゃんとおじいちゃんの家に帰り、おばあちゃんにことの顛末を話した。おばあちゃんは言った。

「なんだかね。あの子は昔から、人の気持ちが分からないようなところがある。」

私は、人の気持ちが分からないということが悪いことだとは思っていない。なぜなら私もよく分からないから。それを自覚する前はしばしば人間関係でトラブルを起こした。とくに、女の子の集団の中では、私は全く上手に振る舞うことができず、無神経な発言によって友達を意図せず傷つけてしまうことがあった。自分にそういう傾向があると指摘されたとき、真っ先に思い浮かんだのはママの顔だった。

小さい頃、問題集が解けずに下を向いている私に「どうしてこんなことも分からないの?」と言ったママ。大学生の頃、バイト代が足りず自分の学費が支払えないことを責められて「お金のことで助けてくれたことなんて一度もないくせに」と言った私に激怒して、狂ったように暴れた挙句部屋のドアに指を挟んでそのまま救急車で運ばれたママ。私が友達を紹介しても挨拶せず、恥ずかしそうに体をくねらせるだけのママ。私の友達の犬に指を噛まれて、泣きながら「クソ犬」と言い放ったママ。何冊も辞書を抱えて満員電車に乗るのが辛いと、なんの気無しに愚痴をこぼした私に「じゃあどうするの。大学辞めるの?」とぶっきらぼうに言ったママ。私はただ「大変だよね」と言ってほしかった。虚しさと怒りで涙が溢れて「そんなこと言ってほしかったんじゃない」と叫んだ。

ママ。ママは自分自身にも他人にも、いつだって結論を求めていた。決して、過程を褒めたりはしなかった。私が勉強できないのも、解決策も出さずに通学がつらいと愚痴るのも、ママにとってはきっと、ごく単純に疑問なのだ。前に占い師も言っていた。「お母さんは、自分の哲学の中で生きている人なので、話し合って理解し合うというのは無理です」と。ママにそのまま伝えると「まぁね」と言っていた。すこしは申し訳なさそうにしたらどうなんだ、と思った。

つい先日、エレベーターを待っていると、隣に親子がやってきた。女の子は母親に向かって「じょうずにできなかった」と言った。すると、母親は女の子を抱きしめて「そんなことないよ。よくがんばったね。」と繰り返し言った。それを見た私は、まるで新種のカエルを見たかのように大袈裟に驚いてしまった。まさか、世の中にこんな母親がいるなんて。涙が出そうになって、うつむいたままエレベーターに乗り込んだ。羨ましかったのは事実だ。でもママが私にそんなことしてきたら、正直キモいなとも思った。

ママは母親らしい人ではない。だからといって、いつまでも女で、男が必要なタイプの人間でもない。完全に宇宙人なのだ。子どもを2人産んでもなお、まだなにも知りませんという顔をしている。孤独で可愛くて美しい私のママ。私は大人になって、ママに頼らなくても生きていけるようになった。だからこそ、人間としてママを愛せるようになったのかもしれない。私たちは、同じ屋根の下で過ごせばすぐに不安定になってしまう。似ているくせに、几帳面さだけは正反対だから、私はママの神経質な掃除にイライラするし、ママは私の散らかった机に耐えられない。だから私は住む場所を変えた。すると、親子関係は驚くほど改善されたのだった。

夏が始まってすぐ、ママと弟と3人で買い物に出かけた。ちょうど連載の話がいくつか決まり、私もようやくアルバイトだけの生活をやめる兆しが見えはじめた頃だった。ショッピングモールの中をフラフラ歩いていると、後ろの方で、ママは突然ポツリと言った。

「私、がんばったよね」

驚いて聞き返しそうになったのをグッと抑えて、私はなるべく平静を装ったまま言った。

「がんばったと思うよ」

これで合っていただろうか。ママが言ってほしかった言葉を、私は返すことができただろうか。ママはなにも言わなかった。振り返って、表情を見ることもできなかった。ママがいまだ私に頑張ったね、と言ってくれないのも、私はそのとき妙に納得した。この人は、自分が頑張ったと娘に言えるまで20年以上かかったのだ。私を産んだ時の帝王切開の傷は、きっと一生消えないのだろう。痛かったよね、ありがとう。

産んでくれただけで助かります。ママ、たまに一緒にご飯を食べてテレビをみよう。

(了)

 

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。「きらきらシニアタイムス」「エレマガ。」にて連載中。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。