第6回 ジャワ島のミコの家で

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

いよいよジャワ島も最終滞在日になり、空港に行く途中に僕の家があるからと、4日前からいっしょに島の東部を周ったミコの家に立ち寄ることになった。ジャワ島では治安の心配がある山岳地帯を巡ったので、日程の後半は専属ガイドをつけて行動した。ミコはいつだって私の拙い英語をウンウンとうなずきながら一生懸命に聞いて、せいいっぱい応答してくれた。僕は彼のウンウンがとても好きだった。君は興味深いことを話しているねというふうだが、でもわざとらしくない。こんなに自然でやさしい人に僕はこれまでに出会ったことがあるだろうかと思ったくらいだ。

車窓から見えるのは稲の手植えや鋤を引く水牛といった伝統的な農村風景。「この時季に田植えをするんだね」と尋ねると、ミコは「年に2回植えるんだよ」と言う。米の二期作だ。「二毛作とは違うよ。」思わず頭の中の生徒たちと授業を始めてしまう。この地域は最近、エコツーリズムで西洋人たちがさかんに訪れるようになったらしい。

「でも日本人はまず来ないよ。来るのは欧米人ばかり。そういったツアーを受け入れることで、一部の農家は経済的にすごく助かってる。」
「水牛が活躍してるけど、農業機械を導入する…とかいう話はないの?」
「もちろんあるよ。一部では実際に使われているし。でもすごく高価なんだ。だから、稲刈りのときはよそから借りたり共同購入したものを使ったりしている。一方、老人がその使い方をいまさら習得するのは難しい。使ってみたけどうまくいかなくて、結局もとのやり方に戻った人もいるよ。まあ、それぞれがやりやすいようにやればいいさ。」

そう言ってミコは車を走らせたまま目を細める。彼の視線は遠く、空のかなたをさまよう。

「ラヤンラヤン」

何かのまじないのようにミコはつぶやく。

「カイト、凧だよ。インドネシアの人たちの生活にはいつもカイトがある」

彼の視線の先に、凧が4つ、5つ空を高く舞っている様子が見える。凧の下で糸を引く、生き生きとした人たちのことを想像する。

「このあたりの棚田はほんとうに美しいね。さっきミコが「日本人はまず来ない」って言ったけど、なぜ来ないと思う?」
「日本人…というか、これはまあ韓国や中国、台湾の人たちも含まれるんだけど、そういう人たちと、ここに来る欧米やオーストラリアの人たちとでは旅に求めるものが違う。トバさんにはきっとそれがわかるよね?」
「確かにそういう傾向はあるかもしれない。大雑把に言うと、アジア人は概して買い物が好き、欧米人は自然や文化が好き。そういう感じかな?」
「そう。僕はバリ島で働いていたことがあるから、そのコントラストは目を見張るほどだった。ダイビングだけはアジア人も好きだけど。でも、バリ島で登山やトレッキングをする日本人はほとんどいないでしょ。そして、ここジャワ島まで来てわざわざ火山を登りたいって言いだす日本人も珍しいよ。」

そう言ってミコは僕のほうをみて笑う。昨日まで僕とミコのふたりは島東部の火山地帯を巡った。噴出するガスでボコボコと揺れる火山原を歩いたり、ブルーファイア(硫黄ガスが発火したもの)を見るために防毒マスクをつけて火山の縁から火口に下りたり、高さ40mから落下する滝水を浴びて身体ごと流されそうになったり。僕はいつもと全く違う世界で、今を生き生きと生きているんだ。そういう実感に溢れていた3日間。

「西洋人とアジア人では、消費についての意識が違ってるよね。西洋のツアリストたちは、日ごろから仕組まれた産業の中で自分らが消費を強いられていることに自覚的だからさ、消費行動として最もわかりやすいショッピングには興味を失っている。でも、なんだかんだそこはまだアジアの人たちは素朴だよ。いまだにショッピングが楽しみとして成立しているんだから。この国の人だってそうさ。みんな買い物が大好き。トバさんを空港に降ろしたら、僕もすぐに家族へのお土産を買いに行くさー。ふふふー。」

ミコの「ふふふー」の笑いには暗さが少しも混じっていない。純然たる明るさとしての「ふふふー」。ミコは僕より3つおじさんで、そして「ふふふー」がかわいい。こんなふうにただ明るく笑うには、どう生きたらいいんだろう。僕もミコみたいにただ明るく笑えたらいいのに。

「でも、アジアの人たちは西洋の人たちと比較して自分たちの行動を卑下しなくってもいいよね。だってさ、西洋人のエコな体験や娯楽ってのは、結局のところ消費行動をサニタイズするためにあるんだから。彼らだって自分がそれをやって何になりたいのかなんてわかっていない、僕にはそう見える。えーっと、トバさんはどうかな。うーんとね、トバさんは生きるエネルギーを余らせてるから、ここで発散してバランスを取ってるんだねー。」

ちょっと意訳だけど、ミコは隣で人なつこい笑顔のままつらつらとそんなことを話している。4日も同じ人と同じ時間を過ごすと、話す英語がスラスラと頭の中に入ってくるようになることに満足する。僕は「いまはアジアの人たちも変わってきてると思うけど…」と言いながら、ミコはどうやって「消費行動」というキーワードにたどりついたんだろうかと思う。
「ミコはガイドの仕事を楽しんでるの?」
「もちろん楽しいよ!4日もいっしょにいてなぜそんなことを聞くんだい? 実際に「体験」が始まると、動機は消えて楽しさだけが残るじゃない。だから体を動かすってことはいつでもいいことさ。そして、ゲストだけでなく、ガイドする側、つまり僕も同じこと。」
「ガイド中にイヤなことが起こったりすることはある?」
「イヤなことなんてものはないね。でも気になることはある。例えばよく「うちの国にも遊びにおいでよ!」って仲良くなった欧州の人たちに言われるけど、僕たちインドネシア人が観光で欧州に行くのがどれだけ難しいことか、きっと彼らの想像の何倍も難しいということをわかっていない。ビザの問題もあるし。でもね、そのかわりに僕はたくさんの国の人たちと話している。今日は日本のトバさんと。だから僕は彼らに言うんだ。「僕はもう何もかも見ているから、行かなくても大丈夫」って。実際のところ、移動することとものを見ることの間には直接の関係はないんだよ。」

ミコの自宅に着いた。エンジンの音を聞きつけた男の子が家の黄色いドアから飛び出してくる。目がきりりと美しいその男の子は僕と目が合って少しひるむ。ミコが「トバさんだよ、日本からのお客さん」とその子にたぶん言っている。男の子はミコさんのズボンにしがみついて何かをねだるような声を出している。ミコは「ちょっと待ってよ、プリンゴ」と言って彼を引きずりながら黄色いドアを開ける。

部屋に入るとミコによく似た顔立ちをした高齢の女性と、中学生か高校生くらいの女の子がソファーに座ってピーナッツを食べている。

「アユ、日本からのお客さんのトバさんだよ、挨拶しなさい」とミコに言われているようだが、女の子は絶賛思春期中のひきつった表情で部屋の隅に逃げて座り込んでしまう。「もう、いつもアユはこんななんだから…」とミコはお手上げのポーズ。「アユはJKT48が好きなんだから、話してみなよ…」と言ってる最中から「なんで勝手にそんなこと言うの!?」とキレられている。

「うちの畑で採れたバナナ、食べてみる?」とミコに言われて緑色のバナナが置かれたテーブルの前に座る。隣にはおばあちゃん。いつもこの席に座っているんだろう。プリンゴとアユもバナナに寄って来る。思春期の葛藤もバナナには勝てないらしい。バナナは日本のそれよりずっと小さい。包茎の半勃ちチンチンが根元から大量に生えているようだ。

「美味しいんだから~」とミコが甘い顔で言うので一気に根元まで頬張ってみると、全然甘くなくて、しかも固くて噛みきれなくて思わず吐き出しそうになる。ガリガリとした食感を楽しむ余裕もなくゴクリと吞み込む。平静を保っていたつもりなのにミコから「苦手だったかい?」と尋ねられる。「いや、慣れないだけ。これは野菜みたいに料理にも使うの?」と尋ね返すと、揚げたりご飯に混ぜたりして食べることもあるそう。

プリンゴとアユはテーブルの向かいでたまにお互いを見やりながらバナナをむしゃむしゃと食べていて、おばあちゃんに「あまり食べ過ぎないのよ」とたぶん言われている。

子どもたちにお土産を持ってきてないのがつくづく残念だと思いながらふたりを見ていると、バッグの中にお菓子が入っていたことを思い出して取り出す。南阿蘇の料理家、かるべけいこさんのローズマリークッキー。僕が世界で一番好きなクッキー。

「日本からのお土産、クッキーだよ」と言ってふたりに渡そうとすると、ミコが「ほら、日本のクッキーだって。食べてみなよ」と助太刀してくれる。ふたりは興味を示すものの、あからさまに警戒している。

結局プリンゴくんは「いらないー!」と言ったきり隣の部屋に走り去ってしまう。ひとり残ったアユに「ほら、食べてみなよ」とミコがゴリ押しするので、アユはしかたなく一口サイズのまん丸いそれを口に頬張る。途端にアユは異物が入ったような「何コレ!?」という顔をする。かるべさんのクッキーは既製品のそれとは違ってとても固いのだ。ヨックモックのやわらかいクッキーだったら喜んで食べてくれただろう。でもアユはいま、人生ハードモードみたいな表情で、人生を噛むようにクッキーを噛んでいる。僕はバナナ、アユはクッキーで、ハードな体験を交換するという結果になった。

ミコが村を案内してくれるという。ここはわずか80人くらいが住んでいる小さな集落で、隣の集落までは5㎞以上離れているとのこと。ミコは道で会う人すべてに等しく話しかける。「みんな家族みたいなものだから」と言う。途中、青い扉の家の前で凧を作っているおじさんがいる。僕の兄だよとミコ。家族みたいというか家族だった。兄は凧を作るのが上手なんだというのでその手さばきを見ていると、実際に匠に見えてきた。腰を浮かしたまましゃがんで作業をしていて、よくそんな姿勢のままずっと安定していられるなと思う。

途中からプリンゴの友達ふたりがついてきた。いっしょに石磨きのおじさんのところや洋裁店に行く。子ども3人はいつの間にか棒アイスをかじっていて、人生の辛酸を味わったアユとは違って幸せそうだ。店の中で溶けたアイスが床に落ちても、一瞥するだけで誰も気にしない。後で拭けばいい。ただそれだけのことだから、よそさまの家を汚して!なんて声を荒らげる必要はないのだ。

最後に小学校に立ち寄る。僕がこれまで人生で見たどの学校よりも小さい学校。日本の一軒家より少し小さいくらい。校舎の壁にはくまのプーサンらしきキャラクターの絵。右手と左足を同時に上げて、口角も限界まで上がっているプーさんはノリノリで少し生意気そうだ。他にもいろんなキャラクターのイラストが描かれている。

「この学校は私設の小学校。ここはほんとうに小さな集落だから、もともと小学校がなかったんだ。だから十数年前に僕ら数人がこの学校を建てて、バニュワンギから先生ができる人を連れてきて学校を始めた。でも、私設だからせっかくこの小学校で学んで卒業しても正式な資格として認められずに上級の学校に上がれない、ずっとそんな状態が続いていた。でも、昨年ようやく政府に学校として認められて、国から派遣された先生がやってきた。だからプリンゴは、僕らが行けなかった上級の学校に行ける。僕はこの集落でひとりだけ英語が喋れるけど、ジャカルタやバリでバイトしながら勉強して、本当に苦労したんだ。そういうわけで学校をつくった私たちにとって、この学校はちょっとした誇りだよ。」

自分が建てた学校が十年越しに正式な学校と認められて、息子がそこに通い始めた。こんなに誇らしいことは人生でそうはないだろう。僕は「すごいね、すごいね」と言いながらカラフルなペンキで塗られた教室のあちこちをいとおしく見ながら教室の備品をそっと触る。大人の創意工夫と愛情だけでできた空間。

僕はこの4日間、ミコの秀才さに圧倒されながら、彼のことを勝手に高等教育を受けた人だと想定していたし、そんな彼の前で日本の現代的な教育の問題について滔滔としゃべってきた。ミコはそれにひとつひとつ丁寧に自分の意見を話してくれたし、僕は理想を追いながらもどこまでも地に足をつけた彼の思考に共鳴していた。しかし、彼は小学校もない集落に生まれて、学校には通えていなかった。彼の英語も思考も、大人になって自分の生活の中で磨かれていったものだった。

「政府から派遣された先生が来るようになったでしょ。どうなったと思う? なんと勉強の質が落ちちゃったんだよ。先生たちの悪口はあまり言いたくないけどね。」

ミコによると、新しい先生は子どもたちとのコミュニケーションが上手じゃない、英語もちゃんとできないので、ミコが先生に教えたりしているとのこと。

「こんなことは子どもたちの前では話せないよ」

「そうだね、子どもたちの前で先生のことを悪く言ってはいけない」

学校裏の扉の前には、身長を測るためのメモリがついたキリンの絵が貼り付けてある。プリンゴはミコが何も言わないうちからキリンに吸い寄せられるように壁にピタリと貼りついて身長を測られるのを待つ。「107㎝、この前よりまた身長がのびたね」ミコがたぶんそう言って、プリンゴはミコを見上げてふふふーと笑う。そしてプリンゴの隣では学校で飼われている白黒模様の猫が眠そうに座っている。確かな幸せがここにあると思って、心がざわめいた。

ミコの家に戻ると畑で働いていた母親も戻ってきて家族5人でアシャールのお祈りをした。そして家族と記念撮影。アユは恥ずかしい…と言いながらも、撮影の瞬間だけはにっこり笑ってくれた。花が咲いたと思った。そして空港へ。ミコとふたり、互いに寂しい気持ちを共有していることを感じる。

最後にミコは「トバさんは公平にものを見ようと努力する人だ。これからも旅を続けるべきだと思うよ」と声をかけてくれた。「きっとまた会おうね」とハグ。飛行機の窓から見たジャワ島の山々は、にじんで揺れていつまでも焦点が定まらなかった。

 

校舎の裏で身長を測るプリンゴ

 

 

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。

第5回 アシジと僕の不完全さ

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

ローマから列車で約2時間かけて到着したアシジ駅。駅前は閑散としていて何もないし誰もいないので、そのうち観光バスくらい来るはずだけど……、と思いながらも4km離れているという旧市街に向けて歩き始める。

暑い日差しの中、視界の開けた幅の広い砂利道を歩く。青い空には雲ひとつない。この心細さが旅なのだと思う。右にも左にもオリーブ畑が見える。

15分ほど歩くと、丘の上に広がるアシジの町並みがその全貌が姿を現す。町の左側にはサクロ・コンヴェントの白い回廊が細長くはっきりと見えて、ゾクゾクする。僕はこのアシジという町に特別な思い入れがあったんだっけ。

その年の冬、大刀洗の実家に帰省したときに、父がアシジには行ったほうがいいよと言った。それを聞いて僕はなんとなくアシジに行くのは必然として決まってるんだと思った。そして僕は実際にアシジにやってきた。人間は偶然に身を委ねるなんてことがほんとうにできるかどうか疑わしい。その点僕は、むしろ必然に身を重ねるという快楽を知ってしまったらしいのだ。

その日は旅程14日ぶんの大きな荷物を持って歩いていた。30分以上歩いても町に着く気配がないので、大変なことになったと思った。夏休みの陸上部みたいに全身汗まみれだ。そしていつの間にか、オリーブ畑に代わってブドウ畑に包囲されている。

町は丘の上だから行程の後半は当然坂道で、フィアット500に乗った家族連れが汗だくの僕を尻目にビューンと通り過ぎていく。テディベアを胸に抱えた女の子と目が合う。後部座席に座る涼しげな彼女と、炎天下を汗だくで歩く僕の人生はいまここですれ違って、そしてまたたく間に離れていく。僕が8年後のある朝に、知床の森の中で絶望して死んでも、彼女の人生には1ミリも影響を与えないし、彼女が12年後の夏の夕方に、モハーの断崖で恋人を突き落としても、僕はいつもどおりに生徒たちの前で質量保存の話をするだろう。それでも、僕と彼女の人生は一度この場所で交錯した。そのことに意味を与えることができるのは僕だけだ。

坂を上って右に曲がると急に目抜き通りに出て、目の前に町が現れた。ついに到着したらしいのだ。町の表玄関と思われる路地の角には庶民的な聖母像のタイル画で飾られた建物があり、そこの半地下に居座っているトラットリアに入る。「喉が渇いているからまずはスティル・ウォーターをください」とお願いしてごくごくと一気飲みした後、甘口のスパークリングワインがあるというのでそれを頼んで、さらに、タリアテッレ・アラ・ボロネーゼを注文する。

店の奥にはひとり黒髪の女性が座っていて、ふと目を向けると親しみのこもった笑みを返してくれるので、僕もにこりと笑みを返す。僕のにこりはうまくいったのだろうか。

料理はあっという間にやってきた。太陽のようなオレンジ色のパスタ。日本のパスタよりずっと堂々としている。店独自のアレンジらしきものが見当たらず、素材の風味だけしかしないのに、本当に美味しいのだ。

ワインの追加を尋ねてくれたスタッフに「地震は大丈夫でしたか?」と尋ねる。アシジといえば、1997年の震災被害が知られるが、僕がこの地を訪れた数か月前にもイタリア中部で大きな地震が起きたばかりだった。「揺れたけど、この町はほとんど被害がなかったの」と彼女は言った。彼女の喋り方には異国人に伝わりやすいようにという穏やかな配慮を感じる。「あなたはどちらから来たの?」と尋ねられたので、「日本です。福岡という都市」と答える。「まあ、フクシマ…」「いいえ、フクオカです。日本には4つ主要な島があって、その中で一番南の九州島にある最大の都市」

彼女はわかったと小さく頷いて厨房に戻っていく。水分と食料が次第に体に染み込んで、体内に熱いエネルギーを作ってくれていることを実感する。そうだ、この店を出たらそこはアシジの町なのだ。そろそろ出ようかなと思って会計をする。

黒髪の女性が近づいてきた。彼女は20年ぶりの友人との再会を祝うように親しげに僕の目の前の席につく。肩の下に優雅に垂れる黒髪にはわずかに白髪が混じっている。ほっそりとした顎のラインには、最近までそこにぜい肉があった痕跡がある。

「私はあなたがここに来るのを待っていました」

彼女はそう明るい声で言う。彼女の日本語には澱みがない。

「トバカズヒサさんは福岡からローマに来て、そしていまはウンブリアをひとりで旅しています。」

僕が面喰って「なぜ僕の名前を…」と言いかけると彼女は遮るように話し続ける。

「あなたは若者を助ける仕事をしています。ふだんは学問を教えているけれど、時に若者たちの命を守ることもあります。神に授けられた仕事をしていらっしゃいます。」

「え? 僕は別に助けているわけではなくて……」

彼女は平坦な声でまた僕の言葉を遮る。「私は、私の意志で話しているのではなく、神のおぼしめしのままに話しています。だから、少し静かに聞いていただけますか。」

「私はある方からトバカズヒサさんのお話しを聞きました。ある方とはフルノミノルさんです。ミノルさんは私が大切な記憶を失くしていることを知っています。だから、記憶が戻ったときに私が困らないように、頼っていい方を私に教えてくれました。その頼っていい方がトバカズヒサさんです。トバカズヒサさんは、ミノルさんにとって大切な人です。ミノルさんは、トバカズヒサさんのことを尊敬し、愛しています。だから私にトバカズヒサさんの名前を教えた上で、「トバカズヒサさんはきっとあなたの力になってくれますよ」と励ましてくれました。残念ながら、私はトバカズヒサさんのことを知りませんでした。でも、ミノルさんはトバカズヒサさんについて少しの情報を伝えてくれました。トバカズヒサさんは、数年後に鳥の本を出して名が知られるようになります。あなたはここウンブリアでただ時機が来るのを待っていたらよいのです。そうすればなすべきことはわかります、と」

僕はもう何も言うまいと思って、彼女が望む通りに黙って聞いていた。彼女は恍惚の表情を浮かべて、興奮気味に話す。

「ミノルさんは司祭ではありませんが、神に仕える方です。アシジに毎日通い、いくつかの聖堂、特にサン・ダミアーノ教会でお祈りしているようすをたびたび見かけます。カトリックの教理に精通していて、聖職者たちにも一目置かれているようです。私はトバカズヒサさんがキアーラと話し始めたとき、今日、私はトバカズヒサさんを待つためにここにいることに気づきました。」

「でも、僕はミノルさんを知りません。」

僕はたまらずに言った。黒髪の女性は嬉々とした顔色を一転させ、苦しみの表情が顔を覆う。

「トバさんはそのようにおっしゃるだろう…と、そのように言うしかないのだと、わかっていました。」

「いや、そうではなく、本当に僕はミノルさんのことを知らないのです。それに、鳥の本なんて、僕は書かないだろうと思います。」

「……そうですか。すみません……。私はとんでもない勘違いをしてしまったようです。ミノルさんが教えてくださったトバカズヒサさんと、鳥羽和久さんを私は混同してしまったようです。無礼をお赦しください。」

黒髪の女性は急に涙ぐんで答える。

「いいえ。僕がミノルさんのことを知らないというのは、さして重要ではないのかもしれません。だいたい僕の記憶も定かではありませんし。とにかく何かのご縁ですから、またお会いする機会があれば、そのときにお話ししましょう。」

僕はそう言ってそそくさと店を出る。会計を済ませてすでに33分が経過していた。

もう14時を回っていて、僕は明日の朝にはこの町を出るんだから、旅行者らしくできるだけ多くの場所を回らなくてはいけない。サクロ・コンヴェント前の広場に出たあと、サン・フランチェスコ聖堂でジョットのフレスコ画を見る。あの有名な「小鳥への説教」もある。僕がもし本を出版することになったら、表紙は鳥の絵がいいと思った。

僕が名だたる聖人の中でもフランチェスコのことを信頼しているのは、彼がいわゆる改革者ではないところだ。フランチェスコ会はやることが極端だったから危うく異端扱いを受けることがあったけど、あくまで彼らはカトリック教会の規範の中で動いた。必要なのは改革ではなくて、もっとシンプルにカトリックの深化、徹底が足りないのだと、百折不撓の精神で父なる神と向き合う道を選んだ。

当時、教会には腐敗した司祭たちが多くいたが、フランチェスコは「どんな司祭だろうと、自分の主人としておそれ、愛し、尊敬するだろう」と言い、さらに「彼らの罪を見ないつもりである、彼らを神の子と思うから」という言葉を残している。そのわけは、司祭はキリストからその体と血を受け、それを他に分け与える神秘の存在であり、この世でそれ以上に崇め尊ぶべきものは他にないからである。つまり、腐敗した司祭たちのパーソナルで人間的な罪を咎めて糾弾することよりも、彼は聖職者の職能こそを重要視したのである。フランチェスコは「小さき者(ミノレース)」として生きることを選び、自身が司祭になることを注意深く斥けながら、生涯にわたって教会と聖職者が持つ機能と職能を重んじることを徹底した。

彼が改革ではなくむしろ旧態依然の方法を徹底するというやり方で、組織の内部に極めてラディカルな思考を生み出すに至ったことは示唆的である。

僕たちがあらゆる専門家、例えば裁判官や検察官、政治家、医者や博士たちを批判するとき、専門性という地層に対する敬意を失っていないか。単に人間を批判するよりも、専門家の専門家たる所以を守る、そういう「保守」の在り方こそが改革よりずっとラディカルなのではないか。彼の姿勢からは、そんなことを考えさせられる。

地下の聖堂に寄った後はぐんぐん歩いてコムーネ広場に出て、ローマ神殿の柱を持つサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に立ち寄る。そしてそのままルフィーノ聖堂へ。さらに小さな坂道を下って、サンタ・キアラ聖堂に辿り着く。ここから見下ろすと、ウンブリアの土地がどこまでも広がっていて、先の方はぼやけて見えない。「あっちがペルージャ? いや、ペルージャはこっちだよ」と老夫婦が左や右を指差しながら喋るのが聞こえる。

泊まる予定のホテルからは遠のくけど、この際どこまでも下ってやるんだと思って駆け足で辿り着いた先にあったのがサン・ダミアーノ教会。窓に飾られた赤いバラの花が鮮やかだ。ここは、例のフルノミノルさんがよくお祈りをしているという教会だ。もしかして彼はいまここにいるのだろうか。いたとしたら僕に気づくだろうか。

入ったとたん、僕はここに来たかったんだなと思う。体がすっぽりとその空間に収まる感じがする。母胎みたいだと思う。教会ではたった30人ほどの信者を前にミサが行われていて、僕が教会のオルガンの傍に跪くとすぐに、腰が曲がった丸眼鏡の神父が説教を始めた。

「今日は、アウグスティヌスのパラドックスのお話しをいたしましょう。」

神父がこのとき話し始めたのは、自己の存在証明についての話だった。

皆さんは、「私自身は存在している」そのことを疑ってはいないかもしれません。しかし、自身の存在を論理的に説明することは、非常に困難な作業を伴います。私たち人間の存在は、それを明らかにしようとしたとたんに、はじめから矛盾を含んでいるということに気づかされます。

私たちは、自分のことをAはAであると言い表すことができません。それは、同語反復以外の何ものでもないのです。これはつまり時間についての話です。実際、人は自分のことをAである、と表明している矢先に、変質してAではなくなるのです。人が死ぬことは、その変質に由来しています。人がたったいま、この瞬間も死に向かっているということは、変質してAでなくなっている証拠です。ほら、まさにあなたもこの瞬間に、死に向かって変質している。それほどに人間は不完全な存在です。

だから、私たちは決してAはAである、と自分を定立することはできません。AはAであった、とか、AはAでありうる、とは辛うじて言うことができます。しかしながら、AはAである、とは決して私たちは言い得ることがないのです。

まさに僕もこの瞬間に、死に向かって変質している。僕は自分の両手の骨が開いたり閉じたりするのを見ながら、そのことを考える。

この世において己をAはAであると表明できるのは、唯一、神のみです。ヨハネの福音書の18章を思い起こしてください。ここには、イエスが「私は私である」と言ったとたんに、イエスを捕らえようとした人々が後ずさりして、しまいには地に倒れてしまいます。人々は「私は私である」と言う神の子イエスの全能性に圧倒され、自分の非力を全身で思い知らされるのです。そこでは「私は私である」という言明さえも適わない人間存在の本質的な脆弱さが露わになります。

一方で、神は完全であり損なわれることがありません。神は、「AはAである」と言うことができるがゆえに、完全な存在です。

僕は、神はなにゆえに完全な存在であるのか、と問うてみる。あくまで、僕たちが不完全であることの対照物としての完全さなのであろうか。

ですから、神のようにAはAである、ということを定立することができない人間は、それが不可能である以上、AはA´(Aダッシュ)であるという形、つまりAに非ざるものによって自身の同一性を回復するしか術はありません。

だから、そこで考え出されたのが「関係」です。他者と相互に類比関係を結び、他者との交わりの中で、他者から与えられた眼差しの交錯によって、自身の実存を取り戻すのです。イエスが福音書で述べた掟、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」は、ここにおいて意味を成します。

もしあなたたちが、自分の存在を疑っておらず、しかも私は私である、というふうにそれを証明することができるなら、互いに愛し合う必要はないのです。そうではなく、私たちはそもそも、いずれ死に至る不完全な存在であるがために、不完全な存在としての孤独が宿命づけられているがゆえに、神はお互いに愛し合うことを人間に命じているのです。イエスは、自身の実存さえもままならない私たちの生を見抜き、これを掟としたのです。ですからあなた方も、他者と交わり、愛し合いなさい。アーメン。

実存さえもままならない、不完全な存在としての孤独。このことが僕たちの「原罪」なのだ。そう思うと、これまで僕を苦しめてきた罪のひとつをほどいてもらったような気持ちにもなった。

僕は幼いときから「罪」に苦しめられてきたのだと思う。カトリックには「告白」という制度があって、自分が犯した罪を定期的に神父の前で詳らかにしなければならない。告白という制度は、自らの罪を常に問い続けなければならなくなるという理由でとても厄介な代物だ。四六時中、これは罪だろうか、また罪を犯してしまった、そういうことを考えながら、いつでも頭の隅に罪悪感を抱えたまま生活をすることになる。自分が一日に何回嘘をついたのか、その数を勘定しながら日々を暮らすのである。

しかし、どれだけ「告白」をしたところで、自分の罪はなくなることがない。告白を終えたとたんに別の罪が蘇生する。あれも罪だったのではないかと思い起こされる。告白をして赦されることで、新たな罪が呼び覚まされるのだ。罪は目に見える行為だけでなく内面にも存するものなので、心が罪を犯すことは避けがたく、いつでも罪悪感が心を絞めつける。そして、その罪悪感は鋭い自己否定に繋がる。

質素な聖堂の中で幼いころの罪の意識を思い出していたとき、突然に、ああ、これは自分にとって案外苦しいことだったのだな、と気づかされた。そのときまでは、こんなものだと思っていたことが、こんなに苦しいことだったなんて。僕はいままで、苦しいことを認めることができる、という可能性自体に気づいていなかった。

「原罪」が不完全な存在としてこの世に生まれおちる僕たちの宿命を示すならば、一方で「罪」とは不完全さを満たそうとする僕たちが、そのための行為を誤ることを指すのかもしれない。その行為を誤ると決して満たされることはないから、たやすく自己否定のループに陥ってしまうのではないか。

僕は罪という実体を恐れ、それに苦しめられてきた。しかし、罪というのは必ずしも実体を伴うものでなく、自らの不完全さに対する対処を誤るということなのではないか。自らの孤独を深めることをせずに、一時の享楽に甘んじるということなのではないか。

行為を誤ることで満たされない。これを繰り返して神を遠ざけることは不幸だ。そうやって僕たちに不幸を呼び込むものを「罪」と呼ぶ。

一方で、僕たちの不完全さは、それ自体は罪ではなかった。僕たちの不完全さは、僕たちを愛で満たすための器(うつわ)そのものだった。

 

駅からしばらく歩くと、アシジの町が見え始めた


●参考文献
若松英輔、山本芳久『キリスト教講義』(文春学藝ライブラリー)
J.J. ヨルゲンセン/永野藤夫訳『アシジの聖フランシスコ』(平凡社ライブラリー)

 

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。