第3回 スリランカの教会にて

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

コタヘナに位置する聖アントニオ教会(St. Anthony's Shrine)は、コロンボで最も古い歴史を持つカトリック教会のひとつ。スリランカで少数派にあたるカトリック信徒たちは海岸沿いの地区に住んでいる人が多く、この教会もかつては海辺に建っていたそうだ。だが、現在は周囲が埋め立てられて当時の面影はない。教会の入り口にある聖アントニオ像の下には、聖人の舌の欠片が聖遺物としてガラスの箱の中に大切に保管され、多くの巡礼者を集めている。

スリランカではすでに5世紀には古代キリスト教の集落が形成されていた。現在に直接繋がるカトリックの信仰は16世紀前半のイエズス会の布教によるもので、宣教師の到達は日本より30年ほど早い。1510年にゴアを占領したポルトガルは、7年後には隣国のコロンボを攻略した。

教会があるコタヘナ地区は、この時期にカトリック集落が形成された土地で、その昔から漁師町だった。ここから北に50㎞ほどの町ネゴンボには大きなラグーンがあり、現在はリゾート地として有名だが、リトル・ローマと呼ばれるこの町にはスリランカ最大規模のカトリックコミュニティがある。そして、この地もいまだに漁業を生業とする人が多い。

僕は潜伏キリシタン時代からの信仰を受け継ぐカトリックの家庭で育ち、東シナ海の海上で命が尽きた祖父をはじめ、親族には漁師が何人もいる。だから、スリランカのカトリックにシンパシーを感じていて、それが教会訪問の理由になった。

灼熱の太陽に晒されて聖アントニオ教会に辿り着いたが、聖堂の中に入ると案外涼しい。日曜日のミサの真っ最中で、多くの信者たちが礼拝をしている(200人くらいだろうか)。

僕も後方でミサの列に加わる。3つ前の席で母親にくっついて座っている女の子が、落ち着きなく体を動かしている。5歳くらいだろうか。リネンの赤いワンピースを着ていて、漆黒の髪の毛は肩の下まで垂れている。何度も後ろを振り返るから、彼女の大きな目が自然と僕の目を捉える。少し微笑みかけようとすると、僕には目もくれずにくいっとお母さんの顔を見上げる。そしてその小さい右手を真っすぐ上に伸ばしてお母さんのあごに指を触れさせる。お母さんは、何するのよとその手をすぐに払いのける。

ミサの後に2階に上って聖パトリックの資料展示をひと通り見る。すぐに見終わってそそくさと帰ろうとすると、「食べていきなさい」と急に後ろから声がする。声の主は白いベールを被った細身の中年女性で、階段右手の椅子に座って片肘をついたままじっと僕を見ている。

彼女は椅子の後方にある木箱に入った白いビニール袋を指さしながら「食べていきなさい」と僕に伝えてくれたのだが、僕の方はお腹がへっていなかったので、「結構です」と丁寧に断る。しかし、彼女は予想に反して引き下がらない。僕が遠慮しているのだと思ったのだろう。「食べていきなさい。無料だから」と2度、3度と言われ、こうなるともう、いただくのが正しい作法かもしれないと思って、木箱の中の生温かい塊を一つ受け取る。そして、彼女が指をさした方のテーブルに座って、風呂敷を広げるようにしてビニール袋を開く。

ビニールにベタリと張り付いてひと固まりになっているカレーを見て、これは食べても大丈夫なやつなんだろうかと不安になる。お腹を壊したりしないだろうか。ビーツのアチャール由来と思われる赤い色素が血しぶきのようにカレーの表面に飛び散っていて不気味だ。

いや、でもこれが食べてみたら意外と美味しいんだよ。気を奮い立たせて食べようとするが、肝心のスプーンがない。辺りを見渡すがそれらしきものはない。さっきの彼女と目が合って、「何?」と顔で尋ねられるがすぐに目を逸らして、そうか、これを素手で食べるのか……と、もう一度目の前のビニール袋入りカレーと対峙する。

そのとき初老の瘦せた男性がやってきて、手洗い場でゴシゴシと手を洗った後、躊躇なく木箱の中のビニール袋を手に取って、僕から一番離れたテーブル席に座った。そして、ニワトリがエサをついばむときのような作業的な指の動きで、次々とカレーを口の中に放り込む。

僕が彼の様子を窺っていることに気づいた女性は、「あなたも手を洗って食べなさい」と僕に言う。よく聞き取れなかったが、たぶん彼女はそう言ったのだと思う。

僕は手洗い場でふだんよりずっと熱心に手を洗った後、再び席につく。さっきより気が大きくなって、右手の指先をカレーの中にグニュッと差し込む。慣れない生々しい感触。指でつまんでそのまま口の中に入れる。ほら、食べてみたら美味しい。決して上等なカレーではないが、これなら十分にイケる。

手で食べることで、食べるという行為の意味が変質する。食べることは、もともとは得体の知れない物に触れ、においを嗅ぐところから始まっていたんだろうという強い確信が、熱いスープのように胸を駆け上る。だって、食べ物は人間を生かすと同時に殺すこともあるんだから。食べる前にできるだけの情報を仕入れた上で、体内に入れるのが当たり前じゃないか。キャラメルコーンみたいに全ての個体の質が均一ということはないから、口に入れるたびに各個体の確認が必要なのだ。

指先で触れるだけで、いま口に入ろうとしている物体のことがよく分かるようになる。生き物を食べているというネチャネチャした感覚があまりに生々しくてゾッとするが、味覚の方も同時に鋭くなるのか、美味しさはむしろ強調されるようだ。

それにしても、日ごろ自分がいかに食べるという行為をないがしろにしているかということに、否応にも気づかされてしまう。箸やスプーンといった道具を介して物に接することは、物との関係を決定的に変える。知らず知らずのうちに、道具の使い手としての思考の型が形成されるのだ。道具を使うことで、忘却の彼方に追いやられた思考や感覚が、きっとたくさんあるのだろう。そして、道具を使うことがデフォルトになった後にはそれを取り戻すことはできない。おそらく僕ら人間は、これからもずっとずっと失い続ける。

その後も聖堂の2Fには男性たちが階段を上ってくる。義務のように手を洗った後、手慣れた様子でビニール袋を広げてカレーを食べる。彼らの中に今日食べるものに困っている人たちが混じっていることは、その身なりからうかがい知ることができた。こうして、当然のように教会が困窮者を助ける役割を果たしており、そしてそれが日常の風景として存在しているこの町が愛おしく感じられると同時に、僕はここで食べる資格がないのに食べていると思った。

帰り際に彼女に尋ねた。
「カレーを食べに来るのは、カトリック信徒の方たちですか?」
彼女はゆっくり首を振りながら答えた。
「いいえ、違うわ。どんな民族や宗教の人も、ここでは誰でも無料(タダ)でカレーを食べていいの。神がそんなふうに人を区別すると思う? だから、信仰が判らないあなたに、私はカレーを食べていくように言った。ここはそういう場所なの」

 

この日の午後、僕はコロンボ在住で建設業を営む日本人男性に紹介されて、現地の有名な「社長」に会った。会った場所はブレンドコーヒーが1杯600円もする外資系のカフェ。このカフェは周りの町の様子から明らかに浮いていて外国みたいだ。社長はアフリカ系の顔立ちで、いかにも社長らしい威厳を持って僕の前にやってきた。日焼けした巨漢の彼の前では、自分の身体がとても小さく頼りなく思える。

社長の家系はスリランカの政治界の大物を多数輩出していて、さらには東京で10以上の飲食店を経営している。彼のかつての遊び仲間には安室奈美恵やフジモンらがいるそうで、社長は携帯をパカっと開いて、オレにとってはフツウのことだよといった風情で、かつて彼らと豪遊したときのツーショット写真を見せてくれた。写真を見せることで社長がどんな効果を狙ったのかは知らないが、このせいで僕は彼のことを俗物じゃんと思った。現在の彼は、ネゴンボに高級日本料理を出すホテルを建設中である。

社長は日本での経営はまあまあだが、とにかくスリランカの事業で苦労しているらしい。
「スリランカでは医療も教育も無料、生きるだけなら衣食住にもほとんどお金が必要ないから、働く意欲がない人が多い。仕事で嫌なことをさせたらまず次の日から来ない。クレームをつけたら、謝罪とフォローどころか、二度と連絡がつかなくなり、途中で仕事が投げ出されてしまう。時間、約束、契約の概念がない。平気で嘘をついて、何でも先延ばしにするからビジネスが全く進まない。ネゴンボのホテル開業の準備も、まともなスタッフがいないせいで本当に大変なんだ。」

僕はさっきカレーを食べているときに見た男性たちを思い出す。僕は彼らのことを「食べるものに困っている人たち」だと決めつけたが、彼らは単に食べるために働くということを選んでいない人たちなのかもしれない。つまり、「困っている」という憐れみ自体が的外れの可能性がある。相手を弱者として見ることは容易く、その人自体として見ることはずっと難しい。

社長は続けて話す。
「スリランカに外資系がなかなか進出できない理由を知ってる? 人間が全く使えないからだよ。嘘を嘘だと思っていない人間に話が通じると思うかい? オレはできるだけいい車に乗りたいといつも思っているけど、周りには自転車からさえ降りたがっている人が多い。」

2つの国で人を雇用する彼はため息混じりにそう言う。チッと舌打ちする音さえ聞こえた気がする。でも僕は「自転車からさえ降りたがっている」という彼の喩えが面白いと思って、顔をホクホクさせていたかもしれない。彼への共感が全然足りない。
「いまの話は興味深いね。でも、日本人だっていいところばかりじゃないんじゃないかな。だって、日本人は始まりの時間は守っても、終わりの時間は守らないし。僕にはかえってスリランカの自転車を降りたがる人たちは正直な生き方に見えてしまう。それが悪いことだとは思えない。」

僕の言葉は社長にとって、かなり的外れだったようだ。彼は首を激しく横に振りながら言う。
「鳥羽さん、それは全然違うよ。鳥羽さんは日本の経営者だからそんなことが言えるんだ。当たり前すぎて日本のシステムの良さが感じられないだけさ。日本人が終業の時間を守らないことなんて、オレだったら泣きながら神様に感謝するところだ。まあオレは神を信じてないけどね。君はもっと自分が置かれた環境に感謝しないと。日本にはその環境を作った先代がいるわけじゃない。この国は医者や弁護士さえ信用ならないんだ。自分の狭いコミュニティだけが得することだけを考えて生きてるからね。日本人が日本を卑下していいところなんて何もない。日本のシステムは完璧なんだから。スリランカはとにかく人間がダメなんだ。この国のことを変に肯定的に見てくれなくていい。」

社長の声のトーンは鋭かった。彼が現場でスリランカの人間に憤っていることがありありと伝わる。僕は確かに日本のシステムに助けられている。その土台があるから商売ができている。彼の言うように、そのシステムを作ってくれた先代たちに感謝しなければならないのかもしれない。

でも僕は、僕らの社会が時間や契約を守ることを自明としたとき、同時に失われた関係性や、振り返られなくなった知恵や慣習のことを知りたいし、そのことを知らないと怖いと思う。でなければ、いつか復讐されるような気がする。スリランカの人たちの気質は、失われたものを知るヒントそのものだと思う。

「ネゴンボは漁業がさかんで、カトリックが多い。」
僕は唐突に話し始めた。
「あなたは人間をとる漁師になる、という言葉がルカ福音書の中にある。ガリラヤ湖の漁師だったシモン・ペトロにイエスが呼び掛けた言葉。あなたが人間をとる漁師になったらいい。」

社長はよく分からないという顔をしている。
「聖書のことは知らないけど、カトリックの人たちは他に比べたらまだ勤勉だよ。もともとカトリックの人たちは英語ができるし、学問ができる人たちが多かったんだ。植民地時代からの恩恵で、少数派である彼らが優遇された時代もある。でも、いまは違う。政治的に多数派のシンハラ人が強くなったから、少数派はいろいろと苦労している。だから、オレが知っているカトリックの人たちは貧しいし、やっぱり嘘をつく。」

嘘をつくのは仕方がない。僕はそう思った。ペトロも3回嘘をついた。でもペトロは鶏が鳴いたときに気づいた。自分はすでに赦されていたと。だから彼は激しく泣いたのである。自分の弱さが認められる場所であれば、人は嘘が必要じゃなくなる。

「まあ、嘘はオレもつくけどね。それがビジネスだから。」

社長はそこでニヤリと笑う。いかにも悪そうで僕はフフフと笑ってしまう。彼は現実的な人間だけど、ある意味で真っ当だ。厳密に言って嘘がないビジネスなんておそらくない。ビジネスにおいて、嘘が嘘だと分かってやっているということが、ビジネスをやりくりすることの核心にある、というのは言い過ぎだろうか。

僕がいまの日本のシステムに限界を感じるのは、それが嘘や誤謬を認めないという類いの不寛容さの方向に進んでいる点である。そういう過剰な潔白さは人間をダメにする。その結果、システムが機能しなくなって効率がかえって悪くなる。そのことがわかっていない人が多い。この意味で、現代のシステムに抵抗することは、単に管理社会からの自由を担保するためにあるのではない。逆説的になるが、システムを生かす知恵としての抵抗がそこにある場合があるのだ。

 

コタヘナの聖アントニオ教会は、僕が訪れた半年後の復活祭の日曜日に爆破された。ちょうどミサの最中を狙った自爆テロであったため、死者は50名を超える多数に上った。この日、スリランカでは複数の高級ホテルやキリスト教会など計8カ所が無差別テロのターゲットとされ、その中にはやはり復活祭のミサの最中であったネゴンボの聖セバスティアン教会も含まれていた。この教会だけで死者数は100名を超えており、あまりに悲惨で無念極まりない。[i]

あの赤いワンピースの女の子は無事だっただろうか。そして、女の子のお母さんは。あの日、日曜日のミサに参列していた親子が、復活祭の日にミサをすっぽかすわけがない。どうか無事でありますように。聖アントニオは子どもの守護聖人だから、あの親子を守らなければいけないはずだ。

僕はあの日曜日に教会にいたひとりひとりの無事を祈ることはできない。あの日脳裏に焼き付いたという身勝手な理由で、あの親子の安寧を願っている。僕はいまだに世界平和を祈るということについて、そういう細い糸をたどるような祈り方しか知らないようだ。

なぜあの素朴な祈りの場所が破壊されなければならなかったのか。なぜイスラム過激主義が、少なくとも国内ではその対立が先鋭化していなかったスリランカのキリスト教施設を標的にしたのか。僕なりにいろいろな文献をあたって学び、考えたことがあるが、旅の主題から逸脱するのでここには詳しく書かない。[ii]

しかし、学んだことを踏まえて一つ言えることは、個人の祈りが集う教会を素朴と呼ぶことは感想としては間違ってはいないとしても、それを国内、国外を含む歴史的文脈の中で捉えたときに、教会はある政治的立場(イデオロギー)の象徴的施設であることは紛れもない事実であるということである。そして、個人が民族や宗教といった集団に参入することは、そのまま個人を政治的存在にするという事実も同時に認めなければならない。

 

スリランカの教会は概して規模が小さい。毎週その教会に集まる人たちは全員が顔見知りという程度の人数しかいないはずで、そのごく小さなコミュニティがある日突然に破壊されたという事実は、僕自身が教会に育てられた過去があってその規模感が分かるだけに衝撃が大きい。

このとき失われたのは人の命だけではない。そのコミュニティの中で、身近な人たちを介して引き継がれてきた大切な祈りと知恵が失われたのだ。これは、時間が経って元通りになったように見えても二度と回復しない。失われたものは、ずっと失われたままだ。そしてそれは、損なわれてしまったあとには、そこに何があったのかもわからないようなものである。人の命が失われるというのはそういうことだ。

今日も世界の片隅で何か大切なものが失われていて、そしてそれはもう二度と取り戻せないことについて考える。世界は途切れながらまた生まれて、なんとなく繋がっているように見える。途切れ途切れの中に繋がりを見出して、僕たちはなんとか生き延びていく。

スリランカの教会に花束を。

 

言(ことば)に絶えたる日は始まる。

見せつけらるるおのが弱さよ、

見失いたる神のさびしさ。 藤井武「羔の婚姻」

 

ビニールを開いて手でカレーを食べる。聖アントニオ教会にて。


[i] :Sri Lanka Attacks: What We Know And Don't Know  New York Times April 24. 2019

[ii] :日本語で読めるものとしては、川島耕司による論文(国士舘大学政治研究)や著書『スリランカと民族』、澁谷利雄『スリランカ現代誌』などが参考になる。

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。

第2回 クレタ島のメネラオス

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

サントリーニ島を出た船がクレタ島のイラクリオンに着いたのは、到着予定時刻を90分も過ぎた夕方の5時。港に迎えに来ているはずのメネラオスがまだ待ってくれているか心配だったが、船を降りてほんの数秒で彼を見つけた。「長い時間待っていてくれてありがとう」と固い握手。短い指のひとつひとつに太い皴が刻まれた手。

島の中心地である港町イラクリオンは素通りして、南海岸にあるマタラに滞在することにする。1970年代にジョニ・ミッチェルが滞在していたことで知られる、かつてヒッピーの聖地と呼ばれた町。港からは70㎞ほど離れていて車では2時間以上かかる。そこまで行けば、誰の目も気にせずにのんびり過ごせるだろう。

隣で運転しているメネラオスが豊かな白いひげを触りながら「マタラか…」とつぶやく。「僕らの若き日々、光輝く土地、マタラ…」彼ははるか遠くに視点を定めながらそう言う。あとでわかったことだが、メネラオスはごく個人的な感傷を惜しげもなくさらけ出す。人の顔色を伺って自分の表現を変えようとするような卑屈なところがない。きっと卑屈になるほど複雑な感情生活を送っていないのだ。彼はジョニがマタラにいたのと同じ時期に、若き青年としてその地でヒッピー生活を満喫したらしい。酒とドラッグ、フリーセックス、自由奔放な生活、有機栽培、実存主義……。ヒッピー文化のさまざまなキーワードが浮かぶが、メネラオスはどこまで深入りしていたのだろうか。当時のマタラにはアメリカや西ドイツなどから多くの若者がやってきていたらしいが、メネラオスは生まれも育ちもクレタ島である。

2時間10分かけてマタラに着く。メネラオスに「疲れたんじゃないかい?」と尋ねると、「まさか、マタラに着いたら疲れなんて吹き飛んじゃったよ」と言う。車を降りると「ついてきて」と言うので僕はメネラオスに従う。日の暮れたマタラの町は随分くたびれて見える。メネラオスは「このあたりは変わったな」とつぶやきながら、天啓に導かれるように早足に進んでいく。

彼が目的地に選んだのは、土産屋の通りが尽きたところにあるビーチフロントのバー。店に入ったとたんに独特の甘い香りの煙が漂っていて、ここはもしかしてと思う。メネラオスに言われるままにカウンターに座り、ビールとおつまみを注文する。マタラではすでにヒッピーが歴史化されていて、いまはありふれたリゾート地になっているというガイドをどこかで読んだが、この店は1970年代をそのまま冷凍保存した後に、たったいま解凍してお目見えさせたような雰囲気だ。猥雑で落ち着かないが、いきなりマタラのディープさを目の当たりにした気分になる。

店内では爆音でロックミュージックが流れている。AC/DC、The Doorsと続いたあとにBon JoviのLivin’ On A Prayerが鳴り始めた。Bon Joviは80年代だから少しだけ新しい。店の客がいるスペースはせいぜい6畳くらいしかないのに10人以上の老若男女が他人と体を擦り合わせながらヨロヨロと踊っている。注文したおつまみが目の前のカウンターに置かれると、踊っている若者たちの手が伸びてたちまちに奪い取られる。なんだよこいつらと思うが、その様子を見るメネラオスは何も言わないからこれがこの場所のルールなのだと思ってみる。いや、彼らは単におつまみが食べたいから食べていて、メネラオスも咎めるほどのことではないから咎めないのだろう。空になったおつまみの皿の横にある重々しいビールのジョッキを持ち上げる。さすがにジョッキを奪おうとする輩はいない。

メネラオスには明日も運転を依頼しているので「メネラオスは今晩どこに寝るの?」と尋ねると、「ビーチで寝るよ。うーん、なんてことだ。40年ぶりにマタラのビーチで一晩を過ごすよ。ワクワクする」と少年のように目を輝かせている。いくらヨーロッパの南端にあるクレタ島といえども、9月の夜は冷える。一晩を外で過ごすなんて体壊すよと心配になって、僕が取ってる宿で寝たらいいじゃないと誘うが、「カズ、僕のせっかくの自由を奪わないで! こんなチャンスは二度とないかもしれないんだから」とグシャグシャに笑いながら言う。メネラオスは心の底からビーチで寝たいらしい。いやマジか、信じられない。きっと彼と僕とでは体のつくりが違うんだと思って了解する。じゃあ、また明日の9時に会おうねと言って別れる。

朝起きて宿のベランダに出ると、一面にマタラのビーチが広がって見える。開放的な気持ちよさにふわっと意識が遠のく。ビーチは入り江になっていて、ビーチ奥の崖には洞窟のような穴が無数に開いている。もしかしてメネラオスはどこかあの穴のひとつで寝ているんじゃないかなと想像する。

朝日を浴びながらパンツひとつで『余白の芸術』という本を読んでいたらメネラオスがやってきた。まだ7時50分なんだけど...と思いながら、メネラオスに「眠れたかい?」と尋ねると、「うーん、よく眠れたかは分からないけど自然とひとつになっていた」と言う。彼がついてきてと言うのでシャツを乱雑に羽織ってついて行くと、朝食はここがいいよと宿のすぐそばの小さなレストランに案内してくれる。席に座ると朝早くから泳いでいる人たちの姿が見える。「朝から寒くないかな?」と言うと、「寒くても問題ない。ビーチに寝転がって太陽を浴びれば温かくなるよ」とメネラオスは答える。たしかにビーチにはすでにトドのように横たわる人たちの姿が点々と見える。彼らはサウナで温まった後に冷水浴をするように、日光浴と海水浴を繰り返すらしい。

この日はメネラオスと島の南部を中心に1日いろいろな場所を回った。クレタ島の観光といえばミノス文明などの古代遺跡が有名だが、遺跡にはあまり興味がないので、現役の教会堂や修道院、そして峡谷やビーチに連れていってもらった。圧巻の景観をもつプレヴェリのビーチで泳いだ後に、近くの修道院に向かう。メネラオスに「カズ、君の宗教は何だい?」と尋ねられて「僕はカトリックで、生まれて間もなく幼児洗礼を受けたんだ。自ら選んだわけではない。メネラオスは正教会だよね」と答える。メネラオスは少し間を置いて、「うん、もちろんそうだよ。カズはカトリックか、まあ、同じ神をもつ仲間だね」と言って何か考え込んでいる。

プレヴェリ修道院に着いた。メネラオスは、入口でドネーションを払う僕を尻目に「信者はお金は要らないんだよ」と言いながら我が物顔で敷地内に入っていく。クレタ島の古い修道院はたいていトルコ人たちとの血なまぐさい戦闘の歴史を持っていて、この修道院は崖っぷちの高台に建っているので要塞にも見える。

訛りのある英語を話す女性ガイドが10名程度の団体に向かって話している。「人を殺してはいけない。そんなことは当たり前です。でも、物事はそんなに単純ではないし、原理原則が通用しないこともあります。クレタ島はギリシャ本土と、トルコ、さらにアフリカとほとんど同じ距離の場所に位置しています。だから交易で栄えてきた一方で、苦難の歴史をたくさん持っています。この場所にはその歴史が凝縮されています。」聴衆たちは暑い日ざしを浴びながら彼女の話に聞き入っている。クレタ島は、「原理原則が通用しないこともある」という真理が人々の心に深く織り込まれている土地なのかもしれない。人はときに歓待し、ときに抵抗する。それが生きることの比喩でもある。でも結局のところ、何事もなるようにしかならないのである。これは運命の話だ。

地中海の島々は日本の人たちが想像するほど豊かな土地ではない。クレタ島も例外ではなく、モンスーンの恩恵を受けた湿潤な土地から来た人間から見ると、全てが干からびて見える。大きな河川はひとつもなく、褐色のテラロッサの上にすね毛のようなオリーブの木がこびりついている。しかし、そんな島の中にも豊かな水が湧き出る「泉の村」がある。プレヴェリから20㎞ほど北東の内陸部にある村スピリにはプラタヌスの大きな木が2本生えた広場があり、そこにはケファロフリシという泉があって、25頭並んだライオンの口から冷たい水が流れ出る。メネラオスはライオンに身を捧げるかのように全身をかがめて、頭部全体にビシャビシャと冷水を浴びせ始める。彼は人目を気にするということを知らない。僕もメネラオスの真似をして頭から冷水をざぶっとかぶる。ああ、気持ちがいい。人目を気にしないところに特別な快感がある。ここの泉の水温は年じゅう13度に保たれているらしく、浴びた後には頭がキンキンした。

広場にあるタヴェルナに入って、真っ赤なザクロのフレッシュジュースを飲む。プラタヌスの木陰に守られてとても涼しい。メネラオスに「プラタヌスといえばプラトンだね」と言うと、だから何だという顔をされる。「ランチは食べなくていいの?」と尋ねると、「うーん」といかにも嘆かわしいという顔をした後に「空腹になったら食べて、眠くなったら寝たらいいんだよ」と言う。きっと規則正しい生活というのは、定時に仕事をしなければならない人たちにとっての知恵なのだ。彼は規則正しい生活よりも、身体に生活を委ねることを大切にしている。きっと彼だけでなくこの島に住む多くの人たちも。彼らにとって、食事を名付けることに意味はないし、定時に食事をとる必要もない。

「カズ、ポメグラネート(ザクロ)といえば子宝の象徴だよ。君は子どもはいるのかい?」 またその質問か──海外で旅をしていると、必ずといってもいいほど尋ねられる質問だ──と面倒くさく感じながら「いないよ」と答える。メネラオスは「なんてこと…」と顔をしわくちゃにしながら僕の両手を彼の両手で包み込む。まさか子どもがいないことはそんなに悲劇的なことなのだろうか。「何年前に結婚したの?」「もう20年近く前」「そうか…、君の妻は何歳?」「僕の2つ下」「そうか、諦めずに祈ろう……、あなた方が子を授かりますように、アミン(アーメン)」メネラオスは僕の両手をぎゅっと握りしめる。僕の手には力が入らない。彼の顔は紅潮していて、泣き出しそうになっている。

僕は顔面の5センチ前方で涙ぐむメネラオスに違和感を覚えながら、さすがここはギリシャだと思った。彼らはきっと結婚は子づくりのためにあると信じ切っているのだ[1]。子どもがいなければ、男として恥ずかしいとさえ思っているのかもしれない[2]。いや、もっとシンプルに、子どもがいない人生は寂しいと考えてそれを嘆いているだけかもしれないが。それでも、この確信めいた嘆きはきっと歴史的な裏打ちがなくては生じないはずだ。嘆きはこの土地を這っている。でも、もし僕にとって結婚というのがひどい病気のときに必要とされる投薬を意味していたとしたらどうする。子どもがいないことがそのまま愛の選択であったとしたらどうする。そしたらあなたはその嘆きをどこに仕舞ってくれるのか。

その後訪れたある教会は、海岸線から10㎞以上離れているのに地下から塩水が出るという話だった。地下水を飲ませてもらったが塩味が感じられずに要領を得ない顔をしていたら、メネラオスに「塩の味がするだろ!」とすごまれて、僕は仕方なく「そうだね」と答えた。その塩水は Holy Water (聖水)として名高いそうで、「この水をパンといっしょに毎日少しずつ口に含むといい」と神妙な顔をしたメネラオスから容器に入った聖水とパンを手渡された。

メネラオスは日本人女性のアキコさんと結婚していて日本びいきである。(ちなみにメネラオスはアキコさんに紹介してもらった。)若いころには全く信仰心がなかった彼を180度変えたのには、彼とアキコさんが人生で出くわした壮絶な経験が背景にあった。また、彼にとって子どもがなぜそれほどに大切な存在かということも、その経験を通して醸成された深い確信だということが分かった。彼は涙をボロボロこぼしながらそのときの辛い記憶を話した。その詳細はここには書けない。とにかく僕たちはそのとき夕日を浴びて、南海岸の絶壁の上に座っていた。彼の涙も夕日色に染まっていた。「空が少しだけ白いね」と僕が言うと、「サハラの砂が飛んできているんだよ、アフリカは目と鼻の先だからね」と彼は答えた。僕はいまサハラの砂を浴びながらメネラオスの人生の切れ端を貪っている。旅をしていると思った。その日、宿に戻ったのは予定より4時間も遅い21時ごろ。12時間もいっしょに島を周ったことになる。ひとりの人間の素朴な情熱に長い時間触れるというのは、それだけで代えがたい経験だ。メネラオスと全部が通じ合うことはないけど、でも僕は彼のことが好きだ。

その後の数日はマタラで無目的な時間を過ごした。最終日はジャニスも通っていたというレッドビーチまで歩いて、“BEST MOJITO OF THE WORLD — JANNIS”と書かれたピンク色の看板に惹かれて、ビーチハウスでモヒートを2杯飲んだ。たった2杯なのに泥酔して、白髪のおじさんに介抱されながら宿に戻ったようだ。粘つくサンオイルのにおいと体の上を転がる砂の不快感で目を覚ましたときには、全裸でベッドに寝ていて頭が重かった。急に思い立って財布の中身を確認したが、何の異常もなかった。時計は朝の8時を示していて、もう一度メネラオスが迎えに来てくれるまであと1時間だった。それなのに、僕はいま激しくお腹を壊している。

ベランダに出る。最終日も変わらず雲ひとつない空だ。この変わらない青空がきっと住む人たちの思考をシンプルにしている。時間通りにやってきたメネラオスに、この数日のことを話した。そして昨日の失敗について、つまり、泥酔したこと、ドイツ語をしゃべるおじさんに介抱してもらったこと、いつの間にか全裸だったこと、さらに、昨日の昼間に大量のムール貝を食べたせいかひどい腹痛であることを話した。「この島はどこで全裸になってもいいんだから、気にすることはない」「この島の住民はムール貝なんて食べないよ。こんな温暖なところで気取ったものを食べるものじゃない。変なものを食わされたね。」そうやってメネラオスはひとつひとつに熱っぽく反応した。

14時の飛行機まで少しだけ時間があったので、スーパーでトマトとチーズ、パスタ麺を買って、イクラリオンの丘の上にあるメネラオスの自宅に立ち寄った。部屋が10以上あって、広い庭にはオリーブやたくさんの野菜が育っている。アキコさんはいま日本にいるらしい。「今度来るときにはここに何か月だって泊っていいよ」と愉快そうに言う。食卓に着いて10分も経たないうちに、3種類のブドウ、オリーブオイルに浸かったフェタチーズ、肉料理、そしてトマトやピーマンなど5種類の野菜が入ったグリークサラダ、さらにシンプルなトマトベースのパスタが並ぶ。魔法みたいな早業だ。そして魔法の国のご飯はほんとうに美味しい。「美味しい、美味しい」と言いながら食べるので、メネラオスはこれもあれも食べてと次々に勧めてくる。「美味しい、美味しい」と言いながら、母がつくったぼたもちを食べすぎた幼年時代を思い出した。

食事が終わるとメネラオスが自宅の奥から物騒なものを持ち出してきた。長さ1m近くはあると思われる銃。実物を見るのが初めてでよくわからないが散弾銃だろうか。メネラオスは手慣れたようすで彼の親指より太いスラグ弾を装填して庭に向かって「ドーンッ」と弾を撃つ。十数メートル離れたところにあった標的の空き缶が激しく飛び跳ねる。驚いた鳥たちが一斉に飛んでいく。メネラオスは、「ほら、カズもやってみて。でもアキコには言わないでね、怒られるから」と言う。僕は、「いや、やらないよ」と申し出を拒む。でも、メネラオスは「ほら、やってみるんだよ」と強引に銃を持たせようとする。仕方がないので恐る恐る銃を握る。幼い頃にプールの飛び込みを無理にやらされたときの感覚を思い出す。銃はずっしりとした重みがある。そして底知れぬ恐怖を感じる。これで人が死ぬんだから。

意を決して弾を撃つ。反動で左手が跳ねて、弾は標的のはるか上方を飛んでいく。「さあ、もう1回やるんだよ」メネラオスに言われてもう一度銃を握りしめ、弾を撃つ。今度は標的のゴムのバケツに命中して、バケツのまん中に大きな穴が空いた。こんなに簡単に命中するなんて怖ろしい。僕はこれで人を殺せる。銃を降ろした後も体が震えていた。空中が痙攣してその波動をそのまま受けたのだ。波が穏やかになるのを待つ。

ギリシャでの銃所持は許可制で、クレタ島は歴史的な政治不安や自衛組織の発達といった理由から国内では突出して銃所持率が高いそうだ。島民の2人に1人は銃を持っているという統計さえある[3]。古代ギリシャ・ローマにおいて世界の中心と捉えられていたこの島は、歴史の波に大いに翻弄された後、いまは西ヨーロッパで最も貧しいとされる国ギリシャの片田舎という位置に甘んじている。その生活感情はとてもシンプルで、だから土地に根づいた怒りもシンプルなままに可視化されている。

帰りはイクラリオン空港での別れだった。メネラオスが「これは大切なことだから、最後にカズに言いたい」と言う。「僕はカズのことがすごく気に入ったよ。心を通わせていい友達になった。でも、カズはひとつだけ直したほうがいいところがある。君はマジメだから、いつも肩に力が入っている。そうだろ、もっと自由な魂で生きたらいいんだよ。そんなにいつも冷静でなくていい。このクレタという場所では、もっともっと羽目を外したらよかったんだよ。」そう僕の肩を揺らしながら言うメネラオスの目は涙でにじんでいた。「もし失礼なことを言っていたらごめん」と言うので、「いや、僕にはメネラオスが言いたいことがわかる。でも、羽目を外すというのは僕にとって修行みたいなもので、このクレタでも自分なりに精いっぱい試みたんだよ」と答える。最後に熱いハグ。これからも人生のダンスは続いていくのだ。

 

クレタ島の乾燥した大地とオリーブ畑 フェストス

[1] ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅳ 肉の告白 Les aveux de la chair』(新潮社)のギリシャ文化に関する叙述(2章)より。
[2] クレタ島を舞台にした映画、マイケル・カコヤニス監督『その男ゾルバ』(1964年)における主人公の台詞を参照。
[3] ジャン・テュラール著『クレタ島』(白水社)の訳者あとがき(幸田礼雅)より。

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。