第11回 僕が特上のにぎり寿司を食べられない理由。

まもなく終わる平成が、昭和や大正、明治と比べてひとつ特筆されることがあるとすると、それは一度も日本が戦争の惨禍を起こさなかったばかりか巻き込まれもなかったことだと思います。戦争がまったくなかった時代。それが平成だったと100年後の日本人は言うのではないでしょうか?

昭和には死なずに済んだはずの300万人もの国民が亡くなった太平洋戦争がありました。

明治時代には日清、日露戦争があり、短い大正時代にも第一次世界大戦があり、日本も出兵しました。そして、戦争で多くの若者が戦死しました。私は平和な時代に生きていることに心から感謝しています。

世界各地で21世紀になっても戦争や紛争の悲劇は続いています。そして、多くの人が巻込まれている。

戦争は一部の人は覗いて、多くの国民の財産を大きく損ないます。命を守るために築き上げた財産を捨てて着の身着のままで生き延びる選択を迫られる。この半世紀をみてみても、アジアではそういう苦難な時代を経験した国が山ほどあります。そして、そういう国は概していまも国民の生活レベルは他国から大きく遅れてしまうのです。

私の両親は昭和一ケタ生まれ。母は同時多発テロを生中継するテレビ番組でワールドトレードセンターが崩れ落ちるのを見て、不安そうに呟きました。また戦争が起きるのかしら?と。21世紀になったばかりの世の中の流れを心配したその半年後。2002年の5月2日、憲法記念日の前日に病院で亡くなります。まだ69歳でした。

太平洋戦争中はソウルで過ごし、引き揚げのときに広島を列車で通過したときの驚きを話してくれました。本当に何にも無かったの、と。医者の家庭だったのですが、戦争中に医師だった父親が亡くなってしまい、また詐欺のようなことにも合って母や祖母の経済環境は大きく変わります。貧しい生活を強いられた。終戦時はまだ12歳だった母は高校を卒業して東京に出て来て劇団俳優座の養成所に通った。食べていくためアメリカの軍人の家で手伝いをしたこともあったようです。きっと豊かな生活を垣間みたのでしょう。アメリカ流の生活スタイルが僕の幼いころの毎日にはありました。いっぽうで夜遅くまで内職をしてピアノを買ってくれた。こどもたちをヤマハの音楽教室に通わせただけでなく、35歳を過ぎてから自らピアノやギターを習い、手伝い先からもらったピアノの楽譜にある簡単な曲を幾つか弾いていました。きっと、アメリカの軍人の家庭の奥さんが弾いた曲だったのだと思います。優しくしてもらったのでしょう。ジュディという人の写真が幼いころは家に飾られていました。

若いころの母は食べるものにも困った時にたびたび病院に売血にいったそうです。血を売ってお金に替える。ただ栄養が足りないからか、買ってもらえない時も合ったそうです。そんな辛い日々でしたが、まだ若かった。頑張れた。そして、思ったそうです。「病院にいって、待合室に座っているのと思うの。何よりもいまは平和だし、自分は健康だから感謝しなくちゃいけないって。そうして辛い日々を耐えられたの」。時おり用事が無かった時にも、とても辛くなったら病院の待合室のベンチに座って時間を過ごし自分にそう言い聞かせたそうです」

戦後の母をもっとポジティブに支えてくれたのは、ラジオなどから流れてくる音楽だったようです。お金持ちの家の中からクラシックの音楽が流れてくると、窓の外でじっと立ち止まって聞いたそうです。それが、音楽の流れる家庭につながり、ピアノになっていくわけです。

僕の幼い頃に山ほどの内職をして、豊かな生活をこどもたちには送らせた。ただ内職の時に強い圧力を無理やり指に掛け続けたためなのか、リウマチなのか分かりませんが両手の指がすべて50代のころには変形してました。さらに、きちんとした食事もしなかったからでしょう。60歳前にほとんどの歯が入れ歯になってしまった。若いころにハミガキの広告のモデルをしたとのことですから、相当ショックだったようです。高血圧で倒れることがあって、僕は母に言いました。無理をしてきたのだから、健康には気をつけて欲しいと。それは繰り返し頼みましたが、健康診断に一度も行くことがなかった。

僕は就職してから、年に何回か、外国からやってくるオペラや、良さそうな演目が掛かった時の歌舞伎座に連れて行き、日比谷の帝国ホテルでランチなどをごちそうした。パリでアクセサリーや洋服も買ってくれば喜んでくれましたが、自分で何か自分の楽しみのために財布を開くことはほとんどなかった。こどもたちのためにと死ぬまで質素倹約に勤しんだのです。

晩年の父はひとり、生まれた長岡で過ごしました。2009年2月。寒い冬の日、2回目のワールドベースボールクラシックの直前に死にました。寒い新潟の冬なのに、広い部屋に小さなストープひとつしかつけなかった。節約のつもりだったのでしょうが、それが命を落とす原因になりました。父は熱烈な巨人ファンでしたから、3月が来るのをとても楽しみにしていたと思います。あとひと月もすれば、原監督率いる日本代表・侍ジャパンの活躍をテレビにかじりついて見たと思うのです。77歳でした。

父は新潟県長岡の弁護士の家に生まれました。父も優秀で東京外国語大学の英米科を出ています。学生時代の集合写真に書き込まれた父のあだ名は辞書。僕が慶應に入ると語学の教授に何人も同級生がいた。ただ、人間関係を作るのが苦手で家族を含めてほとんど誰とも心を交すことができなかった。だから、会社員としても上手く行かなかった。趣味はサイクリングで週末はひとり安い自転車で近県まで遠乗りしてました。もうひとつは、神保町で安い古本を買って来ること。ただ、買うだけでほとんど読んでいなかったようです。いつか読もうと買うのですがほぼ読まずに人生を終えた。買ったけれどもそのまま廃棄となったのです。

出世もしなかったので高収入だったわけではありませんが、このように2人とも質素な生活だったので、死んだ時には財産を残してくれた。僕は自分で十分稼げるようになっていたので、学者肌の妹にほとんど譲りました。

父が死んだころに、質素なアパートにひとり亡くなった高齢の独居老人のことをテレビが報道した。通帳に3、4千万円も残して死んだけれども、遺産を渡す人がいなくて国庫に行くことになりそうだというニュースでした。それがどうも父の人生の終りに重なって仕方がなかった。

老後の不安をまとまった貯蓄があることに安心感を感じる人は少なくない。また、40代も半ばを過ぎるころから、老後の不安を感じて生活をダウンサイジングして質素節約にして、少しでも老後のためにお金を残しておこうとする人も多い。

人それぞれの人生だから私はそれを否定することはしない。

しかし、私は両親に言いたいのです。遺産などいらなかったから、若いころに苦労をしたのだから、もっとお金も使って人生を楽しんでもらいたかった。若いころは戦争のために、成人してからはこどもを育てるために、辛い人生を過ごしたというのは、残された子どもとしてはとても悲しいもの。すぐにその思いが心を支配してしまいます。

そんな辛い思いを引き継ぐ必要などないのです。

母は死の直前の病床で長崎に行ってみたいと言い始めた。そんなことを聞いたのは初めてだったので本当に驚いた。それ相応の資産ができたあとも質素すぎた。いや若いころに質素な生活ばかりしていると、それに慣れてしまってもう変えることができなかったのでしょう。

 

老後のことを心配し準備をしようと心がける人は多いものです。しかし、自分の人生を思う存分楽しんだ、と言って幕を下ろせる人はどれだけいるのでしょうか?

私は、老後のお金を作るために質素節約な生活をして老後資金を作ることも大切だとは思うのですが、人生を楽しむためのお金を使う術を身につけていくことも重要だと思うのです。お金を使って人生を楽しむことを、ぜいたくだ、分不相応だと、なぜか罪悪感さえ感じる人もいるようです。苦労して得たお金を使うことは案外難しいものなのです。しかし、老後を笑顔で暮らすためにも、若いころも中年の時もそれぞれの人生の時を彩る楽しいことを綴っていくことは必要ではないでしょうか。老後のために、今をガマンし過ぎることをしていませんか。思ったような長さの将来が無かった時に大きな後悔の思いを作ってしまうことはありませんか?

 

僕はいまでも特上の寿司が食べられません。いや、注文できない。たいていは一番安い梅、並のにぎり寿司を頼む。そして、ひとつかふたつ、お好みを注文する。本当は大トロも大好きです。

ある程度の資産ができても、私の両親は質素で倹約家でした。にぎり寿司が大好きでしたので、時おり、家の近くのお寿司やさんから出前を取ることがありました。来客があった時には、松竹梅の真ん中の竹を取ってましたが、家族だけで食べる時には並寿司の梅しか食べたことしかありませんでした。店に行って食べる時にも同じです。タコやタマゴから食べて、鉄火巻きやまぐろを最後に残してほうばっていました。

僕は、成人して親を誘い、寿司やさんで上寿司を頼んだことがあるのですが、いつもの寿司とは違うからでしょうか、楽しく食べられなかったみたいです。職人さんが握る寿司なら並で十分。平和で家族揃って食べられればそれで幸せだと思っていたのでしょう。気軽な並のにぎり寿司を食べているときが一番幸せそうでした。

そんな親との思いが染み付いているからか、今も安い並のにぎり寿司しか注文できない。もちろん、高い寿司を食べたこともあります。でも、食べている時に親のことを思い出して、何か後ろめたい気分になってしまうのです。親が時には奮発して、時には特上のにぎりを食べていてくれれば、僕も気持ちよく注文できると思うのです。

30代の僕は仕事がとにかく面白くて、収入にはあまり興味がありませんでした。世の中の平均を大きく上回る所得がありました。苦労をかけた親に少し豊かな生活を送って欲しかった。そう思って所得の大半を渡しました。

しかし、僕の親は幾らお金を渡しても、生活はそのまま。質素そのものでした。わがままな若い私の行いを許容してくれたこと、何よりお金を山ほど使って立派な教育を授けてくれたのだから、あとは何もいりません。若い時には、戦争もあって苦労もしたのだから、親自身にもっとぜいたくな事をして欲しかった。僕は人に「親は、好きなこともできて人生を楽しんで生きた。美味しいものも食べたし、良いものも着た。ぜいたくもね」という自慢話がしたかった。僕はなじみの寿司やさんで、一番安い、梅のにぎり寿司を頼みながらそんなことを思い出しています。

 

人生100年時代と言われ始めた今日も若くして亡くなることもある。子どもはそんな親の不幸を長く哀しみ続けるでしょう。子どもに財産を残そうとする前に、子どもに自分の親は人生を思う存分に謳歌した。本当に幸せな人だったと言ってもらう人生の姿を残すことをもう少し大切にして欲しいと思うのです。