第1回 見て

学食で昼食を食べていたら、すでに食べ終えた学生たちが三人、隣でくつろいでいた。その会話を、うどんをすすりながらきくともなしにきいていた。

「見て」と、一人の学生が話題が途切れたあとに切り出した。わたしがうどんをすすってから顔をあげたとき、彼女は鞄に手を突っ込んでいるところだった。「カロリーメイト」。黄色のカロリーメイトをテーブルに一つとん、と置いて彼女はさらに鞄に手をつっこむと、取り出したものを上に重ねてまた言った。「カロリーメイト」。残りの二人が、はは、と少し笑うと、彼女は「非常食やねん」と言ってからそれらをそそくさとしまって、「英語どこからやったっけ?」とすぐに次の講義の話を始めた。

「見て」ということばはとてもありふれているけれど、わたしはついぞ自分で使ったことがない。何かを誰かに見せようとしたり何かを取り出すことはもちろんあるが、その前段として使うのは「あの」とか「そういえば」とか「あ、そうそう」というような曖昧なことばで、「見て」のようにはっきりと相手の視線移動を促す言い方は、これまで正直思いつかなかった。わたしがあえて「見て」ということばを使おうとしたなら、もっと頑張って、いきなり「じゃーん」と言えそうなものを仕込んでしまいそうな気がする。仕込みすぎてすべりそうな気がする。

一方、先の学生は「見て」でさっと相手の視線を惹きつけたけれど、そこで披露されたのはカロリーメイト二個分の小さなできごとであり、ささやかな笑いを生んだならすぐに消えていっても構わないくらいの話題だ。彼女の「見て」には、気負った調子がまるで感じられなかった。何かが手に入ったとき、ちょっとしたものを身につけたときに、ごく自然に「見て」と相手の視線を促し、相手も見ることを楽しんでくれる。たぶん、「見て」と気軽に話しかけることのできる性格のよさが彼女にはあるのだろうし、気軽に楽しんでくれる身近な人に恵まれてきたのだろう。そういう人間関係の個人史が彼女の口調からは感じられた。

彼女の「見て」には、気負いのなさ以外にも、もう一つおもしろいところがあった。それは「見て」と言った段階ではまだ、肝心のものは現れていなかった点だ。わたしがその声に気づいて顔をあげてから(そしておそらくは、他の二人が視線を彼女に向けてから)、彼女は鞄からさっとカロリーメイトを取り出した。「見て」に促されて見えたのは、単にカロリーメイトという「もの」ではなく、彼女がそれを取り出すという行為だったのである。

そういえば、頭の中で「見て」と誰かに言われる状況を思い浮かべると、そこにはたいてい話し手の行為が伴っている。たとえば「見て」と言われて話し手を見ると、新しいTシャツをつまんでいる。このとき、おそらく話し手が示しているのは、手でつまんだその新しいTシャツなのだが、鈍感なわたしは、「つまむ」という行為がなかったならそのTシャツが珍しいものであることに気づかなかったかもしれない。そしてわたしはようやくTシャツを見る。いや、もっと言えば、話し手の行為によって導かれたTシャツを見ており、同時に、Tシャツを導いた話し手のポーズやいでたちを見ている。

あるいは「見て」と言われて話し手を見ると、空を指差している。それで指差している方を見ると、確かに月が出ている。このとき、話し手は「月を見て」と言ったのだと結果から解釈できるかもしれないけれど、その前にわたしはまず話し手を見て、話し手の動作に促された結果、月を見ることになった。もちろん、話し手が月を鞄から取り出したわけではないけれど、月は話し手の動作によってわたしの眼前に現れたことになる。

話し手が対象を特定せずにいきなり単独で「見て」というとき、わたしたちの注意は自然と相手に向き、相手の行為を経由して対象へと向かう。こうした「見て」の特殊性は、逆に対象を特定する「Tシャツを見て」「月を見て」という表現を考えてみればわかるだろう。もし対象を最初から特定されたなら、聞き手は話し手の行為なしでもすぐに対象にたどりつくことができる。しかし、そのことばはなぜか、ただの「見て」よりも命令口調に響くのである。

一方、先の学生の「見て」は、文法の分類で言えば「命令形」ということになるのだろうけれど、どうも「命令」にはきこえない。「命令」というのはたとえば、視線をうろつかせている人に向かって「しっかり見て!」というような事態を指すのではないか。

単独の「見て」ということばは、対象をすぐに明かさないことで聞き手に謎をかけ、聞き手の視線をまず話し手へと導き、ついで話し手の行為を経由して、目指す対象へと一気に導く。その結果聞き手は、ただ対象を見るだけでなく、「見て」と言った話し手の行為とその対象とを、一連なりの時間の中で見る。このような「見て」は、「命令」というよりも、「誘導」とか「勧誘」とでも呼んだほうがいいのかもしれない。

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マイケル・トマセロは『コミュニケーションの起源を探る』(勁草書房)で、発信者が自分に注意を惹きつける行動を「注意獲得行動 attention-getter」と呼んで、人間と他の霊長類との違いを考察している。人間は、まず自分に注意を惹きつける「注意獲得行動」を起こしてから、次に意図的な行動をするという順番をとる。たとえば「見て」のように、まず注意を喚起し、それから次なる行為を見せる行為もまた一種の「注意獲得行動→意図的行動」の連鎖と言えるだろう。一方、チンパンジーをはじめさまざまな霊長類は、注意を惹きつけようとするし、何らかのジェスチャーによって自分の意図を伝えようとするものの、その順番は必ずしも注意獲得行動→意図的行動という風に決まってはいない。

チンパンジーやボノボは相手の前で意図的なジェスチャーをすることがあるが、そのときに彼らが最もよく使うのは「相手のまわりを歩き回る」ということらしい。もし誰かがこちらのまわりを歩き回りながら、鞄からカロリーメイトを取り出したとしたら、わたしたちは相手が手に持っているものにも眼を奪われるには違いないが、それ以上に、歩き回っていること自体が気になってしかたがないだろう。それはたとえば「見て見て見て…」とずっと言い続けながら指し示しを行うようなものだ。

まず注意獲得行動を行い、次に意図的行動へと移ることは、相手の注意を無駄な動きに向けさせない意味でも、歩き回りながら意図的行動を起こすのとはずいぶん違っている。

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漱石が「I LOVE YOU」を「月が奇麗ですね」と訳した、というまことしやかな話をきくことがある。漱石が本当にそんなことを言ったかどうかはともかく、どうも小説家のことばらしくないと思うのは、「月が」と対象を真っ先に明らかにしているところだ。もしお互いがすでに月を見ているなら、「奇麗ですね」ですっかり通じるはずだし、まだ相手が気づいていないなら「月が」と最初から対象を明かすなどという野暮なことをせずに、「見て」とか「ほら」とか「あ」などと言えばよいのではないか。もちろん、「月を見て」の方がわかりやすいし、「見て」だけでは聞き手は何を見てよいのかわからず話し手を見てしまうに違いないけれど、恋のことばには命令よりも誘いの方が似つかわしいだろう。

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。