第6回 叫びと転倒

ひょずー、と叫び声、そしてずどんという響き。

声と音は大学内の、屋根のある渡り廊下からで、行ってみると学生が一人転んでいた。折からの寒波と雪で、濡れた靴が運んできた水が廊下の床で再び凍って、滑りやすくなっていたのだった。学生はどうやら腰を打ったようで、そばにいた人につかまって立ち上がり「あ、大丈夫です」と言ってひょこひょこ歩き出した。

薄情なわたしは、彼の腰を案じるかわりに、彼の叫び声を思い出してちょっとおかしくなった。ひょずー、か。わー、でも、きゃー、でもなく、彼は確かに「ひょずー」と叫んだ。人は予期せぬことが起こったときに、思わぬ声を出すものだ。それにしてもなぜ「ひょずー」だったのだろう。ビデオを撮っておけばよかったな。しかし人が不意にスリップして叫び声をあげる瞬間をあらかじめ狙うというわけにもいかない。

試しにYouTubeで「slip on ice」などで検索をかけると、他人が転ぶところを集めた映像というのはけっこうあるもので、ずらずらと人の転ぶ動画がヒットした。意外にも、一人で転ぶときに叫び声をあげる人は少なく、転んだ直後に撮影者に対して笑ったり叫んだりする人が多い。転ぶ瞬間に声をあげているのは、どちらかというと何人かで転ぶのを楽しんでいる人たちで、遊び半分でこれから転ぶぞという身構えをしてから、ひゃーとかひょえーという声をあげて転ぶ場合が目立つ。叫び声というのはもしかすると、生理的に驚いたときに出るというよりは、社会的に必要があって出るものなのかもしれない。

してみると、ひょずー、の学生も、もし一人だったらあんなに素っ頓狂な声をあげたりしなかったのではないか。かといって、その学生の様子からすると、あらかじめ滑るつもりでそろそろと歩いて転んだというよりは、急に予想もしないことが起こったという風だった。もしかしたら、何か傍らの人に「ひょ」だか「ひ」だかから始まることばを語りかけようとして、その語りかけが叫び声に転換したということなのかもしれない。

このような推測をいろいろ巡らしながら、ふと、自分の想念の方が、叫び声以上にどうにも奇妙であることに気づいた。わたしはひょずーという声とずどんという転びの音の両方をきいたのだ。だから、「ひょずー」と「ずどん」の前後関係を思い出すことができれば、声のどの部分で腰を打ったのかが音によって推測できるはずだ。ところが、いくら思いだそうとしても、両者のタイミングが解らない。ひょずーが先だったか、どすんが先だったか。

もともとわたしの聞いた音は、ひょずーとずどんとの渾然一体となった組み合わせ、たとえば「ひょどずん」とか「ずどひょんずー」といった、二つの音が分離不可能な塊だったはずだ。それがなぜ、記憶の中ではきれいに「ひょずー」と「ずどん」に分離しており、しかも両者のタイミングがどうだったかを思い出せないのだろう。

人間は両耳二枚の鼓膜の振動に基づいて音を二枚するしかない。仮にあなたに鼓膜の振動がつぶさに見えたとしても、その揺れ動くさまから風の音や人の声、あるいは何かの衝撃音を目で理解するのはほとんど不可能だろう。にもかかわらず実際には、人間の脳は、こうしたただの波からいくつもの特徴を見出し、複雑にからみあった音のひとつひとつを割り出すことができる。このような過程を、認知心理学者のアルバート・ブレグマンは「音響シーン分析 Auditory Scene Analysis」と呼んだ。「分析」という名前がついているけれど、これは研究者が画面を見つめて行う分析ではなく、誰もが脳の中で行っている音声認知の過程を指している。

人がどのように音響シーン分析を行っているかは現在でも認知科学や人工知能モデルの重要な課題で、少なくともこの問題を解くためには、ただ波形を逐一細かく分析するだけでは難しく、「この音はたぶんこういう音に違いない」という推測をまず行った上で、トップダウン的な処理をする必要があることがわかっている。また、こうした処理をするために、人は特定のできごとに注意を向けているらしいこともわかっている。わたしは、音が聞こえる前に、すでにその渡り廊下に向かうべく注意を向けている。そしてそこからきこえてくる音にはある程度狭い可能性しかなく(人の歩く音、話し声など)そうした可能性から、突然の音には人の声が含まれているであろうこと、人の立てた音が含まれているであろうことを推測できる。おそらく、わたしが突如聞こえた不思議な音声を、鳥の声やブルドーザーのエンジン音ではなく、叫び声とずどんという音として分離できたのは、わたしが目の前の状況からトップダウン的にありうべき音を絞り込んでいったせいではないだろうか。

それにしてもおもしろいのは、人間の脳の中でいったん音響シーン分析が行われ、鼓膜の振動から人の声と転ぶ音が別々に割り出されてしまうと、あとからそれが鼓膜上でどのようなタイミングで重ねられていたかを思い出せないということだ。どうやらわたしの聴覚的な記憶はいたって記号的なものらしい。わたしの鼓膜は人の声と何かと何かが衝突する音が渾然一体となった音に対して鳴ったはずなのに、それは自動的に脳内で「叫び声」「転ぶ音」という形に処理され、いったん処理されてしまうともう、できごとの生々しい音は思い出せなくなっているのだ。わたしの耳にきこえたことと、わたしの脳がきいたことは、けして同じではない。そして、わたしの脳は、耳できこえたことから複数の音を割り出す一方で、その重なりがどのようなものであったかを忘れてしまうらしいのである。

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。