2020年10月11日、橋下徹・元大阪府知事は「日本の人文系の学者の酷さ」を指摘するツイートを行なった[1]。橋下によると、「"自分は賢い!一般国民はバカ"という認識が骨の髄まで染みている」日本の人文系の学者は、「税金もらって自分の好きなことができる時間を与えてもらって勉強させてもらっていること」や「社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事」をして生きていることへの「謙虚さが微塵もない」そうだ。
橋下のツイートは、9月に起こった管政権による学術会議の任命拒否問題を受けてのことである。学術会議の問題については、学者たちは政権の恣意に振り回される被害者であるはずだ。しかし、市井の人々は必ずしも「学者」や「学問」の味方をしているわけではない。むしろ、菅や橋下といった政治家たちに賛意を示している人も多いようである。
これはいまに始まったことではない。学問や学者に対する敵意は、学術会議の問題が起こるはるか以前から、日本社会に共有されてきた。橋下のツイートは、市井の人々が持っている敵意を煽ることで自分が支持を得るための、ポピュリズム的な戦略を持ったツイートであることは明白だろう。
そして、「市井の人々はなぜ、学者や学問に反発や敵意を抱くのか」ということに関しては、すでにかなり多くの人々が語っていることでもある。この問題に関する本は古典的なものも新しいものも数多く出ている。インターネットでも、この問題は「日本社会における反知性主義」と言った枠組みで語られることが多く、学者や院生や学問ファンの人たちがSNSやブログなどで自分の意見を各々に展開している。
だから、「日本社会における反知性主義」といったテーマについてわたしがなにか書いても、なにか新鮮な意見が言えるということはないだろう。
しかし、学術会議の問題は本来ならば文系も理系も関係なく学問全般に関わることであるはずなのに、橋下のツイートでは「人文系の学者」が狙い打ちにされていることは、すこし興味深い。また、人文系に浴びせる非難として「社会に対して何の貢献をしているのかわからん」という言葉が選ばれていることについても、考えてみる価値はあるかもしれない。
「人文系の学問は社会に対してどんな貢献をもたらしているのか?」、あるいは「人文系の学問は何の役に立つのか?」という問いは、しばしば話題になる。
理系の学問は科学技術を発展させて産業や医療に貢献するという点で「役に立っている」ことが明白であるのに比べて、文系の学問は何の役に立っているかということが直感的には分かりづらく、説明が必要とされる、ということはあるだろう。
だが、人文系の学問と学者たちに対して「何の役に立つのか?」という問いが向けられるとき、それは単なる疑問ではなく、非難の意図が含まれていることも多い。つまり、市井の人々は人文学の存在意義をわかっていないというだけでなく、人文学に関わるものや人を積極的に嫌っている可能性があるのだ。
その一方で、人文系の学問に関わる学者や読書家などの間には、「人文系の学問は何の役に立つのか」ということについて正面から回答することを拒みたがる、という傾向を見出すことができる。
外野から見ていれば「人文学は、これこれこういう理由で、こういう風に役立つ」と答えればいいのにと思うし、実際にそのような形で答えている人もいるのだが、そうでない人も多い。そして、彼らは、「人文学は何の役に立つのか?」という問いがなされること自体になんらかの憤慨や心外を感じており、そのような問いは的外れであるだけでなく、非道徳的で反社会的なものであるとも思っているようだ。
その理由の一部は、「 何の役に立つのか?」という問いは単なる疑問だけでなく敵意を含むものであるということを問われる側も察している、という点にあるのだろう。
しかし、わたしが興味深く思うのは、彼らのそのような反応自体が、人文学に関わる人々の一部に共有されるファッションやマナーを体現していることである。そして、それ自体が、たとえば「理系」の学問には抱かれないような懐疑が「文系」の学問に対しては抱かれて、独特の反発や敵意が生まれる理由のひとつになっているかもしれない。
まずは、人文学に関わる人が「人文学は何の役に立つのか?」という問いを拒否しようとする場合について、いくつかのパターンに分けて見てみよう。
疑問に見せかけた"攻撃"
ひとつめは、先述した、問う側の「敵意」に関するものだ。
具体的には、以下のようなものである:「"人文学は何の役に立つのか?"という問いをしてくること自体が、実際には疑問に見せかけた"攻撃"であり、それに対して答えることに意味はない。相手は回答を求めているのではなく、ただ、人文系の学問とそれを専攻する学者を攻撃するための口実を必要としているだけだからだ」。
このような反論は、たとえば上述の橋下のツイートに対するものとしては的を射ているように思える。
ポピュリズム的な政治家なりタレントなりは、すでに多くの人から嫌われているものを大衆の目の前で非難して吊るし上げて「公開処刑」することで、大衆の溜飲を下げさせて、彼らからの支持を得ようとする。彼らにとっては「人文学を攻撃すること」や「人文系の学者をやりこめること」が目的となっているのであり、「人文学は何の役に立つのか」について議論することは目的とされていないのだ。もし、人文系の学問が社会に対してなしている貢献を丁寧に説明しても、橋下がそれを理解して納得するという姿勢を外に示すことはないだろう。人文系の学者に対して対話や理解の姿勢を示して妥協をしてしまったら、大衆をスカッとさせて溜飲を下げさせることができなくなってしまうからだ。
とはいえ、疑問ではなく攻撃のために「人文学は何の役に立つのか?」という問いを発してくる人がいるからといって、それは、説明責任を放棄していい理由にはならない。
他のことに使えるはずの公金が、人文系の学科や専攻に投入されていることは事実なのだ。他の国に比べてどれほど少なかったり、人文学という制度を支えるためには全く足りていない量の金額ではあるとしても、それなりの金額ではあるはずだ。そして、ごく単純に考えると、その金額が別のところに投入されていれば、人の生命が救えたり、少子化対策になったり、国防を増強したり、あるいは科学技術の発展につながっていたりしたかもしれないのである。その金があえて人文学にまわされるからには、その理由は説明されて正当化されなければならない。
「人文学は何の役に立つのか?」という問いは、敵意を含んでいたり攻撃として用いられたりすることがあるとしても、それ自体は真っ当な問いであるのだ。
質問に対して、質問で答える
ふたつめは、「"役に立つ"の定義とは何か?」と、質問を質問で返すパターンだ。これは特に哲学系の人がやりがちな反論であり、「哲学っぽい」反論であると言っていいかもしれない。
もう少し丁寧なものとしては、「"役に立つ"という言葉の定義自体を問うことが、哲学をはじめとする人文学の役割だ。なにかを役に立つと判断したり役に立たないと判断したりすること自体が、人文学がないと成り立たないのだ」という言い方がされる場合もある。
どちらにせよ、「役に立つ」という言葉の定義を云々すること、そして人文学には言葉に定義を与えることについての特権性があるということを匂わすことで、「何の役に立つのか?」ということについて答えることを回避しようとしているのだ。
たしかに、わたしたちが日常的に使っている言葉について深掘りして、厳密な定義を与えることは、人文学の仕事のひとつではある。
たとえば、もしも相手が「役に立つ」という言葉について「お金を稼げる」とか「経済や軍事などの国力に貢献する」などの限定的な意味しか与えていないのであれば、そのことを指摘して、「"役に立つ"という言葉には様々な意味があり得る」という点を示すことは、議論において有益な行為であるだろう。
しかし、言葉について厳密に定義することは人文学の仕事のひとつではあるが、それだけが人文学の仕事ではない。そして、人文学であっても、言葉を厳密には定義しなかったりほどほどの定義で済ませたりしておいてから具体的な物事について議論をすることは、ふつうに行われている。定義論というものは往々にしてキリがないものであるし、そればっかりしていたら他のことが議論できなくなってしまうのだ。
実際には、こういう議論の場において「"役に立つ"の定義とは何か?」と聞き返してくる人の多くは、厳密な定義を与えたり議論を生産的なものにしようとしているわけではない。彼らはただ単に相手の疑問を混ぜっ返しているだけなのであり、それで相手が返答に窮すれば儲けもの、という浅はかな期待を抱いているのに過ぎない。
しかし、説明責任を求められている側が定義論を選択的に持ち出して議論を煙に巻こうとすることは、不誠実というしかない。このような反論は、言っている本人やごく一部の人文学徒からは「うまいこと言い返してやった」という風に見えるかもしれないが、大半の人にとっては、問いに対して真面目に向き合わずに議論から逃げようとしているようにしか思われないだろう。
そして、自分たちの存在意義を証明しなければならない「弱い」立場に追い込まれている人たちがそのような「逃げ」を選択することは、本人たちにとっても何のメリットもない戦略であるのだ。
中立的な立場からの質問ではない
ふたつめの反応が「哲学っぽい」ものだとすれば、みっつめの反応は「社会学っぽい」ものである。
具体的には、以下のようなものである:「何かについて"役に立つのか?"と問うこと自体が、そもそも中立な質問ではなく、特定の立場へのコミットメントを示すものだ。もしその問いが人間に向けられたら、生産性のない人間は存在意義がないから生きていなくてもいい、という優生思想になるだろう。役に立ったり価値がなかったりしなければ存在してはいけない、という考え方自体が問題であるのだから、"役に立つのか?"という問いには答えないことによって、その根源にある功利主義的な考え方を否定すべきだ」。
とはいえ、現状の社会では人文学以外にも多くのものが「役に立つのか?」という観点から判断されて、そのうえでどれだけの資金や公金を投入するかどうかが決定されている。企業にせよ国家にせよ、それどころか一般家庭でも、限られた予算を何に使用するかを判断するうえでは、生産性や効率などを考慮しながら「役に立つかどうか」を検討するものだろう。それは、近代以前の昔から行われてきた営みであるはずなのだ。
言うまでもなく、このような考え方が優生思想に直結するという証拠は全くない。さらには、他のものに対して「役に立つのか?」という問いが向けられているなかで人文学だけがその問いを回避したところで、「"役に立つのか?という問いの根源にある功利主義的な考え方」が否定できるというわけでもないのだ。
そもそも、相手はなにも「人文学には価値がなくて役に立たないのであれば、人文学は存在してはいけない」とまで主張しているわけではない。大半の場合は、「他のところにもまわせる公金を人文学にまわせというなら、それを正当化するだけの価値が人文学にあることや、人文学が何らかの役に立つことを示せ」と要請しているだけなのだ。先述したように、これ自体は真っ当な要請である。そして、人文学だけが「"価値"や"役に立つ"を云々することはよくない考え方につながるので、その質問には答えません」として回答を拒否できる道理はないのだ。
上述したような回答のうち「哲学っぽい」ものと「社会学っぽい」ものは、どちらも人文学に関わる人に特有のファッションやマナーに影響されたものである。
人文学を専攻する人たちの間では、問いに答えることよりも、問いをズラしたり問いの前提を問い直すこと(つまり、問いに答えないこと)の方が知的で高尚であり、格好いいとされることが多い。逆に、問いに対して正面から答えることは野暮で格好が悪いことであるとされるのだ。実際に大学で人文学を専攻して、ゼミや読書会などに出席していた人であれば、この傾向には心当たりがあるかもしれない。そうでなくても、現代の高名な思想家や批評家の本をいくつか手に取れば、この傾向の存在を察することができるだろう。
とはいえ、答えを回避すること自体が、人文学の本質であるというわけではない。
そして、「人文学は何の役に立つのか?」という問いを正面から受け止めて、答えを提示しようとしている人文学者も、数多く存在しているのだ。
批判的思考と想像力
理系の学問については、高度な計算やプログラミングができるようになったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確な理解ができて問題が起こった場合の対処もできるようになったりするなど、それを修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは明白だ。
それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値は、曖昧にしか論じられないものである。
また、理系の学問によって得られる能力が「技術」的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものであることも問題だ。ある人がどのような技術を身に付けているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することができるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。
さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体は大半の人にもとから備わっているものである。人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなくても優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。人文学は、せいぜいが「滋養」という程度のはたらきしかできないかもしれない。
そんな人文学が社会に対してどのような貢献をして、どのように役に立つのかというと……多くの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考や想像力を適切に培わなければならない」ということだ。
たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、『哲学しててもいいですか?:文系学部不要論へのささやかな反論』で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、としている。
職業教育などにおいては、あらかじめ目的とルールが「箱の中の論理」として定められており、ルールが不変であることを前提としたうえで、目的を合理的に満たすための教育が行われる。一方で、哲学の教育においては、「箱」を成り立たせるルールに変動が起こり、これまでの前提が通じなくなったときにも、一旦「箱」の外に出てルールと目的を設定しなおす能力が身に付けられる。いわば、必要に応じて思考の習慣を切り替えられる能力である。
もちろん、世に暮らす人びとの全員もしくは大多数に対して、こういった「思考の習慣の切り替え」を望もうとは思わない。後にまたふれることになるが、自分たちの思考や行動の基盤を形成している習慣に変更を加えることが、どれほどの困難を伴う要求であるかはわたしも理解しているつもりだ。しかし、このことが、十人に一人か二人でよい、「箱の外」で思考する習慣を身につけ、また「中のルール」を第一とする人びとに向けて対案を提起する能力を備えた人間が存在することの意義を否定することにつながるわけではないはずだ。(三谷、p.148)
学生たちに「箱の外」で思考する習慣を身につけさせることの社会的意義については、三谷は次のように論じている。
この問いに対するわたし自身の考えは、哲学の学びを通じて、人は「外の思考に対して開かれる」という「態度」や「習慣」を身につけることができる、というものである(この章において、わたしが「箱の外の思考」に対して頻繁に「思考の習慣」や「生活態度」という言い換え表現を用いてきたのはそのような事情による)。あるいは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」が育まれるのだ。そんな表現を用いて見てもよいだろう。あるいは、古めかしい哲学の用語を導入して、哲学の学びには、さまざまな状況に柔軟に対応するために必要とされる「器量」(アレーテー)を育成する効果を見いだすことができる。そんな言い方をしてもよい。
詳細は次章であらためて論じることになるが、たとえば、自分たちの暮らすコミュニティにおいて、外国から来た隣人とのちょっとしたいざこざが生じたときなどにどのような態度をとることができるか。そんなときに、「これだから外国人は」とか「わたしはやっぱりあの国の人間が嫌いだ」とか、自分たちにとってだけ都合の良い言説のなかに閉じこもるのではなく、「ひょっとすると、基本的な生活習慣の違いかもしれないよな」と一呼吸おくことができるということ。そして、そういった感情から結論への飛躍を一時のあいだ宙吊りにすることで、「感情的なライト右翼」たちの発言に待ったをかけることのできる人間が、社会のあちこちに存在しているということ。
単独で取り出してみれば、これ自体は非常にささいなことであるかもしれない。しかし、地域住民のうち「十人に一人」とはいえ、「反発的衝動を抑え、感情から結論へ跳躍地点に緩衝板を設置しておく」ことの重要性を知る人間が存在し、みなに向かって発言する態度を身につけているということ。このことには、決して小さくはない社会的効果を認めることができるのではないだろうか。(三谷、 p.151 - 152)
「箱」の外に出て思考する
『哲学しててもいいですか?』の結論は、以下のようになっている。
外へと開かれ、本当の意味でみずから思考する習慣を身につけた人間を育成するということ。繰り返し述べてきたように、このような目標のもとに遂行される教育の社会的存在意義を、テストの点数や資格、さらには具体的な就職先のリストや生涯獲得賃金といった数値化可能なデータに基づいて証明してみせるのは難しいことだろうと思う。しかし、それでもなお、「哲学の器量」を身につけた市民たちが、世のあちこちに居場所を確保していることの重要性は誰にも否定できないはずである。そして、それゆえにこそ、「哲学の器量を備えた市民の育成」を目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならないのである。(三谷、p.195)
三谷の主張については、わたしもおおむねは賛同している。
ただし、哲学の教育を受けた学生や教授たちですら、本人は「箱」の外に出て思考していると思っているつもりが、実際には「哲学っぽい態度」という新しい「箱」を作ってそのなかに収まっているだけ、という危険性については常に留意しなければならないだろう。
たとえば、先述したような、「人文学は役に立つのか?」という問いに対して定義論を行うことで問い自体を回避しようとするタイプの人は、本人は批判的思考を行なっているつもりであっても、実際にはパターンやクリシェにしたがっているだけである可能性が高い。
また、ほんとうに「箱の外」に出て思考しているのであれば様々な問題に対する結論は多種多様なものになりそうなところを、「左派」や「リベラル」などの特定の政治的態度に偏った結論が主流になりがちである、という問題もある。
これについては、そもそも左派やリベラルは右派や保守に比べて理性的な政治的態度であるのだから、批判的思考を行なったのちに得られる結論が左派やリベラルに傾くのはごく自然なことなのだ、と論じることもできるだろう。……とはいえ、人文系の学者たちの「左傾化」を非難する人たちのなかには、彼らの政治的傾向は批判的思考の結果ではなく、学会の政治的なパワーバランスや同調圧力によるものではないか、と疑っている人もいるはずだ。わたしの目から見ても、右っぽいものを目にしたら脊髄反射で否定する、という学者がいることは否めない。
いずれにせよ、「器量」を備えた市民を育成する、という主張そのものは哲学教育の社会的意義を論じる主張としてはかなり妥当なものであるように思える。
ただし、論理性や抽象性を重んじる哲学は、人文系の学問のなかではやや特殊なものである。そのため、文学や歴史学などの哲学以外の人文系の学問については、哲学とは異なるかたちでその社会的意義を論じる必要があるかもしれない。
だが、アメリカの哲学者であるマーサ・ヌスバウムは、著書『経済成長がすべてか?:デモクラシーが人文学を必要とする理由』で、民主主義を健全に機能させるためには市民たちは批判的思考とともに想像力を身に付ける必要があると強調して、文学や芸術をはじめとする人文学全般の社会的意義を主張しているのだ。
市民は、事実に基づく知識と論理だけでは彼らを取り巻く複雑な世界とうまく関わることはできません。これら二つの市民の能力と密接に関連している第三の能力は、物語的想像力とでも呼ぶべきものです。これは、異なる人の立場に自分が置かれたらどうなるだろうかと考え、その人の物語の知的な読者となり、そのような状況に置かれた人の心情や願望や欲求を理解できる能力のことです。思いやりの滋養は、西洋諸国であれ非西洋諸国であれ、民主教育についてのもっとも優れた考え方の根幹をなしています。こうした滋養の多くは家族においてなされる必要がありますが、学校および大学も重要な役割を果たしています。この役割をしっかり果たしたいのであれば、学校は人文学や芸術をカリキュラムの中心に据え、他人の眼から世界を見る能力を活発化し洗練するような、参加型の教育を築いていく必要があります。(ヌスバウム、p.125)
つまり、学校や大学における芸術の役割は二つあります。遊びと感情移入の一般的な能力を養うことと、各文化固有の盲点を扱うことです。一番目の役割は、学生が生きている時代や場所から隔たった作品──どのような作品でもよいというわけではありませんが──によって果たされます。二番目の役割に関しては、社会不安の領域により焦点を当てる必要があります。この二つの役割はある意味では連続的なものです。ひとたび一般的な能力が発達すれば、根深い盲点に取り組むことがずっと容易になるからです。(ヌスバウム、p.140 - 141)
哲学や芸術以外の人文系学問も、批判的思考能力と想像力のどちらかは養えそうなものだ。社会学はわたしたちが「当たり前」と思っていることを哲学とは違ったかたちで問い直す学問であるし、歴史を学ぶことで過去の時代に起きたことを知ることは現在や将来について想像するうえでも有益であるはずだ。
そして、民主主義の社会に暮らす市民として批判的思考能力と想像力を発揮することは、地域自治というレベルでも国政というレベルでも有益な選択につながるという点で、社会に貢献していると言えるだろう。
時代遅れで戦略的に不利であったとしても
繰り返すが、わたしとしては、三谷やヌスバウムの主張は正当であると思っている。人文学が大学で研究されて、教えられることは、市民性や公共性の育成にとって重要なことであるはずだ。そういう点では、人文学は「役に立つ」ものだと、胸を張って主張するべきなのだ。
しかし、「民主主義を健全に機能させるためには、(一定数以上の)市民が批判的思考や想像力を備えていなければならない」という前提は、ある種の人からは「エリート主義」と見なされるものであるだろう。
文字通りの民主主義であれば、たとえば日本の国籍を持っていれば、だれでも日本の国政選挙権が地方選挙権を持つのであり、その点では平等とされる。それに対して、批判的思考や想像力の重要性を強調することは、それらの能力を持つ人と持たない人の間では市民としての価値や格が異なるという主張だと思われかねない。自分たちが批判的思考や想像力を「持たざる者」であると自覚している人たちは、「健全な民主主義」論を認めたがらないはずだ。
先述したように、理系的な能力と違って文系的な能力は外に対して存在の証明を行うことが難しいものである。科学者や医者に対しては「自分にはできないことがこの人にはできるんだろうな」と認められる人であっても、人文系の学者に対しては「この人と自分のどこが違うというのか、大したこともできず金も稼げないくせに、口だけは偉そうなことばかり言って」と反感を抱くかもしれない。……そして、橋下のようなポピュリストは「自分は賢い! 一般国民はバカ」や「謙虚さが微塵もない」という言葉を用いることで、その反感を巧みに煽るのだ。
そもそも、市民が批判的思考や想像力を持つことを前提とした民主主義は、ポピュリズム的な民主主義とは真逆に近いものである。ポピュリストはそのことを理解しているからこそ、人文学を目の敵にするかもしれない。
さらには、アメリカや欧米の凋落が見えてきて代わりに中国が台頭してきた昨今では、市民が「民主主義」を求めなくなってきた、という可能性もある。実際、近年では若い世代ほど民主主義を軽視する傾向があることは、日本だけでなく欧米でも指摘されているのだ[2]。
となると、人文学の意義として「民主主義を健全に機能させるための市民性の滋養」を主張することは、時代遅れで不利な戦略かもしれないのだ。
とはいえ、時代遅れであったり戦略的に不利であったりするからといって、それが間違っていたり虚偽であったりするというわけではない。
また、「時代が変わったから別の意義を主張しなきゃ」と慌てたところで、より戦略的に有利な主張が見つかるとも限らない。たとえば「人文学もビジネスやお金儲けにつながります」と強弁して、実際にビジネスにつながった事例を持ち出したところで、「ではビジネスにつながりそうなものだけは残して、他は潰そう」となるのがオチだろう。
だから、エリート主義の誹りが免れない、時代遅れな回答であっても、批判的思考や想像力とそれらによって成り立つ市民性の重要さについて地道に主張し続けることが、けっきょくはいちばんマシな選択であるかもしれない。すくなくとも、「人文学は何の役に立つのか?」という問いから逃げずに回答しているという点では、社会的責任を誠実に果たしている。その回答に納得しない政治家や市井の人々がいるとしても、それはもう知ったことではないのだ。
参考文献:
三谷尚澄、ナカニシヤ出版、2017、『哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論』
マーサ・ヌスバウム(著)、小沢自然・小野正嗣(訳)、岩波書店、2013、『経済成長がすべてか?――デモクラシーが人文学を必要とする理由』
[1] https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1315093415571288064
しかも社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事でも学問の自由の名目で許される。もう少し謙虚になれ。その謙虚さがないことが、学術会議に対して国民の圧倒的応援が生まれない原因だと、もうそろそろ気付けよ。
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) October 11, 2020