第4回 小説に糾われた三夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『鎌倉夫人』国木田独歩 1902(明治35)年

さて、夫人小説史の幕開けを1895(明治28)年の、はるの舎〈や〉主人こと坪内逍遥「家庭教育 賢夫人」(『未来のもののふ:教育小説』所収 木村文益堂)とし、前回は「賢夫人」繋がりで、1903(明治36)年の小林蹴月「賢夫人」(『中央新聞』11月24日~翌年7月8日)、1908(明治41)年の小栗籌子「賢夫人」(『新潮』明治41年5月号)と時代をだいぶ下ってしまったが、あらためて少し遡って20世紀初頭、1902(明治35)年の『鎌倉夫人』を取り上げてみよう。

国木田独歩「鎌倉夫人」は字数にして約一万字、後に収められた単行本『濤声』(彩雲閣、明治40年)では17頁の小品である。雑誌『太平洋』(太平洋社)の1902(明治35)年10月27日号、11月3日号、11月10日号に上中下として三回連載されたが、発表当時から物議を醸した。

物語は、作者が鎌倉に滞在している友人柏田勉からの手紙を受け取ったという前文から始まる。柏田がある日川で釣りをしていると、橋の上の男女の会話が聞こえてきた。その声から、女は半年の結婚生活の後に逃げ出し6年前に離婚した柏田の元妻、杉愛子であると気づいた。離婚後の愛子には数多の乱れた噂があり、先日聞いた話では、アメリカ在住の男と婚約し船で向かうも、船長と関係したことが露見し帰国させられたが、その帰路でも汽船会社の筧某と「怪しい仲」になり二人は麻布で所帯を持ったという。この筧には妻子があるとのこと。その話を思い出した柏田は、愛子と一緒にいる男が筧に違いないと確信する。以上が(上)。柏田と愛子の恋は「神聖なものだった」にも関わらず破局したが、その理由は愛子が「時が経てば其男が鼻に付いて堪ら無くなる」「情〈いろ〉の艶〈こ〉くして楽しきを好」む(性欲が強いの意)人間だったと結論づけた柏田は、翌日二人に会いに行く決心をする。ここまでが(中)。偶然を装い二人と会った柏田は、筧に嘘の名を騙って愛子と二人きりになる。すると愛子は、柏田との離婚を後悔していると告白、筧は頼りにならず一生独身で過ごすつもりだと告げる。そして柏田に力になってくれと頼むが、それは愛人になることだと感じた柏田は断った。愛子を筧の元に返す際、柏田は筧に、愛子が力になってくれる人がいないと言っていたからよろしく頼むと告げる。以上の顛末を作者に告げる柏田の手紙の結びの言葉は「君、君は小説家である。人間の研究者である。だから以上詳しく申上げて問う、鎌倉夫人は毒婦だろうか、ハイカラ毒婦だろうか。僕は君等の所謂る本能満足主義の勇者〈チャンピヨン〉を以て冥すべきであろう」。

奔放な女性に破局した男性の恨み節とある種の復讐を扱った作品なのだが、書簡体形式で作者には伝聞であること、また悪い噂はあくまで「噂」であるという留保がなされてはいる。が、それでも完膚なきまでに愛子を貶める書き方は後味が悪く、(下)で愛子が柏田におもねる展開も少し無理がある。評論家からは「独歩の隠された憎悪の声が聞かれる思いがする」(坂本浩『近代作家と深層心理』明治書院、昭和49年)、「初めと終りが、何だか無理に接合けたやうで面白くない」(白雲子「自然派と濤声」明治40年6月9日付『読売新聞』)などとくさされた。これが架空の話であるならまだいいが、『鎌倉夫人』にはモデルがいた。独歩の最初の妻、佐々城信子である。柏田勉の報告は実際に流布されていた噂と事実無根の醜聞を織り交ぜて作品に仕立てたのが本作だった。

独歩は1871(明治4)年、千葉県銚子市で生まれている。父は播州竜野の下級武士で藩の仕事で航海中に難破、銚子で出会った漁師の娘ともうけた二児のうちの長男が独歩だった。が、郷里に妻子がいたため、離婚成立後に独歩は7歳で初めて嫡子となった。山口県で育つが、1887(明治20)年に16歳で上京、神田の法律学校、東京専門学校(現早稲田大学)に通い、教会にも足を向ける。4年後に牧師植村正久により受洗、山口に戻って開塾したり上京して雑誌編集に携わるなどし、1894(明治27)年、民友社に入社。日清戦争の従軍記者として軍艦千代田丸に乗り、弟に向けた通信文という体の、後に『愛弟通信』(左久良書房、明治41年)としてまとめられた従軍記を『国民新聞』に連載(明治27年10月17日~明治28年3月9日)し、一躍話題になった。

一方の佐々城信子は1878(明治11)年に医師佐々城本支〈ささきもとえ〉と母豊寿〈とよじゅ〉の長女として生まれる。実は本支も妻子のいる身で豊寿と子どもをもうけたため、信子が佐々城姓を名乗ることができたのは8歳のとき、奇しくも独歩と似た境遇である。しかし佐々城家は国木田家と違い、洋装や西洋料理に馴染む裕福で進歩的な家庭だった。信子は日曜学校に通い、青山女学校で学び、留守がちな父母に代わって人をもてなす洗練された少女だった。

独歩と信子が出会ったのは1895(明治28)年6月9日、「日本基督教婦人矯風会」(禁酒、廃娼、女子教育の推進などを謳う女性の会)の活動を精力的に行っていた豊寿が、日清戦争の従軍記者たちを自宅に招いた慰労晩餐会の席である。二人は出会いから5カ月で佐々城家の反対を押し切って結婚し、わずか5ヶ月後に離婚した。その5年後に信子は両親を相次いで亡くし、親戚の決めた相手と結婚するため渡米するが、一目見て無理だと思い日本に引き返す。帰路で妻子ある船の事務長武井勘三郎と交際に発展、帰国後所帯を持った。

実は、この時点で一連の事件を知っている者は限られていた。周囲はひた隠しにしていたし、独歩もまだ文名が低く話題性がなかったからだ。ところがそれが大々的に白日の下に曝される事件が起きる。独歩との離婚から6年後、武井との同棲から1年後の1902(明治35)年11月8日、『報知新聞』に「鎌倉丸の艶聞」として全7回の連載が開始されたためだ。

明治30年代のこの頃、新聞は盛んに反道徳的スキャンダルを摘発するキャンペーンを張っていた。以前から『万朝報』などで醜聞記事は多々あったが、家庭、夫婦、社会といった規範を逸脱する罪悪をより強調したのがこの時代の報道の特徴だった。それは1896(明治29)年に制定された民法や1900(明治33)年制定の治安警察法、精神病者監護法などとも無関係ではない。一夫一婦制が法的に確立され、異質分子を囲い込む機運が高まっており、キリスト教(プロテスタント)的道徳観が広まっていたことなどから、モラルに反する行動にメディアが鉄槌を加えることが流行していたのだ。

婚約者に会うために渡米したのにその船の事務長と、しかも妻子ある男性と関係した信子は格好の標的と見なされた。

それにしても、事件からだいぶ経ったこの時期に小説と新聞記事が同時に出た理由は何だったのか。

実は「鎌倉丸の艶聞」の掲載時期は『鎌倉夫人』連載にぴったり重なる。

35年10月27日に「鎌倉夫人(上)」が発表され、以下11月3日「鎌倉夫人(中)」、8日「鎌倉丸の艶聞(一)」、9日「鎌倉丸の艶聞(二)」10日「鎌倉丸の艶聞(三)」「鎌倉夫人(下)」、11日「鎌倉丸の艶聞(四)」……と挟み込むかたちで進んでいく。明らかに話題性を煽る仕掛けがなされているのである。

この仕掛けこそ、「鎌倉夫人」の(下)が無理のある展開になった原因と考えられるのだが、その意外すぎる経緯は次回に譲ろう。


〈おもな参考文献〉
國木田独歩「鎌倉夫人」(『濤声』彩雲閣、明治40年)
『定本 國木田独歩全集 第五巻』(学習研究社、昭和53年)
無記名「鎌倉丸の艶聞」(『報知新聞』明治35年11月8日~14日 全7回連載)
阿部芳夫「『鎌倉夫人』に潜む独歩の心理」(国文学言語と文芸の会『言語と文芸』(84)昭和52年6月)
中島礼子『國木田独歩の研究』(おうふう、平成21年)
中島礼子『國木田独歩:短編小説の魅力』(おうふう、平成12年)
中島礼子『國木田独歩:初期作品の世界』(明治書院、昭和63年)
相沢毅彦「有島武郎の『或る女』と新聞スキャンダル─見えない抑圧について─」(有島武郎研究会『有島武郎研究』(8)平成17年3月)
田中純『文壇恋愛史』(新潮社、昭和30年)
伊藤整『日本文壇史7 硯友社の時代終る』(講談社文芸文庫、平成7年)
阿部光子『『或る女』の生涯』(新潮社、昭和57年)
小森陽一、紅野謙介、高橋修 編『メディア・表象・イデオロギー 明治三十年代の文化研究』(小沢書店、平成9年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第3回 「賢夫人」という生き方 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『賢夫人』小栗籌子 1908(明治41)年

『家庭教育 賢夫人』の8年後、明治36年11月24日から『中央新聞』で小林蹴月の連載小説『賢夫人』が始まった。蹴月は多作の流行作家で、新聞記者をした後に小説家、劇作家、俳人となった人物。今回この作品を取り上げるべきか迷ったが(理由は後述)当時の通俗小説のひとつの型としてごく簡単に紹介しよう。

物語は、貧しい男が女の赤ん坊を捨てるところから始まる。そこへ通りかかった裕福な津山周一とその妻お蓮が赤ん坊を連れ帰り、お君と名付けて育てる。ここから話は斜め上に展開する。まず周一がお蓮の妹に手を出す、それを知りお蓮は自殺を図る、赤ん坊の実父がお君を育ててくれたお蓮を自殺に追いやったとして周一と妹を襲う、妹は殺される、周一はアメリカに逃げる、自殺したはずのお蓮は命が助かりお君と暮らす、4年後に周一が現れお蓮に復縁を迫る、が断られて外に飛びだし海に落ちる、漁師に助けられ再び姿を消す、まもなくお蓮は病死、数年後にお君は落ちぶれた周一を発見、暮らし向きに同情して小切手を渡す、その夜のうちに泥棒に小切手を盗まれる、悲観した周一は自殺。……

読者の期待を引っ張る新聞小説らしいジェットコースター的展開で連載は7カ月続いたが、百九十回目にしてこれがまだ前編であることが告げられる。さらに恐ろしいことに賢夫人らしき人物がどこにも見当たらない。著者によると「回を重ねる殆ど二百。而も尚賢夫人の本題に入らざるにも拘わらず茲に一先ず筆を置く」。いったい蹴月はあらかじめきちんとプロットを考えていたのか。そもそも賢夫人が登場する予定はあったのか! 7カ月分の新聞を根性引き(マイクロフィルムのリールを回してひたすら閲覧する行為)させられた身としては、つい詰め寄りたくもなるのである。この小説が連載された明治36年末から翌年半ばといえば日露戦争開戦前後に当たる。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」(『明星』明治37年9月号)を発表し、江見水蔭なども新聞各紙に盛んに戦争小説を書いていた時期だ。戦時中だからといって必ずしも戦争をテーマにする必要はないが、とはいえ復縁を迫って断られ外に飛びだして海に落ちて死にかける間抜けな物語を読んでいると、少々頭が痛くなってくる。ともあれ、賢夫人の登場しない賢夫人小説として記憶の片隅にでも留めておくべく、あえて取り上げた次第。

さて、今回の本題、小栗籌子『賢夫人』に移ろう。

雑誌『新潮』明治41年5月号に発表された短編小説である。

籌子の夫は小栗風葉、尾崎紅葉の門下生のなかでも泉鏡花、徳田秋声、柳川春葉と並び四天王と称された明治きっての大人気作家である。風葉の作風は多分に露悪的で、兄妹相姦を描いた『寝白粉』をはじめいくつかの作品は発禁の憂き目に遭っている。酒と女の逸話に事欠かず、自らそれをネタにもしている。

対する籌子は士族の家に生まれ、儒教の薫陶を受けた女性である。高等小学校在学中に国学、漢籍、漢詩を私塾に学び、和歌結社に参加。結婚後に文部省中等教員検定試験を受け、国語漢文の教員をしながら小説、詩、随筆を書いた。「青鞜」賛助員でもある。風葉は籌子の家に婿として入ったが家族と折り合いが悪く、籌子だけが実家で暮らしていた時期もあった。

『賢夫人』は妻が読者に語りかける告白体で書かれている。

小説家の夫は出掛けるとしばしば悪友の作家を連れて帰り、妻である自分に横柄な態度をとる。夫婦だけのときは甘言を弄するくせに友達の前では罵倒する夫に、「其れ程女房を愛するのが恥ずかしいのか!」と腸が煮えくり返るが、我慢しておとなしく従っている。その姿に婆やは同情してしきりに「賢夫人」と誉めそやすが、憐れまれるのも嫌でつい夫をかばってしまう。そのくせ一人になると悔しさに声を忍ばせ泣く妻である。結婚一年目に夫は痛飲が祟って床についた。献身的に介護する妻に今までの態度を反省する夫は、病いが全快して妻が英語科検定試験に合格した暁には盛大にお祝いしようと言う。ここで妻が数年前から教員試験の準備をしていたことが読者に明かされる。床上げの日、近所に赤飯を配り快気祝いの料理を振る舞った妻は、疲れを癒すと言い置き実家に帰る。が、実家から出した手紙には今までの仕打ちへの恨みと、独立を考えていること、二度と夫の元へは戻らない旨が記されていたのだった。

表向き夫に忍従するが強烈な自我を内に秘め自立に向けて着々と準備する、これが当世の「賢夫人」の正体というわけである。

モデルは明らかに小栗夫妻で、会話や手紙の実在は不明だが、籌子が風葉に黙って3年間勉強し、郷里で教員試験を受けたことは事実である。儒教の教えを守り、良妻賢母を旨としていた籌子に、自活の必要性を感じさせ実行させるのが明治30年代後半という時代。これが20年、いや10年前であったなら黙って耐え忍んでいたかもしれない。

風葉の小説『黙従』(隆文館、大正2年)は『賢夫人』の家庭状況を妻側の視点で書いたものだが、新婚の妻を置いて一人で旅行に出掛けた夫が旅先から出した葉書に「此所でもお前の評判が好いよ。原田さん曰く、賢夫人!」としていたり、それを読んだ妻が「夫に放埒させて黙つてゐる意気地無しを、賢夫人だなんて冷やかして嗤つているのだ。こんな物ーー」と破る場面があり、籌子の『賢夫人』発表から5年を経ているものの明らかに呼応していることがわかる。

風葉と籌子、二人が描く夫婦のイメージは、自己中心的なモラハラ夫と怒りを抱えながらも付き従う妻という点で一切ブレがない。それが仮に実像だったとしても、籌子が夫を心から憎み、恥と捉えていたならばわざわざ世間に公表しようとは思わないだろう。なぜなら夫の恥はそのまま夫を選んだ自分の恥にもなる。それは籌子が夫と自分を同一視しているからではない。婿をとった士族の長女の高い自尊心の所以と見るべきだろう。夫婦はお互いにさまざまな思惑を抱きながら「作家小栗風葉とその家庭」を共謀しつつ作品化したのだ。

しかし、籌子の生き方はストイックでなかなかに伝わりにくい。

『青鞜人物事典 110人の群像』(大修館書店、平成13年)の籌子の項には「『作家の奥さん』と言われた賛助員」「(イプセン作『人形の家』の:引用者注)ノラのような『新しい女』を肯定し得なかった籌子の初期作品」とある。確かに「青鞜」メンバーには、夫の浮気から法廷闘争を繰り広げた岩野清子や、5歳年下の「若いつばめ」と事実婚に踏み切った平塚らいてう、後に妻子ある男性と不倫の末に結婚した与謝野晶子など、女性解放や男女同権を(先走りがちではあるが)正面切って実践した者が多い。そんななか夫を助け、支えながらも自己実現する籌子の生き方は「新しい女を肯定し得なかった」と捉えられがちではある。また当時の文壇にしても、籌子の小説は風葉作品の裏側として宣伝され、批評家から「楽屋落小説」と断じられた。なるほど文学作品としては掘り下げ方が足りないきらいはある。しかし、スランプに悩み酒に溺れる夫を、文学に馴染んでいた籌子が筆で助けようと考えたとき、家庭の事情をテーマにすることはある意味自然ではないだろうか。夫に「小笠原式(礼儀作法の流派。形式ばるの意:引用者注)に堅まりやがって」と罵られ、夫の友人には「野暮」と嗤われ、里帰りすれば妾のもとに通う父の愚痴を母から聞かされ、近所の目があるから夫の元に帰れと急かされる「女三界に家なし」を地で行くような現実を、客観し利用し作品化して表現者として立つ。同時に教員としての収入も得る。それが籌子なりのプライドであり、自分を活かす現実的な方法だったのだ。

晩年、夫妻は広大な邸宅を構えて庭園造りに精を出した。数多の危機を乗り越えた二人がペンを置き、仲良く揃って庭いじりを始めたのだ。夫婦とは、他人からは伺い知れないかくも奇妙な関係なのである。

前編で紹介した『家庭小説 賢夫人』は、良妻賢母、家庭教育の気運が高まった明治28年に男性が記した理想の「賢夫人」。13年後の明治41年に女性が書いた『賢夫人』は、日露戦争後に女性の社会進出が広がるなか夫を立てつつ自活の道を切り拓く等身大の(そして皮肉も込めた)「賢夫人」。ふたつを並べてみると隔世の思いがする。


〈おもな参考文献〉
小林蹴月『賢夫人』(『中央新聞』明治36年11月24日~明治37年7月8日 190回連載)
小栗籌子『賢夫人』(『新潮』明治41年5月号)
小栗風葉『黙従』(隆文館、大正2年)
らいてう研究会 編『青鞜人物事典 110人の群像』(大修館書店、平成13年)
大塚楠緒子 著者代表、吉川豊子 責任編集、岩淵宏子、長谷川啓 監修『新編 日本女性文学全集 第3巻』「解説」(六花出版、平成30年)
岡崎ゆき子「小栗風葉夫人」(『林苑』11(2)(113)、昭和32年)
成瀬正勝「岡保生著『評伝 小栗風葉』を読む」(『学苑』(通号381)、昭和46年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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