なぜ身長170cm以下の男は人権がないのか――「KKO」「かわいそうランキング」「ガラスの地下室」と共感の問題
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さて、今回は、前回触れたシステム脳・共感脳仮説を敷衍し、現代のSNSでの弱者男性論壇などで用いられている「KKO」「かわいそうランキング」「ガラスの地下室」という言葉や、弱者男性を囲うインフルエンサーのたぬかなが「170cm以下の男は人権がない」という発言を何故行ったのかその背景などを考えていくことにする。
今回は三つの章に分かれており、Ⅰで「男性学」の理論装置を確認し、Ⅱでインターネット・SNSと共感の問題について論じる。そしてⅢで、戦争と共感の問題を扱う。ぐねぐねした論述であり、かつ一気に詰め込んでいるので分かりにくいかもしれないが、ご容赦いただきたい。
Ⅰ 「男性性」と「リアリティ」
性役割ではなく、解釈によりつくりあげられるものとしての「男性性」
最初に、「男性学」から、「男性性」と「リアリティ」という概念装置を紹介することにしよう。「男性学」については色々な批判がネットであるが、『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』という著作もある大阪公立大学准教授・平山亮による、『男性学基本論文集』(2024)の巻頭言「男性性役割の社会化から、男性性による不平等の正当化へ」という比較的新しい文章を参照してみると、そのイメージも更新されるのではないかと思われる。ここには、ネットでフェミニズムに不満を持っている人たちが救われるタイプの「男性学」があり、この概念装置を使うことは現状の理解に有益であろうと思われる。少しややこしくテクニカルな議論だが、一節だけ我慢してほしい。
「男性学」について、平山はこのように言う。「実際の男性の行動は(女性の行動も)本来はもっと多様で、場面により相手によりバラバラのはず。したがって、これこそが男性の行動(これこそが女性の行動)、といえるものなど、ほとんど見つけられないはずなのである」(p10)「そのような多様性や非一貫性がたしかにあるにもかかわらず、その男性たちに共通する何かがあるような現実ができているのはなぜなのか。その現実ができあがるために、個々の男性たちの何に焦点が当てられ、何が無視され、何が例外扱いされているのか」(p10)、これを考えるのが「男性性の研究」だと平山亮は言う。
多種多様で複数的な男性の性質のうち「そのうちの何かがハイライトされ、別の何かは後景化させられ、そのようにしてつくりあげられた男性に関するリアリティ(「男性とはふつうにこういうものである」)が男性性」(p8)なのだ。「男性性」という概念の「性役割」との違いは、内面にインストールされた規範として後者が考えがちであるのに対して、前者では人々がその振る舞いをどう解釈するのかという実践が「男性性」のリアリティを作り出す、ということに力点を置いていることにあるのだと言う。つまり、この場合の「男性性」を作り上げているのは、男性が勝手に内面化したことや、強者男性だけでもなく、女性たちも関与しているのである。
具体的に出される例として、「男性は暴力的」という考え方がある。同じように暴力的に怒りを発しても、男性の場合は「男性的な暴力性」と解釈され、女性の場合は「女性的なヒステリー」と解釈されるケースなどがそうである。女性が虐待や子供の殺害をした際には「追い詰められて行ってしまった」のだと同情的な解釈がされやすい。だがそれを根拠に「女性は暴力的」と言うことも可能である。そうならないのは、あらかじめ男性と女性に対する先入観と解釈の枠組み(リアリティ)が存在し、機能しているからである。そして、その「男性性」「女性性」の「リアリティ=先入観」は、往々にして複雑で多様な個人や現実と対応していないことが多い。
アメリカのトランプ現象などは、「不可視化された弱者」の叛乱だと分析されることがあるが、既存のリベラルや、SNSでのポピュリズム的なフェミニズムにおいて、このような多様で複雑な個人や現実を看過することは起きがちであり、それは個々の人間やそこにある現実と実際に異なっており、それが反発を生んできたのであろう。女性の性役割や、女性はこうであるというステレオタイプによって作られる(女性は理系に向かない、論理的ではない、ケア労働に従事するべき、学問を付けるべきではないなどの)「リアリティ」が問題であるのと同時に、男性に対する作られた「リアリティ」も問題なのである。
平山が問題化するリアリティをもうひとつ挙げよう。男性が家事や育児ができないのは、長時間労働が原因だ、というものである。このような「リアリティに合致する実在男性たちは絶対にいるはずだし、だからこそそれがリアルに受け止められているのである。問題は、そうではない男性が後景に隠れることの効果である。たとえば労働時間がどうあれ、何かと言い訳を見つけてのらりくらりと家事育児から『逃れる』男性もまた、必ずいるはずである」(p11)。前者のリアリティを「男性性」の典型と見做すことで、後者の「身勝手」な男性の存在が覆い隠され、具体的な現実を生きる人々にネガティヴな効果が起こることがある。自分の生きている現実とそこで生じている苦悩が、人々の認識(リアリティ)の中で否認され、なかったことになってしまうのである。
それは、女性の性被害などの際にも起こる。多くの場合、女性は自分から被害を言いだせないので、女性が被害を言った場合、疑うのはセカンドレイプではないか、という「リアリティ」がある。草津町長への虚偽の性被害告発がネットであたかも真実であるかのように拡散したのは、多くの者がこのリアリティ(先入観)を持っており、その「物語」「認識枠組」に合致したことを客観的現実と取り違えたからである。現実には嘘の(性)被害を言う女性も男性もいるのだという、当たり前の多様性・複雑性が何故か認識できなくなってしまうことが問題なのである(医学的に、虚偽性障害やパーソナリティ障害に診断されている人の割合から鑑みて、そのような人間がいないと考えることは難しいだろう)。男性のDV被害・性被害などが最近まで公的問題になりにくかったのも、そのような男性が加害者で女性が被害者であるという「リアリティ」の作動によるものであり、子供の連れ去りや、裁判の判決などにまで至る、「男性差別」と通俗的に呼ばれているものは、この「男性性」「女性性」の「リアリティ」のフィクション性をこそ問題化しているのだと理解されるべきであろう。本連載は、「弱者男性」などの議論を追うことで、通俗的な「男性性」が想定する一枚岩的な男性観や本質主義は間違いであり、多様であることを示してきたが、究極的には、男女ともに個や現実・事実に即していない「リアリティ」は全て改められるべきであろう。
人間の認知には限界があることも承知で理想を言えば、個々の複雑さや多様さそれ自体を注視し、「男性/女性」のような粗雑な二項対立で物事を理解すること自体を辞めるべきである。もちろん、平山も指摘するように、そのような「リアリティ」を書き換えることの政治的効果も見据えて検討することも必要である。筆者の私見では、現在のネットのフェミニズムや女性へのカウンターは、女性を本質主義化し粗雑な「リアリティ」を押し付ける傾向が強く、「男性/女性」のパワーバランスにおいて男性の優位性を獲得するような動機のようなものが多く、それもまた排するべきであろう。必要なのは、個別具体的な個人を細やかに認識することと、具体的に起こっている現実に徹底的に即すること、その努力である。
論理・科学・客観性こそが「男性性」であるという「リアリティ」
前回、男女の脳の統計的な差について言及し、システム脳と共感脳という類型について触れた。生物学的な男性が皆システム脳ではないし、女性が皆共感脳ではなく、共感脳の男性も、システム脳の女性も多数いるにも関わらず、「男性=論理」「女性=感情」であり、「男性=共感しない」「女性=共感的」などの「男性性」「女性性」のステレオタイプが形成されているのは、このような生物学的な小さな差を「徴」として、我々の男性性や女性性の考え方が文化的に形成され、リアリティとなったのではないかという仮説を述べた。
私見では、SNSでの「男女」の争いの一部は、システム脳的な性質と、共感脳的な性質の対立を、生物学的な性と誤って直結させたものだと解釈することが出来る。2ちゃんねるの時代から、「理系=科学=男性」を誇り優越性を語る発言は多く見てきた。今でも「お気持ち」批判や、女の議論には「エビデンスがない」などの揶揄をされる際に、そのような「男性性」が措定されている。そしてそれは、「男性=科学=論理」という認識の元、科学や合理性そのものを批判するタイプのフェミニズムの理論にも存在している「男性性」の考え方である。女性の科学者が現にたくさんおり、細やかに心の襞を読む職業で活躍する男性もたくさんいるという経験的事実からすみやかに反証されるこれらは、フィクショナルな「リアリティ」に過ぎない。だが、それが真であるように思えるのは、統計的に差が確かにあるからであり、それが文化的に増幅しており、日常などの経験においては真に感じられるからではないかと思われる。ジョン・グレイ『男は火星から、女は金星からやってきた』などを代表とする恋愛指南本も、男=システム脳、女=共感脳と誤って一致させているように思われる。
それはともあれ、現在のSNSを舞台にした男女の争いは、古く、2ちゃんねる時代にまで遡る歴史を持っている。そしてそれは、舞台となっているインターネットやSNSのアーキテクチャ、メディアの性質、そこに集まってきている人のタイプ、カルチャーの観点から解釈される必要がある。まずは簡単に、日本のインターネットの歴史を、「男性性」の観点から確認していくことにしたい。
Ⅱ インターネットとSNSにおけるシステム脳と共感脳
インターネットにおけるシステム脳と共感脳の覇権争い
2000年代のインターネットは、「男性性」が強い、つまり、システム脳的な性質の者が多い環境であり、文化であった。この時代にインターネットに接続できる環境を準備できる者の性質からして、これは当然のことであろう。2ちゃんねるでは、女性も男性の振りをして「漏れ(俺)」などの人称を使っていることが多かった。
日本におけるオタク文化とコンピュータ文化につながりがあることは、秋葉原がオタク文化の街になったことがその証拠である。今は「萌え」の街だが、それ以前は「電気街」であり、部品などを売っていた。
森川嘉一郎『趣都の誕生』の「なぜパソコンマニアはアニメ絵の美少女を好むか」という章で、森川は空軍とオタク趣味の相性の良さを考察しこう述べる。「陸・海軍が色濃く体育会系でマッチョな雰囲気を持っているのに対し、空軍は理工系で、エンジニア色が強い。(中略)機械やパソコンのマニアは、アニメ絵美少女を愛好する傾向が強い」(p112)。つまり、これは「システム脳」的傾向という共通性があるのだと、解釈し得る。
「オタク」を大衆化した画期的な作品である『電車男』(書籍は2004年。川村元気の最初の作品である映画版は2005年)において、女性に慣れておらずコミュニケーションが苦手な童貞である主人公はシステムエンジニアだと設定され、恋愛の指南を匿名掲示板の2ちゃんねるに求めていた。「オタク」「システムエンジニア」「ネットでコミュニケーションする」「恋愛弱者」「コミュ障」などの要素が当時は複合していたことが分かる。
初期のインターネットは、今思えば猥雑で悪辣な空間であったことは否めないが、現実世界におけるコミュニケーションや関係性から疎外されがちな性質を持つ者たちのアジールであり、相互ケア的な性質を持つ場でもあった。2ちゃんねるにおける自虐(童貞・無職、クリスマスに美少女ゲームのキャラクターを画面に写し一緒にケーキを食べる写真を皆でアップするなど)は、そのようなユーモアによる相互扶助、ケア的な側面もあったのだと思われる。
しかし、システム脳的な性質を持つ者たちがコミュニケーションしやすい環境であった初期のインターネットは、スマホの普及などによって性質が大きく変わっていく。ツイッターが2006年にローンチされ、iPhoneは2007年に発売された。LINEがサービス開始したのは2011年。筆者の記憶では、2011年が、ツイッターなどのSNS普及と大衆化の大きな画期だった。東日本大震災により電話が使えなくなり、代替の通信インフラとしてSNSに注目が集まったのだ。ネット上で、女性が女性として名乗って発言できるようになったのは、SNS以降だという印象が筆者にはある。
これを画期に、いわゆるオタク・ギークではない層が大規模にネットに流入し、一般社会とは良かれ悪しかれ違う価値観が形成されていたインターネットカルチャーと衝突する現象が起こるようになる。「原住民」たちは、自分たちが開拓した場所に、後から入り込んで、別のルールや価値観を押し付けてくることに反発していた。西部開拓時代の荒くれ者たちと、文明化された社会への移行期のジレンマと重ねてそれを理解する者たちもいた。フロンティアは、ノーマル化された。その文化の衝突がミソジニーなどの一因だと『現代ネット政治=文化論』で論じたので、詳しくはそちらを参照してほしい。
SNS以降は、女性の存在感がネットで増えた。それは、スマホなどでネットにアクセスする障壁が下がったからである。大昔のパソコンはMS-DOSのように白と黒で文字だけの殺風景な画面にコマンドをいちいち打ち込こむようなもので、システム脳と相性が良かったと思うが、直観的で快適にアクセスできるインターフェイスが普及すれば、それ以外の者も必然的に増えていく。そのような直観的な操作を可能にしたのがグラフィカルユーザーインターフェイスであり、ジョブズのAPPLE社はそのような直観的な操作にこだわった会社であり、iPhoneもその延長線上にある。
SNSは、短文と画像と動画が有効性を持つメディアであるので、これまでよりも共感脳的な人びとに有利な環境になった。ユーザーの性質とメディアの性質が変わったことにより、システム脳的な原理と、共感脳的な原理とが衝突しやすくなっていった。
2010年代以降は、ポピュリズムの時代だが、それはこのようなSNSの性質と、そこに参入する人々の性質の変化と随伴していた。右翼も左翼も感情と共感を用いた動員の戦略に出た。2010年代以降のフェミニズムの大衆的な成功は、SNSを中心としたポピュリズムとの相性の良さがあったのだと解釈することができる。SNSは、義憤を掻き立て、正義心を煽り、人を行動に導く性質を持つメディアである。そして、大勢を巻き込むことが力になるのであり、高い教育を受けたわけではない大勢を巻き込もうとするのなら、インターセクショナリティや、既に記した男性性・女性性の複数性・複雑性や、多元的で多様な現実や個人のようなものは、認知的負荷が高い。「男/女」などの二項対立で単純化し、「あいつらが悪い」「倒せば良い世界になる」という単純な物語が動員に役に立ってしまう(同じ物語は、オルタナ右翼も利用している)。つまり、大衆があらかじめ持っている偏見や先入観の「リアリティ」が流通し力を持ちやすく、繊細で細やかな個や現実は押しつぶされがちになるのだ。
これをフェミニズム、女性と結びつけて批判する者がいるが、筆者の観察に拠れば、このような「物語」に感情的に動員されているのは男性も同様である。重なっている部分もあるが、フェミニズム、女性の問題ではなく、SNSを舞台にしたポピュリズムの問題であると理解した方がいいだろう。
デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ソーシャル・ネットワーク』が誇張して分かりやすく描いたように、フェイスブックは、コミュニケーションが苦手な若者であったザッカーバーグが、「ナード(オタク)」扱いされ、女性に振られ、その後「女子学生の顔の格付けサイト」を作ったことから始まった。その後、女性たちと出会うための「ハーバード・コネクション」というサイト制作を依頼されたことから着想を得てフェイスブックを作り、非常にモテるようになる。つまり、コミュニケーションが苦手なシステム脳を持つオタクが、自分が有利になる(共感脳的な能力ではなく、システム脳的な能力が有利に働く)出会いの環境を作り上げたのが、ソーシャル・ネットワークの起源のひとつなのだ。
システム脳の持ち主たちは、音声言語よりも文字言語に強い傾向があり、臨機応変で当意即妙なやり取りを必要とする雑談などを苦手としており、構造化・システム化されたコミュニケーションを好む側面がある。インターネットやスマホ、SNSの普及は、彼らの有利になる社会的・技術的環境へと自ら社会を作り変えているように筆者には見える。
初期のインターネットは、オタクやギーク、つまりシステム脳的な傾向が強い者たちが多かった。そのタイプの脳が生み出し、それに適応が良いものたちがそもそもネットには多かった。それが、スマホやSNS以降、「共感」の原理が優勢になり、対立していくようになる。
「共感」は世界を良くしない?――「KKO」「かわいそうランキング」
そのようなインターネットのアーキテクチャ・ユーザーの変化の中で、「共感」という原理が、力を持つようになっていく。共感により義憤を掻き立て数の力で圧力を掛け、政治的要求を通す行為が一般化していったのだ。それに対して、論理や規範を根拠に批判する向きもあったが、「感情・情動=女性」という「女性性」のリアリティを持つ者は、それを女性批判として展開することが多かったし、感情や共感を批判すること自体が「ミソジニー」や「女性差別」だと解釈した者もいただろう。繰り返すが、これは生物学的な性と、脳の性質の誤った紐づけである。
「共感」批判には、①実際にミソジニーや女性差別であるもの、②システム脳と共感脳の違いに起因しているもの、③正当な社会的懸念、の三つが複雑に混ざり合って、事態を混乱させている。ここでは、ミソジニー的な文脈の中で使われがちな「KKO」「かわいそうランキング」を解釈するため、③の真っ当な批判や懸念として、イェール大学心理学教授であるポール・ブルームの『反共感論』を補助線として引きたい。
ブルームは、世界を良くするのは共感ではなく理性であり、共感は世界を悪くさせる可能性があると主張する。ここで言う「共感empathy」はかなり狭い意味であり、他者と感じているのと同じような感覚を自分自身でも感じてしまう「情動的共感」を意味しており、相手の立場を理性や知性で推測する「認知的共感」とは切り分けられている。
「共感」は、特定の誰かにスポットライトを当てる傾向がある一方、統計的な理解には働きにくいので、共感の原理で判断し社会を運営すると、もっと救えたはずの人が救えなくなるので、理性的に考えることが重要であるという主張がされている。
「スポットライトはそれが向けられた一点しか照らし出さないがゆえ、共感には先入観が反映されやすい。私たちは、見知らぬ国で暮らす人々の苦難が、近所の人々の苦難と変わらずひどいものであると頭で理解していても、近親者や自分と似通った人々、あるいは自分の目に、より魅力的に見える人々、か弱く見える人々、それほど脅威を感じない人々に、はるかにすんなりと共感できる」、そして「集団に対する自分の行動の影響を適切に見越せず、統計的なデータや費用対効果に無感覚になる」(p42)。だから、目の前で死にかけた一人を救うために多大なコストを払い、テレビで採り上げられた惨劇の被害者には寄付するのに、同じように世界のどこかで死んでいる何千人や何万人には助けを与えようとしないということになってしまう。
様々な実験の結果から、我々は嫉妬している相手や、「自分のせいで苦境に陥ったと見られる人」には共感しにくい性質を持っているとブルームは言う。さらに「対象となる人物がいかなる集団に属しているかによっても影響される」(p87)、だから、「われわれ」の範囲はどこなのかに線を引くアイデンティティポリティクスが深刻な問題になる。ホームレスや薬物中毒者に対しては、「社会的理解を遮断する」(p88)ことも示唆される。
つまり、共感は「既存の偏見、嗜好、判断を反映する」のであり「共感を覚えるか否かは、誰を心配するべきか、誰が重要かなどに関する事前の判断に依存」(p88)し、その事前の判断は最初から先入観として持っている道徳的評価に依存するという性質があるという。これが、共感だけに頼ると、社会全体の正義や最適化に繋がりにくいと彼が考える根拠である。「共感の経験に関与する脳領域は、敵か味方か、あるいは自集団か相手集団かの区別に敏感であり、また共感は人の見てくれが魅力的か醜悪かなどといったことに敏感である」(p113)。
つまり、共感しやすいものだけに共感がされ、そうでない者は不可視化され捨て置かれる。さらに、スポットライトを当てられた特定の誰かだけが共感を集め、同様かそれ以下の状態の者は無視される傾向がある。そして、偏見が再生産されやすい。そのような、おそらくは脳が進化のプロセスで得た認知バイアスがあるので、直観的・情動的に動いてしまうと、全体が最適化されず、ひどいことになっていくこともあるのだとブルームは警告する。
「KKO(キモくて金のないおっさん)」「かわいそうランキング」というネット用語がある。後者は2017年に御田寺圭が「「かわいそうランキング」が世界を支配する」という文章を発表し広めた概念であり、要するに現在のネットを中心とする社会運動で力を持つのは共感を得やすい者たちであり、中年の容姿が悪く社会的地位や金銭のない男性は共感資源が少ないため、社会問題化され救済しようという動きになりにくいという不公平を問題化したものである。
ブルームは、「そこには、誰を気づかうべきかに関するバイアスが働いている」(p114)、その対象は、自分に似た者や、自分が属する集団、振る舞いや言葉などが自分に似た者になりがちであると言う。そして、「自分たちや自分たちが愛着を寄せる人々に関わるできごとに、どんなときでもとりわけ気を配っている」(p114)。それは、自分の子供と、地球の裏側で苦しんでいる誰かがいた場合、どちらをより優先させるかを考えればすぐに分かることだろう。よって、愛情や親密性の貧困や欠如に苦しんでいる「非モテ」「弱者男性」たちは、共感のスポットライトからも疎外されやすい。そもそも彼らに愛着を寄せ親密感を覚える人がいないという前提から導かれる帰結として、その苦境が不可視化され、多くの者の「共感」により改善すべき問題であると社会問題化されることが、起こりにくいのである。
御田寺の他の議論や主張に筆者は賛同しないが、この問題提起の部分については、『反共感論』の内容を動員的に通俗化したキャッチフレーズだと言うことができるだろう。この問題は、真剣に考えられてしかるべき事柄であるが、彼の主張は女性の性質を本質主義的に決めつけ、偏見のある「リアリティ」を押し付けているという点において欠点があり、ミソジニーに近いものだと解釈されやすい部分もあるだろう。
理性と共感のどちらが良いのか
「共感」の問題性が議論となった典型的な事例が、草津町長への虚偽の性被害告発がネットで共感を呼び、風評被害などの「加害」を発生させたケースや、大阪高裁が滋賀医科大生2人に下した逆転無罪判決に批判が殺到し裁判官を訴追しようとし、弁護士らが諫めたケースなどである。これは、「共感」による行動が直ちに正しいとは言えない事例である。
繰り返すが、「共感=女性」というのは偏見であり、共感による行動を批判することは女性差別ではなく、それらの行動を批判するときに女性一般の批判に拡大するべきではない。実際、諫めている弁護士の中には複数の女性がいた。
「共感」への批判に対し、理性は非情ではないか、男が自分たちを理性的な主体であり、抽象的なことを論理的に考え、世界を支配していることによって残虐な問題が起きているのではないか、もっと惨劇に共感するようにすれば世界が良くなるのではないか、という反論を抱く者もいるだろう。
これに対するブルームが反論で挙げるのは、ツェル・クラヴィンスキーという人の例である。彼は4500万ドルを寄付しただけでなく、片方の腎臓を赤の他人に寄付した。その理由は、ピーター・シンガーに拠ると、「腎臓を寄付した結果死ぬ確率が4000分の1にすぎない」という論文を読み、「腎臓を寄付しないことは、自分の命が他人の命の4000倍に値すると言うに等しい」と主張し、「算術に基づいた利他主義」(p36)で実行したのだ。これは、いかにもシステム脳的な過剰な公正さへの拘りのように思えるが、暴力的ではなく、世界のためを思っており、「共感」の原理で動く人よりも、普遍的正義の観点に鑑みて正しいことをしているのかもしれない(筆者には感覚的にやりすぎな気がするが)。
では、その「理性」志向の問題は何か。核兵器や核戦略についてのワークショップに参加し、専門家たちの言葉や理論を分析したキャロル・コーンは、「防衛専門家たちの合理的な世界におけるセックスと死」の中で、その言葉や理論が(「男性性」と結びつけられやすい)抽象性と自己の当事者性を看過する性質を持っていることを指摘している。「技術戦略的な言語を話すことは、構造的に、その話者を犠牲者の位置から締めだして、計画者、使用者、行為者の位置に置くことになる」(『男性学基本論文集』p217)、だから、自分自身を犠牲者として考えることもなくなるし、生身の現実の被害を軽視してしまう傾向が出るのだと言っている。これは、アウシュビッツにおける虐殺を、官僚的・理性的に実行したことへの批判と同型の批判であり、科学や新自由主義を、「理性・論理・抽象」志向という「男性性」と結びつける議論において、問題化されてきたことである。だから、そこで犠牲になる(不可視化される)人々の現実の存在に対する共感こそが重要であり、それこそが世界を平和に導くのだと。この批判は、多くの「理性=男性=非共感」を批判するフェミニストが使う枠組である。
少し話がズレるが、岡野八代は『戦争に抗する ケアの倫理と平和の構想』の中で、ホッブズ的な万人が万人の敵であるがゆえに国家などに暴力を独占させる安全保障的な論理の方向と、互いが傷つきやすく脆弱であることを前提とするケアの倫理的な方向があると述べている。
安全保障の論理(「男性性」と分類されることが多い)は、常に外敵を想定し、万人が万人による闘争状態を潜在的に持つので、安心することが出来ない。外敵、あるいは内なる敵の存在に常に怯え続け、懐疑と不信の状態が恒常的に続く。その延長線上に兵器開発、軍拡競争がある。ホッブス的な安全保障観では、「ひとは自分の生命を第一に考え、生き延びるためには、他人を蹴落としてまで力を蓄えようとする、自己中心的な個人が前提である。自己中心的な人間は、したがって他者に対する不信感から自由になれない」(p183)。一方、ケアの倫理については、「人間の条件としての傷つきやすさに敏感であるということ、そして、ひとは他者との信頼関係や承認関係にあるからこそ平和に生きることができる」(p215)という認識を促す。
そのような「ケアの倫理」は「共感」と深く結びついている。ここで、共感性のない男たちが理性と合理の追求をしている影で、苦しんでいる人々を救わなければならない、という議論になってしまいがちなのだが、繰り返しになるが、「男性=論理・理性」「女性=ケア・共感」というのは、誤ったリアリティである。「ケアの倫理」を提唱したキャロル・ギリガンも『もうひとつの声で』の「はじめに」に相当する「一九九三年、読者への書簡」で、生物学的な性別と一致はしないのだと強調している通りである(☆1)。
Ⅲ 戦争と共感
「ポストモダンの軍隊」における女性と「共感」
「共感」は現在、兵器化している。2014年、ガザ地区でファラ・ベイカーという一般の少女が、ガザ侵攻についてツイッターで発信し、国際的な世論に影響を与えるという出来事があった。「戦争の恐怖を毎日のようにツイートしているガザ市民は、彼女のほかに何千人もいる」(デイヴィッド・パトリカラコス『140字の戦争』p53)中で、彼女のメッセージが多くの世界に届いたのは「若くてテレビ映りがよく、か弱い少女であり、肌も白い」そして「青い目をしていた」ことであり、「人を強く引きつける物語に欠かせない、ドラマチックな主演女優という要素を提供した」からだという。
共感しやすさ、か弱く無力な少女であるという心を惹く要素が、世界のアテンションを集めた=スポットライトを当てた(その影に、多くの者を不可視化した)のだ。西洋人好みの容姿と、若さ、女性であること、か弱いことなどが、「共感」を集める資源として現実に力を持っているのである。先に触れた「かわいそうランキング」の、現実政治における実例である。
一方、イスラエルも、20代の若い女性軍人ピーター・ラーナーが、SNSにおける情報戦に対抗した。「グラフィックや動画を多用しています」「すべてがビジュアル重視です」(p95)。情報や物語が「認識」「世論」を形成し、それが戦争の帰趨に大きな影響力を与える現在、共感を得やすいか否かは、生死を分けるものであり、共感は「兵器」なのだ。
佐藤文香によると、「男性性」「男らしさ」の権化と思われているような軍隊も、現在では「ポストモダンの軍隊」と呼ばれており、女性の果たす役割の比重が増えている。令和五年度で自衛隊における女性の比率は8.7%で、2018年には配置制限もほぼ全てなくなっている。直接的な戦闘行為ではなく、平和維持活動やイメージによる世論のコントロールが大きな比重を占めるようになっている「ポストモダンの軍隊」において「女性が軍隊には適さない理由とされてきた性質――穏やかさや他者への共感、争いを調停する融和的なふるまい――が、今日の軍隊の多様な任務に合致したものとして評価」(佐藤文香『女性兵士という難問』p89)されるのだと言う。そして、女性が自衛隊にいることは、イメージアップに貢献し、「軍隊の暴力的・攻撃的性質のカモフラージュに貢献」(p116)するものとされてきた。
本論の主張に反し、現実の自衛隊や軍隊において、「男性/女性」の性質が本質主義的に認識され、かつ、女性が強いと考えられた共感惹起能力が戦術的な「資源」として利用されていると言える(理系的な脳の女性が科学者になっているのだから、これは男性だって得意な者は少なくないはずなのだが)。同様のことは、経済領域でも言える。様々な企業において、女性が「女性を尊重する会社である」というイメージ作りのため、共感を得るための看板のように使われているケースは少なくない。
戦争の領域でも、経済の領域でも、共感を得ることが、「力」となり、そこには容姿や性別などが身も蓋もなく影響するのである(無数の実証的な研究がそれを明らかにしている)。この共感を得るための資源の差は、力の差である。そのような状況に世界が変わったからこそ、「弱者」性、「かわいそうランキング」などの問題系が浮上してきている。冒頭で確認した「男性性」と「リアリティ」などを参照しても、実際に生きている現実を見ても、科学的にも、男性も女性も多様で、二項に分けることが難しい。にもかかわらず、戦争や経済の「現実」においては、二項に分けられているというズレが存在している。その上、男性の方がその資源に乏しいと実証的に明らかになっているのに「対等」「平等」の名の元にその側面が不可視化されている以上、男性たちが総合的な平等や公平を求めて、エロティックキャピタルや共感資源をも計算に入れるように要求する現象が起こっているのだと解釈することもできる。おそらく、ルッキズムの拡大、美容整形や男性の美容ブーム、夜職の人気上昇なども、この環境における「力」の変化に対する合理的な適応なのだろう。
「ガラスの天井」と「ガラスの地下室」
さて、ここで、「ガラスの天井」(女性の出世には見えない上限がある)に対抗してネットで言われる、男性には「ガラスの地下室」(男性は、福祉や支援を受けにくいので女性よりも遥かに下まで落ちていく)があるという意見を考えてみよう。そのひとつの意味は、女性の方が共感資源を豊富に持っているという不平等の指摘だろう。もうひとつの意味は、「女性は本社勤務のキラキラした仕事ばかりしたがって、工場などで汗まみれになるのは男ばかりだ」という不公平を問題化することであろう。
実際、男女が平等になったと言われるが、自衛隊を含む軍隊において、男女の配置が平等な状態にはなっていない。同じことが、労働においてもおそらく言える。
欧米では、一人前の市民であることと戦争で戦うことは結びついているので、「軍隊・戦闘が男性に独占されてきたことを女性の不平等の根元と見做し」(p88)、女性の徴兵と最前線での戦闘参加を求める全米女性機構などのフェミニストの主張があったという。これは日本とは異なる文脈である。「軍事的貢献を男女で等しくはたさぬかぎり、男女平等の真の実現はありえない」という考えがあったのだという。
しかし、実際のところ、身体を張って過酷な仕事をし、殺したり死んだり障害を負う確率が高い仕事が男性に、イメージや共感に関係する「ポストモダン」の仕事が女性に配分されることが多いようである。なぜこのことは正当化されるのだろうか? 自衛隊がそうしていた理由は「母性保護」であった。男女の差は生殖器の違いだけだというラディカルな論者の説を採用するならば、この偏りに根拠はないことになる。戦うこと、殺すこと、守ることは「男性」の役割だというのも、構築された「男性性」に過ぎないのであれば、戦場に行くことが望ましい女性のあり方だという「女性性」を構築していったり、変えていくことも可能だろう。男だって、痛いのや苦しいこと、死ぬことや怪我することも殺すことも嫌であり、戦士となる「本質」がないのだとすると、どうしてそれが片方のジェンダーに多く配分されている状況を「平等」と言えるのだろうか?
韓国ではそのようなロジックで男性たちが反発し、保守に流れ、尹大統領の政権が生まれた。イスラエルやノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの男女平等の先進国は、まさに男女平等を根拠に、女性も徴兵している。死のリスクや深刻なトラウマを負う確率が高い仕事が男性に多いのは、本当に「平等」「対等」と言えるのだろうか? 同様のことは、ダム建設や、真冬の送電線管理、林業などの死亡率が高く、しかしインフラ維持などのために必要な「キラキラしていない」過酷な仕事にも言えるだろう。「キラキラしていない」というのは、ポストモダンのこの環境において「スポットライトが当たらない」「憧れの対象にならない」という意味であり、その影響力・力・経済的価値がこれほど高まった現在において、そのことは(恋愛・性愛・結婚などにおいても)深刻な不平等を齎すのである。
戦争は男性が起こすもので、男性は暴力的だから戦争をするべきであり、女性は平和的だから行かなくていいのだ、という意見もある。佐藤文香は、「軍隊・戦争研究のなかの男性性」の中で、男性と攻撃性・暴力を結びつける言説に対して、「この結びつきは本質でも必然でもない」(『男性学基本論文集』p190)と述べている。多くの軍隊が、男性たちを戦力にするためにどれほどのトレーニングや強制を必要とするかを考えれば、それは明らかだと彼女は言う。「すべての男性が軍隊や戦争から利益を得ているわけではないし、男性が生来暴力的であるというのは、女性が生得的に平和志向を有するというのと同じ神話なのである」(『女性兵士という難問』p55)。
そして同時に、女性=平和も本質的な結びつきではないのだと、女性兵士へのインタビュー調査研究などを根拠に述べる。戦闘で活躍した女性などは、自身を「男」の位置に起き、女性に対する性差別的な視線を温存し再生産していたというのだ。男性=暴力的、女性=平和的であるから、女性が多く軍隊に入れば平和になると考える人々がいるが、現実はどうもその理想の通りではないようだ。それは当たり前の話で、女性だから優しく平和的だというのもステレオタイプに過ぎず、競争や戦闘行為が好きな女性だっているのが当然の現実であり、多様性だからである。
では、なぜ、女性は徴兵され、最前線に行かないのか。戦争に類する過酷な仕事に従事しなくてもいいと我々は思ってしまうのか。それは、男性はこのようなもの、女性はこのようなものであるという「リアリティ」を我々が抱かされているからである。そしてその「リアリティ」は、往々にして事実ではないのだ。
「不可視の世界への廃棄」――なぜ170cm以下の男は人権がないのか
最後に、「ポストモダンの軍隊」において「共感」が兵器となり、女性が力を持つようになったことが、社会全体や価値観や制度にどのような影響を与えうるのか、少し論証が甘いことは承知の上で、思索的な内容を展開したい。
欧米などでは、女性の市民権は、戦争に参加し戦闘行為に女性も公平に参加することで得られるのだ、という考え方があることを紹介した。「ポストモダンの軍隊」(と経済領域)において、女性が「共感」「イメージ」などを用いた戦闘行為を大きく担うようになり、実力を持ってきたことは、女性の権利の拡大に大きく寄与したのではないかと思われる。
戦争で使われる武器は、平時において、革命に使われる。17世紀頃にフリント・ロック式の銃が発明され、18世紀はじめにフランス軍はマスケット銃を歩兵に標準化した。1789年にフランス革命が起こるが、そこで使われた武器がマスケット銃だった。高度な訓練をしなくても殺傷能力のあるマスケット銃を多くの人々が手にしたことが、政府や権力者に対して有形力を行使することを可能にさせ、「人権」「民主主義」「平等」などの理念の政治的な確立に寄与したのだと考えられる。同じように、「共感」による世論誘導という「物語兵器」「共感兵器」による認知戦を女性が戦争において担うようになり、それを政府や大企業や市民に向けられるようになったことが、2010年代以降のSNSにおけるフェミニズムの「革命」の躍進だと解釈することが可能だろう。
このアナロジイを敷衍した場合、マスケット銃が標準化されたことがフランス革命に影響し、「人権」「民主主義」「平等」などの意識の形成に寄与し、1793年にフランスでは「国民総動員令」が成立し本格的な徴兵が行われるようになり、近代的な「国民意識(ナショナリズム)」が形成されたことと対比して、「ポストモダンの軍隊」の場合はどのような価値観や集団意識が形成されると予測されるだろうか。
この兵器は、属人性が高い。SNSそのものは平等で民主的に誰もが発信できるが、「共感」「アテンション」は希少であり、「一人勝ち」が起こる。そこでは容姿やキャラクター、愛されること、共感されること、物語を提示することが重要になる。つまり、「兵器」の差で言えば、誰もがマスケット銃を持てば互いに殺傷し合える力を「平等」に持っている状況とは異なっている。これは、IT・AI産業と同様、熾烈な争いがあり、「一人勝ち」に近い状況になり、格差は拡大していく。マスケット銃の殺傷力が等しく、それが近代的な国民の平等性を錯覚させていた時代とは異なり、「平等」な「人権」を持つ「国民意識」の形成を促進しないことが予測される。
弱差男性を囲い込んで「姫」的な扱いをされているインフルエンサーのたぬかなが、「170cm以下の男は人権ない」と言ったことについて、「「170cm以下の男は人権ない」発言で炎上したたぬかな、“体型にコンプレックスを持つ人”に持論」(☆2)という記事の中で問われ、こう答えている。「今の世はルッキズム全盛期で、見た目がいいだけで得することはいっぱいあるし、見た目が悪いだけで損することもいっぱいある」。
この発言は、「人権」という言葉を、普遍的に万人が平等に持つ何かであると認識したりするのではなく、容姿などの差による社会からの扱われ方の良し悪しの差を指す言葉として使っていることを示す。つまり、「人権がない」とは、共感のスポットライトが当たらず、不可視化される、という意味で使われているのだ。単純に人権概念の理解が乏しく無知であるという側面もあるだろうが、現在では「人権」概念がこのように変容しているという兆候と見ることも可能だろう。
IT産業では、多く企業家が成功し、富を独占し、一人勝ち現象が起こっている。「共感」の操作を得意とする者たちの実践もまた、新自由主義と同じように、ハイパー・メリトクラシー(美や共感を惹きつける能力、コミュニケーション能力を磨き続けなければならない)や過酷な競争と選別の論理で動いており、「一人勝ち」のメカニズムが働いている。「平等」「人権」のような均質な存在として他者を考えるのではなく、価値の差が存在し、それは自己責任であるという考え方にむしろ近づくだろう。
「弱者男性」からは、「皆婚」だった時代に戻してほしいという願望が多く聞かれ、中には「女をあてがえ」とまで言う者もいるが、それはおそらく、総力戦の時代における徴兵と、重工業が主流の産業構造の労働環境の中での「平等」「公平」「均質な国民」の意識を前提としたのだろうと思われる。現在のIT・AI産業及び、アテンション・エコノミーと「共感兵器」の時代においては、そのような意識はもはや維持・形成されにくくなることが容易に予測される。「国民意識」や「普遍的人権」などの無選別の原理ではなく、「共感」が中心原理になれば、スポットライトの奪い合いになり、光が当たっている者だけが救済され利益を得て、それ以外は不可視化され捨て置かれるのである。フーコーが近代の生権力について「死の中に廃棄する」と言った言葉をもじって言えば、ポストモダン・SNS時代は「不可視の世界に廃棄する」のである。
起業したりバリバリ働いたり、容姿やコミュ力でアイドルやYouTuberや夜職や婚活で活躍することに失敗する大勢の「弱者男性」「弱者女性」たちは、ひたすら格差が拡大する中で、救われないことになっていきかねない。多くの者が、それでも「公平」「平等」に扱われる選挙や民主主義、そしてSNSなどを使って現状に不満をぶつけ、違和感を表明するのは、それが「対等」な人間として扱われる数少ない領域だからなのではないだろうか。おそらく潜在的に存在しているのは、IT・AI時代・第四次産業革命以降の新しい制度・価値観・体制と、総力戦・重工業時代における民主主義的な価値観の相克なのである。この根本をなんとかしなければ、「皆婚」時代に戻ることはないだろう。
☆1:ベンジャミン・クリッツァーも、ケアの倫理と「システム脳」「共感脳」仮説は結びつけられるのではないかと『21世紀の道徳』p206で示唆している。
☆2:https://news.yahoo.co.jp/articles/dbd9b1476711371a4af4542d857cd6d7cefee104