批判的日常美学について
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
第5回

愛し方のあいいれなさ:手元規範と共同規範づくり

2025.04.01
批判的日常美学について
難波優輝
  • 好かれることは、道徳のしるしではない。

    「あんな人でも結婚できるんだ」と驚く人がいる。「あんな人にもパートナーがいるのに自分にはいない……」と自己卑下する人がいる。日常的な会話では異常な発言とはみなされない。「結婚しているならば、あるいは、パートナーがいるならば、当人には性格的に何らかの優れがある」という前提を発言者は採用している。しかし、性格的な何らかの優れがない人が結婚できていることに対して、発言者は驚愕している。私がここで「性格的な優れ」と言うとき、具体的には徳倫理学が強調してきたような、他者への配慮や共感、誠実さ、責任感などの性格傾向あるいは能力を念頭に置いている。

    だが、この前提と推論は異様であると私は思う。なぜなら、結婚しているかどうか、何らかのパートナーがいるかどうかと、その当人の道徳的あるいは美的な優れとは関係ないからだ。

    「少なくともある人が結婚しているならば、その人は性格的な優れがある」という命題には無数の反例がある。性格的な優れがなくたって結婚している人はやまほどいる。結婚していなくたって性格的な優れがある人はやまほどいる。それゆえ、結婚しているならば、そのときはいつでも性格的な優れがあるわけでもなければ、性格的な優れがあるならば結婚しているわけでもない。それゆえ、ある人が結婚していることからその人の性格的な優れを推論するのは間違った推論に思える。

    だが、人々はどうしても、結婚していることと性格的な優れを結びつけたくなる。なぜか。

    「結婚しているならば性格的に優れている」「性格的に優れているならば結婚している」という図式が生まれる背景の一つに、人間関係にまつわる社会的通念がある。たとえば、昔から「結婚は人生の大きな成功のひとつ」とされることが多い。それゆえ、結婚が成功の証として機能するためには、「結婚しているならば何かが優れているからパートナーを得たはずだ」という信仰が広まる必要がある。「結婚は成功である」そして「成功には理由がある」なぜなら「性格的に優れているから」だ、という具合に、結婚が成功である、という社会通念を維持するための拵え物のエビデンスとして性格的な優れが呼び出される。性格が優れているなら、そりゃ成功して然るべきだろう、という人々の性格信仰を利用する。人間は自分の持つ価値観や成功モデルを正当化しようとする傾向があり、結婚やカップルは幸せや優位性の証左であり正当性の根拠であると思い込むことで、自分自身の人生観を裏づけようとするのだ。さらには、結婚相談所や婚活サービスが、マッチングに成功していない人に対して道徳的な非難を行うことで事態はさらに悪化する。「あなたがマッチングしないのは、あなたの性格に問題があるからです」。そういうと、結婚相談所や婚活サービスは責任逃れができる。なぜなら、自分たちのサービスが悪いのではなく、利用者の性格という資質に問題があるからで、それを「直す」のは当人の責任であり私たちにはどうすることもできない、と自己の責任を回避できるからだ。

    だが、結婚と性格的な優れにはそれほど関係はないのではないか。実際、単にタイミングが合ったり、家庭の事情で早々に誰かと婚姻関係を結ばざるを得なかったり、相手の経済力や社会的立場を重視して結婚したり、性格的要因以外のいろいろな要因で結婚に至るケースも数多くある。性格の善し悪しだけで結婚が決まるわけではない。

    同様に、誰からも性愛的に求められない人は性格的な優れがない、とされがちである。これもおかしな前提が採用されている。性愛的に求められている人でも性格的な優れがない人はごまんといる。好かれることは、道徳的な性格的な優れのサインになることもあればならないこともある。それゆえ、ある人が誰かに好まれていることをもってして、その人の性格の道徳的な優れを云々することにはあまり意味がないように思われる。

    例えば、いろいろな人に性愛的にモテている人がいるとする。そこから、その人が性格的に優れている、と推論することは間違っている、となんとなく気づかないだろうか。モテているということはモテているということしか意味しない。何らかの条件でその人がいろいろな人からアプローチをかけられる傾向性をもっているということから、その人が性格的に優れているとは言えないだろう。確かに、様々な人から慕われる人、というのは性格的な優れがある可能性は高い。しかし、慕われることと性愛的に魅力的だとみなされることのあいだにはかなりの距離があり、両者は違う種類の人間の魅力の話となっている。

    かくのごとく、結婚や恋愛、あるいは好かれることから人間の性格的な優れを推し量るのは、差別的である。性格的な優れとは、他者を思いやる態度や正直であること、誠実に責任を果たす姿勢などを指すだろうが、いわゆる「モテる」、人気があるといった状態は、それらの要素と無関係とまでは言えないまでも、性格的な優れを保証してはくれないことははっきりしている。むしろ、ある人が好かれるかどうかは、偶然、本人の見た目、地位、振る舞いによって左右される場合がいくらでもある。だからこそ、「好かれることは、道徳のしるしではない」。好かれることは、実際的な理由、経済的な理由、性愛的な理由、美的な理由、いろいろがある。その中に性格的な優れがあることは、むしろほとんどないかもしれない。[1] 

    愛することは、道徳のしるしではない。

    好かれることと道徳の関係を解いてみたあと、私たちは愛することに眼を向けてみよう。

    何かを愛することには、しばしば道徳的な含意があるとみなされてきた。キリスト教的伝統では、隣人愛、仏教的伝統では慈悲の心が高い徳とされ、確かに、しばしば人を愛することが結果的に利他行為につながる。けれど、すべての愛が自動的に道徳的だとは限らないようだ。

    よく、「〇〇を愛しているならば、そんなことはしない」という言い方を耳にする。だが、「あるXを愛するならば、Φする」という、「愛の行為のルール」は存在するのだろうか。愛の動機から別の行為を推論する「愛の推論」は適切なものとして存在するのだろうか。

    これを考えるためには、まず、ある人が「愛する」という行為をするとき、愛の行為の統一的な種類が存在するかどうかを検討しよう。考えてみると、人が何かを愛するとき、人々が行っているのはとても多様な行為である。たとえば、盆栽を愛する人は、木を思いっきり万力で締め上げたり、手入れをしたり、チョキチョキと木を切ったりする。確かにこの人は盆栽を愛してはいるだろう。だが、これを愛だとはみなさない人もいるだろう。

    そう考えると、愛する行為には統一的な特徴づけはないようにみえてくる。例えば、カップルカウンセラーのゲーリー・チャップマンによる「5つの言語」の分類があり、パートナーシップにおいて、人が愛するスタイルは少なくとも5つある、と指摘されているのだ(チャップマン 2016)。ここで、「言語」と呼ばれるものは、言葉を発することに限定されない。身振りや表現など、行為一般を意味する。チャップマンは言う。

    感情的な愛を表現する言語は、基本的に5つあります。これが30年間におよぶ結婚カウンセリングを通して私のたどり着いた結論です。これは、人々が感情的な愛を語り、また理解する方法が5通りある、ということです。言語学の世界においては、1つの言語の中に数多くの方言や言語変異が存在します。〔……〕問題は、あなたが結婚相手の愛の言語を語っているか、ということです。(チャップマン 2016)

    チャップマンの5つの愛の言語を私の好みで整理してみると次のようになる。

      1. 肯定的な言葉を与えること:愛情、称賛、感謝を言葉で表現することを指す。例:「今夜はお皿を洗ってくれてありがとう。とってもうれしかった」「今夜出かけるためにベビーシッターを探してくれてありがとう。当たり前だなんて思ってないよ。すごく感謝してる」「ゴミを出してくれて本当にありがとう」
      2. 注意を向けること:「誰かに丸ごとの注意を注ぐこと」だとされる。例:中断や邪魔の入らない上質な時間で愛情を示すことを意味する。一緒に何かをしながら相手に注意力を集中することだったり、親身に話をすることだったり、充実した会話をしたり、耳を傾けること。
      3. ニーズに応えること:「パートナーがあなたにやってほしいと願うことを実際にしてあげること」だ。例えば、料理をつくる、食卓の準備をする、皿を洗う、掃除機をかける、タンスの整理をする、洗面台の髪の毛を取り除く、鏡の汚れを拭き取る、車のフロントガラスをきれいにする、ゴミを出す、子どものオムツを替える、寝室のペンキ塗りをする、本箱のほこりをはらう、車の整備をする、車を洗って掃除機をかける、車庫を掃除する、犬を散歩させる、金魚鉢の水を替える
      4. 贈り物をすること:相手が求めるものを贈ること。指輪や花、それだけではなく、「あなた自身」という贈り物も可能だ。それは、「そこにいる」という存在感の贈り物を意味し、「相手があなたを必要としているその時に、相手のそばにいてあげること」だ。
      5. 触れること:セックスや手を握るなど、身体的な接触を通じて愛情を感じ、伝える。例えば、手をつなぐ、身体を触れ合わせる、キス、抱きしめる、セックス、さらには危機のときに抱きしめるなど。

    5つの種類の愛する行為の好みが人によって違う、ということだ。しばしば愛し方の好みはパートナーシップのあいだですれ違うために、互いに愛しているはずなのに愛が伝わっていない。

    いささかステレオタイプかもしれないが、こういう会話は実際にどこかでいまも行われているはずだ。

    「私のこと、ほんとに愛してる?」 「いっしょにいるんだから好きに決まっているでしょ?」

    一方は、いっしょにいること自体が愛する行為だと思っている。他方にとっては、言葉にして「愛している」と伝えることが愛する行為なのだ。人々は「私にとってはこれが愛だ」と互いに異なる愛する行為をしてしまい、互いに愛の行為だと認識できずに「愛されていない」と嘆くことができてしまう。チャップマンに言わせれば、愛の行為の好みは違うものなのだからちゃんとすり合わせよう、ということなのだ。そしてそれは実践上はたいへん含蓄のあるアドヴァイスだと思う。

    しかし、と反論があるかもしれない。「愛の行為を「何かを大事にすること」くらいの広い意味で理解すれば、確かに愛の行為には統一的な特徴があるのではなかろうか」。なるほど、少なくとも、何かを大事にしない行為は愛らしくない。

    だが、これほど広い特徴づけにしてしまうと「〇〇を愛しているならば、そんなことはしない」が「〇〇を大事にしているならば、そんなことはしない」にパラフレーズできるだけで、ほとんど情報は増えていない。あるいは、

    「私のこと、ほんとに大事にしてる?」 「いっしょにいるんだから大事にしてるに決まっているでしょ?」

    となって、あまり愛の喧嘩を解決できはしなさそうだ。これでは意味がないように思われる。

    あるいは、こういう反論もあるかもしれない。「「これが愛だ」と定義され、教え込まれるような社会ならば、一定の愛の行為の共有は可能になるんじゃないか」。例えば、お稽古ごと(茶道や華道)であれば、特定のやり方だけがお茶やお花を愛することである、と教育される。それによって「お花を愛しているならば、そんなことはしない」と先生が生徒を叱ることができるだろう。つまり、特定の社会実践のジャンルであれば、愛の行為は定義できる。この反論はうまくいくかもしれない。そういうことはしばしばあるだろう。とはいえ、一歩その社会実践のジャンルを出ると、「これが愛することだ」という規範は成り立たなくなり、しばしば何らかの愛好家とそうではない者のあいだに喧嘩が生じるのはしばしば目撃されることだ。

    さらに、愛による行為の推奨や説得がうまくいかない社会実践のジャンルもある。例えば「哲学を愛しているならば、そんなことはしない」と言っても、哲学的実践はあまりにも多様なので、あまりいい説得にはならないのだ。だとすると、愛の行為というものの本性はよくわからないものになることが分かる。

    そういうわけで、愛の行為には統一的な特徴がないように思われる。

    ここから、愛することの道徳性についても考えを進められる。第一に、愛する行為が多様であるとしたら、愛することと道徳性にはあまり関係がないことが分かる。愛する行為が不道徳な行為と被ることもしばしばあるだろう。誰かを深く愛するがゆえに、その人を殺してしまう人もいるかもしれない。それは道徳的に間違った愛に思えるが、その人にとっては間違った愛ではないだろう。むろん、現代の社会では、愛する行為に「殺害」はふつうリストアップされないので、間違った愛と言えなくもないが、ところとときが変わればそれも愛になるのだろう。

    先ほど提案されたように、広く「何かを大事にすること」程度であれば、それは道徳的には一見よさそうにみえるが、しかし、「殺人を大事にすること」という殺人鬼たちの実践があったら、それは道徳的には悪そうである。それゆえ、愛に従って行為しているかどうかから、道徳的にかなっているかどうかはまったく分からない。あるいは「自分の国を愛するがゆえに、他国を激しく憎む」という愛国主義を考えてみよう。愛するという感情は、私たちの行為の動機に、それももっとも強い動機になりうるが、それが必ずしも利他的であるとは限らないし、その行為が道徳的な正しさを帯びるとも限らない。

    とりわけ、本連載の第1回で論じたように、労働における適応的美的選好の形成とは、愛の教育がうまくいってしまい、しかもその愛が不道徳になるケースだ。「仕事を愛するならば、休みをとって自分を優先するなんてしない」と人々が言うと、それに納得して反省してしまう。仕事への愛の行為のルールが叩き込まれてしまう。これは労働の愛の論理においては適切だが、人類の幸福にとっては適切ではない。

    好くことは、道徳のしるしではない。私たちは「愛」という言葉を耳にすると、そこにある種の高潔さや善性が伴うと信じがちだ。しかし、何かを「愛する」行為がそのまま道徳的な善行を意味するわけではない。なぜなら、愛の対象や愛し方は千差万別であり、それが社会的、常識的道徳から見て好ましい場合もあれば、私たちの常識的道徳においては、他者を傷つけることを意味したり、狭い価値観を押しつけたりする悪しき行為として把握できる場合もあるからだ。愛が道徳的かどうかは愛し方の中身次第である。

    共同規範の生成としての愛

    では、愛には何の共通性もないのだろうか。愛はいろいろ、でいいのだろうか。ちょっとそれだけではつまらなさそうだ。愛の実践には何らかの特徴があるのではないか、とりわけ、パートナーシップにまつわる愛の実践には、何か核となるものがあるのではないか。

    これを、「誰かが自分を愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか」という「愛の認識論」から考えてみよう。最新の論文の一つ、ライアン・ストリンガーによる「How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love.」においては、アリストテレス的な習慣と美徳の議論を参照しつつ「その人が愛するときに愛する仕方を把握することで、愛しているかどうかが分かる」という主張を行っている(Stringer 2024)。つまり、あの人は私のことをかくのごとく愛する、というチャップマン的な愛の言語を把握することで、あの人が私を愛してくれているかどうかが分かる、というわけだ。

    だが、この主張には問題がある。例えば、モラルハラスメントを繰り返し行ってくるパートナーは「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。それに対して、私は「これがあの人の愛する仕方なのか」と納得させられてしまう。しばしば、モラルハラスメントの実践者は、無理やり説得しようとしてくる。そうなれば、より手酷いモラルハラスメントの渦中に突入していく。これは、私の観察に基づくなら、想像ではなく、よくある話だ。

    私は、別の答えを考えたい。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか? これに対しては、第一に、「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができるという「愛のニーズ応答説」を考えることができる(難波 2024)。

    愛のニーズ応答説:「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができる。

    愛のニーズ応答説は、私の愛のニーズに相手が答えてくれるかどうかによって愛を知ることができると主張するものだ。例えば、私に叱る人に対して「そういう叱り方はやめて」であったり「その指摘はおかしい」というニーズに対して応答してくれるならば、私を愛していると知ることができる。

    これは、相手の愛する仕方を重視するストリンガーよりももう一歩、あの人と私の愛の関係性(あるいは私の好みの言い方で言えば間柄)を含みこんだ理論である。

    この説はモラルハラスメント的な関係に対する批判を行える。確かにモラルハラスメント的な人の愛する仕方はその人にとっての愛だろう。同時に、私の愛されたい仕方も存在する。私の愛のニーズを無視することは、どのような性格を相手がもっていたとしても、私を愛することにはならない。

    同時に、愛のニーズ応答説は、つねにあの人と私がコミュニケーションの関係にあることを強調する。私のニーズに対して、あの人のニーズもまた表明され、互いのニーズの落ち着きどころを日々探っていくことになる。この努力や気遣いの過程のなかでのみ愛する行為は可能になるのだ。それゆえに、あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るためには、私もまたあの人をほんとうに愛していなければならない。交渉の不必要な関係とは異なるタイプの実践を特徴としている。

    もちろん、私の愛のニーズが不当であるケースもある。いわゆる「試し行動」といったものは、私があの人の愛を確かめようとして、私の真のニーズというよりもただ試すためだけに無茶な要求をしたりすることである。それが軽微な場合はかわいらしいものだが、重篤なものになると、それは相手に対する危害を構成する。愛のニーズの真正性も重要になる。

    愛のニーズ応答説は悪くない。しかし、問題がある。これでは、互いのニーズを押し付け合うだけの世界に至ってしまうのではないだろうか。互いのニーズに応答してくれることだけが愛のしるしだとしたら、それはちょっとわがままな愛にみえるのだ。

    そこで別の愛の分析に進もう。第二に、私は、愛の共同規範生成説を提案したい。

    そこで、愛の問題が生じるもっともヴィヴィッドな場面として「喧嘩」を取り上げることから始めたい。

    ある一人の人間、「アキ」がいる。もう一人の「ハル」とアキはパートナー関係にあったとする。ハルは陽気な人間だ。ハルは飲み歩くのが好きだ。けれど、アキはお酒が飲めない。アキは家でじっとして本を読んだり音楽を聞いている方が好きだ。

    ハルは友達が多い。その友達にはハルの性的志向に当てはまる者もたくさんいる。ハルはそうした友達とも何も考えずに楽しく飲みに行く。アキは内心、穏やかではない。ハルは非常に社交的で他人との距離も近く、もしかしたら飲みに遊んでいるなかで、他の人とも性愛的関係になったりそれに準じた状態になったりするのでは、とアキは一人家にいて気がかりになることもある。

    アキは、ハルにこう言っている自分を想像する。「もし私を愛しているなら、私だったらそんなことはしない!」と。

    だが、ハルにとっては、アキを愛していることと、自分が色々な人と飲み歩くことは全然別の話だと思っている。だから、アキの気持ちなどどこ吹く風である。

    ついにある日、遅くに帰ってきたハルにアキは怒る。能天気にただいま〜と言うアキをハルは睨みつける。「もし私を愛しているなら、私だったらそんなことはしない!」。びっくりしているハルに対して、アキはヒートアップしていろいろなことを言ってしまう。「月に何度もこんな夜遅くまで飲み歩くなんて、パートナーがいるのに異常だよ!」「相手はハルのことを狙っているかもしれないのに平気で遊びに行くなんて、『ふつう』おかしいでしょ!」「私との関係を大事にしているなら、『常識的に考えて』、そんなことはしない」。「異常」「ふつう」「常識」そんな言葉を使って怒ってしまう。ハルは何かを言おうとして何も言えなくなってしまう。ハルはちょっと申し訳ないな、と思って、帰りしなにコンビニでアキの食べたいと言っていたアイスを買ってきたのだけれど、言い出せないでいる。少しずつ溶けていく。

    愛がすれ違うとき、人は道徳的な言葉を使って相手を攻め立ててしまう。けれど、人が本当に伝えたいのは、説得したいのは、「愛し方」を同じにしてほしいということなのだ。愛の方法を共有し、同調してほしいと願うのだ。自分だったら、このようにあなたを愛する。その愛し方をあなたに共有したい、できれば同じ愛し方をして欲しい。しばしば、愛が同一化、あるいは合一を目指すと言われるのは、この事態を指している(cf. ノージック 1993)。

    しかし、愛し方が同一になることは、とりわけ性愛的関係においてはありえない。愛の仕方は、そもそも人間によって様々である。確かに、ある学問だったり実践だったりには、特定の愛し方が集まっているようだ。歴史学とは、歴史を特定の仕方で尊重する人の集まりであるように思われるし、哲学は知を特定の仕方で愛する人の集まりだ。そうした愛し方の共通性ゆえに人々が仲良くなる可能性に満ちている。このことはとくに友人関係において顕著である。そもそも友人になるとき、人は趣味であれ何であれ、どこかしら共通するところがあるから仲良くなる。その中でも何かを愛する仕方が似ているから友人になるケースは多いように思える。例えば、音楽の愛し方について、音楽を芸術として、過去から受け継ぐべきものとして愛している友人同士、あるいは、そこでビジネスを発展させ、プレイヤーが増えることを願う友人同士。友人関係においては、愛し方に齟齬が起こることはあまりない。そして、齟齬があったとしても合わせる必要がない。

    けれども、性愛的関係の興味深い点は、そもそも愛し方が違うだろう人たちが、愛し方が分からない人たちが、なぜか惹かれ合い、共に時間を過ごすことになる点にある。

    アキはアキなりの愛し方を提示する。「私だったら、愛するときにこういうふうにする」「愛するときにそういうふうにはしない」。こうした、ある人にとって自然で当たり前に思えている規範を、本稿では「手元規範(Zuhandennorm)」と呼ぼう。

    アキの手元規範はアキにとってあまりにも自然すぎて、それがどのような形をした規範なのかもよくわからない。それはアキの手元にあって、馴染んでいる。「もし私を愛しているなら、そんなことはしない!」。そして、ハルの手元規範もハルにとって馴染んでいる。「あなたを愛しているけれど、それとこれとは別だ!」。

    喧嘩という現象は、喧嘩に参加するそれぞれの人々の手元規範のずれが生み出す亀裂だ。同時に、喧嘩は、手元規範のずれを開示するまたとない機会となっている。その意味でそれは辛い局面になりうるが、同時に、手元規範に対して人々がいくつかの対応をとれる可能性の場所でもある。その喧嘩が開示するずれをどう受け取るかによって、選択肢が生まれる。

    ハルとアキにはいくつかの選択肢がある。

    第一に、ハルがアキに従う、あるいはその逆である。とかく、アキが嫌だと言うのなら、ハルはもう飲みに出歩くのはやめる。それはハルにとって大事なことだったが、もはや失われる。第二に、互いに手元規範の齟齬を無視し合う。夜遅くに帰ってくるハルをアキは無視する。とはいえ、往々にして無視しようと努めている方の不機嫌や苛立ちが放たれるけれども。第三に、離れることができる。もはや異なる手元規範を生きている者同士では共に生きられない。それゆえ、関係を解消するなりして、互いの手元規範が変更されないようにする。第四に、これがもっとも価値あるものに思えるが、互いの手元規範をいったん脇において、どうすれば二人の新しい規範をつくれるかを検討することができる。すなわち、「共同規範(communal norm)」を新たに創造することができる。この共同規範の形成こそが、私は「愛」の中でも「共同的な愛」と呼びたいものである。

    共同的な愛とは、互いの手元規範を無理やりどちらかの規範に捻じ曲げるのでもなく、互いに規範を作り直すという意味で、真剣な営みであり、そして、道徳的な指針があまり役には立たないような独特な規範生成の場面である。もし、道徳的にこうするのが正しい、と相手をやり込めてしまうなら、それは共同的な愛の実践について何も分かっていない、ということになる。互いを愛する者たちがもつ、互いの手元規範とは、道徳的な基準で裁断できるものではない。その手元規範こそがそれぞれのその人らしさの深い源泉の一つであるからだ。そして、その手元規範のずれが、互いを不思議なプロセスで惹かれ合わせるものでもあるように思われる。これを私は「愛の共同規範生成説」と呼ぼう。

    友人の哲学者が言った。「個体であるあなたと私がたまたま出会ってぶるぶる震えているだけが愛ではない」と(伊藤 2023)。互いのニーズを互いが理解して、さらに、新たな共同規範を作り出し、調整し合って生き続けていくことが愛である。この直観を拾い上げるのが愛の共同規範生成説だ。

    これは愛のニーズ応答説をバージョンアップしたものになっている。愛のニーズ応答説では、ニーズに応答することが重視されていた。愛の共同規範生成説でも、もちろんニーズへの応答は重要である。しかし、それだけではなく、ニーズを聞き届けたうえで、パートナー間の新しい規範を作り出すことが愛のしるしとなる。その際、もしかしたら最初のニーズはそのままでは叶えられないことの方が多い。しかし、パートナー間の新たな共同規範ならば、パートナーの間で叶えられるかもしれない。

    それゆえ、道徳的な裁定が通用しない共同規範の形成にどれだけ取り組んだかが、その人の共同規範生成力を培う。

    ここから言えるのは、結婚していたり、パートナーシップを築いていたりする人のなかには、もちろん、互いの手元規範をどちらかが飲み込んだり、道徳的な裁定で裁断されたりしているケースもあるにせよ、一定は互いの手元規範を調整して、新たな共同規範を生成する、という興味深い愛の実践を行っている人もいる。そして、常識的な愛の推論とは、この度合いをかなり多く見積もったうえで、「結婚しているならば、共同規範生成をしている」と判断し、そして、「共同規範生成には深い価値があり、性格的な優れと関係している」という前提を忍び込ませているように思われる。

    その前提は部分的には正しい。なぜなら、共同規範を生成する能力とは、異なる情念に基づいた、言葉にしづらいような自分の欲望をいったん脇において、異なる規範をもっと人間とともに生きようとするためには不可欠な能力であり、人間の人間らしい能力の一つだからだ。共同規範形成とは、例えば異なる宗派や異なる思想をもった人々がいったん自分たちの手元規範を脇において、未来に向けてどのように規範を生成すべきかを考える場面にも拡張される。愛の現場は、確かに、性愛的関係に限定されず、異なる手元規範をもった人類がともに生きるために必須である思考や構えを涵養する、情念の教室でもあるのだ。

    本稿でいう「情念」とは、人間が物事や他者に対して抱く強く持続的な感情や欲望のことを指している。瞬間的な「怒り」や一瞬の「喜び」といった情動を指すのではなく、その人の思考や行動を深いところで支えるもの、突き動かすものをイメージしている。例えば、日常生活において私たちは、何かをどうしても好きになってしまったり、どうしても愛することができなかったりする。そうした説明しがたい思いが情念の典型例だ。この情念は、純粋に合理的・論理的に説明できるものではないからこそ、人々の価値観の違いを際立たせたり、すれ違いの原因になったりする。一方で、情念を共有したり、すり合わせたりできるときにこそ、人間関係や文化が豊かに育まれる可能性も生まれる。

    そして、その共同規範をつくる能力が劇的に形成されるもっともハードな現場が結婚やパートナーシップの中である、とみなされている、ということだ。このみなしはそこまでおかしいことではない。

    それゆえ、結婚をしている人には、共同規範を作り出す才能がある、あるいは実践経験がある、と思いなされる。とはいえ、共同規範を作り出す能力が高い人というのは、あなたの周りを見回してもらえば分かるように、それほど数多いわけではない。とても倫理的な人でも、自分の手元規範は絶対に譲れない、と頑固な人もいるし、あるいは外では傍若無人に振る舞っている人が、家の中では手元規範をパートナーに塗りつぶされている、というのもよくある話だろう。

    そういうわけで、やはり、パートナーシップのあるなしと共同規範へのセンスはそれほど相関しているとは思えない。ゆえに、「あんな人でも結婚できるんだ」という驚きは、まあ、偏見だとして軽くいなしておくがいいだろう。

    情念はどこで鍛えられるのか

    では、私たちは結婚や性愛的パートナーシップのような関係だけでしか、異なる手元規範をすり合わせ、新たな共同規範をつくる経験ができないのだろうか。そうだとすると、あんまりにも対人性愛中心主義(現実の人間同士の性愛的関係がオーソドックスなものだとする)だなあという感じがする。そんなことはない。むしろ、結婚や性愛的パートナーシップ以外の日常生活のさまざまな場面でこそ、頻繁に手元規範を調整し合う機会がある。それがもっとも顕著なのが、「美的なコミュニケーション」の領域だ。

    たとえば、あなたが大好きな音楽を友人に紹介するとしよう。その友人が「うーん、ちょっとよさが分からないなあ」と言ったとき、あなたはどう反応するだろう。「分かんないか、まあ、これが好きなんだよ」と主張するだけで終わってもいい。けれど、話はそこで終わる。こういうのはどうだろうか。「そう? でもさ、この曲のメロディがとってもきれいなんだ」だったり、「あのね、歌詞に込められた世界観が魅力的なんだ」とか、「アーティストの経歴や時代背景がこうで、だからこの旋律とこの歌詞に説得力があるんだ」などと説明を試みることもできる。それに対して「ふうん、そういわれたらもう一度聴いてみようかな」だったり「へえ、それはいい話だなあ」と返答があったりする。

    一連のこうした会話は、たんなる雑談と言えばそうだ。けれども価値ある雑談だ。あなたは自分の手元規範、これが美しいなあ、ここに感動するなあ、という個人的な価値観を、どうにか言葉にして相手に伝わる形に変換しようとしている。友人のほうは、話を聞く中で、自分の好みや判断基準に照らしてみて、「ああ、なるほど、そういう視点なら少し分かるかもしれない」と歩み寄ってくれるかもしれない。「それでも、やっぱりピンとこないなあ」と感性の違いが明確になるかもしれない。

    いずれにせよ、ここに生じているのは、なぜそれを美しいと感じるのか、自分の情念を言語化して示す試みであり、同時に相手の情念を理解しようとする試みである。情念の代表である「好み」の話をする中で、互いが「互いの情念に共感できるポイントをどこまで見いだせるか」もしかしたら「相手の情念に寄り添って部分的にせよ自分の情念とは違う情念を試してみよう」といった、小さな共同規範づくりが進んでいる。もしこの小さな共同規範づくりがうまくいけば、「自分の趣味とは違うけど、ここに美を感じる人がいるっていうのもおかしくない。その理由が理解できたかも」と相手が思う。完全に一致しなくても、お互いを尊重する新たな情念の共同体が生まれる。

    このプロセスは、人々が性愛的パートナーシップのなかで経験する「手元規範のすり合わせ」と構造的によく似ている。もちろん、音楽の好みが合わなくても離婚や別離にはならない。ある種の切実さはない。その度合いは違う。だが、美的コミュニケーションは共同規範を作り出すもっとも身近でもっとも広く行き渡った実践なのだ。

    もちろん、友人に自分の愛する音楽を紹介するというのはそれはそれで緊張する営みであるし、分かってもらいたいと思う営みでもあるはすだ。美的な好みをめぐる議論がこじれても、日常生活に致命的な影響を及ぼさないかもしれないけれど、しかし、友人とのこの小さな共同規範づくりは、それはそれで一大事業なのである。

    実のところ、美学という学問領域では、「なぜ人はある対象を美しいと感じるのか」「ある人が経験する美的経験とはどのようなものなのだろうか」といったトピックを巡り、個人の感覚をいかに他者に共有できるのか、いかに公共的な言葉にできるのか、歴史的にさまざまな議論が積み重ねられてきた。個人の美的判断を言葉や図式で表現し、それを他者と共有したり、論争の場に持ち出す試みは、「共同規範づくり」のミニチュアモデルだとも言える。美学においては、「完全には一致しないが、ある程度共通する理解を目指す」「一方で、互いの差異は残ったままでいい」という柔らかな合意、あるいは前回論じた「責任ある不一致」がしばしば生じる。

    こう考えてみると、美的なコミュニケーションは私たちの情念をめぐる会話の技術を鍛え、相手の手元規範を理解し、新しい共同規範へと向かう試みである。美的な議論や好みのすり合わせは、情念を鍛える場になりうる。自分が大事にしている感覚や価値観をどれだけ他者に伝え、どこまで共有可能にしていくか——その試みがうまくいくとき、互いの情念の理解は深まり別の情念の理解可能性が高まる。[2] 

    それゆえ、美的コミュニケーションの場を積極的に経験している人ほど、他人との「すり合わせ」に慣れている可能性が高い、と言えるのかもしれない。これは、恋愛やパートナーシップのような、日常的な共同規範づくりが求められる場においても、大いに応用できることだろう、と予測する。説得はされないままで、互いにわかり合えるために。

    けれども、美的なコミュニケーションは、対人性愛主義的な目的のためだけに活用されるにとどまらない。美的コミュニケーションとは、愛のコミュニケーションそのものである。共同規範は恋愛の場だけで成立するものではないのだから。私たちは、様々な人々と小さな共同規範を作り出すことができる。かくいう私も、この小さな共同規範づくりが好きで、美学を研究し続けている。他の点ではイマイチ仲良くなれない人とも、ある美的な領域では共同規範をつくれる瞬間、素敵な経験が起こっている、と感じる。

    さて、次回は、本稿で話した小さな共同規範づくりの先にある共同体を考えてみたい。それは「スピリチュアリティ」によってつながる共同体だ。スピリチュアリティ? 非常に怪しい響きをもっている。危険な振る舞いと結びつけられて考えられがちである。しかし、人類はみなスピリチュアルなのではないだろうか。たとえ、スピリチュアルなものを熱烈に批判している人でも。スピリチュアルなものを等閑視した人から飲み込まれていくスピリチュアリティについて次回は考えたい。

    参考文献

    Stringer, R. 2024. How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love. In The Philosophical Forum.

    伊藤迅亮.2023.私的対話.

    ハルワニ, ラジャ.2024.『愛・セックス・結婚の哲学』名古屋大学出版会.

    チャップマン, ゲーリー.2016.『愛を伝える5つの方法』ディフォーレスト千恵訳、いのちのことば社.

    ノージック・ロバート.1998.『生の中の螺旋』井上章子訳、青土社.

    難波優輝.2024.「あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか?:愛の認識論的問題に対する愛のニーズ応答説」Lichtung.https://lichtung.hatenablog.com/entry/2024/08/30/012801

     

[1]本節と類似した関心として、ラジャ・ハルワニの美徳と性愛をめぐる議論がある(ハルワニ 2024)。
[2]とはいえ、美的コミュニケーションのなかでもこれは美学的なコミュニケーションと言ったほうがいいのかもしれない。美的な判断を共有するだけではなく、互いに共同の規範形成までいたるのはまれかもしれない。それはかなりの程度美学的なアイデアに親しんでいなければ難しいかもしれない。
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
批判的日常美学について
難波優輝
[1]本節と類似した関心として、ラジャ・ハルワニの美徳と性愛をめぐる議論がある(ハルワニ 2024)。
[2]とはいえ、美的コミュニケーションのなかでもこれは美学的なコミュニケーションと言ったほうがいいのかもしれない。美的な判断を共有するだけではなく、互いに共同の規範形成までいたるのはまれかもしれない。それはかなりの程度美学的なアイデアに親しんでいなければ難しいかもしれない。
難波優輝(なんば・ゆうき)

美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)