イーロン・マスクは、なぜ「リベラル」「ウォーク」「ポリコレ」と戦うのか
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共感のなさが戦争や虐殺を招く?
さて、今回は、「戦争」や「新自由主義」と男性性の関係性を考えたい。その題材とするのが、イーロン・マスクである。
イーロンの話に入る前に、前回までの議論を確認していこう。前回、「共感」に問題があるとする『反共感論』の議論を紹介したが、反論もあろうと思う。実際、サイモン・バロン=コーエンが、ポール・ブルームに反論して、こう言っている。「意思決定者」が共感力を持たない場合、「最終的解決のようなまったく合理的システムを考案したナチスの所業を繰り返す危険性がある。(中略)不純な血を受け継ぐ者すべてを根絶することを目標とするナチスの観点からすれば、このシステムは理にかなっていた。そこに欠けていたのは、ユダヤ人犠牲者に対する共感以外の何ものでもない」(p137)と。
このような共感の欠如が「男性性」の問題とされ、それが新自由主義や戦争を招いているという議論がある。しかし、それも誤った「リアリティ」であることを前回述べた。新自由主義や戦争を志向する女性もいるし(それこそサッチャーは女性であったし、「リーンイン」してしまう女性CEOや、志願し戦う女性兵士など枚挙に暇がない)、戦争や競争が嫌いだったり苦手な男性もたくさんいる(弱者男性や、一部のオタクはそうだろう)。これらは、通俗的には「男性差別」と認識されがちだが、そうではなく、「男性とはこういうものである」というフィクショナルな思い込み・偏見を人々が抱いているが故に生じている不可視化・存在否認であると理解した方がいいだろう。科学や数学が得意な女性の存在や、母性愛があまりなかったり、暴力的だったり、性的に奔放な女性などが「女性とはこういうものである」という思い込みで不可視化されてきたことと同じである。
男性が強者で権力を持っている、というのも、統計的なことであり、個別の具体的な人間はそれぞれである。女性は数学や理系に向いていない、というのも統計的なことであり、個別には男性である筆者よりも遥かに数学や科学に詳しい女性などたくさんいる。統計的傾向と具体的な人間の多様性を混同し、「男性性」「女性性」について実体と乖離した虚構のイメージを現実と思い込んでしまうことが、様々な「不可視化」の問題を生み、個別の生や実存を踏みにじられた感覚を生んでしまうのだ。
そのように「男性性」と「女性性」を相対化した上で、次の問題を考えなくてはならない。そうであるにもかかわらず、「共感」なく、新自由主義や科学や戦争を推進していく人々は現に存在し、それは男ばかりではないか。それは何故か、どう理解したら良いのかが、今回論じたいことなのである。それを、イーロン・マスクを題材にして考えたいのだ。共感に対する敵意
CNNが「イーロン・マスク氏は西洋文明を『共感』から救いたい」という記事を出した。執筆者のザカリー・B・ウルフ記者は「起業家のイーロン・マスク氏が政府効率化省(DOGE)を使ってやっていることは、どの領域にどれだけの規模で影響を及ぼすのか、誰にも分からない。DOGEは現在、政府のサイズを劇的に縮小し、1兆ドル(約147兆円)を超える水準での政府支出削減を目指している」「しかし何がマスク氏を突き動かしているのかについては、ある程度見通せる。つまるところそうした取り組みは、マスク氏の言う『文明が抱える自殺同然の共感』との戦いなのだ」「そこにあるのは、個人に対する共感は集団にとって高くつくという信条」であると書いている。
マスクはこう述べている。「文明が抱える自殺同然の共感が止まらない」「西洋文明の根本的な弱さは共感だ。共感が付け込んでくる」「彼らは西洋文明の欠陥を利用する。それが共感反応だ」。
「弱者」へのリベラルたちの「共感」により、支援を公的に行ってしまう。それが、文明の「自殺」であり、西洋文明の「根本的な弱さ」だとマスクは考えている。合理的・効率的に設計し目的を遂行してきた企業家のイーロン・マスクらしい考え方だろう。
イーロン・マスクは、アスペルガー症候群だと公表している。「極端な男性型の脳」であるシステム脳の極端化した脳の持ち主である。ほら、共感性のないシステム脳的な持ち主だからこのようなことをするのだ、と言いたくなってしまうが、前回に、極端なシステム脳故に自身の臓器を提供した利他的な人物を紹介したことを思い出してほしい。システム脳だったと病跡学的に言われる(マイケル・フィッツジェラルド『天才の秘密』)哲学者のイマニエル・カントも『永遠平和のために』などを書き、戦争を避けることを志向している。さらに、人間を手段ではなく目的と思え、という主張などは、後の「人権」などの概念の成立に大きな影響を与えたと言われている。だから、システム脳やアスペルガー症候群であるということだけで、ただちに新自由主義的な過酷さや戦争への志向など「共感性のなさ」を体現するような志向性を持つわけではないのだと考える必要がある(『天才の秘密』でアスペルガー症候群だとされる他の者は、アンデルセン、ジョージ・オーウェル、スピノザ、シモーヌ・ヴェイユらであり、その作品や著述を見れば、それはよく分かる)。
では、イーロンは、どうしてこうなのだろうか。虐めと虐待による、傷付きの集積──イーロン・マスクの幼年期
ウォルター・アイザックソンの公式伝記『イーロン・マスク』を手掛かりに、探ってみることにしよう。そこで分かるのは、イーロンの育った環境のあまりにもな過酷さである。
イーロンは、一二歳で、南アフリカのサバイバルキャンプに入れられている。そこは「体の大きい子は小さい子の顔を殴り、持ち物を奪」(p13)う環境だった。そこでは「何年かにひとり死ぬ子が出る」が、「去年死んだうすのろみたいになるな」と指導員が注意するような教育環境だった。
「学校はつらかった。誕生日の関係からクラスで一番幼く、体も一番小さかった。さらに、人間関係をうまくこなすことができなかった。共感は苦手だし、ほかの人に好かれたいとかも思わないし、気に入られようとすることもない。だから、どこに行ってもいじめられ、顔を殴られた」(p14)。馬乗りになられて顔を殴られたり蹴られ、入院し、実行犯が少年院に行くようなこともあった。
そのとき、病院に行って帰ってきたイーロンを、父親は一時間立たせたまま、「大ばかだ、ろくでなしだ」(p15)とどやし続けた。父・エロール・マスクは、エンジニアであり「身勝手な空想におぼれる性悪」であり、学校でのいじめの暴力よりも遥かに激しい心の傷をイーロンに与えた。イーロンは何時間も立たされたまま、いかにイーロンが駄目な奴なのかなどの話を延々聞かされるなどの「虐待が続く」(p16)。マスク本人は「精神的な拷問」であると語っている――後に、イーロンは自分の仕事について「私は異次元の拷問を自分に科しています」と言い、会社などの他の人間にもそれを要求することになる。DOGEもその延長線上だろう。
父・エロールは、自身は「『大変に厳しい路地型独裁制』をしいたと胸を張」っている。南アフリカの学校では「ふたりががりで地面に押さえつけ、木の棒で顔を殴ったりする」から、自分の教育のおかげでイーロンはそれは「屁でもなかった」はずだと自身の教育を誇っている。そして「イーロン自身も、後々、似たような独裁制を自分自身に対しても周囲に対してもしいているじゃないですか」(p17)と威張っている。
その結果、イーロンは自身の感情を抑制する能力を身につけなければいけなくなり、それが故に「冷淡」にもなり、同時に「恐れ」も遮断でき、リスクも取れるようになったのではないかと、最初の妻のジャスティンは言っている。「恐れを遮断するのは、喜びや共感などほかのものも一緒に遮断しないといけないのでしょう」(p18)。だから、彼は成功を噛み締めたり、人生を味わうということが分からないのだと、彼の子を生んだクレア・ブーシェイは言っている。「人生は痛みの連続だと子ども時代にたたき込まれたのでしょう」(p18)。これは、ロシアによる、国際政治は力で動くのだというリアリズムへの親和性を思わせる。
そして、彼は「オタク」だった。自宅における父親からの虐待、学校における虐めなどの中で、フィクションの世界が彼を救った。「彼を救ったのがSFだ。ゲームが好きな頭でっかちの子どもに最適な知恵の泉である」(p53)「生涯を通じてビデオゲームにはまっている」(p58)。そして、異能の者が世界を救う物語である『X‐MEN』などと自分を重ねるようになっていく。
橘玲は『テクノ・リバタリアン』の中で、イーロンら「現代のテクノ・リバタリアンたちは、ヒッピーやコミューン、東洋思想よりもSFやアニメのようなサブカルチャーの申し子で、子どもの頃に憧れた世界をテクノロジーのちからで実現しようとしている」(p58-59)のだと言う。イーロンが影響を受けたのが、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』や、アシモフのファウンデーションシリーズであり、火星に行こうという執念にもそれは深く関わっている。
それは過酷なこの世界からEXITさせてくれる希望なのだ。テクノ・リバタリアンと、「世界に対する敵意」
橘は、シリコンバレーに集まる「天才」たち、ギフテッドには、「自閉症傾向」があると述べている。「きわめて高い論理・数学的な能力に恵まれているものの、その代償として、相手がどう感じるかをうまく理解することができない。認知的共感は一般に『コミュ力』と呼ばれるが、それが低いと、学校では友だち集団から排除される原因になる。これは、マスクやティールの子ども時代の体験をうまく説明するだろう」(p67)
イーロンは、「共感力が低く、部下を無慈悲に解雇することになんの躊躇もない」(p73)一方で、異常な集中力、激しい躁鬱、強迫神経症、「つねに追いたてられているような切迫感に苛まれ、どのような成功にも満たされることな」(p73)い状態である。
イーロンと一緒にペイパルを創業し、副大統領のバンスの上司であり政治家になるのを支援し、トランプにも多額の献金をし続けてきたピーター・ティールは「影の大統領」と呼ばれている。イーロンとティールら、テクノ・リバタリアン第一世代は、第二世代のサム・アルトマンらと比較し、「世界に対する敵意」が強いと橘はいう。常に世界が安全でないと感じているのだ(これも、ロシアが常に脅威に脅かされていると考える「包囲された城砦 Fortress Russia」というロシアの思想と親和的だろう)。
そのような「世界を恐れる」恐怖感の由来を、橘は、システム脳のギフテッドであることに見出そうとしている。「論理・数学的知能が極端に高くても、心の理論がうまく構築できない子どもは、つねに『なんでそんなことをしたの!?』と問い詰められ、未知の世界を怖いところだと感じるようになる」(p161)。
確かに、そのような脳の性質による対人関係での傷つきに由来があると考えることは重要な視座である。しかし、システム脳でも『永遠平和のために』を書いたカントのような例がある以上、それだけで説明は難しい。やはり、それによる学校などでの虐めや、家庭での虐待が彼を駆りたて続けていると考えるべきであろう。「ウォーク」や「ポリコレ」への敵意も、自身がそのような環境で必死で生き延びなくてはならず、今も自身に「拷問」を加えるように働いていることから来る、「支援」への憎悪であると理解するべきであろう。彼は、ウォークやリベラルを、ウィルスが蔓延するような陰謀だと考え、ツイッターを買収し極右の情報が流通しやすいようにアルゴリズムを変え、トランプ当選に寄与したが、それは自然な「共感」「同情」などを感じにくい脳であるからだけでなく、彼自身がそれを浴びることがなく、感情を抑制せざるを得ない過酷な環境に生きてきたからなのだろうと推測される(発達障害などは先天的だとこれまでされてきたが、虐待などの後天的な経験で極めて近しい症状が出るのだと分かってきている。杉山登志郎『発達障害のいま』『トラウマ』など参照)。
筆者の考えでは、アスペルガー症候群、ニューロマイノリティ、発達障害、ギフテッドであることだけが、彼らをこのようにした原因ではないと思われる。ヴィトゲンシュタインやエリック・サティは全然こうではないからだ。それを基盤としつつ、周囲の無理解、虐め、虐待などによって、社会や世界や人々への恐怖感や憎悪の念、幸福の感じられなさや自身を虐待し続けてでも、必死にやって成功し存在価値を証明し続けなければ、自身は存在を許されないというアダルトチルドレン的な信念が染み付いてしまっていることこそが、問題の根源なのではないだろうか。そして、彼らは世界トップクラスの金持ちになり、アメリカの対テロ防諜システムを作り、配信プラットフォームなどを牛耳り、DOGEなどで政府の情報にアクセスしシステムごと作り変えようとしているように見える。
現在において、「共感」のスポットライトをどこに当てるかを決める一番強いメディアはSNSであり、そこを支配すれば、「共感」資源の配分も彼らが行いうる。移民・難民をかわいそうと思うか、仕事をなくしたりアファーマティヴアクションで入学の機会を失う白人男性をかわいそうと思うかは、スポットライトの当て方次第だが、それによる共感の対象次第で保守になるかリベラルになるかが決まる。男性がかわいそうか、女性がかわいそうなのかも、そのようなスポットライトの当て方と共感資源の奪い合いの問題だと理解するべきだろう。
彼らがお金と権力を握り、プラットフォームなどを動かし、テクノロジーを普及させ、世界を変えていく。そうすると、彼らを理想とする「覇権的男性性」の考え方も蔓延していくだろう。システム脳的なものに注目することが、現在におけるジェンダー対立において重要なのは、その対立が含みこんでいる、保守・リベラル的な争いと、さらにその背景にある「共感」「論理」の問題を解きほぐすにあたって重要だからである。
おそらく、極端なシステム脳を持つ高知能である彼ら自身が、白人男性であり、高知能や成績の良さでカバーされ、苦しさが見えなくなり、共感されることの乏しかった「不可視化された弱者」であったのだ。今のように、自閉スペクトラム症についての研究が進んでおらず、知識も普及しておらず、合理的配慮などが行われて来なかった過酷な環境に生きてきたことが、このような問題を生んでいるのではないか(世代が下のアルトマンらが、「世界に対する敵意」に乏しい点が、そう推測させる)。その傷つきを生み出した家族や、いじめた人々たちもおそらくは一定の罪を負っており、彼らは自身の能力を用いた復讐を現在行っているのだと理解することも出来るだろう。アンデルセン──システム脳で、虐めを受けても、世界を憎悪しない例
筆者は、彼らのような思想の人間が、経済的・政治的に力を持ち、統治する社会に生きるのは過酷であり、人々を幸福にしないのではないかと考える。自身の出生歴における虐待を反復し、社員のみならず国民や世界全体を虐待していいわけではない。彼らの私的なトラウマなどに基づく不安や人間に対する脅威の感覚に引きずられて戦争や安全保障などが動いていくのだとしたら、バカバカしく無駄である、とどうしても思ってしまうし、そんなことのために人間の生きる喜びや幸福感や人生の味わいが阻害されるのなら、人類が存在している意味が失われ、本末転倒であろうと感じている。
だから、彼ら自身が、幸福になり、他者を信頼し、信用できるようになるべきであろう。理想的には、世界中がそういう風になっていけば、戦争も争いも、不必要に過度な競争も減っていくのではないかと期待したい。だからその点では、「ケアの倫理」による平和の希求というのは、間違った方向ではない。もしイーロンやティールが、適切な保護やケアを受けられていたら、世界のあり方は根本的に違っていたのではないかと思われるのだ。
ジャンルも脳の性質も違うので単純に比較は出来ないのだが、『天才の秘密』でアスペルガー症候群だと言われている、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの生涯と比較して考えてみたい。アンデルセンは売春もしていた母親から生まれ、九歳で父を狂死で失い、極貧の中で育ち、学校を中退し、上京している。困窮し作品も認められない中、劇場の支配人に見込まれ、王から学費援助を受けて大学に行っている。貧乏で階級も下の田舎者である彼は当然色々なことでうまくいかず、その恩師の娘との恋愛も破綻している。アンデルセンは生涯失恋ばかり繰り返しており、人魚姫が王子に恋をするが王子が別の人と結婚し自身が泡になってしまう「人魚姫」の物語は、自身の経験の投影だと言われている。若い頃の作品は、主人公が死ぬ話ばかりであった。
アンデルセンの「みにくいアヒルの子」は、イーロンやティールたちと似た境遇のアヒルの子の物語である。自分だけ他の者と違い、家族や仲間たちに虐められたアヒルが、自死を考えるが、いつしか自分が白鳥になっていたことに気が付く。それは、社会的に成功したアンデルセン自身の自伝的な物語だと言われ、アスペルガー症候群の寓話であり、似た者への励ましの効果を持つ物語であったと推測されている。
イーロンたちも似たような人生を辿り、『X-MEN』などの「つまはじきにされる者が異能を持っており、世界を救う」という物語を心の支えにして生き延びたが、彼らの心は、アンデルセンの描いた白鳥のように浄化はされていないように思われる。その差は何なのだろうか。一概には言えないが、貧困と苦しみの中で育ったアンデルセンを、教会や王や貴族たちが支援し手助けしたことは、大きかったのではないか。イーロンやティールのように、過酷な生き馬の目を抜く社会で起業し経済的に成功しなければいけないという条件の中で、自力で生き抜き成功してきたのではなく、支援をしてもらっているのだ。それは、ある意味で、ケアのようなものだと思う。
アンデルセンの幼少期は過酷ではあったが、父から虐待を受けたわけでもなく、教育も強制されたものではなく、自身が好きで選んだ道であった。無神論者のマスクと違い、母親が熱心なキリスト教徒であったということも影響しているだろう。
これらの比較により、単にシステム脳であることや男性であることを、「戦争」や「新自由主義」と即座に結びつける議論も退けざるを得なくなる。『反共感論』によると、サイモン・バロン=コーエンは、システム脳の人々は「搾取や暴力への傾向性を示さない。それどころか、強い道徳的規範を持っていることすらある。彼らは残虐な行為による加害者であるより被害者であることのほうが多い」(p244)と言っている。
では、どうしてイーロンのように、経済的・政治的・社会的に成功していながらも、搾取的で無慈悲になっていく人が実際に存在しているのだろうか。その具体的なメカニズムについてこそしっかり考えなくてはならないのだが、イーロンの場合においてその背景にあるものは、南アフリカの過酷な教育や父からの虐待、学校での虐めが存在していること、つまり、被害を受け続けてきたことによる「傷つき」が問題ではないかと、筆者には思える。「覇権的男性性」であり「従属的男性性」である者
DOGEのやっていることは、アンデルセンのような者たちを減らし、イーロンのような者たちを増やす帰結になる。支援や共感やケアがあればアンデルセンのようになれた者たちから一定数、イーロンのような者たちが生まれてくるだろう。さらに、イーロンになろうとしたがイーロンのように成功は出来なかったものたちが、思想や行動だけを真似る行動にも多く出るだろう。
彼らの生み出す、虐待の連鎖のような、独裁的な社会が、そこに生きる者にとっていいものになるとは、筆者にはとても思えない。私たちが支援をしたり、ケアをしたりするのは、単に「共感」や「綺麗事」なのではなく、それがその人間の社会観・人間観・生命観を形成していくことになるからであり、おそらくそれは平和や安全、人類全体の幸福などのために重要なことなのだろう。かつて守衛の息子の絵描きがドイツの首相になり、現に南アフリカで虐待を受けていた子どもがアメリカの政府中枢に入り込んでいるように、誰が権力を握り統治をすることになるのかなど、誰にも分からないのだ。
だから、筆者は、共感が必要だという立場に立つ。ただし、メディアやプラットフォームにコントロールされ、兵器化された共感ではダメだし、スポットライト効果が不可視化する者たちの問題にも配慮する必要があるだろう。非モテ男性や弱者男性の問題を言い換えるなら、それは「男性性」のリアリティの構築が現実と対応していないがゆえに、共感や親密さのエアポケットに入ってしまう者たちのことなのだ。マスクやティールの例で言えば、高知能で成績が良いがゆえに、その苦しさを無視され放置され支援されなかった人々である。
浅い「共感」ではなく、必要なのは深い「共感」である。『反共感論』において、理性と叡智に基づく深い共感(敵や、自身と異なる存在まで理解しようとすること)は否定されておらず、むしろそれが必要だと言われており、批判されているのは「システム1」による早い思考によるインスタントで反射的な「共感」なのである。繰り返すが、そのインスタントな「共感」を生物学的な女性と結びつけるのは、事実に反している。ネットを見ればそのような男性もたくさんいるし、現実に筆者は、高度に知的で深い叡智と配慮を持つ女性たちにたくさん出会ってきている。
さて、イーロンはオタクであり、実の(トランス女性の)娘に「インセル」であると言われている。インセルとは「非モテ」のことであるが、一四人も子どもがいて、なぜ「インセル」「非モテ」なのだろうか。それは、客観的にモテないのではなく、彼の非共感的で、ワーカホリックで、物事を楽しめない性格の部分を指しての批判なのだろう。そして実際、成功するまでの彼はインセル・非モテ的であり、「弱者男性」的であり、フィクションにおいて現実の過酷さから逃れ自身を支えるという意味での「オタク」(適応の方法としてのオタク)であった。現在は「覇権的男性性」を体現しているように見えるが、心身に刻み込まれた傷により、彼は「従属的男性性」を維持したままなのである。彼が非常に強い躁鬱に悩まされていることは、この二つの性質を彼自身が行き来していることを示すのではないだろうか。
イーロンやトランプを支持する者たちの中には、彼らのような成功者ではなく、むしろ支援や援助が切られることで損失を受けたり、社会的に不遇な者も多いと言われ、自分で自分の首を締める愚か者であるかのように言われることがあるが、「覇権的男性性」と「従属的男性性」の同居という性質を考えると、パラドックスではない。従属的な立場でそれを内面に刻み込んだ者が共感し自己投影でき、かつ、成功者であるから、自身もそうなれるかもしれないという希望を夢見ることが出来るのだ。日本におけるひろゆきやホリエモンをカリスマと見る人たちも、おそらく同様の心理であろう。
誤解してはいけないのは、イーロンは怪物ではないということである。どちらかと言えば、傷ついた子どもに近いのではないか。ただし、『AKIRA』などで描かれたように、傷ついた子どもが大きすぎる力を持ったとき、それを制御できなくなり、怪物化してしまうことは確かにある。その怪物化した子どもの心の傷や苦しみを、誰かが癒すことは出来ないのだろうか。弱さや苦痛を認めること
先に触れた中島梓は、『コミュニケーション不全症候群』の中で、「適応の方法としてのオタク」になる原因として、親から愛されなかったり、不適切な扱いを受けたことがあるのではないかと示唆していた。彼女は処方箋として、自身の否認しているトラウマや苦しさに向かい合うことを勧める。
「自分自身にとって苦痛であったり都合の悪い事実を含んでいても逃げることなく向かいあったとき、その人は知るだろう。ある人が苦しむのは苦しむことができたからであり、それはとても大きな祝福でさえありうるのだ」、そして「世界に対して理性ある距離と、ゆたかな感性と、おしみない共感を保って」いくために必要なことは「見ればいい」だけであると彼女は言う。「問題の根源は苦しむことを認めることにある。それはそんなに恐ろしいものではないし必ず乗り越える事が出来る――と、私はここで保証しよう。これまで自分の作ってきたゆがんだ殻や適応の異常なかたちを捨て、そこから出ることは誰にでも恐ろしいものである。だがそれはやっぱり何もそういう足かせをもっていない状態の自由さと楽さと快適さに比べたらまったくむなしい恐怖でしかないのだ。/大切なのは勇気だけである」「自分を直視すること、自分の苦しみを認識すること」(p314、308、312、325、329)
我々――男だけではない――が「弱さ」を認める必要があるのは、心を闇に食われ、怪物になってしまわないようにするためだ。そしてそのことにより、自身の問題の根源となっているトラウマを克服するためである。不適切な扱いを親に受けた者は愛着障害などになり、たとえば回避性愛着障害になった場合、現実で得られない愛や安心を得るために空想の世界に生きることになりやすく、客観的な現実や他者と接触することを阻むための「繭」「幕」を作り出しやすい、そして、他者と信頼と愛の関係ではなく、支配の関係を築きやすいのだと言う。イーロンだけではなく、多くの苦しむ者たちが、弱さやトラウマに向き合うことで、心に平穏や浄化が訪れれば――そして、そもそも「傷つき」を受け続ける逆境を経験しないように防ぐことに成功できていれば――、世界のあり方は、ひょっとすると違うものであったのではないか。そしてこれから、そうなりうる可能性も、あるのではないだろうか。