第14回 「自意識過剰」の夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『真珠夫人』菊池寛 1920(大正9)年

さて、『真珠夫人』である。

本連載を人に説明する際によく「『真珠夫人』とか『武蔵野夫人』のようにタイトルに夫人とつく小説を時代順に読んで、当時のフィクションと現実の夫人像に迫る」のように言い、ある種「夫人小説」の代名詞としていた。

それだけ有名なこの小説に関する評論やエッセイは浜の真砂ほどもあり、通俗小説のエポックメイキングな作品として、またメディアミックスを含めた「現象」として、作者菊池寛の作家人生に於ける位置づけとして、もしくは読者個人の思い出や衝撃として、さんざん語られてきた。

今さらこの有名な作品と著者に付け加えることは何もない。かもしれない。

が、冒頭に示した主旨の連載であるならば、『真珠夫人』を軸にした虚実の夫人、いわゆるモデル問題をメインにしてみるのが筋かもしれない。

またモデルか、と思う向きにお伝えしたいのはこの小説、モデルではないのにモデルにされたと思い込んだ当時を代表するいわゆる名流夫人がいたのである。

ともあれ、まずは『真珠夫人』にまつわる事実の確認をしておこう。

それはつまり冒頭にひいた「さんざん語られてきた」ことのおさらいになる。

本作は1920年(大正9年)6月9日から12月22日まで全196回、『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』(現『毎日新聞』の大阪本社、東京本社にあたる)に同時連載された、菊池寛にとって初の長編小説であり朝刊連載である。

当時の菊池は一般には無名で「作者を知らない読者は、掲載紙が「東日、大毎」であるために、菊池幽芳氏が本名で書き出したとばかり思っていた。そして本名の小説の方が面白いという評判までが立った程」(鈴木氏亭『菊池寛伝』)だった。前年に「大阪毎日新聞夕刊」で連載していた「藤十郎の恋」は舞台化もされているが、それでも一世を風靡したわけではない。

言ってみれば大抜擢だったわけで、これはひとえに「大毎」の学芸部長だった薄田泣菫の目利きによるものだ。

といっても、芥川龍之介の推薦があってのことであるし、一度の交渉ですんなり話が進んだわけでもない。が、森鴎外や志賀直哉らのハイブロウな作品が「大毎」読者(泣菫が「低級だからそのつもりで」と志賀宛の手紙に書いた、そんな読者)と嚙み合わなかった後に登板し、その任務に十分すぎるほど応えたのは事実である。

では、具体的にどれほど人気だったのか。

まず「『大阪毎日』だけで、之が為め五万以上の読者が殖えたそうだ」(『新潮』34〈11〉)とか「『大毎』の読者を一日に一万人ずつふやしたという伝説をもつ」(「新聞独占の形成道程」『思想』〈368〉)などの言説がある。さすがに後者は大袈裟ではないかと思うがいずれにしても類例のない流行り方で、連載中にもかかわらず前編として単行本が発売され、数え切れないほどの芝居にもなり、映画化は最終的に4回を数えた。芝居は河合武雄一座と伊井蓉峰、喜多村緑郎一座が競って公演したが、芥川龍之介、久米正雄、宇野浩二、菊池寛らが講演のために来阪した折には5、6箇所の劇場で芝居がかかり、菊池の風呂を芸者が覗きに来たという逸話がある(「文壇風聞記」)。また、志賀直哉は連載から7年後の昭和2年に信州の山間部で車掌や若者が熱心にあらすじを話しているところに居合わせ、「菊池寛が一とういいわ」という娘に「菊池寛は私の知人だよ」とか「(登場人物の一人杉野直也について)ナオヤというのは私の事だ」と言ったらみんな驚くだろうと想像したと書いている(『豊年蟲』)。

熱狂は文学者を目指す青年たちにも及んだ。「新聞小説など、軽蔑してい」た学生の林房雄が「第一回から読んで、非常に驚き魅きつけられ、最後迄見通した」(「真珠夫人を読んだ頃」)り、「既に文学青年で、通俗小説、大衆小説を単純に軽蔑して居」た倉島竹二郎が「すっかり魅入られて、毎日、新聞が来るのが待ち遠しいほどになってしまった」(「真実の人菊池寛」)。なお、帝大の学生だった川端康成は連載当時に菊池寛宅に上がっているが『真珠夫人』は「熱心に読んだのは必然」「新聞小説として新鮮で生彩ある感じだったという以上に、詳しい印象はおぼえていない」としている(川端康成「解説」)。

ではその「生彩」さのありかをさぐるために、簡単にあらすじを見ていこう。

実際に読んでみたい人は青空文庫に無料公開されているので参照されたい。

会社員、渥美信一郎はタクシー事故に遭い、たまたま乗り合わせた青木淳という青年から鞄の中のノートを捨てて欲しい、そして時計を渡して欲しいという遺言を受け取る。慎一郎はノートを手がかりに荘田瑠璃子の屋敷に赴き、彼女が財産家の未亡人であり、その美貌で男性たちを翻弄していることを知る。

もともと瑠璃子は男爵の娘で、同じ華族の杉野直也という恋人がいた。ふたりは荘田勝平という船成金の園遊会に招かれた際、密かに荘田の悪口を言っていたところを本人に聞かれてしまう。荘田は瑠璃子の美しさと華族の傲慢さに腹をたて、瑠璃子を妻にしようと目論んだ。瑠璃子の父は貴族院の議員で清廉潔白な人物だが家は抵当に入っていた。そこに目をつけた荘田は縁談を持ちかける。父は抵抗したが荘田の奸計で万策尽きたとき、瑠璃子は「ユーディット」(旧約聖書外典『ユディト記』に出てくる女性。故郷を守るために自ら敵陣に入って敵将の寝首を掻く)として結婚すると宣言。それはつまり結婚はしても貞操は守ることで荘田を生涯苦しめるという計画だった。

宣言通り瑠璃子は荘田と寝室を共にしなかったが、とうとう逃げられなくなったある日、知的障害のある荘田の長男が父を殺してしまう。

あっけなく未亡人となった瑠璃子は空虚な気持ちからサロンに男性たちを集めて恋愛遊戯にふける荒んだ生活に陥る。

ノートを託された信一郎も瑠璃子に魅了されサロンに出入りするようになるが、そこに死んだ青木淳の弟、稔がいることを知る。稔は兄同様に瑠璃子に惹かれており、実は瑠璃子も同じだったのだが、荘田の遺児、美奈子が稔を慕っていることを知り、母として潔く身を引く決心をする。ところが稔は瑠璃子を逆恨みし、彼女を刺して自殺。瑠璃子は今際の際に駆け付けた恋人の杉野直也に両親がいなくなった美奈子を託して絶命した。

それからしばらくして、画家を目指して家を飛び出した瑠璃子の兄が描いた一枚の絵が二科展に現れた。「真珠夫人」と題された瑠璃子の肖像画で、この絵は世人の称賛を浴びたのだった。

まず、主人公の渥美信一郎がいわゆる新中間層と呼ばれるエリートサラリーマンであることが今までになく新しい。そして、のっけから人が亡くなり、謎の遺言を手がかりに探偵小説ばりの展開が始まるのも斬新だ。さらに、自動車、白金(プラチナ)製の女性用時計、サロン、二科展などの道具立てもモダンである。園遊会も田口掬汀辺りが書けばどことなく明治初期かと思うような古臭いものになりがちだが、菊池は「丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝く春の名残りを止めていた。其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\と射している。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の湧く泉水があった」のように生き生きと描く(これは菊池寛にしては珍しかったため友人たちが「おい、菊池が自然描写をする」と囃し立てたとは小島政二郎の言)。さらに瑠璃子のサロンで通俗小説論が繰広げられるなど、メタな仕掛けもある。

とかく新聞小説といえばジェットコースター的展開が必須だが、今までの家庭小説のように狭い人間関係のいざこざやお涙頂戴で引っ張るのではなく、多様な人物たちの無理のない心理描写で次を期待させる。人を逸さぬストーリー展開は2002年に再ドラマ化してあらためて大ブームになるくらいに今でも通用する巧さである。

なにより美しい瑠璃子が「明治時代の美人のように(中略)人形のような美しさ」ではなく、皮肉も言えば本音も言う理性的且つ能動的な女性であることが画期的だった。「妾〈わたくし〉、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。妾〈わたくし〉一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲らしてやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いている女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思いますの」などと言い放つ女主人公。誰もが読む新聞というメディアで、建前ではなく本音を語る瑠璃子のような女性が登場する小説が載ること自体、瞠目に値したのだった。

それにしても、長編小説が初めての菊池寛がなぜここまで万人を熱狂させるほどの作品を書けたのか。

次回は本作の着想やモデルについて、またモデルにされたと勘違いした自意識過剰の名流夫人について掘り下げる。

 


〈おもな参考文献〉
鈴木氏亭「新聞小説に革命を齎した『真珠夫人』」『菊池寛伝』(実業之日本社、1937年)
澤木知彦「『大阪毎日新聞』と菊池寛の入社前後をめぐって――薄田泣菫の役割を中心に」『日本大学大学院国文学専攻論集』12(2015年)
「真珠夫人の後編」『新潮』34(11)(新潮社、1921年)
「文壇風聞記」「真珠夫人の後編」『新潮』34(1)(新潮社、1921年)
荒瀬豊「新聞独占の形成道程」『思想』(368)(岩波書店、1955年)
志賀直哉「豊年蟲」『近代日本文学21 志賀直哉集』(筑摩書房、1978年)
川端康成「解説」『菊池寛文学全集』第八巻(文藝春秋新社、1960年)
小島政二郎「「真珠夫人」思い出話」、林房雄「真珠夫人を読んだ頃」、倉島竹二郎「真実の人菊池寛」『菊池寛全集』第六巻〈第六回配本〉付録「菊池寛全集通信・3」(高松市菊池寛記念館、1994年)
鹿島茂「菊池寛アンド・カンパニー 第十二回『真珠夫人』創作秘話」『文藝春秋』(文藝春秋社、2022年)
篠田太郎「真珠夫人」『国語と国文学』12(10)(至文堂、1935年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第13回 消費される夫人 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

前編、中編では、1917年(大正6年)3月7日に起こった伯爵夫人芳川鎌子が自邸の運転手と心中した通称「千葉心中」事件と、それに関する当時の知識人、一般人の反応について見てきた。

後編では「夫人小説」であるところの徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』(以下『夫人と』)と青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』(以下『千葉情話』)を紐解いていく。

といっても、近代小説論などではまず顧みられないようなブームに乗ったやっつけ小説である。

しかし、そこをほじくるのが本連載の醍醐味である。

驚くべきは、両作品とも事件から3週間と経たずに刊行されている点だ。

『夫人と』は3月27日印刷、4月1日発行、『千葉情話』は3月25日印刷、3月30日発行(国会図書館所蔵のものは日付が手書きになっている)。また、『夫人と』はご丁寧にも巻頭に「序」として

此小説は普通の小説ではない、某伯爵家の家庭を忌憚なく描写した大胆な告白書であるこれで、初めて若夫人の心中の真相が了解される、夫人の死なねばならぬ理由、相手に運転手を選んだ理由が初めて得心の出来る、小説である、私は二度繰返して二度とも泣かされた、そして若夫人の満腔の同情を注ぐようになった、結構な小説である、私は一般の婦女子には勿論有髯の男子にも此小説は是非読で置いて貰いたいと思う、それは若夫人の心中の真相を伝えたのみでなく、各自家庭の好材料たるに背かぬからである、敢て推奨する所以である。

大正六年三月 日 菊池

としている。

そもそも「菊池」とは誰なのかよくわからない。家庭小説の大家、菊池幽芳にミスリードしたものだろうか(菊池寛はこの当時まだ無名)、胡散臭さ満点である。

小説の内容も虚実ない混ぜで「忌憚なく描写した大胆な告白書」は真っ赤な嘘。

ここまで臆面もないとむしろ感心してしまう。

『夫人と』は仮名子こと鎌子の祖母の話から始まる。

祖母のお霜は相州萩野(現神奈川県厚木市)の旧家に生まれ、色白美人で有名だった。お霜は呉服屋の跡取りと結婚が決まっていたが、山でうたた寝をしているときに浮浪者に暴行されてしまう。間もなく嫁ぎ先で生まれたのが鎌子の母、お村であった。

そのうち呉服屋が傾いてしまい母子は帰郷、お村はひとり横浜に奉公に出る。が、そこも傾き、奉公先の奥様と一緒に東京に出ることになった。実は奥様、元は小澄という芸者で稼業に戻るというのでお村も待合に預けられたのだ。しかし生母譲りの色白のお村は周囲に芸者になれと薦められるのが嫌で、お屋敷に奉公に出ることになる。そのお屋敷こそが星川家こと芳川家。美貌のお村は予想通り旦那に手をつけられ、生まれたのが仮名子(鎌子)だった(以下()内は実際の名前)。

正妻の哲子と三人の子ども、品子、節子、久夫は恐慌に陥った。だが、旦那が仮名子を可愛がるため無碍にはできず、生母のお村だけを追い払って仮名子を家に入れた。そして四人は仮名子をいじめ抜いたが、天罰が降ったのか久生は病死、品子と節子も嫁に行き、品子は離縁されて出戻ってきた。病に倒れた正妻の哲子は子どもたちに決して家を仮名子に取られるなと遺言して死去するが、願い虚しく鎌子が養子をとって跡目を継ぐことになる。

せめて結婚相手は姉妹が決めようと節子の義弟の敏夫をあてがおうとし敏夫も乗り気だったが、父の決めた司江子爵の賢二(寛治)が養子に入った。

かくて一つの敷地内に日本家屋の母屋、西洋館、離れの3棟が建ち、それぞれ旦那、仮名子と賢二、品子が住むことになる。女中たちは派閥闘争を繰り広げていた。

ある日、賢二が自動車を買い、運転手草地利助(倉持陸助)を連れてきた。姉たちは贅沢だと憤ったが、賢二は意に介さず仮名子と娘、運転手の4人で鎌倉の別邸に出かける。翌朝、草地に呼ばれた仮名子はお村が密かに会いにきたことを聞かされる。会ってみるとハンセン病で容貌が変わっていた。実はお村の母お霜を乱暴した浮浪者も同じ病いを患っていた。つまり仮名子は浮浪者の孫であることが暗に示唆されるのである(*1)。仮名子はショックを受けたが、その時夫の賢二が来たために慌ててお村を匿った。

その頃、姉たちが仮名子との結婚を唆した敏夫が留学先から帰ってきて、仮名子を脅迫にやってきた。後に妻の狼狽を不審に思った賢二が問いただすが、仮名子はお村のことも敏夫のことも言えない。それがかえって賢二の疑惑を深めてしまう。姉たちも仮名子と草地が怪しいと騒ぎ立て、親戚一同が集まった場で仮名子と敏夫、仮名子と草地が夫に隠れてこそこそしていると暴露。絶望した仮名子は死場所を探す旅に出、草地もついてくる。やがてふたりはやってきた鉄道に飛び込み最期を遂げた。

本連載の前編を読んだ読者はお分かりの通り、これらは事実ではない。芳川家の家族構成や姉たちの境遇、鎌子と倉地を疑って追い詰めたことなどは事実らしいが、ハンセン病だの浮浪者に暴行されるなどはどの資料にも載っていない。また、二人の姉はそれぞれ母親が違うこと、長女と鎌子(仮名子)の夫寛治(賢二)とが不倫関係にあったことなど、作者が知っていたら取り入れてもおかしくないような事実が書かれていない。

だが、嘘であることはこの際どうでもいい。

話の内容がどこかで聞いた展開であることに注意されたい。

主人公の夫人に一方的に横恋慕して噂を吹聴する男性、そのことを夫に言えないがために夫の信頼を失って破滅する夫人の図式は本連載第8回から10回で取り上げた田口掬汀『伯爵夫人』とそっくりなのである。

つまり、千葉心中に題材をとりながら、小説『伯爵夫人』に重ね合わせたのが本作というわけだ。

さて、『千葉情話』の方はといえば、これに輪をかけて事実から乖離している。ただし、こちらは「千葉心中」事件を元にしているとはどこにも書いていない。あくまでフィクションという体裁である。

伯爵夫人である梅由住子(芳川鎌子)と運転手の花柳助六(倉持陸助)とが千葉で心中するラストシーンこそあるものの、住子が独身時代から助六と知り合いであったり、住子の実家が騙されて土地を取り上げられたりと紆余曲折がある。なお、住子が陸助の子どもを妊娠していることが心中の大きな要因になっているが、これは3月10日付『都新聞』に出たガセネタ「其の後の鎌子 妊娠四ヶ月の身」をもとにしているのだろう。

ところで登場人物の名前が「梅由住子」、「花柳助六」と時代がかっていることに違和感を覚えないだろうか。その種明かし(?)が最後の一ページに記されている。曰く、

記せよ、時に大正六年四月一日、柳桜を混交〈こまま〉ぜし都の春は妖艶に、市村座にて『助六』と『梅由』を出し、これに対抗して帝国劇場にても又『助六』劇を演ずるのとき、一代の色男、花柳助六と梅由伯爵家の住子夫人が浮名を流す、必ずや満都の人気は此の書〈ほん〉と市村座と帝国劇場の「三つ巴」に集中すべく、此の書〈ほん〉は忽ち売り切れ、両劇場は大入り満員客留にてホクホクもの、縁起良し評判々々大評判……

どうも歌舞伎の演目である「助六」、「梅由」の興行に合わせて話題の事件を小説化したということらしい。が、「千葉心中」事件とは筋立て含めて何の関係もなく、どんな意図があったのかよくわからない。

著者の青木緑園は劇作家で、いわゆる「悲惨小説」をいくつもものした人物。

「悲惨小説」の名手として出版社からご指名を受けて事件の小説化を図ったものの事件自体に興味はなく、いっそ趣味に走ったということだろうか……?

それにしても、当時の鎌子に対する世間のイメージは「彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった」(「芳川鎌子」長谷川時雨『新編 近代美人伝(上)』)とあるように嫌われ者である。大衆小説のセオリーに乗せるために悲恋の夫人に仕立ててみたところで現実とはかけ離れている。著者の思う通り「忽ち売り切れ」になったとしても内容は期待外れだったのではないか。と思うのだが、実は鎌子の死後に評価は大きく変化する。それについて触れる前に事件のその後を追ってみよう。

心中騒動の後、ひとり助かった鎌子は3ヶ月後に退院し渋谷の別邸に身を置いたが、住人たちに「姦婦鎌子ここにあり」と落書きされるなど嫌がらせを受けたことは前編に書いた通り。

仕方なく麻布の自邸に戻るが家族の監視の目に苦しめられる。一時、天理教の尼になるという噂がまことしやかに囁かれたが本人は否定。そして事件から一年後の秋に、なんと倉持陸助の後釜に入った運転手の出沢佐太郎とまたもや出奔するのだ。ふたりは向島、取手、大阪、横浜と転々した。その間も鎌子を庇い、密かに仕送りをしていた父が1920(大正9)年1月に死去。出沢は職を求め歩いたが、有名になりすぎたためになかなか雇われなかったという。そして父逝去の翌年、1921(大正10)年4月17日に鎌子が腹膜炎を拗らせて死去したというニュースが出た(*2)。事件のたった4年後にも関わらず新聞での扱いは思いのほか小さかった。

戒名は玉容院謙室惠譲大姉、遺骨は中野龍興寺に納められた(7月10日付読売新聞)。鎌子の祖母や姉が墓参するのと対照的に、爵位を継いで再婚した夫の寛治は一度も姿を見せなかった。内縁の夫の佐太郎は月命日に必ずやってきたという。

ところがここで驚くべきことが起こる。女学生たちの間で鎌子の墓参りは恋が叶うとして人気になったというのだ。また、売却された芳川家の自動車はハイヤーに転身、花柳界で縁結びの象徴としてもてはやされたらしい。何か新事実が判明したわけでもないのに、死後にまったく別の評価を得たことはとても興味深い。

考えてみれば、事件が起こった1917(大正6)年に鎌子を謗ったのは知識人や華族など一部の特権階級か、長家のおかみさんたちだった。それに対し亡くなった1921(大正10)年に鎌子をロマンティックに捉えたのは新時代のモラトリアム階級とも言える大正芸者や女学生である。たった4年の間に声が大きい階層が推移していった様が見て取れる。

そのなかで、夫人小説だけが相変わらず大袈裟な悲恋ものに足踏みして、時代に取り残されている感があるのであった。

(*1)ハンセン病は遺伝性ではないが本作ではそのように設定されている。これは誤りである。
(*2)なお、芳川鎌子が戦後まで生きていたとする資料がいくつかある。例えば紀田順一郎氏はエッセイに鎌子のことを書いたところ「芳川鎌子は戦時中まで、能登和倉で温泉旅館を経営していたと」指摘があったとしている(「討論 私たちがつくりたい「日本の記憶〈ジャパニーズ・メモリー〉」コレクション」『季刊 本とコンピュータ』2003春号)。


〈おもな参考文献〉
徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』(贅六堂、1917年)
青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』(文芸社、1917年)
「其の後の鎌子 妊娠四ヶ月の身」1917年3月10日付都新聞
長谷川時雨『近代美人伝(上)』(岩波文庫、2001年)
「新盆の三人の女の墓」1921年7月10日付読売新聞
「鎌子のかた身縁結びの自動車 花柳界で大歓迎」1922年7月1日付読売新聞
大串夏身、細馬宏通、松下眞也、森まゆみ、紀田順一郎「討論 私たちがつくりたい「日本の記憶〈ジャパニーズ・メモリー〉」コレクション」『季刊 本とコンピュータ』(7)、2003年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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