第15回 向谷地さんからもらった言葉

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

すこぶる具合が悪い。仕事中にも涙がこぼれるし、常に死にたい気持ちが胸の底にある。深い暗闇に捉えられて、抜け出せない感じだ。先日は、命の危険を感じて、急いで診察を入れてもらった。主治医に限界ギリギリまでの抗うつ薬を処方してもらってなんとか死なずに済んでいるが、心の霧は晴れない。

先日、高校時代の友人に会った。とても久しぶりの再会だった。3人で新宿の中華料理屋に行き、シンハービールを注文する。乾杯をして、昔の話に花を咲かせる。3人でバカな話をしながら、笑い合う。チンジャオロースをつまみながら、会わなくなってからの2人の話を聞いた。1人の友人は結婚をして、子育てをしながら、仕事をしていると言った。もう1人の友人は事業を起こして独立していた。私は心の底から2人を羨ましいと思った。私は結婚できなかった自分を恥じているし、子供のいない自分を不遇だと思っている。さらに言うなら、あまりお金がない。毎日、1人のアパートに帰り、粗末な食事を取っていると世界中で自分が一番不幸な気がする。佐野洋子のエッセイに「1人でご飯を食べたくないから結婚した」女性の話が出てくるが、佐野洋子は彼女のことを「真っ当だ」と言っていた。

思えば私は女の子が嫌いだった。女子大生の時、化粧をして、男に媚びを売る女の子が憎たらしかった。良い大学の学生との合コンを見つけ、いそいそと出かける彼女たちをバカにすらしていた。なぜ、自分で稼ぐための努力をしないのか謎だったし、結婚という、ギャンブルに近いものに人生をかけるのも理解ができなかった。けれど、思い返せば、私の方がバカだった。女の人生で高い収入を叩き出せることなど、一部の特権階級の人にしか許されていないのだ。私のように、お金のない家で育ち、十分な教育を受けられなかった女は貧困の道を歩むしかないのだ。

事実、私はブラック企業で精神を病んで、自殺未遂をしたのち、引きこもりになった。幾度も自殺未遂を繰り返して、死のうとしても死にきれなかった。実家にいるのが良くないと医療者に言われて、実家を出た結果、生活保護になった。なんとか、自分で仕事を探して、働くようになったが、今だにパートであるし、年金も長い間払っておらず、ボーナスもなく、退職金もない。もちろん三度の食事は取れるし、たまに居酒屋に行くこともできる。けれど、この生活が幸せかと言われると全くそう思えない。私は高校時代の友人のピカピカ光る爪を見ていた。結婚をして、子供を育てていると言っても、爪を綺麗にする余裕があるのだ。私にはネイルサロンに行くお金も、爪を綺麗に保つ余裕もない。

子供の頃、学校では男女平等だと教わった。私はそれを一ミリも疑わなかった。そうやって育ってきたが、大人になると女性ということで、不利な面や苦痛を伴う場面が多いのに気がつく。満員電車で痴漢に遭うのはしょっちゅうだし、街を歩いていると、水商売を誘うポケットティッシュを勝手にカバンに突っ込まれる。先日、テレビのニュースでは大学の試験で、男性と同じ点数をとっても、女子だと落とされると放送されていた。日本の男女不平等は先進国の中では高いらしい。多分、この国の女は、良い稼ぎを持つ男の人と結婚して、その男性の既得権益に捕まっている方が良い生活ができるのだ。

私は街中で子供を連れている人やカップルを見ると、罵られている気がする。私は結局、どの男性からも求められはしなかったし、子供を産むこともなかった。もちろん、その人生が幸せに満ちたものではないと、結婚している人は言うであろう。しかし、結婚していない私にとっては、結婚なんて幸せじゃないなどと、言うことができない。したことがないものをジャッジできない。

最近はとても心が荒れていて、人に対して暴言を吐いたり、失礼なことを言うことが増えた。私の心の余裕のなさだと思う。私が人に対して、暴力的になるのは、その人のことを恐れているからだ。正社員の人、結婚している人、まっとうな人生を歩んでいる人がとても怖い。そして、羨ましくある。なぜ、私はそちら側に行けなかったのだろう。ああ、そうか、私はマジョリティになりたかったんだ。私は普段偉そうに、障害者や福祉のことを考えている風なことを言っているが、猛烈にあちら側に行きたがっていた。私は時々夢想する。自分が男性だったらどのような人生を送っていただろうかと。私はきっと、自分の力を振り回し、他者を抑圧する人間になっていただろう。そして、その暴力性に気がつかないまま生きていたと思う。だから、女に生まれてしまったのかもしれない。

私には六年前に、結婚を意識した男性がいた。その人は私が作っているミニコミのファンだった。その人はそんなにおしゃべりではなかったが、私が話す言葉に対して、面白い返答をいつもしてくれたので、一緒にいて飽きなかった。一緒に映画を見たり、夏祭りに行き、伊豆の方へ旅行にも行った。私の行きたいところに連れて行ってくれると約束をしてくれた人は私の人生において現れたことがなかった。私も30代半ばを過ぎていたし、相手も同じくらいの年齢だったので、考えていることは同じだったのだろう。その人から一緒に暮らそうとレストランで言われた時に、私は牛タンを食べていたのだけれど、口に運んだ牛タンが涙でしょっぱくなったのをよく覚えている。

その後が大変だった。毎週末、物件を探し、良さそうな物件が決まってからはお互い忙しくなった。職場の上司に少し遠くに引っ越すので、出勤時間を遅らせてもらうようにお願いしたり、不動産屋に次回は物件の更新はしないと連絡をした。彼は私の家に来て、荷物をまとめるのを手伝ってくれた。彼の母親に菓子折りを持って挨拶までした。しかし、その数日後、彼は「母親が同棲をするにはまだ早いと言って、反対しているから」という理由で同棲を反故にした。

私は毎日泣き暮らし、彼に罵詈雑言を浴びせ続けた。自分で自分がコントロールできなくて、毎日、怒りと悲しみで気が狂いそうだった。いや、気が狂っていたのだと思う。なんとか、仕事には行っていたが、ストレスから倒れそうになることも何度かあった。眠れなくなり、食べられなくなった。休みの日はカーテンを締め切った部屋の隅っこで体育座りをしてヨーグルトを啜っていた。ほどなく、私は彼と別れることにした。苦渋の決断だったが、仕方なかった。このままでは死んでしまうと思ったのだ。しかし、彼と別れても、私の精神の荒廃は止むことはなく、彼に迷惑行為を続けたのち、訳がわからなくなり、精神病院に入院した。措置入院という、かなり大きな入院だった。

措置入院とは強制入院のことで、医者2人の診断の結果によって決まる。私は体を拘束され、何日間も点滴を受けた。1ヶ月くらい入院して、散歩もできず、病棟の中でただうずくまっていた。自分の頭も正常ではなくなっていて、ぼんやりとした妄想の中を生きていた。しばらくして、薬と睡眠のおかげで良くなったが、その後1年間くらいは足が地に着かない状態だった。私は退院してから、べてるの家の集まりに足を運んだ。私は困った時にはべてるの家の向谷地生良さんに頼る。過去に向谷地さんの言葉に助けられた事が何度もあったのだ。向谷地さんは今の私の状態に対して、なんと声をかけてくれるのだろうか。

講演会の会場に行き、講演が終わった後に、向谷地さんに話しかける。

「向谷地さん、私、措置入院したんです。医者には再発したのだと言われました。もう、あんな目に遭いたくないんですけど、再発しないには、どうしたらいいんでしょうか?」

私がそう問うと、向谷地さんは口を開いた。

「再発は必要なものだったんだよ。再発というのはブレーカーなんだよ」

向谷地さんは分かりやすく例えてくれた。ああそうか、ブレーカーがなければ、私は熱を放電できずに、死んでいたのだ。あのまま放っておけば確実に自分に焼き殺されていたのだ。彼への愛着と憎悪で死んでしまっていただろう。だから、再発は必要なものだったのだ。けれど、できるなら再発はしたくない。

「ブレーカーが落ちないように働くのがいいよ」

そう、向谷地さんは付け加えた。少ない電力でうまく生活をして行けば、ブレーカーが落ちることはない。確かに、今回の入院の原因は「過労」と診断書に書かれていた。失恋が原因ではあったが、それでも我慢をして働き続けていたために、体がおかしくなってしまったのだと思う。疲れて体が熱を持っている時には、休まないといけない。自分の体をよく観察し、限界を超えているかどうかを見極めなければならない。

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あの失恋を経験してから、また前を向こうと思い、初めて自分から積極的に恋人を探そうと思いたった。周りの友人たちは「過去の男は振り返らない。次行こう、次!」と叱咤激励してくれた。しかし、私はどうしても恋人ができないまま今に至っている。多少親しくなり、何回かデートをしたことはあるが、相手のことを好きになれない。私の心は死んでしまったのかと思う。自分が何を望んでいるのかを知りたくて、たくさん本を読んだ。そして、自分は恋愛結婚がしたいのだと気がついた。しかし、もうすでに恋愛市場に残る事ができない年齢になっていて、まっとうな男の人はみんな結婚しているのが現実だ。そして、好きな人すら新たに作れない自分には何も打つすべがない。

私は毎日を真面目にコツコツ生きることしかできない。毎日、パートに行き、単調な仕事をこなす。安い月給でも文句は言えない。あの酷い失恋の時のように、精神が荒れてはいないけれど、とても毎日がとても息苦しくて、生きているのが辛くてしょうがない。結婚できなかったこと、女として生まれたこと、それらがどうしようもない寂寞感を持って押し寄せてくる。私は脳内の言葉をツイッターに垂れ流す。

「死にたい」

私のそのツイートを見た、担当編集さんが声をかけてくれた。

「向谷地さんの講演会に行きませんか?」私は即座に「行きます」と返信した。

朝早く起きて、都内の会場に急ぐ。「語り」をテーマにした講演会で、向谷地さんはべてるの家の実践を交えながら話をしていた。精神疾患の当事者は長い間、語ることを禁じられてきた。特に、統合失調症の患者には、幻聴や幻覚の内容について聞くのはタブーだとされていたらしい。しかし、べてるの家ではどんどん幻聴の内容を聞く。そして、たくさんいる自分の幻聴を人に売ったりしている人がいるそうだ。一見破天荒な話に聞こえるが、本人が納得していればそれでいいのだ。私は向谷地さんの声を聞いているとホッとする。低く、落ち着いた声は心のとげを拭い去ってくれる。最後に、質問のコーナーがあったので、私は手を挙げた。マイクが私の前に回ってくる。

「小林エリコと言います。べてるの家の集まりには昔からよく参加しています。一時期、生活保護を受けていました。多量服薬をして、死にかけたことも何回かあります。今は生活保護を脱して、働けるようになりました。昔より、生活が良くなったのに、死にたくてたまりません。結婚もしていないし、子供もいないし、毎日1人で暮らしていると虚しくて死にたくなります。向谷地さんに昔、『回復すると虚しくなる』と言われたことがあるのですが、それはどういうことなのでしょうか。もう一度、教えて欲しいです」

私がそういうと、向谷地さんは一息おいて、答えてくれた。

「今までの苦労は、ずっと病気の苦労だったんだと思う。でも、今は病気の苦労を手放してしまった。そして、違う種類の苦労になった。トルストイという作家の本にあるんだけれど、家族もお金も地位も手に入れてなんの不自由もないという男性が、毎晩机の中の銃を頭に当てて自殺を考えている、という小説がある。何もかもを手にしても虚しいというのは全ての人間に共通していることだと思うよ」

その答えを聞いて、私はなんだか許された気がした。結婚していようと、子供がいようと、お金があろうと、人は結局虚しいのだ。全てを手に入れていても虚しいのなら、私はこれ以上何かを手に入れるのを諦めよう。そして、病気の苦労を手放す事ができたのに感謝しよう。病気の時は、母や友人に迷惑をずっとかけていた。苦労のステージが変わったことは誇るべきことだ。虚しいままの自分にオーケーを出そう。私はマイクを運営の人に返した。向谷地さんの答えが聞けて心から安堵した。虚しくても、死にたくても、これで順調。私は安心して絶望していこうと思う。

 

第14回 兄の結婚

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

私には兄がいる。年は3つほど離れていて、仲はあまり良くない。他の兄弟がどのようなものか知らないが、私と兄はお互いの趣味が全く違うし、性格も違う。私は内向的であるのに対し、兄は社交的だ。友達も多く、高校生の頃は車に乗って友達とスノーボードによく行っていた。私はその頃、家で、ドフトエフスキーなんかを読んだりしていた。

兄は学校では目立つタイプだった。昔でいうところのヤンキーというやつで、短ランといって短い丈の学ランを着て、ボンタンという幅の広いズボンを履いていた。短ランの裏地は紫で、先輩に譲ってもらったと兄が自慢して見せてきたが、私は「ダサいなあ」という感想しか生まれなかった。それを言ったら怒られるので、「かっこいいね」と心にもないことを言った。

私は兄のことが嫌いである。なぜかというと、兄は私が小さい頃、私のことをずいぶん酷くいじめたからである。一番ひどかったのは、私が小学生の頃で、無言でなんども激しく叩いた末に、裸足のまま家の外に出されて鍵をかけられたことである。私は声が枯れるまで泣き、たまたま来ていた保険のおばさんの助力でなんとか家に入れてもらえた。兄がなぜ私のことが気に入らなかったのかはよく分からないが、心当たりとしては私がいじめられっ子だったからだと思う。人気者の兄にとっては妹がいじめにあっているというのは恥だったのだろう。私は家に遊びに来ている兄の友達からも、私がトイレに入っている時間が長いという理由で「ゲリオ」(下痢をしていると思われた)というあだ名を付けられて、兄も妹の私のことを「ゲリオ」と呼んで笑った。

兄と遊んだことと言えば、家にあったスーファミでゲームを一緒にしたことくらいだ。兄はゲームが好きで、いろんな種類のハードやソフトを持っていた。ゲームは兄の所有物なので、あまりやらせてもらえず、ゲームをやるために兄のご機嫌を取らねばならなかった。兄に「お前にもやらせてやるからソフトのお金を出せ」と言われて、五千円くらい出したのだが、ゲームを買った痕跡もなく、やらせてもらえることもなかった。兄は兄として私を搾取し、私は力の強い兄の下、ただ、平伏するのみであった。

そんな兄だが、高校生になってから、急に兄貴風を吹かせたくなってきたらしく、欲しいものはないかと聞いてきて、私が適当に言った文房具のセットを買ってくれたことがある。他にも、私が自殺未遂をして、実家に戻ってきたときにくれた手紙には「病気で辛いと思う。えりこが働けるような店を作ろうと俺は考えている」と言ったような内容の手紙をくれたりした。兄は年をとってからようやく兄になったのだけれど、私は過去の陰惨ないじめを忘れることができず、その手紙をまともに読めなかった。私はどちらかというと心が狭く、過去に罪を犯した人を許すことができない性格だった。

そんな兄が結婚することになった。結婚相手は仕事先の人で、兄より4歳年下だった。兄が結婚すると聞いて、私はああやっぱりか、と思った。兄はいつでも道の真ん中を歩いているような人だから、結婚ができないわけがない。妹を殴り、短ランを着て、仲間とスノーボードに行ける人間は結婚できる。そして、私はこの頃、自宅に引きこもって自殺未遂と入退院を繰り返していた。病気を治すためにと飲んでいる薬は1日で30錠を超え、薬の副作用で体はぶくぶくと太っていた。兄は結婚できるけれど、私は一生できないだろうと直感的に考えて、私は悲しくなった。陰と陽のような私たち兄弟。

兄の結婚が決まってから、母は何度か相手のご両親たちと会ったりして、忙しくなっていた。私は家でただぼーっとして過ごしていた。

そんな日々がしばらく続いたある日、母が突然私に切り出した。

「エリちゃん、お兄ちゃんの結婚の話がなくなるかもしれないの。エリちゃんの病気のことで、相手のご両親が心配しているのよ」

私はびっくりした。今の時代に、親戚に精神疾患の患者がいるからと言って、結婚がなくなるなんてことがあると思わなかったからだ。兄のことは嫌いだが、結婚がなくなるのは流石にかわいそうだ。兄を思いやると同時に深く傷ついている自分もいた。自分は今、差別を受けているという実感が後から少しずつ湧いてきて、胸のあたりにジワリと影を落とした。

「それでね、相手のご両親がエリちゃんと会ってみたいっていうの。お食事をしようと思うんだけど、一緒に来てくれる?」

母は少し申し訳なさそうに続けた。私は断る理由などなく、快諾した。

相手のご両親との食事は和食料理屋で行われた。私はこの日のために綺麗な洋服を買った。席に着き、兄の結婚相手のご両親と挨拶をする。兄も、兄の嫁になる人もいない。私と、母と、結婚相手のご両親だけ。少し奇妙な食事会は私のために執り行われている。母は相手のご両親とちょっとしたことを話したりしている。その横で私はただ、黙々と箸を動かしているだけだった。けれど、とても慎重に箸を動かし、咀嚼し、水を飲んだ。私の一挙手一投足が兄の結婚の行く末を決めるのだ。汚く食べたり、変なことを口走ったりしてはいけない。私は緊張しながら1時間半に及ぶ食事会を終えた。家に着くとぐったりして、すぐに布団に横になった。しばらくして、兄の結婚が無事に執り行われることを母から聞いた。私は自分の役目を果たしてホッとした。

結婚式はチャペルで行われた。兄と花嫁がしずしずと牧師の前に行く。誓いのキスをする二人。兄のキスシーンを見るのは変な気持ちだ。満面の笑みをこぼす兄と花嫁。それを見ていると自分が精神疾患で、この二人が別れることになるかもしれなかったことが、申し訳なく感じてしまう。

披露宴会場に移動した。父は出てきたワインを何回もお代わりしてすでにベロベロに酔っ払っていたが、母は綺麗な着物を着てシャキッとしていた。私は太った体でぼんやりとワインをぐびぐびと飲んでいた。会ったことのない兄の友達が祝辞を述べ、お祝いの歌を歌う。花嫁の友人も出てきて祝いの言葉を述べる。目の前で盛大に行われている披露宴がなんだか茶番のように思えてしまう。本当にこれは必要なものなのだろうか、そう自分に問いかけながら、どこかで憧れている自分がいた。

私が誰かと結婚をする可能性は極めて低い。私は精神障害者なのだから。人間は持っていないものが欲しくなる。昔は結婚なんて絶対にしたくないと思っていたが、徐々に考えが変わっていった。花嫁がお色直しで着た赤のドレスは派手で下品だが、美しかった。燦然と幸福を輝き放ち、人生の最高潮である今を映し出していた。私にはあのような瞬間がくることはないのだということを噛みしめるとますますドレスの輝きは激しくなり、私は気分が悪くなった。涙が出るのを必死にこらえる。私はなんでここにいるのだろう。私は拒まれた人間なのだから欠席した方が良かったのではないか。意識を飛ばすためにワインをお代わりして、ぐいと飲み干し、目を瞑る。早く時間がすぎてくれればいい。私は感情が爆発するのを必死にこらえた。結婚式を汚してはいけない。

披露宴が終わって、二次会のカラオケ店に移動した。私の家系は親戚付き合いをしないのだが、結婚式には流石に現れるようだ。けれど、ほとんどが知らない顔ばかりだった。母親の元にくる年賀状に写っている従兄弟たちの顔を思い出すが、小さなハガキに印刷された顔では判別がつかない。陽気に歌う従兄弟の歌を聴いていると、徐々に呼吸が苦しくなり、居ても立ってもいられなくなって、母に訴えた。

「お母さん、具合が悪い。家に帰りたい」

結婚式が始まってからもう5時間以上経っていた。私は十分頑張ったと思う。母はタクシーを呼んでくれて、一緒に乗り込んだ。私はヒューヒューと息をする。発作が出ないか心配だ。よろよろと母に抱えられながら、自宅に着く。私はワンピースを脱ぎ捨てて、声を上げて泣いた。涙が出るたびに、私はものすごく我慢をしていたのだとわかった。しゃくりあげて肩を震わせてなく私を母はただ眺めるだけだった。私は自分が惨めで仕方なく、消えて無くなりたいと願った。兄は結婚したけれど、きっと、結婚後は、大した交流を持たせてはもらえないだろうし、私も持ちたくない。私を差別し、拒否した人と分かりあいたくもない。私はぎゅっと体を屈めて自分の体を抱きしめた。自分を守れる人は自分しかいないのだから。