第13回 生活保護の理想と現実

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

ここのところ、生活保護という単語をよく見かける。柏木ハルコさんの『健康で文化的な最低限度の生活』という漫画はドラマ化もされた。本屋さんでも生活保護を絡めたタイトルがあるし、ネットの記事でも生活保護を取り上げられていることが多い。

思えば、自分が子供の頃には生活保護なんていう単語は目にすることがなかった。お金持ちも貧乏な人も、自分の収入だけで生活をやりくりしていると思っていたのだ。けれど、自分が子供の頃も、生活保護を受けている人は確実にいたはずである。ここ近年、生活保護が目立ってきたのは、ふつうに働いている人が貧困に陥っているからだと思う。生活保護基準以下で働かされている人が多くなり、働くより生活保護を受けたほうがマシ、という状況の人が増えてきたからであろう。そのため、生活保護を受けている人の方が恵まれているというおかしな状況になってきたため、生活保護受給者に対しバッシングが起こっているのだ。

生活保護受給者たちは一般の人たちの前に姿を晒さない。顔を出さない当事者たちは、他人によって勝手にイメージで語られるようになる。働かないで怠けている。税金泥棒。車を乗り回しているのを見た。パチンコに行っている。そのような中で、ドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』は画期的であった。熱心なケースワーカーと、どうしようもない苦しい事情で生活保護を受給せざるを得ない当事者たち。原作漫画を読んでいるけれど、毎回緊張しながらテレビの前に座っていた。自分が関わっていた世界がドラマになることは気になって仕方なかった。困難だらけの生活保護受給者に熱心に関わっていく主人公。毎回心が熱くなるストーリーだった。しかし、あれはフィクションなのだ。面白く、感動できるお話にするには、ある程度、話を盛ったり、善人を出したりしなければならない。新人のケースワーカーが生活保護受給者に真摯に向き合い、生活や就職を支援する姿は、視聴者の理想の姿なのだ。

ドラマの最初のシーンで生活保護受給者が生活保護課に電話して「これから死にます」と電話するシーンがあった。私はこれにひどく違和感を感じた。私が生活保護を受けていたときは、ケースワーカーにそんな電話などできなかった。そういったことを話せるくらいの距離感すらなかった。ケースワーカーたちは生活保護受給者には無関心であったし、見下している場面が多々あったからだ。私も生活保護受給中に一度、自殺未遂をしたが、ケースワーカーには連絡しなかった。私の心は彼らに向かって閉じていた。

思えば、生活保護を受けていた時の私の生活は、社会からバッサリと切り離されていた。朝起きても、行くところがないし、喋る相手がいない。話しかけてくれるのはテレビだけ。家を出ても、行くところはスーパーくらい。会ってくれる友達もいないし、いたとしても喫茶店や居酒屋で支払うお金がない。私は自転車に乗って一円でも安いスーパーに買い物に行くのだけが人生の目的になっていた。本当はもっと収入を増やして行動できる範囲を広げることが大事なのに。セミがうるさく鳴く中、汗をかきながら自転車を漕いで、遠くの激安スーパーに向かう。その時に、小学生の集団とすれ違うと悲しくなった。私だってあのように無邪気な時があり、自分が将来生活保護を受けることになるなどとは微塵も思っていなかったのだ。

ドラマに出ている生活保護受給者達も、私と同じように家族や友人から見放されていて、昔はきちんとした生活をしている人たちだった。そして、ドラマの中でケースワーカー達はうっとおしいくらいに、生活保護受給者に関わっていた。生活保護受給者の方が「もう、自分に関わらないでください!」と言ってしまう場面すらあった。私はもやもやとした違和感を感じた。私は、うっとおしいほどの手厚い支援を受けていなかったからだ。

しかし、この作品で私は大切なことを知った。それは、生活保護受給者は働けるものは働かなければならないということで、ケースワーカーたちはそれを支援する立場だということである。私はそんな簡単なことを知らないまま生活保護を受給していた。生活保護を受ける際、そのような説明はされなかったし、受け始めてからも一切言われなかった。むしろ、働き始めた時、いけないことをしているのだろうかという不安すらあった。もちろん、働くように言われなかったのは、私が精神障害者で10年以上働いた経験がないということも関与しているのかもしれないが、そのように力をなくし、生活保護を受けるようになったものにこそ、本人の意思を確かめ、就労に結びつけるのが本当ではないだろうか。むしろ、どこの公的な機関ともつながる手段がなく、ここまできてしまったのだから、公的サービスに結びついたことはチャンスであり、やり直せる機会を与えられたととってもよい。

私は20代の時に無職になってから、ずっと仕事がしたかった。生活保護を受けることになってもその意思は変わらなかった。しかし、ケースワーカーは一度も私に就労の意思を聞かなかった。けれど、私が収入を得ているのかどうかは気になっていたらしく、一度、VTRでテレビ出演をした時は、放送の次の日に私の家に来て、

「テレビに出ていましたけれど、お金はもらっていないのですか?」

と聞いてきたのだ。

一ヶ月に一回、私の家に生存確認にくるだけのケースワーカーがこんなに素早く動けることが意外だった。私がお金をもらっていないことを伝えるとしぶしぶ帰っていった。お金をもらっているかいないかだけの確認なら、電話でも良いと思うのだが、直接会うことで、威圧感を出したかったのだろうか。しかし、私が言いたいのは、あなた達の仕事は、生活保護受給者が勝手に働き始めて不正受給をしないかを見張ることでない。生活保護受給者が自分らしい生活をできるように、支援することだ。

これは聞いた話なのだが、ある地域のケースワーカーは訪問に行った際に、生活保護受給者の家の中に、今まで見たことがない銀行のカレンダーが貼ってあると、収入がないかチェックするのだという。すでに、仕事の意味が違ったものになっている。

生活保護のケースワーカーは、福祉の仕事をしたくて配属された人たちでなく、公務員試験を受けて、採用され、市役所で生活保護課に採用されるという場合が多いそうだ。だから、福祉の専門的な知識がない。しかし、私は一番大事なのは知識でなく、その人の心や、考え方だと思っている。漫画の主人公のケースワーカーはたまたま、生活保護課に配属されたが、その素直さと熱心さで、真剣に生活保護受給者の将来を考えて、行動していた。しかし、私を担当した、ケースワーカーは差別心をあらわにして、私と接していた。

「精神障害者は働けない」

「一応、短大は出ているんだ」

「お父さんも、生活保護?」

差別意識が丸出しの質問に私はいつも悔しかった。しかし、生活保護を受けているという自分の実際を思うと何も言い返せず悲しかった。

もちろん、私の担当のケースワーカーのような考え方の人は社会にいっぱいいる。強い人、健康な人、挫折を知らない人は、失敗した人に対して非常に冷たい。別に、このような考えの人がいても私は構わないが、できることなら関わらないで生きていきたい。彼らだって、私たちと関わりたくないのだ。

私は生活保護に関しては福祉を専門的に学んだ人にケースワーカーになって欲しいと願っている。そのような人たちは、弱者をどのように応援するかということを知っているし、自らこの道にくることを選んだのだから、覚悟もあるだろう。そして、生活保護を受けていた人を生活保護に関する仕事に就かせるのも良いと思う。生活保護を受けているときに不安だったのは、自分と同じような生活をしている人が見当たらず、どのようにすればこの状況から脱出することができるのかわからないことだった。それを考えると、ロールモデルとなる元生活保護受給者は、現在生活保護を受けている人の希望になるのではないだろうか。

柏木ハルコさんが『健康で文化的な最低限度の生活』で生活保護を漫画にし、この作品がドラマになったことはとても意義のあることだと思う。やっと、弱い人へ目が向けられる時代がきたのだ。この作品では、様々な困難を生き延びている人が出てくる。アルコール依存症、シングルマザー、近親者による性的虐待の被害者。幸福の形は限られているが、不幸の形は実に様々だ。私たちの想像に届かないものがある。字の読み書きができない人が登場した時は、ショックを受けた。

貧困に陥る人というのは、生きる上での困難を抱えている人たちで、その人達には、強いサポートが必要だ。ただ、生活保護費を支給するだけでなく、どうやったら、いまよりも質の良い生活ができるのかを一緒に支えてくれるケースワーカーの登場を待ち望む。制度や、体制の問題もあると思うが、ケースワーカー達に必要なのは、弱者を差別しない心、人に対して尊厳を持つ姿勢、そういったものが一番必要なのだ。

第12回 薬の副作用の話

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

私が初めて精神薬を服用したのは高校生の時だった。抗うつ薬と睡眠薬を処方され、毎日飲んでいた。症状はいくらか緩和されたが、体重が1ヶ月で3キロ太った。私はびっくりして次の診察で主治医に

「体重が3キロ太ったんですけど、薬が関係あるんでしょうか?」

と聞いてみたら

「関係ありません。あなたの不摂生じゃないの?」

と言われた。

私は薬を飲み始めてから、これといって生活習慣を変えたわけではなかったが、薬が関係ないとわかったので、激しいダイエットを始めた。ちょうど夏休みだった。私は友達がいなくてなんの予定もないので、ひたすら腹筋やスクワットをして、食べる量を大幅に減らした。夕食のトンカツの衣は剥いで食べた。ご飯は半分以下にした。その甲斐があって体重は1ヶ月で3キロ減った。しかし、夏休みが終わって、また普通の生活を始めたら体重は元に戻った。まだ、10代。思春期。私は辛くて、辛くて、仕方なかった。

成人して、勤めた会社がブラック会社だったため、私は自殺未遂をして会社をやめた。そのあと、しばらくしてから、精神科のデイケアに医師の勧めで通い始めた。デイケアには太っている人が多くて少し不思議に思った。

そして、デイケアの「お薬教室」という薬の勉強の会で、精神科の薬は副作用で太ると初めて知った。そのほかにも口渇といって、口がやたら乾いたり、眠気が強くなったり、便秘になったり、手指が震えたりと、数え切れないくらいの副作用があることがわかった。私も何個か心当たりがあった。私の最初の主治医は「あなたの不摂生」と切り捨てたが、本当は副作用だったのだ。なぜ、正しい薬の知識を主治医は教えてくれなかったのだろうか。

私の副作用で特に酷かったのは、便秘と体重増加だった。一週間便が出ないのは当たり前になり、いつもお腹が張って苦しかった。体重もみるみるうちに増加して、薬を飲む前は47キロだった体重はいつの間にか60キロ近くなっていた。そして、頭がボーッとしていることが多くなった。このままではいけないと、私は一念発起して、ダイエットに取り組んだ。

ネットで、食物のカロリーを全て調べ上げ、1日のカロリーを1200カロリー以下に抑えた。毎日ウォーキングを欠かさず、雨が降っても外を歩き続けた。お腹が減ったら寒天ゼリーを食べた。まるで強迫神経症のようだったと思う。体重を減らすことしか頭になく、お腹が減っていつもイライラしていた。母に対しても冷たく当たった。社会復帰するには痩せてからでないといけないとすら思っていた。太っていることは許し難かったのだ。

半年で10キロのダイエットに成功したが、また数年たつと薬の変更や、増量で体重が前にも増して増えた。最高で80キロ近くあった。その頃の薬の量は1日で30錠近かった。この頃が人生で一番辛かったと思う。太りすぎてしまい、着る服がなくなって、ウエストがゴムのズボンばかりを履いていた。流行っている洋服は入らないので、おしゃれはできなくなった。薬の副作用で動作は緩慢になり、足を引きずるようにして歩いていた。頭はぼんやりしていて、考えるスピードが遅くなった。それなのに、食べることばかり考えてしまう。薬の副作用で食欲が増加していたのだ。

この頃、母に誘われて、九州の方に旅行に行った。現地で牧場を見学した後、牛肉のカレーの試食があった。みんな遠慮して少ししか食べないのに、私は一人でガツガツと全種類のカレーを貪っていた。

母に、

「みっともないからやめなさい」

と叱られた。

精神薬によって、増幅された食欲は、公共のマナーすら守れなくなっていた。一番太っていたこの頃、私は一番、外界との接触がなく、引きこもっていた。それを案じてか母は随分と旅行に連れて行ってくれた。写真が残っているが、その写真の私は見たことがないくらい膨れ上がり、どの写真も目が死んでいた。楽しいリンゴ狩りをしているのに、目が笑っていない。もう、病気が悪いのか、薬が悪いのかわからなくなっていた。

便秘がひどいのも大きな問題だった。とにかく一日中苦しく、トイレにこもっても便が出ないのが当たり前で、私はとうとう下剤を処方された。それで幾分か楽になったが、結果的に薬の量は増えた。抗うつ剤に、睡眠薬に、下剤。下剤を処方されても、しばらくすると効きが悪くなってきて、また便が出なくなってくる。そして、さらに強い下剤を出してもらう。そういう悪循環にハマっていた。私は最終的にイチジク浣腸を自分で使用するようになった。病気を治すために薬を飲んでいるだけのはずなのに、なんでこんな屈辱的なことをしないといけないのだろう。

母が色々と勉強してくれて、全ての食事を作る時に、オリゴ糖を入れるようになった。オリゴ糖は便秘解消にいいのだ。私はしばらくして、お腹が楽になった。

薬の副作用で体重が増えたり、便秘になったりしているのだから、原因の薬を減らせばいいのだがそううまくいかない。薬は、増やすのは簡単だが減らすのはとても難しい。増えた薬に慣れきった体から薬が抜けると、離脱症状というのが起こる。私は耳鳴りがひどくなったり、落ち着かなくなったり、頭痛がしたり、とにかく苦しかった。シャンシャンと耳の奥から音が聞こえてきて、どこかの家がサッシを開け閉めしている音かと思い、外を見るとそんな気配はない。自分が聞こえているのが幻聴なのかと不安になった。

薬が減ると、鬱の症状が出てきて、死にたい気持ちが強くなるし、睡眠薬を減らすと、眠れなくなる。結局、どっちをとるのかということなのかもしれない。私は豚のように太り、死にたい気持ちを抱えて、眠れない夜を過ごしていた。常に喉が乾き、ペットボトルが手放せない。どこから手をつけたらいいかわからないというのは、医者の方も同じだったのかもしれない。

他にも統合失調症と診断された時に、投薬された薬の副作用でアカシジアというのがあり、始終、体がムズムズして動かさずにいられなかった。気晴らしに映画をみようと思い、勇気を出して映画館に行ったのだが、椅子の上でじっとしていることができない。足や手をずっと動かしていないと気持ちが悪い。私は2時間椅子の上で体を動かしていた。映画の筋は頭に入ってこなかった。薬を飲むことによって奪われる楽しい日常。楽だったのは寝ている時くらいだった。眠るのも難しいが、寝てしまえば、意識がなくなる。私はずっと意識がない状態に憧れていた。だから私は自殺したかったんだと思う。

医者に副作用のことを伝えるのも考えものだ。伝えれば副作用止めが出るが、結局、薬の量は増えてしまうのだ。体に良いわけがない。

薬を服用している人は血液検査を定期的に行ったほうがいいそうだ。肝機能にも影響が出ると聞く。一番良いのは、最小量で最大限の効果が出る薬の量を処方することだろうが、そういう名医にはなかなか出会えない。

それに、薬のことを患者側から伝えるのは勇気がいる。医者が患者から「あなたの処方は少しおかしい」と言われたらいい気分はしないだろう。医療ではどうしても医者と患者という力関係が働くので、患者が満足のいく医療が提供されないことが多い。医者が全ての情報を開示して、「あなたの病気はこれこれで、この病気にはこの薬が効きます。でもこういう副作用があります。それでもこの薬を飲みますか?」と説明してくれたらどんなにいいだろうか。

今の主治医はいい主治医で、薬の説明をしてくれるし、副作用が気になると薬を減らしてくれる。今の主治医にたどり着くまで10人以上の医者にかかった。私は今だに太っているのだが、すでに、副作用なのか、中年太りなのか、不摂生なのかわからない。ただ、今は、よく眠ることができ、着る服のサイズがあり、便秘もそんなにひどくないので、これでよしということにしている。ダイエットをしようか悩むが、ダイエットをしている時の、焦燥感、強い自己否定の気持ち、不安定な精神状態を思うと、ダイエットに踏み切れない。

納得のいく医者と薬に出会うまで、20年近くかかっている。恵まれない時があったからこそ、今の幸せを噛みしめることができ、症状がそれなりに落ち着き、健康で毎日を送れることに感謝できる。体重が80キロ近くあり、虚ろな目をした私は過去の写真の中に埋葬されたのだ。私は今、とても元気だ。