第11回 元ホームレスの人との食事会

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

生活保護を受給していた時、私はとても暇だった。そして、寂しかった。話し相手は誰もいないし、通うところもない。私は利用しているクリニックが運営しているお菓子屋さんで働いたのだが、待遇に納得がいかないまま、無理をして働いたら具合が悪くなり、その結果、自殺未遂騒動を起こした。クリニックの診察はなんとか行かせてもらえたが、併設されているデイケアは利用禁止になった。デイケア以外に行くところのない私は、そのまま誰にも会わず、アパートで引きこもるようになった。

朝起きて、一人で朝食を取る。納豆とお味噌汁とご飯を口に運び、つけっぱなしのテレビに目をやる。朝の情報番組でタレントが話題のお店でステーキ肉を口に頬張っていた。牛肉を最後に食べたのはいつだっけと思いながら、納豆を口に運ぶ。食べていると、別に悲しいことがあるわけでもないのに、胸の中がシクシクと痛み出す。

子供の頃は、私にも一応、家族がいて、皆で食事を囲んでいた。人と食事をとるということが特別なことでなかったが、それは今思うと、贅沢だったのだと思う。子供の頃、家族は仲が良くなかったし、父も夜が遅くて、一緒に食事を取ることは稀だったけれど、それでも家族の団欒があった。ビールを飲みほろ酔いでご機嫌の父と、文句も言わず、父のためにおつまみを作る母、部活帰りの兄と一緒に私はともに食卓を囲んでいた。甘い卵焼きに、大根おろし、キュウリとワカメの酢の物。お金がかかっているおかずではないが、家族で食べると美味しかった。一緒にご飯を食べる人がいるということは宝であると大人になって初めて知った。

生活保護を受けて、結婚もせずにいる私は肉体的にも精神的にも一人だった。食器を片づけて台所で洗いながら、自分の人生は随分早い段階で終わっていることに気がつく。同級生は仕事に励み、子育てをしているのに、私は何をしているのか。頭の中でそれらがぐるぐる周りだし、人を憎みたくなる。その気持ちをぐっと堪えて、今私は疲れているんだと思い込んだ。

生活保護を受けている時、さみしい私は当事者研究の集まりによく参加していた。そこで知り合いになったソーシャルワーカーが池袋のホームレス支援をしていて、私にも声をかけてくれた。毎日暇を持て余していた私は、断る理由もなくすぐに「行きます」と返事をした。

10月のよく晴れた日、私は電車に乗って、池袋に向かう。電車に乗るのも久しぶりだ。少し田舎に住んでいる私は、東京に着くまでに1時間くらいかかる。電車の中で本を読みながら時間を潰した。池袋駅について、改札をくぐる。歩いて15分くらいのところに小さな民家があった。看板にNPOの文字を見つけて安心してチャイムを鳴らす。中にはソーシャルワーカーが先にきていて、スタッフの女性と話をしていた。その他に40代くらいの男性が数名いて、そこかしこに座っている。彼らはタバコをふかしたりしていた。今日の集まりは、NPOの支援を受けて、ホームレス状態を脱し、グループホームに住んでいる人を対象とした食事会だった。皆、普段は作業所に行ったりデイケアに行ったりしているそうだ。

ホームレスの人には精神疾患の人が多いとホームレス支援の講演会で教わった。確かに、路上で暮らすという、かなり特殊な状況に追い込まれる人には、なんらかの病気があってもおかしくない。社会でうまく暮らすことができない人というのは、この健常者の社会には適応できない何かがあるのだろう。そして、それは私も同じだった。

今日集まっているこの家は民家を改造していて、宿泊施設にもなっていた。そして、一階は交流スペースとして解放している。元ホームレスの男性たちは身なりをきちんと整えていて、路上にいたとは思えなかった。ヒゲもきちんと剃られている。上下スウェットの人もいたが、清潔感があるので、不快感を感じない。この集まりに呼んでくれたソーシャルワーカーは支援者の人と話し込んでいて私に話しかける余裕がなさそうに見える。私は知り合いがいないので、空いている椅子にちょこんと座った。誰も知り合いがいないけれど、私はホッとしていた。この空間には人がいて、そこかしこにいる人たちが自分と同じように困難を抱えて生きている人だということは私を安堵させた。胸のあたりがじんわりと暖かい。

女性の支援者の人が買い物に付き合ってくれと声をかけて来た。私は役割を与えられたことが嬉しくて、外出するためにリサイクルショップで買った薄手のコートを羽織る。二人でポツポツと今日の食事会のことを話しながら、近くのスーパーに向かう。金木犀の香りがどこからかしてきて、顔を上げると木にオレンジ色の金木犀の花があるのが見えた。普段、家にいてじっとしている私には新鮮な発見だった。金木犀の香りはいつどこで嗅いでも傷心的な気持ちになる。私はいじめに遭っていた学生時代の帰り道にも金木犀の匂いを嗅いでいた。匂いは記憶を呼び覚ますスイッチだ。あの頃から随分時間が経ってしまって、当時はこんな将来を予見していなかった自分が可哀想に思えた。

池袋のスーパーで食材を買い込む。今日のメニューは豚汁とご飯。豚肉、大根、人参、豆腐、こんにゃく、どんどんカゴに入れる。10人分なので、豆腐は2丁買った。

一緒に買い物をしている女性が、

「何かご飯のおかずになるもの、買おうか」

と言ってお漬物などが置いてあるコーナーに向かった。キムチを手に取りカゴに入れる。キムチが嫌いな人もいるだろうからと、少し奮発して、たらこも買った。両手にたくさんの食材を手にして、民家に戻る。知らない人とたくさんの食料品を買うのはなんだかちょっと楽しかった。

今回の集まりに参加している人の中で、女性は私と支援者の人しかいなかったので、自然と、その人と二人で作る流れになる。私は料理が得意なので、やる気を出した。豚汁を作るのは久しぶりだけれど、難しい料理ではない。大根と人参をいちょう切りにしてどんどんボウルに入れる。油揚げやこんにゃくも切ってボウルに入れておく。私は豚肉のパックを二つ、大きな鍋に入れて炒めた。肉が焼け、いい匂いが立ち上る。そこに切った野菜を投入して、木べらで混ぜる。時々、元ホームレスの人たちが鍋を覗きに来る。私はなんだか楽しくなってきた。女性の支援者の人が、お米を持ってきた。

「古米だから、あんまり美味しくないけど」

そういって米を洗い、炊飯器に入れる。人数が多いので、炊飯ジャーは二つ用意されていた。私は古米を食べたことがない。古米がどれくらい古いお米のことを指すのかわからないが、去年か一昨年のお米かな、と勝手に推測した。

私は鍋に水を入れて、グラグラと湯を沸かし、豆腐と油揚げを入れ、だしの素を入れる。あとは最後に味噌を入れれば完成だ。支援者の女性は長ネギをトントントンと切っていた。あとで豚汁に散らすのだろう。

豚汁が煮えたので、私は味噌を入れた。味噌のいい匂いが立ち込める。豚肉の油が浮いていて、それも食欲をそそる。お椀を出して豚汁をよそい、長ネギを散らす。集まった人は豚汁とご飯を手にして一つのテーブルに集まった。

一人の元ホームレスの男性が手を合わせる。

「いただきます」

みんなも揃って「いただきます」と口にする。

私は「いただきます」と声に出したのは久しぶりだった。一人で暮らしていると、「いただきます」を言わなくなる。食卓の上に、雑多なおかずを出して、一人で黙々と食べるのが私の日常だ。久しぶりに「いただきます」を口にして、私は家族のことを思い出した。私たち家族は、バラバラになり、みんなそれぞれ違ったところに住んでいる。兄は結婚をして家を出て、両親は離婚した。幼い頃は憎しみあいながらも一つ屋根の下で暮らしていたのに。そして、私たちはお正月に集まることもせず、ぷっつりと連絡を取らなくなった。家族という装置は私たち兄弟が大人になるまで必要だったから、続けていただけなのかもしれない。私たちは生き延びるために互いに依存していただけだったのだと思う。

豚汁を口にすると、当たり前の味なのに、なんだかいつもより美味しく感じた。古米のお椀を手にして口に運ぶ。お米があまりにもパサパサしているので、びっくりした。これは去年とか一昨年レベルの古米ではない。10年とかそれくらいのものだと思う。しかし、私は黙って食べた。食べて食べられないという代物でもない。おかずのたらことキムチは遠慮しておいた。私より何倍も苦労した人の方が食べるに相応しい。

ふと、ある男性が口を開いた。

「みんなで食べると美味しいなー」

私は当たり前のその言葉に胸が詰まった。みんなでご飯を食べると美味しい、そんな当たり前のことを奪われて来た人たちがここにいる。そして、私もだ。過ぎ去った記憶だから美しく残っているのかもしれないが、私は「いただきます」を言っていたあの食卓を懐かしく思う。母の作る慎ましい食事と、父が突然気合いを入れて作る珍妙なまずい料理。父はある日、何を思ったか、果物を天ぷらにしてみたらどうだ、と提案して、リンゴや柿やバナナを揚げた。まずい、まずい、と言いながらみんなで囲んだあの食卓はもう、記憶の中にしかない。味は良くなかったけど、父の果物の天ぷらはとても記憶に残っていて、楽しかった食事の一つだ。

美味しいご飯というのは、高級な食材や、高級なお店の料理ではないのだと思う。私は病気になってから講演会で発表するようになって、終了後に食事を講演会の登壇者たちと一緒に取ることがあるのだけれど、その時の食事が美味しいかと言われればそうでもないからだ。偉いお医者さんや、スーツを着ている人たちと取る、エビやホタテの料理より、元ホームレスの人たちと食べる豚汁と古米の方が私は美味しい。この豚汁と古米には「弱さ」という調味料が入っているのだ。弱いということは良くないことのように思われがちだが、弱さが集まると、人の心には優しさが生まれる。そして、その場がとてもほかほかしたものになる。私たちは子供の頃から強くなるようにと教育されてきた。偏差値のいい大学に入り、良い企業に入る。しかし、そういった強さの前に人の心は折れる。強くなることはとても難しく、強くなると大切な何かを失う。それは思いやりだったり、人に親切にする心だったりする。

今日、ここに集まっている元ホームレスの人たちはとても大変な困難をしてきた人たちだと、この集まりに誘ってくれたソーシャルワーカーが教えてくれた。とび職をして、足に大怪我を負った人や、テキ屋で働いていた人。年を重ね、精神疾患を持ち、ここに今日きている人たちはゆっくりゆっくり人生を降りて行っている。勝利や成功といったものから遠ざかり、日々をつつましく生きている。私は成功や、上昇を求めないようにしていきたい。それは人の心を握りつぶし苦しくさせるものだ。いろいろなものを手放し、諦め、ゆっくりと人生を降りていきたい。

 

第10回 当事者の家族

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

精神疾患になって、当事者研究をするようになってから(第6回参照)、私はいろんな講演会に顔を出すようになり、自分の当事者研究を発表する機会が増えた。研究を発表するのは誇らしい。普段ならあまり口にすることができない「多量服薬」について語ることができるし、同じような苦労で苦しんでいる当事者の助けになると思うと嬉しくなる。隠さなければいけないとされる精神疾患やその症状を人前で話すことは自尊心の回復にも繋がる。

思えば、私たち当事者は長い間、存在を隠されてきた。過去に精神疾患の患者を自宅監置してきた歴史もあるし、最近でも、精神疾患の子供を隔離して、十分な食事を与えず、殺してしまった事件もある。親たちは子供の病気を恥ずべきもの、隠さなければいけないものと捉えている。そして、その意識は子供にも伝染する。私も精神科に通院する時、自宅から遠い病院に行くようにと親に言われた。近所の人に見つからないようにするためである。私はそれから自分が恥ずかしい存在だという意識が芽生えるようになった。

当事者研究を講演会で発表するため、自宅でパソコンを立ち上げて初めてパワーポイントに触った。ネットで使い方を検索しながら、当事者研究をまとめていく。初めて触るソフトなので、最初はうまくいかなかったが、時間が経つにつれ徐々に慣れてきた。パソコンで文字を打ちながら、自分がしてきた多量服薬という罪が、研究という言葉の力で浄化されていくのを感じる。まとめるのに数日かかったが、満足のいく出来になった。

パワーポイントの作業が終わってから、台所に行って冷蔵庫の麦茶を出してゴクゴクと飲む。講演会に出るのが楽しみで仕方なかった。社会から隔離されてきた精神障害者だからこそ、人の役に立つという感覚が誰よりも欲しいのだと思う。人と接することなく、社会で働いていない状態が続くと、人は誰かの役に立ちたいという気持ちが芽生えてくる。普通に働いて生きている人は、日々の仕事や雑務で人と接し、助け合うという感覚を常に持っていて、それが当たり前になっているけれど、私のような障害者にはそれがない。働くことで社会にコミットできれば一番いいのだけれど、それができないから、当事者研究という手段を選んだ。研究は私にやりがいと役割を与えてくれたのだ。

講演会当日、私の当事者研究に聴衆は真剣に耳をかたむけていた。こういった講演会は、当事者よりも当事者の家族の方がよく来ている。当事者は精神疾患になったことで、エネルギーがなくなっているし、回復しない自分に対して、投げやりになっている人も多い。それは私自身が一番よく分かる。私もこういった講演会に自主的に来るまで10年はかかっている。自分で興味を持ってこの場に足を運ぶまで勇気が必要だったし、講演会の主催者やその考えに賛同できないと訪れることは難しい。

私が多量服薬の当事者研究を発表し終わった後、司会者が「何か質問はありませんか」と聴衆に問いかけた。

おもむろに年老いた父親と思しき人が手をあげる。司会者が指して、マイクを回す。

「研究を聞かせていただきました。確かに、あなたも多量服薬をして、こうして研究をして大変だったと思います。けれど、うちの子はもっと大変な思いをしている。もしかしたら、今日明日にでも、本当に死んじゃうかもしれないんだよ!」

年老いた父親は怒りで語気を強めた。私はびっくりした。なんと答えていいかわからない。父親はさらに自分と子供がどれだけ苦労をしてきたかを語り始めた。父親の横で、母親と思しき人がオロオロしている。年老いた父親はこと細やかに子供のことを話し始めた。何歳の時に発症したか、入院を何回したか、変わりゆく病名までこと細やかに語りだす。しまいには飲んでいる薬のミリ数まで発表された。聴衆は黙って聞いていた。

こういうシーンはとても多い。親からぶちまけられる自分の子供の語りはあまり癒しにならない。当事者が自助グループで自分のことを、言いっぱなし、聞きっぱなしの空間で話し続けるのとは少し違う。ここは、自助グループではない。何か建設的なことをしたくて集まっているはずだ。全国に家族会があるけれど、親のこういった不満や行き所のない感情を受け止めてくれる場になっていないのだろうか。精神疾患の子供を持つ親たちだからこそ、苦悩は共有されなければならない。いつでも傷を癒すのは、同じ困難の渦中にある人の言葉なのだから。

私は長い時間、年老いた父親の話を聞き続けた。聞き続けていると、生きてここにいる私が悪人のように思われてきた。私は良い事をしていると思って、意気揚々と研究をまとめたけれど、それは良くないことだったのではないか。少なくとも、目の前のこの人はとても不機嫌なのだ。

しかし、年老いた当事者の父親は自分の子供が死んじゃうかもしれないというが、私も何回も死にかけている。医者から「死んだり障害が残ったりしても、文句は言いません」という念書を親は書かされているし、実際、3日間ほど意識不明だった。そのあとの多量服薬も、人工透析などかなり大きい処置をしていて、本当に「死んじゃうかもしれない」状態だった。けれど、そのことは口に出さずに我慢した。当事者の父親は思ったことを全て口にしたが、私はつぐんだままだった。多分、この父親が望んでいるのは、自分の子供の回復だけで、私や他の当事者のことはどうでもいいのだと思う。それは、親である以上、仕方ないのかもしれない。

けれど、このような父親はまだいい方だ。他の講演会でも同じ多量服薬の研究を発表した。そこに、子供と一緒に参加している父親がいて、私の研究を見て、こう述べた。

「素晴らしい研究でした。特に、パワーポイントを使えるのが素晴らしい。うちの子供はパワーポイントを使えない。うちの子は本当に何にもできやしないのです」

私はそれを聞いて、

「いや、パワーポイントは誰でも使えますよ。私じゃなくて、パワーポイントを作ったマイクロソフトが凄いんです。息子さんだって練習すれば使えますよ」

とフォローした。父親の隣で当事者の息子は黙りこくって小さくなっていた。なぜ、子供の横でこんなことが言えるのだろう。私はなんとなく、息子が病気になった理由を察した。きっと子供の頃から「あれもできない」「これもできない」と言われてきて育ったのだろう。子供にとって親は絶対的な存在である。褒められたり、認められたりすることで自尊心を養っていくのに、こんなことをいう人と四六時中一緒にいたら自分を大事にできなくなる。病気であろうとなかろうと、自分の子供に尊厳を持って接することはとても大切だ。この親がすべきことは、子供が病気によってできなくなったことを認めて、できることを応援することだろう。

それに私だって回復はしていない。回復とは回復し続けることであって、結果ではないのだ。私は一生病気であって、できないことや諦めなければならないことは健常者より多いと思う。けれども、私は私の人生を満足する形で生きていきたい。私のような心持ちまでいかない当事者の人もいるかもしれないが、私も昔は全てを諦めて絶望していた。全ての精神障害を持つ当事者が、満足のいく人生を送れるように、周りの支援が必要だ。良い医療、当事者を支えるワーカー。グループホームや就労支援事業所などの社会資源の充実。しかし、残念ながら日本の医療はまだそこまでたどり着いていない。

当事者の親は子供のダメなところばかりが目につき、指示的になる。子供ができていることに目がいかない。本当は、病気であろうとできることや良いところはたくさんあるはずなのに、病気ばかりに目がいってしまって、健康な本来の部分が見えなくなっているのだ。親には当事者の良い部分を見つけるように努力してもらいたい。そして、親自身にも回復して欲しい。

私は常々、当事者の家族も回復しなければならないと思っている。病気になった子供との関わりに疲れ果てている親は多い。子供が精神疾患になったことで、親もうつ病になることが少なからずある。そして、信じられないくらい公的サービスは不足している。家に引きこもりがちになる当事者のためには訪問看護の充実が望まれるが、まだまだ少ない。

それに、当事者の親には過干渉な人が多い気がする。あれをしてはダメ、これをするのもダメ。親である自分の方が世の中をわかっているのだから、間違えないようにしてやりたい。しかし、それはとてもおこがましいことだと思う。私たち当事者は間違えないように、失敗しないように、と周囲に指示されることで、失敗する権利を失ってしまった。本来ならば、自分で選び、それが間違いであろうと、選ぶ事が大事なのではないか。そうやって人は成長していくものなのだから。

精神疾患の親と子は同居していることが多いが、早いうちに別居した方がいいと私は考える。私も親とずっと同居していたが、いい結果は生み出せなかった。私は母に依存的になっていたし、母も私の世話に一生懸命になってしまって、成人した人間同士の暮らしとは言えなかった。それに、親にとっては、自分が死んだ後の子供の生活のことは心配でしょうがないと思う。しかし、考えてみて欲しい。子供から失敗する権利を奪い、自立する可能性をジリジリ消費しているのは親なのだ。

使える公的サービスはいくつかある。障害者年金を受給したり、グループホームを使ったり、生活保護を利用するのもいい。もちろん、子供のことが心配だという親も多いだろうし、当事者も自信がない状態の人が多いかもしれない。しかし、親が死んだあと、一人になって生活保護を受けて元気に暮らしている当事者は意外に多いと本で読んだ。思い切って離れてしまえば、なんとかなるのだ。もちろん、今までの生活を手放す勇気が必要だ。親と子が手を離すこと。それがきっと、回復への一歩なのだ。