第9回 それが自由でなくてなんなのだろう──Aretha Franklin, “Amazing Grace”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

最近ある本を翻訳していたら、アレサ・フランクリンのことが書いてあった。それもほかならぬ、「アメイジング・グレイス」を録ったときのアレサ・フランクリンが。翻訳上の必要もあって、二〇二一年の公開当時――一九七二年にロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で収録されたこの映像は、技術的な問題であったり、権利の問題であったり、様々な紆余曲折をへて公開された――は見ていなかった同アルバムの収録過程を撮ったドキュメンタリー映画、「アメイジング・グレイス」を見てみたら、時間を忘れた。圧巻だった。

アレサ・フランクリンが格別だというのはもちろんだが、そして彼女を支えるコーネル・デュプリーやチャック・レイニー、バーナード・パーディらの、ゴスペルというジャンルにソウル・ミュージックを持ち込むという点において、当時としては非常に先進的だったという「悪魔のリズム・セクション」(デイヴィッド・リッツ『アレサ・フランクリン リスペクト』シンコーミュージック・エンタテイメント、269頁)の演奏がすばらしいことは言うまでもないのだが、教会そのものが発する熱気に圧倒された。それが五十年以上も前の映像であることも、それが映っているのが27インチの小さなモニターであることも、その音がアメリカから持って帰ってきた、そして沖縄の湿気を吸っていくぶんくたびれてしまったK L Hの古いスピーカーから出ていることも関係なかった。ミック・ジャガーが場違いに見えるほどの黒々とした悦び、歓喜、つまり汗だくになった数多の肉体が足を踏み鳴らすこと、複雑な手拍子を刻むこと、通路に出てステップを踏むこと。会堂が揺れること。会衆がつかのま、日々の悪夢を忘れ、自分という存在も忘れ、ただただ音のひとつに身をゆだねること。多種多様な叫び声が、至上の音楽に変わること。リズムがだんだんと前のめりになっていって、そんな均整の取れた無秩序が――聖歌隊を指揮するアレクサンダー・ハミルトンの差配である――、世界を呑み込もうとすること。そんな瞬間の分厚さに圧倒された。

すぐに思い出したのはジェイムズ・ボールドウィンの言葉。彼が「自分をひどく興奮させた」と、そして「その興奮から醒めたことはないし、これからも醒めることはないだろう」と書いた、彼の黒人教会についての言葉。

「聖者たちが法悦にひたり、罪人たちがうめき声をあげ、タンバリンが音を競い合い、人々の声が一つになって神に忠誠を叫ぶ、そのような音楽は他にはないし、そのようなドラマも他にはない」(『次は火だ――ボールドウィン評論集』、黒川欣映訳、弘文堂、1968年、26頁)。

ここでボールドウィンは、彼がまだティーンエイジャーだったころ、ハーレムの教会で説教壇に立っていたときのことを書いている。それからボールドウィンは教会を離れ、小説を書くようになるのだけれど、しかしあのときに経験した興奮から醒めることはないだろうと。「時として予告もなしに教会に充ちあふれ、リードベリーや他の多くの人々がその裏づけをしたような、教会を『揺り動かす』ほどの情熱の火と興奮とに相当するものを、私はまだ見たことがない」。

ボールドウィンが本当の意味で教会から離れたことがなかったように、アレサ・フランクリンもきっと教会から離れたことはなかった。骨の髄にまで染みついたその伝統から、離れることなどできなかったのだろう。だからかれらが歌う歌も、書く小説も、その根本において、説教なのだと思う。それはなんらかの超越性にむけて、開かれている。人間以上の、目に見えないなにかにむけて、開かれている。かれらの小説や歌を聴いて、そのことを疑う人は少ないだろう。単純に信心深いとか敬虔だということではない。なにかの神を信じているだとか、イエスを神と認めているだとかということでもない。少なくとも、それだけではない。むしろそれはある種の自由の感覚とかかわっている。目に見える現実がすべてではないのだと、所与のものをすべて信じる必要はないのだと、そんな拒否の態度とかかわっている。もうひとつの世界を、ありえるかもしれない世界を、ユートピアを想像することにかかわっている。

「アメイジング・グレイス」が録音される約七年前、ニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会が位置する隔離されたワッツ地区では、暴動が起こっていた。白人警察官が飲酒運転の容疑で黒人の若者を逮捕したことをきっかけに起こった暴動で、三十四人が亡くなった。それから七年、アレサ・フランクリンが小さい頃にピアノと歌の手解きを受けたジェイムズ・クリーブランド牧師の傍で説教壇に立ったとき、そんな暴動の記憶は生々しかったはずだ。ブラック・パンサー後の、麻薬撲滅戦争前のロサンゼルスの黒人地区で、アレサ・フランクリンは歌っていた。あの教会にあって、忘れたい悪夢ならいくらでもあったに違いない。

それにもかかわらずアレサは歌い、会衆は踊り、叫び声をあげ、足を踏み鳴らす。たとえ二日間だったとしても。それが自由でなくてなんなのだろう。叛乱でなくてなんなのだろう。暴動でなくてなんなのだろう。

そんなことを教えてくれたのは、ニューヨークで学んだ黒人の神学者だった。何度も、わたしは、あの教室に引き戻されてしまう。どんっ、どんっとテーブルを叩いて、原稿を読み上げる声ひとつで、古ぼけた小さな教室を礼拝堂へと変えてしまった先生がいた、あの教室へ。

思えば、黒人教会に行ったことはなかった。ニューヨークにいたころはハーレムの近くに一年住んだけど、ゴスペルで有名なハーレムのアビシニアン・バプティスト教会にも、ハーレムで一番古い黒人教会だというマザーAMEザイオン教会にも行かなかった。そのあと四年間住んだノースカロライナに移ってからは、大学の近くに、公民権運動の歴史を誇る小さな黒人教会があったけど、そこにも結局行かずじまいだった。黒人教会に観光気分では行けないと思っていたから。カメラを肩からぶら下げて、入場チケットを握りしめて、そんなふうに行ってはいけないと思っていたから。

それでもあのアレサが歌った空間をどこか近く感じてしまうのは、あの教室にいたことがあったからだと思う。よそ者として、しかし十名足らずの生徒のひとりとして。どれだけわたしの存在が、ミック・ジャガーのぎこちない手拍子のように明らかに場違いであろうとも、あの瞬間の奇跡には、よそ者をひとり包摂するくらいのスペースはあっただろう。いや、ひとりどころか、何十人、何百人でも。そんな説得力があのときの老神学者の声にあったし、それと同じだけの説得力を、わたしは画面越しのアレサの声に聴いたのだ。

そうしてわたしはレコード棚に向かう。アレサの「アメイジング・グレイス」のレコードがどこかにあったはずだ。重たいレコードを引っ張り出しては、また入れて、埃をはらいながら一枚ずつレコードを探していく。それはあの礼拝堂に近づくための儀式のようなものだ。レイディ・ソウルをリビングの片隅に置かれたささやかな聖所に招待すれば、観客は少ないけれど、シャウトもステップもないけれど、説教壇も会堂もないけど、もしかしたら子どもたちが一緒に踊ってくれるかもしれない。いや、肩車をせがんでくるかもしれない。

ところがレコードの棚に「アメイジング・グレイス」のアルバムは見当たらなかった。おかしい。レコード屋の埃っぽい床に膝をたて、木箱のなかを漁っていたとき、たしかにあのダシキを着て、女王のような冠をかぶったアレサのジャケットを手にした感触を覚えていたのに。何度探しても見つからない。もしかしたら、別のアルバムと勘違いしていたのかもしれない。棚には、「ソウル‘69」のアルバムがなぜか二枚あった。アレサがアトランティック・レコードから出した1969年のジャズ・ヴォーカル・アルバム。このうちの一枚を「アメイジング・グレイス」と勘違いしていたのだろうか。しかし、マイクを片手に緑のボーダーの洋服を着るアレサと、ダシキ姿のアレサを取り違えるということがあるだろうか。そうしてわたしは「アメイジング・グレイス」をレコードで聴きそびれたまま、手持ちぶさたに空っぽのターンテーブルを見つめていた。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第8回 その日はあいにく空いてなくてね──Bobby Charles, “Save Me Jesus”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

ドクターQと一緒に暮らしたのは一年も満たなかった。

本名は明かせないからドクターQ。年齢も教えられない。そんなこと教えられるわけがない。どこで誰が聞いてるかわからないからね。CIAに追われてるんだ。昨日もあの角から誰かに見られてたんだ。昔はバークレーの大学院で法哲学をかじったよ。イエスという男はまったく変なやつだね。神とは思えんがね。僕は無神論者だよ。

会話の成り行きでわかったのは、彼がフィリピン系アメリカ人ということだけ。母親がフィリピンから出てきたのか、それとも彼もフィリピンで生まれて移住してきたのか、あるいは別のルートをたどってきたのか、わからない。両親は健在なのだろうか。シングルマザーだったのか。兄弟はいるのだろうか。ドクターQの来歴はいくつもの問いからできていて、確実な答えに落ち着くことはない。たしかに顔つきはアジア系で、黒い縮毛がほうぼうにカールしている。ヒゲは伸び放題で顔を覆い、髪の毛との境目はほとんどなくて。髪の毛の隙間から覗く右目は見えないのか、見えにくいのか、青白く濁っている。

ジョンはわざわざドクターQのためにエアベッドをどこからか見つけてきたが、結局それはいつも壁に立てかけてあってとうとう使われることなく、ドクターQはリビングのカーペットの上に、二枚重ねた段ボールをしいてその上で寝ていた。こっちの方が寝心地がいいんだ。段ボールといってもなんでもいいわけじゃない。このなみなみのクッションが大事なんだ。

シャワーを浴びているところは見たことがなかった。シャワーでもどうぞ、そう勧めると、ドクターQは弁明するようにもごもごと言う。どうもありがとう。でも心配いらないよ。三日に一回は洗面台で髪の毛を洗うようにしてるから。

ドクターQは何年、路上で生活していたのだろうか。路上での生活が屋根の下での生活よりも長いことは、どこか怯えたような足取りからも、くたびれた、影のような背中からも、誰かに殴られたとかで片方のレンズが割れたメガネからも、確実であるように思えた。

バークレーではホームレスが珍しくはなかった。ヒッピーの末裔のような白人の若者が、駅前にいつもたむろしていたし、高騰するばかりだった家賃は、路上を生活の場に変えた。それでもドクターQのように高齢で、しかもアジア系のホームレスを見かけることはあまりなかった。ドクターQは、これまでずっとアメリカ社会の隅で生きてきたのだろうか。家を持たずに生きてきたのだろうか。

ドクターQは、毛布一枚かけずに寝ていた。バークレーの気温はいつもどこか暑くて、どこか寒い。ちょうどいい服装というものが見つからず、シャツか薄手のアウターを持ち歩いて、寒くなればそれを着て、暑くなったらまた脱ぐ。少ない写真を見返してみても、どれも同じような服装なので、それがいつの季節なのかわからない。天候が記憶を妨げる。ドクターQはよれよれの黒いコートを着ていて、ポケットにはしわくちゃのナプキンがいくつも入っていた。いつ必要になってもいいようにね。

他に持ち物は肌身離さず持っているポシェットと、リュックサックひとつ、それだけ。中身はけっして人には見せない。

***

わたしたち夫婦がアメリカ西海岸のバークレーにわたったのは、2014年の夏のこと。それまでの一年半は台湾にいて、アメリカに住むのは初めてだった。バークレーには、急な坂をえっさえっさと登った先の丘に、神学校がいくつか点在している。だからそこはホーリーヒル、聖なる丘と、愛称とも皮肉とも取れるようなありがたい名称で呼ばれていて――神学生はその名前に誇りを抱いていたのだが――、わたしはそのなかの神学校のひとつに行くことになっていた。

神学校には寮がついている。神学生のための寮は格安で、他に部屋を探すまでもなかった。もっとも相部屋だったから、百々子も一緒に暮らせるか定かではなく、どうなるだろうかと、とりあえずきてみればどうにかなるんじゃないかと、何とも当てずっぽうにふたりでここまできたのだ。

同室はジョンといった。キャップをかぶった、Tシャツに半ズボンの、いかにもカリフォルニアという感じのやさしそうな白人の青年。

実は結婚しててね、パートナーと一緒に住めたらと思うんだけど、できないかな?

そう聞くと、ジョンはどうしてか我が意を得たりというように、そのきらきらした瞳を一層輝かせて、早口の西海岸訛りで、何か言っている。

もちろんさ! それはクールだ! 実にクールだ! 僕もね、君に言っておかなきゃいけないことがあって......

結局、彼の言葉を最後まで曖昧にしか聞き取れぬまま、わたしはとにかく百々子と一緒に暮らせる算段はついたようだと早合点して、そのことを彼女に報告した。

寮で暮らせるみたい。個室みたいだから大丈夫そう。なんか言ってたんだけど、ちゃんと聞き取れなかった。ホームレスのおじさんも、住んでるって言ってたような,,,

そこ大事でしょ。なんで聞き返さないの。

 

その翌日、部屋に行くと、ジョンとドクターQがいた。ドクターQが通りで暴徒に襲われているのをたまたま見かけたジョンが、彼を助けたのだという。そして行く先のなかったドクターQを、寮まで連れてきた。

君たちが同室でほんとによかった。ああ、いい同室をもった。神様に感謝しないと。奇跡だ、これは! 祈りは聴かれるんだな。クールだ。ジョンは興奮して喋り続けている。

ジョンは熱心なクリスチャンだった。聖書の言葉を一言一句そのままに信じる彼は、リベラルな気風だったその神学校では異質で、よく教授や他の学生と議論を交わしていた。ジョンにとってドクターQを助けることは、彼なりの「イエスの愛」の実践だったのだろう。ドクターQが神を信じれば、万事彼は救われるはずだった。そのホームレス状態からも、強迫的な幻覚からも、寂しそうな背中からも。教会でも、シェルターでもなく、ジョンは神に頼ろうとした。

もっとも、徹頭徹尾、無神論者で皮肉屋のドクターQは、ジョンに連れられて映画館で開かれるロックコンサートのような礼拝に出ても、ジョンに半ば無理やり聖書を押しつけられても、大木のようになびかなかった。ジョンはジョンで、めげずに彼の「伝道」をやめない。イエスに出会ってそのままでいるってことは、シャツを汚さないでスパゲッティを食べるようなことだ。不可能なんだ。

そんな二人は、とても仲が良さそうに見えた。

***

ジョンとドクターQ、わたしと百々子という奇妙なバークレーでの四人生活は、思いの外すんなりと進んでいった。ドクターQのスケジュールはいつも決まっていて、朝早くに、段ボールのベッドを畳んで、外に出ていく。帰ってくるのは夜になってから。

ときどき街でドクターQを見かけることがあった。当てもなく通りをぶらついていて、目は虚で。部屋にいるときとは別人のように見えて、声はかけづらかった。それでもストリートは彼にとって自由とか、故郷とか、そういう言葉にもっとも近づける場所だったのかもしれない。それともあの小さな部屋は、ドクターQがとうとう見つけた家だったのだろうか。

ドクターQはバークレーの街のいつ、どこで無料の食べ物が配られているのか、そういう情報にめっぽう詳しくて、わたしたちにも教えてくれた。そんな情報がドクターQの命の綱だったのだ。ソルー、あそこのピザ屋で無料ビザを配っているぞとか、今日は教会で炊き出しがある日だとか。わたしたちもだんだんそういう事情に詳しくなっていって、どこかでフリーフードを見かけたときは、ドクターQに教えた。

あれはサンフランシスコ・ジャイアンツがワールドシリーズで優勝した夜、ピザ屋の店頭に人だかりができていて、何事かと思って近づいてみると、ピザがまるまる一枚配られている。わたしたちも人を押しのけペパロニのホールピザを二枚受け取り、狭い部屋に帰って、ジョンとドクターQと食べた。こんな偶然、聖霊の働きに違いない! テスト期間にピザにありつけるなんて! 僕は最高にクールなルームメイトを持ったよ。これはジョンの言葉。

何がきっかけだったか忘れたが、毎晩、ドクターQが英語の単語を一つずつ教えてくれるようになった。大方、わたしのつたない英語を見かねたのだろう。ソルー、プリンセス・モモ、英語を教えてやろう。紙と鉛筆を持ってきなさい。書いてあげよう。

discombobulated (混乱した)、rain check (その日はあいにく空いてなくてね、別の日ならいいんだけど)。

毎晩の英語教室で学んだ短く、難解な単語たちは、ドクターQの曖昧で、謎だらけの来歴の隙間を少し埋めてくれた。あの単語はさぁ、ドクターQのことをよく表しているなぁと思ってたんだよ。百々子が言う。そうかもしれない。現実と幻想を行き来するドクターQにとって、世界はとても、とても混乱していただろうし、敵意があふれているように見えただろう。誰かに誘われても、レイン・チェック。また今度。自分の身を守るため、そんな言葉がいつしか手放せなくなった。ドクターQにとって善意のかたまりのようなジョンは、その一方的な愛情は、どんなにか心強かっただろう。

ドクターQは、音楽が好きだった。部屋で音楽を流していると、いつの間にかドクターQ が戸口に立っていて、それはライ・クーダーかとか、コルトレーンはいいねとか言いながら、部屋に入ってくる。ジャクソン・ブラウンのコカインという曲のどかで拾ってきたライブ音源を聴かせると、忘れもしないのだが、ドクターQはこうつぶやく、こんなに下手くそに歌うジャクソン・ブラウンは聴いたことがない。こと音楽に関しては、好みがはっきりしていて、辛辣な人だった。

夜遅く、わたしとドクターQとジョンの三人でリビングに集まって、パソコンを回しながら音楽を聞くことが何度かあった。真夜中の音楽鑑賞会。参加者は三名。服装は自由。順番は厳格に決まっていて、ジョン、ドクターQ、そしてわたし。好きな音楽をかけることが鉄則で、批評は惜しまない。

ある晩のこと、まずはジョンがいつものように、現代風のクリスチャン・ポップミュージックを流す。ドクターQのコメントはここでも辛辣で、おいジョン、これは音楽とは言わんぞ。うるさいだけじゃないか。それからドクターQの番になる。彼はまったくの現実の中にいる。ソルー、そうだな、ニール・ヤングはどうだ。ハーベストから流してくれ。ジョン、よく聴いておきなさい、これが音楽だ。そうして最後はわたしの番。ジョンにも、ドクターQにも通用するような音楽がいい。

迷った挙句、ボビー・チャールズのSave Me Jesusをかけた。チェスレコードから初の白人シンガーとしてデビューした彼が、ニューオリンズから東部の田舎町、ウッドストックへと流れ着き、彼の地の名うてのミュージシャンと作成したソロアルバムに収められている、ウッドストック流のゴスペル曲。

主よ、お救いください

主よ、お救いください

主よ、お救いください、主よ、お救いください

この神が見捨てた地から

曲が終わると、ドクターQはニヤッと笑って言った。ジョン、ソルーは音楽を知ってるぞ。

 

ドクターQは数ヶ月であっけなく部屋を出ていった。ドクターQが寮にいることが問題になり、部屋にいられなくなったのだ。

彼のいない、空っぽになったリビングには、律儀に段ボールが畳まれていた。

***

日本に一時帰国していたとき立ち寄った京都のレコード屋で、ボビー・チャールズのレコードを見つけた。日本盤だった。レトリバーと戯れるボビー・チャールズのジャケットを見て、あっと思った。すぐにドクターQとジョンのことを思い出した。ドクターQはまだバークレーの路上にいるのだろうか。また二人に会いたくなった。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。