第10回 過去とはつながれていない誰かに──Keith Jarrett,”My Song”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

23丁目、6番街と7番街のあいだで爆発騒ぎがあったとき、メキシコ人のフランシスコ――ここではとりあえずこの仮名を使う──はちょうど通りの向こう側を歩いていた。

わたしは教会に帰ってきたところだった。7番街25丁目の日系教会。ユニオン神学校での一年のプログラムを卒業した後、その教会で一年間住み込みの仕事をしていた。昔の工場を改装したという築100年を超えるれんがの建物に相応のガウンッと大仰な音を鳴らすエレベーターに乗って3階まで上がれば、部屋がある。リビングとキッチン、寝室、あとは教会の備品が置いてある狭い物置がもうひとつあった簡素なフラット。大通りとは反対の台所側に縦長の窓が二つあって、手を振れば見えるような距離で、教会の裏にあった古いテネメントに入ったボクシングジムで人が汗を流しているのがいつも見えた。リビングには赤色のソファベッドが置いてあって、昔はそこで教会の人たちが集まっていたのだろうけれど、もうそういうこともなくなっていた。長い間忘れられていたような、誰も住んでいなかった部屋。それがユニオン神学校の小さな一人部屋のあとに、わたしたちが住んだ部屋だった。

あの夜、ももこは日本に帰省中で、わたしはフランシスコと二人で夜ご飯を食べた。ウェストヴィレッジのラーメン屋。フランシスコはたいそう気に入っていた。この前はおいしいブリトー屋を教えてくれたから、今度はわたしの番だった。二人で教会まで歩いて帰ってきた。それからフランシスコは23丁目の地下鉄の駅でCトレインに乗って、当時住んでいたクィーンズのアパートに帰るはずだった。

爆発があったのは8時半ごろ。後からニュースで知ったところによると、大型のゴミ容器に仕掛けられていた即席の圧力鍋爆弾が爆発したという。当時、つまり2016年9月は、ヒラリー・クリントンとドナルド・トランプによる選挙戦の真っ只中だったし、マンハッタンでは国連総会も開かれていたこともあったから、その爆発騒ぎはそれからしばらくニュースを賑わせていた。15年前の9・11の同時多発テロを想起した人も当然いるし、視覚障害者の施設の目の前でそのゴミ容器が爆発したこともあって、ヘイトクライムを疑う人もいた。同じ日の朝には対岸のニュージャージーでも爆弾騒ぎがあり、ほかにも不発弾が見つかって、それらは結局同一犯による事件だということがわかるのだが、あのときはとても混乱していたし、情報も錯綜していた。そして誰も、あのチェルシー地区の通りをフランシスコが歩いていたことは知らなかった。

教会のフラットからも爆発音が聞こえた。7番街に面したその部屋は静寂とは無縁の部屋だったけれど、その音は普段やむことのない車のクラクションやストリートの喧騒とは明らかに違っていた。ちょうど風呂に入ろうと、いつまでたってもお湯に変わらないシャワーの水を恨めしげに見ていたところだった。最初はガス爆発でも起きたのかなと思った。マンハッタンでそういうことがあるのは聞いたことがあったから。でも、すぐに救急車とか消防車とかパトカーのサイレン音がその街区一体を覆い尽くしてしまい、なにか尋常ではないことが起こったんだとわかった。ほどなく報道のヘリがあらわれて、一晩中、旋回音が止まなかった。

フランシスコからメッセージがくる。

たいへん

なにか爆発したみたい

教会に戻ってもいい?

3階のフラットに息を切らして入ってきたフランシスコの顔は蒼白だった。黒いキャップをかぶって、Tシャツにジーンズ、その大きな、優しそうな瞳はいつも以上に見開いていた。

大丈夫? なにか飲む? あったかいお茶でもいれようか?

水でいい。

フランシスコは水を飲み干すと、スペイン語英語でとめどなく語りだす。ちょうどストリートの反対側で何かが爆発したと。すごい音がしたんだ。ほら、地下鉄の駅から少しいったところ、酒屋と床屋が並んでるじゃない。あのあたり。向こう側を歩いていたらきっと俺はここにはいなかったと思う。それくらい近くだった。

フランシスコは話し続ける。何が爆発したんだろう。とにかくすごい音だった。テロかな。怪我人はたくさんいたはず。悲鳴も聞こえたから。みんな混乱していた。また爆発があるかもしれないと思って、ここまで走って戻ってきた。とても怖かった。

あの夜、フランシスコのうっすらと日焼けした顔はずっと蒼白で、わたしはとても心配だったから、何度も今日はここに泊まっていったらと提案したのだが、そのたびにフランシスコは少し考えて、いや、やっぱり帰るよときっぱり言うのだった。きっと自分の部屋の方が安心できるのだろうと思ったわたしは、やっぱりガウンッととても不吉な音を立てるエレベーターに乗って、フランシスコを教会の外まで送っていった。なにより無事でよかったよ。

外に出ると、すぐそこの交差点がもう封鎖されている。遠回りして帰ろう。フランシスコはそう言って、救急車やパトカーのライトで青白くきらめく夜の街に消えていった。

***

フランシスコはメキシコからの移民だった。たぶんあのときはアンドキュメンティド、無登録の移民だったのだと思う。とはいえ、彼についてなにか訳知りなことを書けるほど、わたしは彼について知っていない。どうして彼が移民となったのか、ある人類学者が「死と隣合わせの地」(Jason De Leon, The Land of Open Graves, University of California Press)と呼んだ国境を越えるよう駆り立てたものがいったい何だったのか、どんな生活がメキシコにあったのか、そしてなぜ日系教会に来ることになったのか。

25丁目の日系教会で出会った年の近いわたしたちは、過去の話をあまりしなかった。いや、フランシスコだけではない。わたしは教会の三階に一年間住んでいたのだけれど、そこで出会った人びとの過去についてあまり知らない。大都会のビルの間にうずもれるようにして建っていたあの教会では、人の過去にむやみに立ち入らないことが暗黙の了解だったのだと思う。それはあの大都市に特有の人との距離のあり方の反映でもあったのだろう。あまりにもさまざまな事情を抱えた人びとがあの街に暮らしていた。そんな他人行儀とも言える都市の約束は、しかしあのときのわたしには心地よかった。

それとともに、わたしがあの教会の人びとの昔をあまり知らないのは、教会の中心だった日系二世、三世の人びとのアメリカ社会で生きていく上での知恵のようなものでもあったかもしれない。その教会の日系人の多くは西海岸にルーツを持つ人びとで、つまり第二次世界大戦中に収容所を体験した人びとの子や孫たちだった。かれらの多くは大戦中、大戦後と東海岸に逃れてきたのだ。そのなかのキリスト者がマンハッタンの古い教会に身を寄せ合ってきた。過去を語らないことが、アメリカの地で生きていくための条件となったことは容易に想像できる。できるだけアメリカ社会に馴染む。ひっそりとその一部になる。だからあの教会の日系の人びとは、社会的に成功を収めた人が多かった。とはいえ、2月19日、デイ・オブ・リメンバランスの記念日になれば、教会の日系人たちは首から収容カードを下げて、路上に出る。ユリ・コウチヤマの例を出すまでもなく──彼女も西海岸での収容体験を経てニューヨークに移ってきたキリスト者だったが──、かれらは常にモデルマイノリティであったわけではない。

日本語を話さなくなった日系二世、三世、そしてかれらの子どもたち、日本から仕事や別の事情でやってきた人たち──すでに4、50年とニューヨークに住み続けてきた人たちもいる、そしてわたしのようなこの街への一時滞在者と、ほかに数名の非日系の人たち、二人の黒人の女性、ショーンという白人男性のホームレス、そしてフランシスコ。わたしがニューヨークにいた当時、都会の教会らしく人が来ては去っていったあの小さなモザイクのようなコミュニティにあって、それがいつもいる大まかなメンバーだった。

フランシスコはほとんど毎週、礼拝に通ってきていた。いつものキャップをかぶって、ちょっと猫背で、今日は来ないかなと思った頃に、ふらっと遅れて会堂に入ってきては後ろの方の席に座っている。若くて、気の優しいフランシスコを教会のお節介焼きのおばあさま方が放っておくはずもなく、うちの娘をどうだと捕まえられても、別に嫌がるふうでもなく、ちょっと困ったような表情を浮かべながら、日本語混じりの話をうんうんと聞いている。そのおばあさんは、広島で原爆を体験して、それからニューヨークに移住してきた人だった。フランシスコはそうやって半ば無理やり日本語に揉まれて、だんだんと言葉を理解できるようなっていった。「おはよう」とか「ありがとう」とか自分の名前とか、人懐っこく言うものだから、みなから好かれていた。

どうしてフランシスコは日系の教会にきたのだろう。一度、彼が愚痴をこぼしているのを聞いたことがある。今住んでるクイーンズのアパートはメキシコ人が多くて、夜な夜なパーティをしてるから、うるさくてとても眠れない。もしかたらフランシスコは、自分のことを誰も知らないような場所にいきたかったのかもしれない。そこでまったく新しい自分になりたかったのかもしれない。過去とはつながれていない誰かに。

フランシスコはよく日本語の質問をしてくれたが、彼が普段学んでいたのは英語だった。デリでの仕事が終わってから、夜はアップタウンにまで出ていって語学学校に通う。コロンビア大学で開講されていた移民のための英語クラスだった。いつか市民権テストを受けるときのために、英語を学んでおかなくちゃならない。フランシスコはそう教えてくれたことがある。それが彼のアメリカでの未来を決めるはずだった。それまでマンハッタンのデリに立ち続け、床をモップがけして、レジを打ち、野菜を切って、惣菜を並べて、メキシコの家族に仕送りをする。いつか日本にも行ってみたい、市民権が取れたらね。もし彼の過去が謎だったのであれば、その未来はいつも条件つきだった。そんな仮定の未来がフランシスコを今につなぎとめているようだった。

あの爆発騒動から明けて2017年1月、トランプが大統領になってしばらくしたある日、フランシスコの顔はまた蒼白だった。クイーンズのアパートの近くで強制捜査がはいった。移民が何人も逮捕されて、強制送還されたらしい。フランシスコの声は震えていた。トランプが大統領に就任して以来、無登録の移民の人びとはそれまでの二倍も、三倍も、簡単に逮捕されるようになった。犯罪歴がなくともかれらは潜在的な犯罪者としてみなされるようになった。アメリカとメキシコの国境線沿いには壁が建設され、そこを馬にまたがった国境パトロールが監視するようになった。引越ししなきゃいけない。フランシスコはそうつぶやく。兄さんたちの家族がいるから、そこに行くかも。そうして彼は住むところを、職場を、転々と変えた。日々をやり過ごしているうちに仮定の未来が、確実な未来に変わるというように。

わたしはその年の夏にノースカロライナに移った。フランシスコはいつからか教会にこなくなった。またどこかにつかのまの安心できる場所を見つけたのだと思う。

***

長女が2018年の春に生まれてからしばらく、わたしは長女とともにやってきたターンテーブルでキース・ジャレットばかりを聞いていた。「マイ・ソング」という1978年のアルバムで、彼のアルバムの中ではかなり聞きやすい。特に理由があったわけではない。レコード屋でよく見かけるアルバムだったから、自然と手に取った。カントリーという曲が好きだった。ヤン・ガルバレクがいかにもといった感じのノスタルジックなサクソフォーンを吹く曲で、わたしもまんまと悲劇のヒーローよろしく郷愁にかられてしまったわけだ。まだ豆粒みたいに小さな赤ん坊と、始まったばかりのノースカロライナでの生活と、日に日にその暴力性をあからさまにしてくトランプのアメリカと、頼りなげにかいがいしく回る円盤と。「ソウルを救うのに必要なささやかなこと」(noname, Yesterday)がわたしもほしくなったのだと思う。音楽がそんな解毒剤ではなくて、なんなのだろう。

そういえば、キース・ジャレットのコンサートに一度だけ行ったことがある。まだニューヨークにいた頃、2017年2月にカーネギーホールで行われた公演だった。ちょうど父が来ていて、一緒に行った。キース・ジャレットは、ケルン・コンサートのDVDを見たり、バッハの平均律を演奏したアルバムをよく聴いていた父の趣味だった。あの日の──そしてそれから彼は脳卒中で倒れてしまい、以来コンサートはしていないのだが──キース・ジャレットは饒舌だった。あのケルン・コンサートの音とピアノに没頭している姿からは想像できないほどに。ほとんどが政治と大統領就任直後のトランプに関することだった。「これは私の知っているアメリカではない」とか。休憩が終わって、二部が始まるとき、袖から登場してきたキース・ジャレットに客席からフラッシュが焚かれると、「他のアーティストをリスペクトしなさい。わたしだけのことを言ってるんじゃない。もっとも我々の大統領はリスペクトがなにかってことすら知らないようだが」とか。

あの日の彼は、話さなければならないことがたくさんあった。ほとんどが白人で占められたその会場は予期せぬ彼の姿に驚きつつ、どよめき、沸き返り、そして温かく迎えていた。みな、似たような気持ちだったのだろう。でも誰がフランシスコのことを覚えていたのだろう。最後の曲が終わると、キース・ジャレットはこうつぶやいて舞台を去っていった。「君たちは、わたしを泣かせた最初の観客だよ」。

フランシスコはどうしているだろう。トランプの顔がテレビに映るたびに、わたしはそう思う。また震えてはいないだろうか。泣いたような笑い顔を見せていないだろうか。どこかに安心できる場所を見つけただろうか。長女が生まれたんだ、と久しぶりにメッセージしてみる。すぐに返信があった。おめでとう。とっても会いたいよ。会いにきてね、とは言えなかった。いつかニューヨークにみんなで行くよ、そう返事をする。数日後、フランシスコから小包が届いた。真っピンクのユニコーンの人形が入っていた。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第9回 それが自由でなくてなんなのだろう──Aretha Franklin, “Amazing Grace”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

最近ある本を翻訳していたら、アレサ・フランクリンのことが書いてあった。それもほかならぬ、「アメイジング・グレイス」を録ったときのアレサ・フランクリンが。翻訳上の必要もあって、二〇二一年の公開当時――一九七二年にロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で収録されたこの映像は、技術的な問題であったり、権利の問題であったり、様々な紆余曲折をへて公開された――は見ていなかった同アルバムの収録過程を撮ったドキュメンタリー映画、「アメイジング・グレイス」を見てみたら、時間を忘れた。圧巻だった。

アレサ・フランクリンが格別だというのはもちろんだが、そして彼女を支えるコーネル・デュプリーやチャック・レイニー、バーナード・パーディらの、ゴスペルというジャンルにソウル・ミュージックを持ち込むという点において、当時としては非常に先進的だったという「悪魔のリズム・セクション」(デイヴィッド・リッツ『アレサ・フランクリン リスペクト』シンコーミュージック・エンタテイメント、269頁)の演奏がすばらしいことは言うまでもないのだが、教会そのものが発する熱気に圧倒された。それが五十年以上も前の映像であることも、それが映っているのが27インチの小さなモニターであることも、その音がアメリカから持って帰ってきた、そして沖縄の湿気を吸っていくぶんくたびれてしまったK L Hの古いスピーカーから出ていることも関係なかった。ミック・ジャガーが場違いに見えるほどの黒々とした悦び、歓喜、つまり汗だくになった数多の肉体が足を踏み鳴らすこと、複雑な手拍子を刻むこと、通路に出てステップを踏むこと。会堂が揺れること。会衆がつかのま、日々の悪夢を忘れ、自分という存在も忘れ、ただただ音のひとつに身をゆだねること。多種多様な叫び声が、至上の音楽に変わること。リズムがだんだんと前のめりになっていって、そんな均整の取れた無秩序が――聖歌隊を指揮するアレクサンダー・ハミルトンの差配である――、世界を呑み込もうとすること。そんな瞬間の分厚さに圧倒された。

すぐに思い出したのはジェイムズ・ボールドウィンの言葉。彼が「自分をひどく興奮させた」と、そして「その興奮から醒めたことはないし、これからも醒めることはないだろう」と書いた、彼の黒人教会についての言葉。

「聖者たちが法悦にひたり、罪人たちがうめき声をあげ、タンバリンが音を競い合い、人々の声が一つになって神に忠誠を叫ぶ、そのような音楽は他にはないし、そのようなドラマも他にはない」(『次は火だ――ボールドウィン評論集』、黒川欣映訳、弘文堂、1968年、26頁)。

ここでボールドウィンは、彼がまだティーンエイジャーだったころ、ハーレムの教会で説教壇に立っていたときのことを書いている。それからボールドウィンは教会を離れ、小説を書くようになるのだけれど、しかしあのときに経験した興奮から醒めることはないだろうと。「時として予告もなしに教会に充ちあふれ、リードベリーや他の多くの人々がその裏づけをしたような、教会を『揺り動かす』ほどの情熱の火と興奮とに相当するものを、私はまだ見たことがない」。

ボールドウィンが本当の意味で教会から離れたことがなかったように、アレサ・フランクリンもきっと教会から離れたことはなかった。骨の髄にまで染みついたその伝統から、離れることなどできなかったのだろう。だからかれらが歌う歌も、書く小説も、その根本において、説教なのだと思う。それはなんらかの超越性にむけて、開かれている。人間以上の、目に見えないなにかにむけて、開かれている。かれらの小説や歌を聴いて、そのことを疑う人は少ないだろう。単純に信心深いとか敬虔だということではない。なにかの神を信じているだとか、イエスを神と認めているだとかということでもない。少なくとも、それだけではない。むしろそれはある種の自由の感覚とかかわっている。目に見える現実がすべてではないのだと、所与のものをすべて信じる必要はないのだと、そんな拒否の態度とかかわっている。もうひとつの世界を、ありえるかもしれない世界を、ユートピアを想像することにかかわっている。

「アメイジング・グレイス」が録音される約七年前、ニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会が位置する隔離されたワッツ地区では、暴動が起こっていた。白人警察官が飲酒運転の容疑で黒人の若者を逮捕したことをきっかけに起こった暴動で、三十四人が亡くなった。それから七年、アレサ・フランクリンが小さい頃にピアノと歌の手解きを受けたジェイムズ・クリーブランド牧師の傍で説教壇に立ったとき、そんな暴動の記憶は生々しかったはずだ。ブラック・パンサー後の、麻薬撲滅戦争前のロサンゼルスの黒人地区で、アレサ・フランクリンは歌っていた。あの教会にあって、忘れたい悪夢ならいくらでもあったに違いない。

それにもかかわらずアレサは歌い、会衆は踊り、叫び声をあげ、足を踏み鳴らす。たとえ二日間だったとしても。それが自由でなくてなんなのだろう。叛乱でなくてなんなのだろう。暴動でなくてなんなのだろう。

そんなことを教えてくれたのは、ニューヨークで学んだ黒人の神学者だった。何度も、わたしは、あの教室に引き戻されてしまう。どんっ、どんっとテーブルを叩いて、原稿を読み上げる声ひとつで、古ぼけた小さな教室を礼拝堂へと変えてしまった先生がいた、あの教室へ。

思えば、黒人教会に行ったことはなかった。ニューヨークにいたころはハーレムの近くに一年住んだけど、ゴスペルで有名なハーレムのアビシニアン・バプティスト教会にも、ハーレムで一番古い黒人教会だというマザーAMEザイオン教会にも行かなかった。そのあと四年間住んだノースカロライナに移ってからは、大学の近くに、公民権運動の歴史を誇る小さな黒人教会があったけど、そこにも結局行かずじまいだった。黒人教会に観光気分では行けないと思っていたから。カメラを肩からぶら下げて、入場チケットを握りしめて、そんなふうに行ってはいけないと思っていたから。

それでもあのアレサが歌った空間をどこか近く感じてしまうのは、あの教室にいたことがあったからだと思う。よそ者として、しかし十名足らずの生徒のひとりとして。どれだけわたしの存在が、ミック・ジャガーのぎこちない手拍子のように明らかに場違いであろうとも、あの瞬間の奇跡には、よそ者をひとり包摂するくらいのスペースはあっただろう。いや、ひとりどころか、何十人、何百人でも。そんな説得力があのときの老神学者の声にあったし、それと同じだけの説得力を、わたしは画面越しのアレサの声に聴いたのだ。

そうしてわたしはレコード棚に向かう。アレサの「アメイジング・グレイス」のレコードがどこかにあったはずだ。重たいレコードを引っ張り出しては、また入れて、埃をはらいながら一枚ずつレコードを探していく。それはあの礼拝堂に近づくための儀式のようなものだ。レイディ・ソウルをリビングの片隅に置かれたささやかな聖所に招待すれば、観客は少ないけれど、シャウトもステップもないけれど、説教壇も会堂もないけど、もしかしたら子どもたちが一緒に踊ってくれるかもしれない。いや、肩車をせがんでくるかもしれない。

ところがレコードの棚に「アメイジング・グレイス」のアルバムは見当たらなかった。おかしい。レコード屋の埃っぽい床に膝をたて、木箱のなかを漁っていたとき、たしかにあのダシキを着て、女王のような冠をかぶったアレサのジャケットを手にした感触を覚えていたのに。何度探しても見つからない。もしかしたら、別のアルバムと勘違いしていたのかもしれない。棚には、「ソウル‘69」のアルバムがなぜか二枚あった。アレサがアトランティック・レコードから出した1969年のジャズ・ヴォーカル・アルバム。このうちの一枚を「アメイジング・グレイス」と勘違いしていたのだろうか。しかし、マイクを片手に緑のボーダーの洋服を着るアレサと、ダシキ姿のアレサを取り違えるということがあるだろうか。そうしてわたしは「アメイジング・グレイス」をレコードで聴きそびれたまま、手持ちぶさたに空っぽのターンテーブルを見つめていた。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。