第7回 クリスマスのレコードはボイコットする

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

クリスマスが近づいてきて、街にもクリスマスソングが溢れるようになると、わたしもあの偉大な作家ではないけれど、「十一月も終わりに近い朝」のことをふと思い浮かべてしまう。

子どもの頃は島にいて、その島は十二月もすぐそこだというのに半袖で過ごせるほどの暖かさで、それでもサンタの鈴が近くに聞こえてくるほどにはクリスマスの気配があって、朝の陽を浴びて海はキラキラと光っていて、サトウキビが刈られはじめて、どこからかゴミ収集車の奏でる「エリーゼのために」が響いていて、それ以外の音は全部なくなってしまったみたいに静かだった。

父がクリスマスツリーを組み立てれば、それがクリスマスの季節の始まりの合図、リビングは瞬く間に色を変えた。木製のアドベントカレンダーは赤と緑で、二十五個の小さな窓の向こうには、動物やら人形やらボールやらがこっそりと隠れていた。重たいスノーボールは、落とさないようにゆっくりひっくり返すと、この島ではまず見ることのない雪をふわふわと降らせて、水中の雪だるまの上にひとつ、ふたつと積もっては、はらはらと落ちた。祖父母から毎年決まって送られてくるのは駄菓子がこれでもかと詰まった赤い靴下とクッキーハウス。つんとした匂いは、今考えるとジンジャーだったかもしれない。「拝啓」と書き出される手紙がいつも添えられていて、その言葉はいつでもわたしを厳粛な気持ちにさせた。小さな島のクリスマス。

大人になってアメリカに移ってからは、向こうで七回のクリスマスを過ごした。

クリスマスの季節になると、どこからともなく現れたツリー屋が、一年で一番きらびやかになった通りにぽつぽつと立ち並ぶ。もみの木の匂いは、わたしが想像していたクリスマスの匂いだった。

初めてツリーを手に入れたのはニューヨークに来て二年目のこと。ジャケットを羽織っても意味がないほどの寒い冬だった。働いていた教会の近く、たしか六番街のあたりでツリーを買った。首元くらいまである高さのツリーを抱えて、こんなときだけ力持ちだと隣を歩く百々子に皮肉られたりもしたが、気にならない。いいのだ、クリスマスツリーを買うんだから。そう決意してフーフー言いながら一ブロックほど歩いた頃には、手のひらに透明の樹液がベタついて、なかなかとれなかった。大都会のクリスマスはあまりに眩しくて、映画の中にいるようで我を失いそうになるのだけれど、教会の四階の閉ざされた部屋に置かれたどこか気の抜けたような不恰好なツリーは、自分の分身のようにも見えた。

その翌年はノースカロライナでクリスマスを迎え、またツリーを買った。

鮮やかに紅葉した木々がその葉を落とす頃、メソジスト教会の隣の空き地がツリー・マーケットになる。大、中、小のもみの木がそれぞれ選り分けられ、並んでいる。その中を迷路のようにさまよい歩いて、この木はバランスが悪いだとか、この木はすぐに枯れそうだとか考えながら、そのクリスマスの一本を探す。そのとき百々子は身重で、わたしは一人だった。越してきたばかりで車もまだなく、どうやってツリーを家まで運ぶのか心配する彼女をよそに、わたしはいつものごとく見切り発車で、最悪バスに乗せて帰ればいいと――チャペル・ヒルの街には無料のシャトルバスがいくつも走っていた――、たかをくくっていたのだった。

ツリーを選び、敷地内の簡易の事務所に行く。出てきたのは、たしかにこのような場所に典型の風貌と言われればそう思えてくるような細身の、作業服姿のおじさん。中でコーヒーでも飲んでいくかと聞くので、わたしは二つ返事でガスストーブのたかれた狭い小屋に入った。曇り空の風が強い日で、暖かければそれだけでありがたかった。インスタントのコーヒーが瞬く間にできあがる。薄いコーヒーを飲みながら、おじさんと話した。普段は木こりで、クリスマスの時期になるとここでツリーを売っているという。最近、二人目の赤ん坊が生まれたばかりで、夜泣きがひどい。昨日は二時間しか寝てないよ。そう言う無精髭の生えたおじさんの表情からは、憔悴がにじみでている。

お前も父親になるなら覚悟しとけよ。眠れないぞ。スリープトレーニングとかしてるやつもいるようだけど、信じられないね。泣いてる赤ん坊をほっとけるなんて。俺にはとてもできない。

おじさんはベビーベッドに転がる女の子があーあーとうなっている動画を、こちらの手に押しつける。わたしの長女は翌年の4月に生まれる予定だった。父になるなどとは信じられなかったが、いつのまにか父になっていた。

俺のかみさんは、あの大学病院で看護師してるから。

それは長女が生まれる予定の病院で、そんな偶然を、わたしたちは喜んだ。

車がないなら、ツリーは配達してあげよう。今日の夕方には持っていけると思うぞ。

その言葉通り、その日の午後、クリスマスツリーを屋根にくくりつけた白いステーションワゴンが家のロータリーに滑り込んで、わたしたちは無事にその年のツリーを手に入れた。

もみの木の枝に短いろうそくをいくつも灯して、あかりを消した部屋の中、それが一本、一本ゆらゆらと、最後まで消えていくのをただ眺めていれば、暗闇に残るのは焦げたもみの葉から漂うクリスマスの匂いだけだった。

ノースカロライナで初めてのクリスマスはどのクリスマスソングを聴いていただろうか。ドリフターズのホワイト・クリスマスを繰り返し聴いていたかもしれない。あるいは、あの街はジェイムズ・テイラーの生まれた街だったから、彼のクリスマスアルバムを聴いていたかもしれない。

高校生の頃に、The BeatmasのXMAS!というアルバムをBeatlesが出した最新のクリスマスアルバムと勘違いして買って以来――The BeatmasというのはデンマークのRubber Bandというビートルズのコピーバンドの別称で、Ticket To Rideのイントロがホワイト・クリスマスに接続されていたりとなかなかごきげんで、買った当初は、BeatmasをBeatlesの棚にしれっと並べた誰かを恨めしく思ったり、それをとうの昔に解散していたビートルズの新作と微塵も疑わずに嬉々として手に取った自分を呪いもしたが、結局愛聴盤となった――、そして特にレコードを集め出してからは、毎年、クリスマスのレコードを買うようになった。

ある年はニック・ロウのクリスマスアルバム、ある年はヴィンス・ガラルディのクラシック、またある年はレコード屋の3ドルコーナーで見つけたフィル・スペクターのナイアガラ・コンピレーション。クリスマスアルバムというのはとにかく名盤が多く、毎年一枚のペースではとても間に合わないのだが、それでも毎年十一月のある朝まではクリスマスソングを聴くのを控えるように、できるだけそのクリスマスの一枚を吟味するようにしている。

しかし今年は十一月のある朝はおろか、クリスマスまであと一週間を切った今でさえ、レコードを買えずにいる。たぶん今年はクリスマスのレコードを買わないだろう。遠くのガザで起こっている現在進行形の虐殺は、あらゆる混じり気のない喜びを不可能にしてしまう。ポール・マッカートニーの楽天は明るすぎるし、かといってジョン・レノンの壮大な理想主義はあれから50年後の今、戦争が続く今、無邪気に信じるのは難しい。だからわたしは、クリスマスのレコードを一枚、ボイコットする。いや、ボイコットという言葉は尊大かもしれない。ただ、今年のクリスマスは、レコードを買うような気持ちになれないのだ。そんなあまりにささやかで、ひとりよがりで、人知れない行為であっても、何かを諦めなければならないような気持ちでいる。

もちろんそのような虐殺からまったくの自由であったクリスマスがあったかどうかは疑わしい。そもそもイエスの誕生物語は、ヘロデ王によるベツレヘムの子どもたちの虐殺物語と表裏一体であり、クリスマスの物語にはすでに幼児の泣き声が響いている。

「ラマで声が聞こえた。

激しく嘆き悲しむ声だ。

ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないからだ」

(マタイによる福音書2章18節)

1963年、公民権運動最中のアメリカでは、作家のジェイムズ・ボールドウィンらがクリスマスのボイコットを訴えている。その年の9月15日の日曜日、アラバマ州バーミングハム、16番街バプテスト教会が白人優越主義者の仕掛けたダイナマイトで爆破され、日曜学校の準備中だった4人の少女が殺されていた。この事件を目の当たりにして、地下室へと駆け込み、自作の銃を作ろうとしたのはニーナ・シモンで、しかし当時の夫だったアンディ・ストラウドに止められ、彼女は代わりに「ミシシッピ・ゴッダム」を書いた。一方、ボールドウィンをはじめとする「自由のための芸術家協会」は、クリスマスのボイコットを訴えた。

「わたしたちはかれら[子どもたち]に、今年はサンタが来ないと伝える義務があります。なぜなら、サンタは今年も、次の年も、その次の年もプレゼントをもらえないバーミングハムの子どもたちを悼んでいるからです。そして、これをまだ理解できない幼い子どもたちには、箱やカンやロープ、去年のおもちゃ、紙を貼ったり、描いたり、木や愛で、プレゼントやおもちゃを手作りしましょう」

これは『次は火だ』を書いて、公民権運動のヒーローとして絶頂期にあるボールドウィン。まだ人間の良心を信じていて、未来の好転を疑っていない。その点、世界の終わりを望んだニーナ・シモンは彼の一歩先を行っていた。それからしばらくして、『巷に名もなく』を書いたボールドウィンもまた、アメリカにおける人種正義実現の困難について、絶望を引き受けることになる。

わたしがレコードを一枚ボイコットしたところで、この現実はかすり傷ひとつ負うことなく、進んでいくだろう。わたしもまた、その中の一人として、かれらの死の責任の一端を免れ得ないだろう。だからわたしはまったく別の、もうひとつの世界を、このクリスマスに想像する。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第6回 とうとう会得した自由が通底している

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

Prone to Leanといえば、アラバマ州マッスル・ショールズのドニー・フリッツによる1974年の名盤だが、その言葉の意味については彼の短いドキュメンタリーで、友人のダン・ペンが「やつは、エネルギッシュなタイプではなくてね、走ったりしてるのは見たことがない、いつもどこかによりかかってるんだ、まあここらのやつらはみんなそうなんだが」と語るのを最近見返すまで、無自覚でいた。プローン・トゥ・リーン、すぐになにかにもたれかかってしまうこと。椅子があればできるだけ深く腰を下ろし、柱があれば、そこに全幅の信頼とともに寄りかかり、ソファがあればごろんと横に、なにもなく無為に突っ立っていないといけないときは、せめて片足に重心を寄せて、腕でも組んで。

ドニー・フリッツが2019年に亡くなった折に発表されたニューヨークタイムズ誌の追悼記事によると、Prone to Leanというタイトルは、あの時代のアメリカの音楽的な潮流を決定的にプロデュースした、その張本人であるジェリー・ウェクスラーがドニーに授けた「the Alabama Leaning Man」という「謎めいた」ニックネームからとられているという――一方、ドニー・フリッツはウェクスラーについて別のインタビューで、彼をゴッドファーザーのような存在だと語っているが。そこからニューヨークタイムズ誌の記事は、より「正鵠を得た」、そして「適切な」ドニー・フリッツのあだ名として、彼の盟友だったクリス・クリストファーソンが同じアルバムのライナーに書いた「ファンキー・ドニー・フリッツ」という言葉を紹介して追悼を小粋に締めくくるのだが、私にとっては、少なくともその意味を素直にとるなら、アラバマ・リーニング・マンというのは、あのどこか気怠そうなドニー・フリッツの正鵠を得た名前のように思う。私が見たドニー・フリッツは、やはり椅子に深々と、まるで根が生えたみたいに腰掛けていたから。

 

ドニー・フリッツのライブを百々子と見にいったのは、2015年11月、ニューヨークにいた頃だった。ユニオン・スクエアに程近いジョーズ・パブがその会場。ちなみ私はここを、ハリケーンカトリーナで自宅とスタジオを失ったアラン・トゥーサンが仮のホームとして、定期公演を行ったクラブとして知っていた。その公演の模様は、のちにライブ盤として発表されている。人前で演奏することに喜びを見出したトゥーサンの姿が記録された好盤だ。ジョーズ・パブはライブ会場というよりは小洒落たレストランのような雰囲気で、人が詰め込んで肩を寄せ合うということはなく、代わりにパズルみたいに並んだ丸テーブルに観衆は腰掛け、お酒を片手にライブが始まるのを待っている。私の身体はアルコールを受け付けないので、コーラを。百々子はビール。ついでにフレンチフライも。コリアンタウンで買った安物のライスクッカーと、地下鉄を乗り継いでブルックリンのIKEAから運んできた白い本棚がおかれた、ユニオン神学校の寮の一人部屋にふたりで住んでいた当時の私たちにすれば、それだけで存外な贅沢だった。

ドニー・フリッツはOh My Goodnessというアルバムを、その年の10月に出したばかりだった。72歳のドニーの、見据えるべき輝かしい未来よりも、振り返るべき悲哀と喪失、メランコリーに満ちた過去の方に侵食されたような枯れた声と、ウーリッツァーのエレクトロニックピアノの丸みを帯びた音色、そしてさりげなく曲を下支えするニューオリンズを偲ばせるようなホーンの悠長な音を基調とした親密な秀作。アマンダ・マクブルームが俳優だった父親に捧げた「エロール・フリン」を、荘厳なオペラから市井のワルツへと歌い変えたカバーから始まって、スプーナー・オールダムとの共作まで捨て曲なしの名作で、レコード盤に針を落とせば、もうすぐ3歳になろうという娘は、いつもならレコードをかけると肩車をねだるのだが、このアルバムではたどたどしいステップを左右に刻んでゆらゆらと踊り出す。

私がこのFAMEスタジオのあるフローレンス――ブルーズの父とも言われるW・C・ハンディもここで生まれた――で生まれ育ったドニー・フリッツを知ったのは、このアルバムが最初だった。楽曲の提供やキーボーディストなど裏方としての活動が多く、決してヒット作に恵まれたわけではない彼が残した5枚のスタジオアルバムのうち、最後から2番目の作品。ウーリッツァーの最初の一音を聴いた瞬間、私はこのアルバムを長く聴くことになるだろうと直感し、そのままアルバムを聴き通したあと、自分の直感が誤りではなかったことを知った。

そういえばあの年の末、ピーター・バラカンのラジオで年間ベストアルバムを募るという恒例の企画があって、このドニー・フリッツのアルバムをリクエストしたことがあった。それほどこのアルバムが好きだった。「海外在住の榎本空さん」とあのバラカンさんの声で名前が呼ばれたときは――そしてその放送のあとも、同じような調子で私のリクエストを読み上げてくれることが何度かあったのだが、そのたびに――、なんだか自分の存在が掬い上げられたような気持ちになったことを覚えている。外国での生活が長くなり、日本には背を向け、かといってアメリカに腰を据えるつもりもなく、学ぶという言葉だけを頼りに、いや言い訳に、ひとつの場所からまた次の場所へと移ろっていた私にとっては、ラジオで呼ばれる自分の名前が大海に浮かぶ浮標のようなものだったのかもしれない。

 

Oh My Goodnessのレコードは、ノースカロライナにいた頃に手に入れた。ネットショップで購入し、気づいたときには、もうずっとここにいましたというような顔をしてレコードの棚に収まっていたから、それをいつ、どんな状況で買うことにしたのか、あまり覚えていない。合格すると判断されるまでは受けることのできない博士課程の試験――コンプ(Comp)といって、この試験に合格すれば晴れてABD、自分の論文に専念できる、あのときを思い出すと、今でも細い崖の上に片足で立っているような気持ちになるのだが――を受けることが決まり、にわかに現実味を帯びてきた帰国を前に、アメリカで買えるレコードは今のうちに買っておこうと、買ったような記憶があるような気もする。ただそれは、チャールズ・ロイドやイナラ・ジョージ、カレン・ダルトンのレコードであったとしてもおかしくないし、もしかしたらキティ・デイジー・ルイスのデビューアルバムだったかもしれない。自分が蒐集してきたものに、そのような記憶が欠如しているということは、不思議に思える。人差し指の操作ひとつであまりにも呆気なく所有物となってしまったレコードは、記憶を奪うのだろうか。ベンヤミンが書くような蒐集家の「分散に抵抗する戦い」――レコード屋でレコードを買うことが分散への抵抗でないのだとしたら、なんなのだろう――を引き受けることも、それを手に入れたときの「霊感に打たれたかのよう」な心地を経ることもなく、玄関先まで誰かに運んでもらったレコードの箱をまるで我が手柄のように引きちぎったことの代償が、記憶の喪失だったのだろうか。

ただ、レコードプレイヤーの上をあの吸い込まれるようなテンポでゆるゆると周り続けるOh My Goodnessのレコード盤を見ていたときに、こう思ったことは覚えている。つまりこのアルバムを定義づけているのはノスタルジアやメランコリーではなく、ようやく自分の思い描いていた音を表現できたことの喜びではないのかと。もしかしたら、ドニー・フリッツはずっとこんなアルバムを作りたいと願いつつ、そうできなかったのではないか。老成したものだけに可能な、おっちゃんのリズムならぬおじいちゃんのリズム。それをとうとう会得したという自由が、このアルバムには通底しているのではないか。それともそれは私の思い違いだったのだろうか。結局のところ私の好きなアーティストのほとんどは、私が彼らを知る頃にはその晩年にいるか、もしくは亡くなっていて――忌野清志郎を知ったのは彼が亡くなる数年前だったし、ジェリー・ガルシアを知ったときには、すでに彼が亡くなって久しかった――、私はただ彼らの最期の姿に自分の理想を重ね合わせただけかもしれない。ドニー・フリッツは2019年に亡くなった。

         さて、名声は束の間で、星々は落ちる

         あそこに立つのが、芸術家の仕事

         運は誰かに口づけすれば、他の人の前を通り過ぎる

         失望とバーボンは心に重い

         心に重い

         さて、わたしはリシーダの家にひとり

         月明かりの下、レイトショーを見る

         画面に、どうしてか、父さんの顔が

         切なくて笑ってしまう、父さんより歳とったなんて

         父さんより歳とったなんて

「エロール・フリン」

ジョーズ・パブの扇形のステージには、ウーリッツァーのピアノと、その隣にOh My Goodnessをプロデュースしたジョン・ポール・ホワイトのためのスツールがひとつ置かれている。ふたり編成のライブだった。定刻になってもふたりは舞台に登場せず、代わりにプロジェクターがするすると降りてきて、映像が映し出された。ドニー・フリッツのドキュメンタリー映像だった。私はしばらくそれに見入っていたのだが、隣の百々子が肩を突き、うしろを見ろというので振り返る。すると、そこにはキャップを被ったドニー・フリッツがいた。バーボンだか、ビールだかを啜りながら、まるで偶然ジョーズ・パブに居合わせた観衆のひとりみたいに、これから始まるショーに自分が出演することを忘れているみたいに、でもプロジェクターに映る顔にしわの入ったウーリッツァー弾きの姿をどこか満足げに見つめながら、木製の黒いチェアに深く、深く腰を沈めて。

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。